四月 二〇〇二年

 


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2002/4/27


恨事と訂正

<4/12の日記より>

>記憶を失っている間に勝手にメイドロボに改造されてしまった妹(白痴)


「これはオリジナルだぜい、わははははは」とおもっていたら、こんなものが。いつもこれだ。くそくそくそう。



<4/26の日記より>

>第一教導団


そんなものはない。富士教導団の間違いですね。

 

2002/4/26


関東平野(むしろ新潟か)と悲愴感
小林源文『レイド・オン・トーキョー』の世界

前回の続きである。

機動性を維持するため、ユニット内に独自の有力な支援攻撃単位をもち得ない空挺部隊に代表される緊急展開部隊は、航空支援や他の従来型師団砲兵等の支援が得られない場合、うれしいことに白兵戦込みの悲愴な戦闘を被ってしまう可能性がある。要点は、「軽い部隊を投入しなければならない」ことと「その部隊が支援を得られない」状況を考えることである。

小林源文の『レイド・オン・トーキョウ』を考えてみよう。その物語性は支援無き軽歩兵同士の出会いを実現することによって、成立したと見ることができるだろう。

新潟沖からヘリボーンで霞ヶ関の官庁街にたどり着いたソ連の空挺師団が、支援のない丸裸で放り出される状況に無理はないだろう。両空軍とも新潟でがんばっている部隊の支援に忙しく[注]、ソ連側のヘリボーンにくっついていた攻撃ヘリは、静岡からやって来る富士教導団の戦車狩りに動き回っていると考えよう。これで、ソ連側は丸裸である。

ソ連の空挺師団にぶつけられるのが、同じく軽いユニットである習志野の第一空挺団であり、空挺部隊に比べれば重いユニットである練馬の普通科連隊は、妨害工作で動けない設定になっている。手近の支援砲兵ユニットは、やっぱり静岡である。木更津の攻撃ヘリは新潟行きか、立川に降りたソ連側の部隊の方へ行ったのかも。

考えれば考えるほど、なんだか苦しくなっていくような気がする。ただ、ここで重要なのは、物語の創造者が、とにかくあらゆる手段を使って、支援攻撃のない空挺部隊同士の戦闘を関東平野において実現させようとしている事である。

もっとも、そこで実現した軽歩兵同士の均衡は、思わぬ形で崩れ始める。海自フリゲート艦による東京湾からの支援砲撃――。このあたりの描写は、たいへん萌え萌えして、辛抱たまらなくなる。


[注]
新潟上空も電子情報管制艦というややファンタスティックなものを設置してやることによって自衛隊機の進入を阻んでいる。そこまでやらないと、ソ連と自衛隊の悲愴な戦闘が実現できないのだろう。


 

2002/4/24


戦勝国映画が発見した新たな悲愴感
『ブラックホーク・ダウン』と緊急展開部隊

今日、商業的に成立しうる規模の大きい戦争映画を作ることが出来るのはアメリカのみである。そして、アメリカが戦勝国であるがゆえに、その国の作る戦争映画には物語的に大きな制約が課せられる。このことは、前に議論した。悲愴感の演出が困難になってしまうのだ。

物量を誇り且つ主権者が国民である軍隊[注1]の行う正規戦が、如何なる様相を呈するか。それは、例えば『大戦略』において、プログラムの哀れな思考ルーティンと闘う際に鑑賞者がよく体験することである。逐次的に現れる敵部隊は、味方砲兵の支援射撃や航空部隊の支援攻撃でメタメタにされる。味方の地上部隊が突撃するのは、その後である。

国民が選挙民である以上、人的な被害が極端に厭われるので、地上部隊が敵部隊を発見しても、まず間接攻撃できる部隊へ支援の要請がなされる。直接、彼らが戦闘を行う相手は、すでに榴弾の雨霰によってボロボロになっている[注2]

ここに、悲愴感はあまりない。あるとすれば、やられる方なのだが、前述のように今の時代でかっちょよい戦争映画を作れるのは、アメリカだけである。やられるほうには、規模の大きい戦争映画を作る資源に欠ける。

しかし、『ブラックホーク・ダウン』は別の可能性を提示する。つまり「彼らが十分な支援の無い下に、突撃しなければならないとしたら」ということである。このことを議論する前に、まず「緊急展開部隊」という概念について、われわれは知る必要があるだろう。

