2001年10月の日記

*2006年3月修正版

 2001/10/01

『To Heart(PS版)』3/3〜3/11までの覚え書き

  • 雛壇大崩壊事件

      幼少期のひろゆきは、あかりの家で催された雛祭りにおいて白酒を大量摂取したあげく、雛壇によじ登りその惨劇を引き起こした。

  • 隣家の住人、川上家の夫婦喧嘩

      地震かと思った。

  •  2001/10/02

    今週の『プロジェクトX』:ヤマハ浜松工場の男たち

    調律師、村上の育成シミュレーション。空想的な比喩に走るイタリア人師匠の言葉に戸惑ったりするが、後に師弟の物語が友情の物語へと変貌する職人の仕事。田口トモロヲのラスト説教も相変わらずの爆発っぷり。

     2001/10/03

    『エンジェリックレイヤー』最終回

    体格に劣等感を持つ少女と、車椅子生活を強いられる女が、人形遊びに自己投影することで、自由を手に入れようとした酷い寓話。CLAMPらしい。

     2001/10/04

    『To Heart(PS版)』3/12〜3/13に関する覚え書き

    足を捻ったあかりは、ひろゆきにお姫様だっこされて保健室へ連れていかれた。その道程で、

    あかり「腕疲れない」
    ひろゆき「ぜんぜん軽いよ」
    あかり「・・・うそばっか」


    しね。

     2001/10/05

    先週の『フルーツバスケット』:第12話 温泉話

    透が母の遺影を防水加工して露天風呂に持ち込み、ほのぼのする回。草摩温泉の女将が怖くて大いに引く。作家はメイド属性のようで、一部の鑑賞者の人生を嘲笑うかのようだ。

     2001/10/06

    先々週の『ノワール』:第25話 萌えくろえ死亡

    萌え萌えな霧香のとなりで、くろえは嬉しそうだ。だが、嫉妬深いミサトさんの乱入により、霧香の奪い合い。くろえよりミサトさんを選ぶ霧香は、おねえさま属性か。

     2001/10/08

    『反乱のボヤージュ』に関する覚え書き: 集団的超人化の誤算

    浅間山荘でPTSDとか、渡哲也の萌え帰還兵ものになっておる。奥さん病死とベタな構成だが、わたしはベタなものにたいへん弱い。借金取りを追い返す渡とか、妊娠しそうだ。

    ただ、渡の突出ぶりは、周縁にいるヘタレ若者の突出につながっていて、結果、渡はヘタレ集団に埋没して行き、作品は求心点を失う。

    もっともCMに入ると「うまい酒はどこじゃ、酒の構造改革じゃ」と渡が大暴れ。楽しすぎるのでやめてくれ。

     2001/10/09

    To Heart(PS版)』3/14〜

    まるち
    「あ、浩之さん! どうも、おはようございます」

    まるち
    「・・・うっ、うう、ひ、浩之さん、ありがとうございます〜」

    まるち
    「浩之さん、さようなら、お元気で〜!」

    まるち
    「わたし、いまから、浩之さんの専用メイドロボットになりますっ」

    まるち
    「浩之さんが、わたしとデート」

    まるち
    「浩之さん、わたし、浩之さんとお知り合いになれて本当によかったです」

    まるち
    「ひ、浩之さん・・・うっ」

    まるち
    「わたし、あんなお家で、浩之さんみたいなご主人様のために働くのが夢だったんです」

    まるち
    「わたし、浩之さんのこと、本当に本当に、大好きでした」

    まるち
    「浩之さあああああぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜(中略)〜〜〜〜〜ん!」

    まるち
    「浩之さん、浩之さんっ!」

    まるち
    「浩之さん、大好きです!」

     2001/10/10

    今週の『ちっちゃな雪使い・シュガ〜』:第2話 ちっちゃなルームメイト

    片務的な接吻の重層攻撃は、萌え疲れの身に堪えた。

     2001/10/11

    今週の『コメットさん』:第26話 星ぢから乱用と破滅(仮)

    過度の欲望が破局を招くのは、本作品の説諭的な側面の発動だが、メイド化したメテオさんを登場せしめ、一部の好事家の心を揺さぶるのも忘れない。

    「一生懸命がんばってお仕事すれば、手伝ってくれる人が現れる」

    とはつまり、

    「死にそうになってカットがたまり出さないと、手伝ってくれる人は現れない」

    ということか?

