2001年12月の日記
*2010年7月26日修正
人生に関する焦燥指標
これまで経過した人生のあと何倍、生存できるのか。例えば20歳の前途有望な若者が、自分の寿命を80歳と仮定した場合、彼女にはそれまでの人生の4倍に及ぶ時間が残されていることになる。
しかし、昨日の議論で明らかになったように、主観的な体感時間は、年を経るごとに救いなく高速化してゆく。よって、客観的には4倍の時間が残されていても、主観的に感じられる時間は減少してしまうのではないだろうか。
われわれはこの仮説を検証するため、とりあえず、残存人生焦燥指数を提案する。これは、主観的体感残生涯を主観的体感済生涯で割ったものである。
主観的体感残生涯とは、残された人生におけるそれぞれの年に対応する主観的体感一年の和である。主観的体感一年は、一日の主観的体感時間の求め方と同じである。1歳児にとっての主観的な一年は、1年/1歳で1、つまり1年である。二歳児にとっての主観的な一年は、1年/2歳で0.5、つまり1歳児の6ヶ月分である。
主観的体感済生涯は、これまで送ってきた人生の歳月を主観的体感一年で表現した値である。基本的に求め方は、主観的体感残数のやり方と同じである。
こうして求められる残存人生焦燥指数は、今まで経過した人生のあと何倍生きられるかという問いかけに対して、主観的な体感時間の見地から回答を与えるものである。この値に、客観的な経過人生年数(つまり年齢)を掛けてやれば、主観的な残存人生数が求められると強引に考えることにしよう。以下、グラフにしてみる(80歳で逝去と仮定)。
萌え人格の両義性
“他虐型の狂態関係”には、愛されるキャラの困惑ぶりと愛するキャラの痴態双方に萌えの可能性がある。その事例として、『フルバ第20話』の着せ替えを迫られる透を前に検討した。
人格の成長と発見
『君が望む永遠』の水月の話をしたい。
キャラにその基調の造形からズレた振る舞いをさせるのは、視聴者を高揚させる常套手段だが、その様な振る舞いが、われわれにとっては初見であっても、キャラ当人にとっては既知のものである場合がある。視聴者はそのキャラを発見するのである。また、ズレた振る舞いが当人にとっても視聴者にとっても初見の場合、キャラは成長したと解せる。
水月から逐次的に開示される新たな造形の数々は、前者にあたる。それは変化というよりも発見である。簡単にまとめると以下のようになる。
“萌え”と“感情移入”を区別する(前編)
“萌え”は、瞬間の事象であり、物語の線的な時間軸上の点である。感情を見せない娘が、紅潮したり、気の強い娘が怪談を怖がる振る舞いは、一瞬のできごとだ。こうした基調の造形からのズレは、キャラの内面においては、潜在的に持続しているのかも知れないが、それが表出するのは一瞬である。もし、それが絶えず外面において表出し続ける感情であれば、もはやそれをズレと言うことはできない。萌えのこの瞬発性は、視聴者が萌えを目撃したときに発するあの忌まわしい咆哮において、示唆されている。
萌えが点であるとすれば、感情移入は、物語の時間軸そのものに関するなにかである。つまり、線であると言ってよい。
“萌え”と“感情移入”を区別する(後編)
余談だが、萌えとしての怒りは、自意識の深度と関連するかも知れない。当人が、自分の基調とする造形からの逸脱を関知して、それを抑制しようと動揺するのである。
前回の続きに戻ろう。
昨日検討した“萌え”は、いずれも一時的な変化の中に見出されるものである。それに対して、“感情移入”は持続的な変化の結果もたらされる。
これまで議論では、ヘタレた受け手が物語のキャラを好きになる過程を感情移入としてきた。ヘタレにとって、物語の中のヘタレは、感情移入の対象になり得ない。なぜなら、そこにヘタレな自分を見出して不快になるからである。他方、非ヘタレも、移入の対象にはほど遠い。そこに自分を見出せないからだ。
結局、視聴者の感情移入の契機となりうるのは、ヘタレがヘタレをやめようとする造形の成長であり、また非ヘタレがヘタレへと墜ちる造形の凋落であった。われわれは造形の変化に反応するのである。
萌えは、今まで表出することの無かった造形の瞬間的な現れである。だが、その振る舞いが頻繁に現れるようになり、やがて既知の造形に転換してゆくとしたらどうであろうか。それは、われわれのいう感情移入においてみられる人格の持続的変化にあたることだろう。
相萌え
『君望』の初期遙は、初見の所いら立ちを誘う。
棚の上の方にある書籍を取ってやろうとすると、奇声を発し逃走してしまう。夏祭りで、打ち上げ花火の音響に驚愕し、衣類を掴みかかってくる。こんな高校生いるのだろうか。
痴女だから、その痴性ゆえに愛されるという手法はあるが、遙の場合、愛が振る舞いを乱していたという事後的なやり方で物腰が合理化されていて、萌えと自然淘汰の議論と関連してくる。遙が恋で動揺する様を察して、孝之が恋をしてしまうのである。
わたしは密かに、ひと目ぼれとは手抜きではないかと思うようになってきている。
『FFU』のモダニズム
集団主義的の組織が善意の集団として登場したり(第4話)、流れ作業が肯定されたりする(第9話)。
優しいミサトさんことリサに、わが輩、首っ丈である。
ギャルゲ主人公に怒る
たまには愚痴を述べたい。