多方面からの脅威が想定される場合、一方の戦域から他の戦域へと容易に機動出来るような“軽い”部隊の必要性が高まるだろう。今日の空挺部隊は主にこのような「緊急展開」的な使われ方をしている。敵後方に落下したりする状況は今日では考えにくい。また平和維持活動で海外へ出かける部隊にも、緊急展開的なものが多い。軽いため海外への展開に利便性がある。

緊急に展開するには、空輸しなければならない。ゆえに、その部隊が50〜60トン級の戦車や155mm級の榴弾砲を大量に装備するわけにはいかない。だから、その軽便性ゆえに、戦域に真っ先に投入される緊急展開部隊は、従来の重い部隊より支援攻撃を得られない可能性がある。

重い榴弾砲の支援が得られないかわりに、このような部隊は航空機やヘリからの支援を受ける。『ブラックホーク・ダウン』では“政治”という要素を介入させることによって、空からの支援すら無くしてしまった。

丸い裸にされた「軽い」歩兵は、たとえ訓練を受けたレンジャーであっても、脆弱である。骨董級の無反動砲がけっこうな脅威になってしまう印象的な情景は、「軽い」歩兵ならではのことである。

現代的な戦争の悲愴感は、かくして生まれたのであった。正規戦無き現在でも、敵のまっただ中で「うぎゃ〜」となる想定が容易なのは(社会的倫理観を度外視した言い方をすれば)、物語にとって幸運なことである。(つづく)


[注1]
「豊富な物量」と「国民と主権者の一致」はセットで語られる。そのような政治システムが経済的な豊かさを実現するのか。あるいは、経済的な豊かさが国民を選挙民にするのか。よくわからん。

[注2]
だから、穴を掘らなければならないらしい。兵頭二十八『
地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法』を参照。


 

2002/4/20


生き返って、また死んで
昏睡と覚醒の狭間で

『アルジャーノンに花束を』や『レナードの朝』は、少なくとも鑑賞者にとっては正気ではない人格が正気づき、一定期間の後、再び正気を失ってしまう元の木阿弥な物語である。「どんどん正気がなくなっていくよ〜」という焦りが楽しい。この娯楽は、難病物における「わたし死ぬんだよね、死んじゃうんだよね」とか「わたしひとじゃなかったんだよ〜」というずれる自己同一性の物語におけるそれと似ている。正気のない状態を「昏睡期」、正気づいている状態を「覚醒期」とすれば、以下のようにまとめられるだろう。

昏睡→覚醒→昏睡


『ニンゲン合格』もこの物語の範疇にはいるのではないだろうか。交通事故で昏睡した人格が、目を覚まし、また事故って死んでしまうお話だが、死ぬことは昏睡することに変わりない。本作はさらに人生を俯瞰して、気づけば世界の中に放り出されていて、やがて、世界の外へ再び還っていく鑑賞者の存在形態そのものへ視線が向かう。良さ気な感じではないか。

 

2002/4/18


物語としての病院
続・おねいさんとの幸福な出会いについて(後編)

前回からの続き。

入院生活に閑を持て余し人恋しい入院おねいさんに、鑑賞者が好意を享受できることは、断じて納得行く成り行きである。これが、前回の結論であった。だから、主人公を病院近くの公園や河原に放り込んで、髪の長いきれいなおねいさんに「なにしてるのかなあ?」と顔をのぞき込ませるべきなのだが、そんな面倒なことをしなくても、主人公を病気にしてやって病院に放り込ませてやればよいのではないか。そこに待ち受けているのは、さまざまな入院おねいさんたちである。例えばこんなのはどうだろうか――。


『トゥハート・アット・ホスピタル』

『トゥハート・アット・ホスピタル』は、入院生活を舞台に繰り広げるハートフルな病院マルチストーリーです。主人公はごく普通の高校生。甲状腺機能低下症で入院した彼は、病と闘う様々な少女と出会い、爽やかなストーリーを綴っていきます。


キャラクター紹介

神岸あかり
主人公の幼なじみ。物心つく前からのつきあいのため、最初は主人公の恋愛対象にはならないが、症状が進むにつれて、やがて…。心房中隔欠損。フラグがたつと感染性心内膜炎。