     2001/10/12

    マルチ萌えの誘因について(その1): 自己投影としての萌え

    萌えの源泉は、他者に対する憐憫的な保護欲にあるのではなく、むしろ物語内のヘタレに対する自己投影あるのではないだろうか。

    萌えを共有する文化共同体が、アニメやギャルゲーの周縁に限定され、その担い手が社会・精神的な弱者に陥りがちであることを、議論の前提として考えてみよう。

    今日の社会において、20歳を超過して、例えば職場の真ん中で「さくらちゃんはにゃ〜ん」と雄叫びを上げた場合、当人の社会生活がいかなる事になるか想像に難くない。よい大人がアニメを見るだけで被る精神的抑圧は、自己をヘタレと規定する誘因になるはずである。この劣等感は、選民意識か、あるいは被虐的快楽の受容に転化することによって、表層的には精神の均衡状態に至る。

    萌えがこのような劣等意識に依拠しているとすれば、弱者に対する保護欲をその感情の本質に求めるのは、難しいかもしれない。なぜなら、弱者を保護する能力に欠けることを自覚するヘタレに、そのような行為は「あり得ない物語」だからである。ゆえに、萌えが基本的にヘタレを巡る物語であると想定した場合、オーディエンス(ヘタレ)は、物語内のヘタレを「守りたい」と思って萌え上がるのではなく、むしろそこに自己を見出すことによって、感情移入の契機にしているといえよう。

    (つづく)

     2001/10/13

    マルチ萌えの誘因について(その2): ヘタレのダイナミクス

    物語内のヘタレに自己を見出すオーディエンスは、だからこそ、そのヘタレのヘタレっぷりに近親的な不快感を被りうる。そこで考案されるのが、「ダウナー→アッパー」の系移行なる普遍的な物語のテンプレートである。つまり、感情高揚は、ヘタレがヘタレでなくなる物語に求められるのであり、鑑賞者はヘタレそのものではなく、そのヘタレの動態(微分方程式における接線の傾き)に陽反応を引き起こすのだ。一方で、ヘタレがヘタレのまま停滞する物語は、鑑賞者に精神的な負担をもたらしてしまう。それが、大抵のヘタレがヘタレのまま一生を終える現実そのものを反映するからである。

    ヘタレの動態にかかわる物語形式は、「ヘタレ→強者」のパターンだけにとどまらない。逆に、「強者→ヘタレ」のパターンも想定するできよう。この場合、鑑賞者は、完全に他者であった物語内の強者が、次第にヘタレになるにつれて、感情移入の対象になりうる人格へと転化していく様を目撃するだろう。

    「ヘタレ脱却」と「ヘタレ転落」の物語形式は、それぞれが別の物語として展開しうるものであるが、他方、同一の物語内で、これらの形式を並立展開させることにより、個別に展開するよりも高い快楽を提示することもできるだろう。本稿では、その試みを行い成功した例として、『ラブひな』と『To Heart・まるち話』を挙げたい。そして次に、そこにおけるヘタレの動態に検討を加えてみよう。

    (つづく)

     2001/10/15

    マルチ萌えの誘因について(その3): 二重ヘタレ構造の快楽

    『ラブひな』は、ヘタレ男がヘタレるのをやめて、その反対に、出来る女がヘタレに墜ちる物語である。高度成長の一途をたどる景太郎には、その成長の過程において、鑑賞者の感情移入を期待することが出来るだろう。だが最終的に、ヘタレからの脱却は彼を他者的な存在にしてしまう。他方、景太郎の成長路線と並行して、景太郎なしでは生きていけなくなってしまう成瀬川の転落物語が展開され、景太郎ラインの補完を果たすことになる。ふたつの対照的な人格の設置は、作品の時間軸全体にわたり一定のヘタレ濃度を維持しながら、ヘタレ動態を演出することを可能にしている。

    同じ形式は、『マルチ』のシナリオ構成にも見受けられる。マルチが物語冒頭において行う奇態や奇声は、他者に奉仕したいがヘタレなのでそれがかなわないという感情と行為の格差に基づくものであり、それはまた萌えの一誘因になりうると考えられる。しかし、彼女の本質は、むしろヘタレ脱却による強度の感情移入効果に見出すべきであろう。この脱却路線の鮮烈な点は、『ラブひな』と違いヘタレを脱却してよそよそしい存在に転化することはなく、ヘタレを脱却したところで、そこには敗北しか待っていない所にある。対して、保護者的な役割を負っていた浩之はメソメソするばかりで、関係の主導権を完全にマルチへ譲り渡すことになる。

     2001/10/16

    ベレッタM84は麻薬Gメンのおぢさん達が使っていて萌え

    日曜日に中古のブローニングM1910を3000円で購入。「昭和前期、特別高等課のお巡りさんが運動家のアジトに突入」ごっこが出来ると思ったが、後日、彼らは突入の際にも銃を携行しなかったことが判明。無念だ。

    今はなき職場で

     2001/10/17

    『シスター・プリンセス』最終回

    12人の妹を選ぶのか?
    社会的成功を選ぶのか?

