十月 二〇〇二年

 


目次へ戻る
トップページへ戻る

2002/10/29


抽象化の齟齬と指揮官の不在
『ガンパレードマーチ』訓練模様

僚機と意思を疎通せしめる手法が存在しないため、部隊単位で火力を有効に統制することができない。複数の目標が存在するとき、こちらが射撃しようとする相手を、僚機が攻撃する事態が起こりうるので、精神の疲労を感じる。

『ガンパレードマーチ』の主人公が求められている技能は、戦車長と射撃手を兼ねるもだと思われる。このレベルの人間は、小隊長(自分の車両を含めて4〜5両のユニットを指揮)の目標への指示に従い、射撃するものだと思うのだが、初期の演習においてその指揮官が不在のため、組織的戦闘が不可能なのである。

そもそも、ヘクス制という抽象化の度合いが、一戦車搭乗員の視点をシミュレートするのに適してないのではないか。むしろ『ガングリフォン』レベルの抽象化が好ましいかも。小隊指揮官モード[注]に移行したとき、抽象度をヘクス制まで上げるべきなのだ。


[注]
「学徒出陣→小隊長」というような司馬遼太郎コースの方がリアルではある。


 

2002/10/26


五体不満足な日々
井上和郎『美鳥の日々』感想

五体満足な女がダメなら、これではどうか? ということで、右手がおねいさんになってしまうのだが、これではオカルトで、寄生主は精神の動揺と身体の不便を被り、たいへんな迷惑になる。

右手になったおねいさんは寄生主への愛を初期値として有しているので、この作品で焦点になるのは、忍耐を強いられる寄生主が、右手のおねいさんに感情を移入してゆく過程になるだろう[注1]

などと思っていると、第三者の介入が行われた。暴行される委員長型おねいさんを主人公が救出し、「案外イイ奴(ぽっ)←人格の発見」になってしまうのである。この手法に関しては、われわれは異議を唱えなければならない。多くの読者は、暴力をふるわれるおねいさんを、暴力を持って救う度胸も能力もないので、主人公との同一化が危ぶまれるだろう。この危機を克服できる自信がなければ、そもそも絡まれるおねいさんを助ける状況など設定しない方がよい[注2]


[注1]
吐血→病。凄惨な過去の発見。不幸な家族関係など。どれになるやら、あるいは新たな手法が発見されるのか、ドキドキであるが、委員長の登場を見ると、多重恋愛の苦悩に突入するかもしれない。そういうものはあまり見たくはないのだが。

[注2]
 『まほろてぃっく』第1話で、優がバスジャックに立ち向かうが、これもダメである。


 

2002/10/23


伝播する怨念
小林俊彦『ぱすてる』の目指す地平

『ぱすてる』は伝統芸能みたいなものである。しかも、悪い意味で。われわれは、まず、「ダメ男もてもて」の様式が、鑑賞者の反感をかう負の効果しか持ち得ていないことを指摘せねばならない。

もてもて
もてもてもてもて

第11話 7頁及び8頁


幾度も触れてきたように、もてるダメ男は、彼を愛して然るべき属性を備えた女性に好意を受けて、初めて鑑賞者の感情移入・同一化を期待できるのであって、もしそうでない女性に愛されるのであれば、かれは憎しみの対象になりかねない。『ぱすてる』のヒロインは五体満足で容姿が良いという時点で、ダメ男を愛する資格を失っている。「こんなおねいさんにもてる訳無いぢゃないか」という鑑賞者の失望を誘うからである。

主人公は、なぜおねいさんの好意を享受できる境遇に置かれたのか? その説明が更なる絶望の淵へ鑑賞者を誘う。

けっ

第14話 7頁


これでは「屋根の修理どころか、俺はその歳には、ドラクエUクリアできなかったぜい」という鑑賞者の暗い想いを誘発してしまう。人が好意をかう理由を、その人の属性に求めるのは危険なのである。もし鑑賞者がその属性を有してなかったら、同一化に失敗するのだ。しかし、逆に属性を一致させるとしても、そこには大きな問題が立ちはだかる。女性の好意を享受しがたい鑑賞者の属性が主人公の属性に投影されてしまうと、主人公がもてることへの納得性が失われてしまう[注]