長岡志保
主人公とは悪友で口論が絶えない。噂話を求めて、院内をかけずり回る行動派の女の子。ネフローゼ症候群(再発)。要絶対安静。

来栖川芹香
いつもぼーっとしていて考えがなかなか見えないお嬢様。オカルト好きで周囲からいつも浮いている。筋萎縮性側索硬化症。

保科智子
関西出身。人とあまり話したがらない冷淡な雰囲気が、相部屋人の反感を買うことも。自己免疫性肝炎。

宮内レミィ
カリフォルニア生まれの日系ハーフ。おおらかで西海岸な性格と直線的な思考で、院内の人気者。文化の誤解から生まれる滑稽で、まわりを和ませる。拡張型心筋症。

松原葵
主人公よりひとつ年下。素直で前向きだが、自分の病に悩みや不安を感じている。主人公を先輩として慕ってくる。網膜芽細胞種。

マルチ HMX12
来栖川エレクトロニクスが開発した最新型の家庭用ロボット。人に喜んでもらうことが大好きで、看護婦の制止も聞かず院内を掃除する。下垂体腫瘍。フラグがたつと術後に合併症を併発。

姫川琴音
入院早々奇妙な現象を起こし、周りの入院患者から避けられているかわいそうな少女。口数が少なく、心を開こうとしない。慢性リンパ性白血病。




「これはええぞ」と興奮していると、先週こんなもんが発売されていたらしい。世の中うまくいかないようだ。

 

2002/4/14


入院中のおねいさん
続・おねいさんとの幸福な出会いについて(前編)

以下、幻想である。

入院中のおねいさんは、心細いのではないだろうか。特に長期入院だったり、生まれたそばから闘病生活で、行動半径が極端に狭いおねいさんは、友だちも少なく、よって友だちを作ろうとする動機が人一倍高いと考えることは出来はしまいか。

この妄想に基づけば、病院の近くの公園や河原で、異性の好意を享受できそうもない鑑賞者が佇んでいるときに、病院を抜け出したおねいさんにいきなり声をかけられるのは、ごく納得のいく成り行きと言える。長く入院生活を送るおねいさんは、特に友だちもおらず、閑を持て余しているからである。幸福なる“ヘタレもてもて状況”がやって来るのだ。

同じような舞台情景は、前に議論したことがあった。『AIR』の観鈴ちんである。白痴がゆえに、見ず知らずのヘタレな鑑賞者に彼女が声をかけたと、われわれは解釈したのだが、白痴だから好意を受けるという理屈は、あらゆる意味でとてもつらい。だが、その彼女が入院おねいさんであったとしたら。彼女は白痴ではなく、寂しかったから鑑賞者に声をかけたのである。これは、しあわせな幻想ではないか。

入院おねいさんの利点は、“ヘタレもてもて”状況の到来だけにとどまらない。きれいな入院おねいさんは、物語世界では、遠からず病死するものと決まっている。またしても物語が誕生してしまうのである。

というわけで、われわれは、メイド・妹・白痴・身体障害者(視覚障害)・メカ・記憶喪失につづいて、“入院おねいさん”という新たなる“ヘタレらぶらぶ”人格を手に入れたことになる。そして、『加奈』はこの“入院おねいさん”と“妹”の複合人格であったと解釈することも出来よう。(つづく)

 

2002/4/12


メカと記憶喪失
おねいさんとの幸福な出会いと『ちょびっツ』感想

異性の好意の対象にはなりがたいと考えられるヘタレな鑑賞者がそれを被っても仕方がない人格として、前に白痴・メイド・妹および身体障害者を挙げた。今回は、あらたにメカと記憶喪失をそのレパートリーに加えるべく、考察を進めてみよう。

はじめての一人暮らしは、危険に満ちているといわねばなるまい。路上に倒れているかわいいおねいさんを発見しがちであり、そのおねいさんを部屋に連れ込みがちであり、そして、そのおねいさんが往々にして記憶を失っていたりするからである。

「記憶を失っている」という言葉はたいへん心地よいではないか。帰るべきところを失った彼女は、ヘタレた鑑賞者しか頼るべきものを知らない[注]。かくして“へタレもてもて状況”は到来する。

記憶がないということは、それが物語の末端において取り戻され、おねいさんは自分の正体を知るということでもある。その正体は、桜の精であったり生き霊であったりと人外のものである可能性が高い。おねいさんは混乱し、物語が誕生するのである。

『ちょびっツ』は、記憶を失ったメカを見つけてしまう物語であるが、メカが“へたれモテモテ状況”に深く関わる人格であることは、まるちに関する議論で言及した。メカが彼を愛するように作られていたら、愛されても仕方がないではないか、という理屈であった。