    その問いかけ自体がすでに猟奇的だ。

    『ノワール』最終回

    アルテナ様の包容力に変態の臭いがする。

    『Z.O.E』最終回

    自己犠牲は萌える宇宙空間の基本です。

     2001/10/18

    可能的な物語としてのメイドと妹

    雑役マシンの特性から、マルチが誰とも関係を持てうる事と、それによって『To Heart』がユーザーにとってあり得る物語に変貌した事は、前にも述べた*1。この議論は、マルチをメイド全般と置き換えることによって、より普遍化することができる。

    普段の生活で、異性に対し受動性しか持ち得ないオーディエンスの日常は、物語においても反映されなければならない。そうでなければ、物語は実存感を失ってしまう。どの世界にせよ、その鑑賞者にとって、娘/おねえさんは、どこからともなくやって来て、そして、何処かへ去っていくものである。

    いわゆるメイド概念は、その人格と主従関係を持つだけで好意を受容できるという幻想から生まれた。オーディエンスの分身たる物語内のヘタレが、異性の凄まじい好意を買う情景は絵空事である。しかし、その異性がメイドであれば、凄まじい好意を被っても仕方がないではないかしら…。もちろん、それも日常ではあり得ないことだが、「でもひょっとしたら無いこともないんじゃないのかな〜」と思わず考えてしまう微妙な信憑性が、メイド概念を成立させていると言えるだろう。

    このメイド概念は、さらに妹と言い換えることもできる。血縁関係によって、異性とひとつ同じ屋根の下に共存在できる宿命的な受動性は、「ヘタレもてもて」の物語に、強烈な説得性を与える。妹だから無制限に愛されても仕方がない。物語の実存性に関するこの奇妙にもっともらしい幻想は、やがて、世界中のお兄ちゃんとしての鑑賞者たちを、奈落の底に突き落とすことになる。

    *12001/09/08を参照。また、「ヘタレもてもて状況(キーワード)」に関連する議論のリンク集あり。

     2001/10/19

    萌えの一類型としての被虐関係・仮説

    ヘタレが一方的に狂騒的な愛情を被る物語に、日常で異性交遊の方法を知らないヘタレ鑑賞者の感じるもっともらしさは、やがて、被虐に対する快楽志向*1へと発展する契機になりかねない。

    この仮説は、12人の妹に愛される物語が、12人の妹に輪姦されるお兄ちゃんというイメージへと容易に転化されうることの説明になり得るだろう。

    また、ここで被虐の対象となるのはお兄ちゃんであるが、『ラブひな』になると、ヘタレへの愛に抗おうとするがでもだめ〜な成瀬川になり、萌えの起因を成すと考えられる。

    *1:「殺され萌え」(指輪世界)を想起せよ。

     2001/10/20

    プロジェクトX』:カップラーメン開発秘話「これで給料が上がる!」(仮)

    国井がコスプレをすると、ろくな事は起こらない」という仮説はどうであろうか。

    『フルーツ・バスケット』:第16話 透が湖に行く

    井上和彦の人情話、「雪が溶けると何になるでしょう→答:春になりますぅ→(微笑み、懐かしむように)そうでもないさ」に即死。

    『ココロ図書館』:第2話 図書館のチラシは風俗のそれと誤解された可能性は?