ギャルゲの主人公は、わたくしであって、同時に、わたくしではない。物語の分岐点において、ユーザーは主人公に成り代わり決断せねばならない。そのとき、わたしは主人公と同化するはずである。だが、それ以外の側面において、例えば、ヒロインと何らかの会話をおこうなうとき、その行為がわたくしとなされているとは、まるで思えないことがある。あくまで、わたし以外の人間が彼女と会話しているのであり、わたしはそれを画面の向こう側で見つめるだけである。主人公の造形とわたしの性格が齟齬を起こしているのだ。あんなのは俺様ではない。
語り部は主人公男を遅刻魔にすることによって、わたくしとの親近性を演出しようとするが、逆効果である。わたしは遅刻しない。遅刻する度胸がないのである。友だち、幼なじみなんぞ、もってのほかではないか。
一見ヘタレそうだが実は順応性にあふれるこやつらは、そうでなければギャルと懇ろになれんという事情を負っている。だが、これは語り手の怠慢だろう。わたくしがギャルの好意をかっても自然な状況を演出するのが、語りの腕の見せ所ではないだろうか。この状況に関しては幾度か議論してきた。
こやつらに感情移入できないわれわれは、その対象をこやつら以外の人物に求めざるを得ないし、語り手もこやつらに感情移入することをあまり期待していケースがある。極端になると、主人公男が物語の中途で消滅してしまう(『AIR』)。
痴性はあくまできっかけだ
観鈴ちんが、路上で爆睡するわたしに声をかける。そうして物語が始まるのだが、路上で野宿する見知らぬ男に声をかける女子高生が地球上に存在するとは思えず、わたしは彼女を白痴だと定義することによって、不条理な状況を合理化する。しかし痴性はしばしば愛を遠ざける。
後半、主人公男の不可解な退場によって、物語は客観視点となり、その視点で過去をトレスするのだが、その中で、冒頭における観鈴ちんのあの痴的な行為が再解釈される。彼女には友達がいない。これから夏休みである。友達のいない夏休みはもういやだ。だから、俺に声をかけるのだ。
こうして、わたしは彼女を発見し、嗚咽した。
強気娘は三角関係の生け贄になる
気の毒な話であって、気高い娘が、気弱な友人に頼み込まれて、恋の仲介をするのだが、友人の惚れた男には、気高い娘もゾッコンである。しかも気高いから、素直に好きとは言えない。萌え人格の逐次投入(前編)
孝之への一目惚れが明らかになることで、遙は成長を開始する。主人公への好意をあからさまに持っている水月は、この成り行きに動揺する。冒頭でユーザーの感情を牽引するのは、遙の成長であるが、水月の凋落も捨てがたくある。ところが、遙があの始末となり、ダウナー化へと転じると話が変わってくる。
『君が望む永遠』は『AIR』とは違い、シナリオ分岐に不快な重さがある。わたしどもは遙と水月どちらかを選ぶよう強いられるが、いずれも凋落した造形であるから、否定的な意味合いで、どちらも選びがたい。分岐があるようでいて、実のところ選択の自由などなく、ある種の誘導が行われているのである。彼女らは、茜(高校生バージョン)の前座に過ぎない。
萌え人格の逐次投入(後編)
茜の萌えは、わたしに対する背徳的な恋を抑え込もうとして混乱する物腰によって表現されている。「やさしくしないでください」とか「もう誰にも渡さないんだから」とか、遙と水月なんぞ、もうどうでもええ。
警察映画の世界観説明など
『ハンニバル』を途中まで見る。
冒頭でクラリスは、幼児を抱えた犯罪者を射殺して、落ち込む。子連れの犯罪者を殺害して落ち込むスタイルは、『マーキュリーライジング』の冒頭でも用いられている。両者とも、主人公は任務を外され、新たな仕事に関わる。
新たな舞台へキャラを移すことは、状況説明の煩雑さ軽減させる。主人公と受け手の間に、情報の格差があまり生まれない。問題は、何をきっかけに新たな舞台へ移すかということ。
冒頭の挫折は、舞台移動のきっかけになるとともに、キャラに心理的課題を与えることで、動機づけをする。
番組改編期の萌え祭り
感情を見せない娘は、感情のレパートリーが限定されるため、物腰が様式化しやすい。記号化が容易だから語りやすいし、感情の幅が狭い分、基調的な造形からのズレがたやすい。
『フルバ』の花島咲が、先週のお話で慟哭し「ほお〜」と注意を引いた。今週の『コメットさん☆』でも、メテオさんが崩れまくっていた。メテオさんは感情を見せないタイプではないが。
ずれる自己同一性(前編)
レスキューポリスの一編に、自分が知らぬ間にロボに改造されていた話がある。題名は失念したが、小松左京の短編には、父親が残した莫大な借金の返済に苦しむ男が、父親はロボである自分を手に入れるために借金をしたことを知る話がある。恋人がロボであると誤解した男が実はロボであったというのは星野宣之の短編。
『Kanon』のあゆは、自分が生き霊だと気づいて混乱する。『シックス・センス』『ツィゴイネルワイゼン』『荒野のダッチワイフ』では、自分が死人であることを気がつかない。
記憶の欠落とか時系列に不自然な欠落があったりする。「五年前の冬休み最終日の記憶がない〜」とか、銃で撃たれた人物が次シーンで何事もなかったようにしているとか。後者は、回想か時間の省略だろうと受け手が自然に合理化してしまうから、そこが語り手の狙い目になるのだろう。