『ぱすてる』は絶望の詩である。怨念はもてる主人公にとどまらず、やがては「こんなダメ男を愛しやがって、畜生め」というよくわからない感情とともに、ヒロインへと波及する。

主人公が幼なじみに迫られるのを見て怒りを露わにするヒロインは、感情移入の対象になるはずなのだが、『ぱすてる』の彼女は鑑賞者の憐れみを拒絶する。それどころか、「勝手に男をめろめろにさせておいて、その男が他人にもて始めると怒り出すとは何事であるか!」となってしまうのだ。

ダメ男を五体満足なおねいさんの愛で満たしてしまうと、結局、ろくな事は起こらないのである。


[注] これをうまくクリアした例としては『初恋のきた道』を参照。


 

2002/10/18


限定された生存期間に対する意味づけの波及
土田世紀『雲出づるところ』感想

ジュウイチの奥さんはやや白痴気味である。つまり、「白痴なら好意を受けても不自然ではない」定理に沿っている。ただ、これも前に言及したことだが、白痴は感情移入の対象から除外されるので、物語の進行に伴い、白痴は白痴を止めなければならないときがやってくる。

しかし、実際のところ、その人格の白痴性がとつぜん消滅してしまうのは不自然である[注1]。ゆえに、白痴の消滅は隠匿された人格の発見によって、その白痴性を緩和する手法が良く用いられる。白痴のように見えるが、実はそうではないのだよという事[注2]。大好きな例であるが、「知らない大人に公園で声をかける白痴気味な女子高校生→実は癇癪もちで友だちが出来ず寂しいのだよう→ああ、観鈴ちんゴロゴロ♪」(『AIR』)などなど。

ジュウイチの奥さんの浮き世離れも、過去の発見という同じような手法で説明されるのであるが、これが難病物という様式で展開される場合、ひとつの問題が持ち上がる。

『加奈』の感想で述べたように、難病物が感動をもたらす源泉のひとつとして、「生存期間を認知した人格による人生への意味づけ」というものがある。自分がいなくなってしまうことへの肯定である。でも、表層においてとはいえ、白痴と認知された人格にそのような種類の精神活動をなし得るかというと、心許ない。

自己の消滅を課せられた擬似的な白痴は、それゆえに、自己の消滅点で人生の願望を成就させることにより、感動のすり替えを行う。だが、他に方法がないこともない。

消滅する当人に出来なければ、他者がかわりに人生への意味づけを行ってやればよいのである。その際、感情高揚の求心点は、死に行く当人ではなく、その周縁にいる人物になるだろう[注3]


そんな訳で、ジュウイチは奥さんに代わって“そこ”に辿り着かなければならなかったのだが、けっきょく、鑑賞者にとってそれはかれの言葉の端々からしか理解し得ないものでもあった。人生への意味づけは語り得ないものだったのである[注4]


[注1]
『男たちの挽歌U』のルンさんを参照

[注2]
『カッコーの巣の上で』も参照

[注3]
少し文脈は異なるが、
みさき先輩のケースもこれに当たるかも知れない

[注4]
このやりかたは詐欺臭いかおりもする。でも大好き♪


 

2002/10/16


巨乳は原初の孤独を救ったのか?
『まほろまてぃっく第二話』感想

卑猥な妄想を成立させるためには、多くの場合、最低ふたつの個体が必要になるだろう。妄想を抱く個体と、その妄想の対象となる個体である。妄想の中で、この二個体間は密接な関係に置かれるが、通常の生活圏の中では、妄想者の想いは一方通行である。もし、相互に疎通できたのなら、妄想を抱く動機が弱まるからである。