    チラシで客が押し掛けたのは、知性と教養を求めてではなく、明らかに司書目当てである。 炎上する図書館と蹂躙される三姉妹をもって、本作が終幕を迎える空想をする。

     2001/10/22

    『コメットさん☆』:第30話 生命の創造→制御不能→炉心融解

    初代コメットさんが言うには、いちばん身近な輝きは自分の輝きであるから、それを磨けということなんだが、磨きすぎて超新星化したりしたら人類壊滅だな。

     2001/10/23

    『プロジェクトX』:消防士が伝説化するまで

    東京消防庁の高野さんを伝説化するために、東京シューズ流通センターで同僚消防士を煙に巻いたり、関西ででかい地震を起こして、その高野さんにボランティア休暇を取らしめなければならなかった。

    「守衛の胸ぐらをつかみ」「突入する」「浅見は黙ってうなずいた」「俺が行く」「炎に包まれた」「たいちょお〜!」「それを持って出て行け」「全員泣いた」と台詞だけはインフレーションを起こしているが、情緒喚起はやや希薄な話数かも。

     2001/10/24

    体育会系におけるアッパー化としての「ブルース・ウィリス転換」

    警察官が超人化する現象をブルース・ウィリス化と呼ぶのであれば、この概念をさらに拡張して、体育会系全般のアッパー化を、文化系における「へたれ脱却」の相似概念として、ブルース・ウィリス化と定義づけることもできるだろう。

    ブルース・ウィリス転換

    ブルース・ウィリス化に見られる顕著な特徴は、キャラの超人化による物理法則の超越である。『太陽を盗んだ男』において超人化した文太は、.38SPで蜂の巣にされながら地上20mから落下しても、絶命することはなかった。もっと極端な事例では、背中からロケットランチャーを生成させた哀川翔と元気玉を投擲する竹内力を、『DEAD OR ALIVE』に見ることができる。

    興味深いことに、両作品とも物語内において相対するキャラの相互作用によって、超人化が達成されている。

    『太陽を盗んだ男』を見てみよう。そこでは、体育会系にあこがれた文化系がアッパー化し、そのアッパー化に触発されて体育会系が超人化する。文化系と体育会系のかかる相乗効果は、東京23区を戦術核で破壊する規模にとどまったが、体育会系と体育会系が相互に激突する『DOA』では、北半球が吹き飛ぶ事態となった。

    キャラがいっせいにアッパー化することによって誘発するこの惨劇は、物語における均衡点の消失に由来していると考えられる。ふたりのキャラが相対する同一の物語内において、人格Aがアッパー化し人格Bがダウナー化するケースであれば、その物語は両者のヘタレ曲線が接する点に、自らの均衡を見出すであろう。

    均衡点ある物語

    一方で、AとBがともに同じようなアッパー化を果たす場合、物語は均衡に至ることはないだろう*1

    均衡点のない物語

    結果として、その物語は自己破壊によって幕を引かなければならないのである。

    *1:一方が極端なアッパー化を果たした場合、均衡点は成立するかもしれない。しかし、そうなると、より緩やかなアッパー化を続ける人格が、相対的にヘタレ認定を受けることになる。

     2001/10/25

    今日の一枚 : 2001年10月24日 JR総武線内で撮影

    大門部長刑事・その後

     2001/10/26

    『ちっちゃな雪使い・シュガ〜』:第3話 縦笛…

    感極まって接吻を行う性癖は、酒に酔って狂乱化した和田アキ子をイメージ・ソースにしているのであろうか。

     2001/10/27

    体育会系壊滅の物語としての西南戦争

    薩軍は体育会系である。『翔ぶが如く』の魅力は「百姓ごときに負けるかえ(言葉が違う)」と意気込んだ究極の体育会系、桐野利秋が、百姓集団の熊本鎮台に撃退される逆転劇にある。その影には、体育会系薩摩人の凶刃に倒れた文系の元締め・大村益次郎がいたりして萌え。

     2001/10/29

    格好良さとリスクの問題

    911以降の世界なので、でかいターミナル駅に行くと、ボディアーマー付きのお巡りさんが立っていたりする。これが、あと何年もすれば、MP5あたりをもったお巡りさんに新宿駅が警備されたりするのかしら、とワクワクしてくるが、代価として、爆殺される確率の上昇を見るわけである。悩ましい。

     2001/10/30

    季節使いは、彼女にしか見えない。だから、『シュガー』は幻覚に悩まされる薬物中毒者の個人的な物語である。

     2001/10/31

    『プロジェクトX』: 鑑識課の職員が神様になるまで

    プロジェクトX世界では、消防士を伝説化するために20年くらいの月日がかかると、先週の再放送から推測できる。対して、警視庁の指紋係を神様化するに要した年月は、今週の放送から約30年と見積もられる。



    30年の歳月と6億円損害と新興宗教団体のテロ(その他多くの悲劇)を経て、夕日の廊下で握手する熱い男たちに出会うことができるのだな。


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