まるちやちぃの人格造形で興味深いのは、“へたれらぶらぶ”要素が複合されている事である。まるちは、“メイド”と“メカ”の複合技であり、ちぃは“記憶喪失”と“メカ”の組合せである。だから、“妹”と“メカ”を組み合わせ、「お兄ちゃん、からだが知らない内にメカになっているよ〜」と言わせて、企画書を一本でっち上げるのもよいだろう。あるいは、“記憶を失ったメカ妹”も可能だろう。もっと積み込んでしまえば、“記憶を失っている間に勝手にメイドロボに改造されてしまった妹(白痴)”に行き着き、夢が果てしなく広がるような気がする。



[注] 公的機関の世話になることは、物語世界における禁忌である。

 

2002/4/10


体だけのクールな関係ということ
『加奈〜いもうと』感想B

鑑賞者の感情を喚起する人格は、とにかく抜けない。つまり、劣情の対象にはなり得ない。白痴の女子高生や病に臥せる妹や身体に障害を抱える先輩が、自己投影や憐憫の対象にはなっても、そこで想定されうる標準的な鑑賞者の欲情に関わる嗜好の範疇に、彼女たちは入りにくい。もっとも、白痴や病人や障害者にその種の感情を抱きうる鑑賞者も、世界中のあまたに存在していると考えられるが、彼らを鑑賞者として想定するのは、恐らくもっと別の物語である。

もし、人格のそのような形態を扱う物語が、ギャルゲーではなかったら、何の問題も起こらなかっただろう。悲劇は、物語がギャルゲーというマーケットにおいて成立してしまったことに、端を発する。何が何でも、鑑賞者の劣情を誘起する場面を設けなければならないのである。

『ONE』や『AIR』は、直球勝負のあまり、劣情をそそる物語としては完全に失敗している。むしろ、劣情誘起のすがすがしいまでの放棄が、逆に何とも怪奇的な情景を鑑賞者に提示する。熱にうなされる白痴の少女を真冬の野原で強姦してしまうのは、どうかと思う。

では、どうすればよいか。『君が望む永遠』では、感情を喚起する人格と劣情を喚起する人格が明確に区別されて配置される。劣情のはけ口となるにはあまりにも繊弱な人格に、鑑賞者はうるうるしつつ、汚れもの専用人格と身体だけの関係を続けるのである。

『君望』で、感情喚起人格と劣情喚起人格が並立するのは、鑑賞者に人格選択の苦渋を追体験させるためなのだが、これにはあまり意味がない。この選択に際しては、鑑賞者に迷いは生じない。捨てられるのは、体だけの関係しかもち得ない劣情喚起人格である。

で、『加奈』でこの汚れ役を引き受けるのは、鹿島さんである。鑑賞者は、いきなり鹿島さんに強姦され、あへあへしてしまうのだが、感情の喚起役である加奈と汚れ役・鹿島さんとの肉欲の日々は、それが完全に分離している内は、きわどい両立を果たしているかのように思われる。しかし、鹿島さんが、お兄ちゃんと加奈との日常に浸食を始めると、とてもつらい。だから、お兄ちゃんが鹿島さんを捨てたとき、すごくすがすがしい爽快感を感じる。

思えば、哀れな話ではあるが、お兄ちゃんは加奈に熱を上げているので、あまりそんな感じはしない。ただ、同僚の徳島人Yによれば、「あの鹿島さんのいぢらしさがよいのですよ〜」となるらしい。その気持も頭ではたいへん理解できるのだが、加奈の死後、鹿島さんといちゃつくお兄ちゃんを見ると、なんか腹が立ってくるのであった。

 

2002/4/06


ものがたりのジャンル的な未成熟と“泣きゲー”の成立
『加奈〜いもうと』感想A

難病物の感動は、自己の消滅を自覚した人格が、自分がこの世界からいなくなってしまうことをいかに肯定的に受け入れるか、その過程から生まれると考えられる。『加奈』も、日記の中で消滅への肯定が議論され、ある一定の結論にたどりつく。それは、お兄ちゃん達をゴロゴロさせるのに十分なものだが、ひとつの疑惑がわく。その疑問は主人公の台詞のなかにも露見される。