妄想のこの偏有性・非共有性を考えれば、「式条先生がその巨乳を優の吸引される」妄想は優の陵辱されたいと願う式条先生の妄想か、あるいは巨乳好きの優の妄想のどちらかであるはずである。そのカットだけでは妄想者を断定できないのは、両者に妄想を抱く動機があるからだ。

ここで、両者に動機があるのに妄想が生じるのかという疑問が出てくるのだが、例え交互に想いがあっても、立場や恥じらいが交流を阻害すれば、妄想が成立してもおかしくない。

で、結局、誰の妄想であったのだろうか。次カットで示される回答は意外なもので、場と時を同じくして、優と式条先生が同じ妄想を個別に抱いていたのであった。

ここに、何か希望が見えないだろうか?

意思の伝達を精緻化し尽くすことは出来ないという絶望、つまり、他者と本当に理解し合えることは出来ないというありがちな実存の恐怖というものがある。しかし、意思の交流が出来ない状態で同じ妄想を抱き得たあの瞬間において、式条先生と優はその原初の孤独を乗り越えるヒントを与えてくれるように思えるのである。

 

2002/10/12


人格の触媒効果
ヘタレ成長の一手法


『ゴルゴ13』の「422話・ストレンジャー」はよい。コンビニで立ち読みしながら転がりそうになった。以下、あらすじである。

ボビーは孤独なマザコンであった。母親を亡くし絶望に駆られたかれは、自殺を試みる。

ボビー絶望


死に場所に選んだ山林で、ボビーは追われるゴルゴに出会い、『サバイバル』なゴルゴの頑強さに惹かれてゆく。で、いろいろあってゴルゴをストークしているうちに、山火事に巻き込まれる。ボビーのヘタレる表情が素敵だ。

ヘタレるボビー


ゴルゴはそんなボビーに、山火事から逃れる術を伝える。

おいしいゴルゴ


山火事が去り、生き残ったボビーの頭には、もう自殺のことなどなかった。かれはゴルゴの立ち去った後を、いつまでも見つめるのであった(おわり)。


さて、一般に流布されている冷徹なマシーンとしてのゴルゴは、きわめて誤解されたイメージであると言わねばならないだろう。冷徹そうに見えて実は義理人情の固まりというのが、ゴルゴの人格造形に関する本質であり、この話数はその格好の事例であると見ることが出来る。ただ、そのことは今回の主題ではない。

われわれが注目したいのは、ゴルゴの行動がヘタレ男・ボビーの成長を誘起・達成させたことにある。ヘタレが身体の危機に襲われたとき、強烈にヘタレあらざる人格と出会い、それに感化される様式を、人格の触媒効果と呼ぶことにしよう。他に有名な事例としては、『ポセイドン・アドベンチャー』の「ハックマン→ボーグナイン」な泣ける関係を挙げたい。なお、ヘタレではない人格が危機的状況で互いに惹かれあうとジョン・ウーになる。『男たちの挽歌・最終章』における「ユンファ→←ダニー・リー」の危ない関係を想起せよ。

もっとも、感化がアッパーな人格動態を促すとは限らない。逆に人格の失墜になってしまうこともある。『今すぐ抱きしめたい』の「アンディ・ラウ→ジャッキー・チュン」が、まず思い浮かぶのだが、これは感化の失敗ともとれる事例である。むしろ、夏目漱石などがこのダウナーな感化型として解釈出来そうな感じもする。

 

2002/10/08


巡る因果
萌えの循環図式・事例研究

他者が何かに萌え転がる姿は、萌えに値する。つまり、萌えが新たな萌えを誘発するのではないか

着ぐるみちよ


『あずまんが大王』の「ちよちゃんの着ぐるみ卒倒」は、この事例と言えるかもしれない。ここで鑑賞者の注意を引くのは、着ぐるみちよではなく、むしろ、それによって精神の動揺を引き起こされた人びとの様に思えるのだ。

にゃも卒倒


われわれが着ぐるみちよに魅惑を感じるとすれば、それはかわいさそのものではなく、そのかわいさの強迫性にあると思われる。