「悔いのない思い出を作ってやったという自負もある。けど……なぜだろう、こんなに加奈を不憫に思うのは」

実はその結論が、消滅することの恐怖への緩和に、役立ってはいないように思えてしまうのである。ジャンル的に未成熟なギャルゲーは、消滅する少女達にその消滅を受け入れるほどの精神を育ませることが出来ないのだ。しかし、一方で、そのジャンル的な未成熟性こそが、ギャルゲーを泣ける物語への担い手にしたとも考えることは出来はしまいか。

伝統的な蓄積を持つものがたりならば、消滅への肯定をギャルゲーよりもずっとうまく成し遂げるだろう。だが、そのものがたりが生み出す感動は、“泣き”とは違うもっと爽やかな別種のものである。消滅への肯定は、その人格がいなくなってしまうことの哀惜を払拭してしまうからである。

哀惜を越えた感動を生み出し得ないギャルゲーという場で、消えゆく人格達はそれでも手に入れることが出来ないそれを絶望の中で希求する。これは、例えば「無理して笑って消滅」に代表される感情移入萌えの底にあるものであり、同時に、泣きゲーにおける“泣き”の根元的な何かであると思う。

 

2002/4/04


妹がヘタレるということ
加奈〜いもうと』感想@

『加奈』は、“ヘタレもてもて状況”と感情移入萌えを、鑑賞者に精神的負担[注]をかけることなくごく自然に成立させ得たという意味で、とても幸福な物語である。

ギャルゲーにおける妹の重要性は、駄目男でも年頃のおねいさんとひとつ屋根の下で暮らせるという奇跡が不自然なく実現される点に求められる。物語の冒頭で、おねいさんといちゃいちゃしても、鑑賞者は注のような絶望を感じることはない。なぜなら、彼女は妹だからである。

もっとも、妹である彼女の身近に鑑賞者が存在できることに不思議はないにしても、必ずしもその彼女が、「お兄ちゃんらぶらぶ〜」である保障はない。だから物語は、スズメ蜂にお兄ちゃんを襲わせる。そして、彼女はお兄ちゃんを愛してしまうのだ。

妹であることは、“ヘタレもてもて状況”に関わる問題であるが、一方でその妹が病弱であり、長い入院生活のため友達がおらず人の背中に隠れがちなことは、感情移入萌えのきっかけになるだろう。表層的には弱者に対する保護欲のかき立てを誘われるのだが、われわれはむしろ、そんなヘタレな彼女にヘタレな鑑賞者が自己を投影することが出来ることを重視したい。物語とは、自己愛を投影することなのではないだろうか。

まるちやみさき先輩に関するこれまでに議論からもわかるように、ひとつの人格に“ヘタレもてもて状況”の可能性と感情移入萌えの起点となるヘタレ気質を同時に付加させることが、勝利の大きな鍵になるようだ。『君が望む永遠』の遙が、これらのヘタレ人格に劣ってしまうのは、彼女がヘタレであって感情移入萌えを誘う人格としては成立し得ても、“ヘタレもてもて状況”の実現に関しては、ただ鑑賞者に対する「一目惚れ」としか説明されていないからである。一目惚れだと? われわれがそんなにもてるわけ(以下略…)。

さて、感情移入萌えのセオリー通り、加奈は人格的な成長を遂げる。彼女の気弱は、常識の範囲内まで収縮されることになる。彼女は決して奇声を発する白痴の女子高生にはならなかった。理解できる人格で彼女があり続けることは、鑑賞者の感情移入萌えに貢献してくれるのだが、彼女が消滅の際に至ると、鑑賞者はそんなに哀しみを覚えることはない。これは、親が死ぬよりペットが死ぬ方が効くというアナロジーで説明できるかもしれない。彼女は強くなりすぎたのだ。

加奈のドライな臨終は、人格の強さと消滅のタイミングに関わる問題を考えさせる。強すぎるとそこに自分を見出せなくなってしまう問題である。が、しかし、である。加奈の死後、お兄ちゃんは彼女の残された日記の中に、その強さの裏側にある何かを発見する。そこから、泣きゲーとしての『加奈』が始まると言ってよいだろう。お兄ちゃん達の死屍累々が築き上げられるのである(つづく)。


[注]
俺がこんなに女にもてるわけねえじゃないか!
俺にこんなかわいい幼なじみがいるわけねえじゃないか!

という哀しき問題。ギャルゲーが悲惨な現実を喚起させるとすれば、それはつらいことに違いない。