三月 二〇〇二年

 


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2002/3/31


萌えの循環構造
あるいは自慰行為

前回の議論には、ひとつ問題がある。萌えて興奮している鑑賞者に萌えるために、“誰か”がこの世界を作ったとしたら、今度は、鑑賞者を見て興奮するその“誰か”に萌え上がるより上位な“誰か”の存在を考えることは出来はしまいか。さらに、その上位の“誰か”に興奮するもっと上位の“誰か”がいて、さらにその上に…とこの議論は永遠に続いていってしまう。

閉じない系


ゆえに、われわれは世界の系を閉じ得るような自己言及的、回帰的な説明[注1]を考えなければならない。このことは、鑑賞者のすぐ上位に位置し、鑑賞者に萌え上がる“誰か”を、物語と同様に鑑賞者の心象世界で産み出された抽象人格と位置づけることによって、可能になるだろう。つまり、鑑賞者は自己を見て興奮する抽象的な人格を仮想し、その抽象的な“誰か”の興奮ぶりに萌え上がるのである。

閉じた系


ここで、鑑賞者の上位に位置するとされる空間は、鑑賞者の心象世界であり、鑑賞者の精神の産物である。だからこの図は、俯瞰すればクラインの壷のような構造[注2]をしているはずである。

鑑賞者が“誰か”を求めて仰ぐ空は、鑑賞者自身の心象世界であると言ってよいだろう。外宇宙へと旅立って、内宇宙に到達するサイエンス・フィクションみたいなものであり、自分の唾液を天に向かって投擲するようなものでもある。


[注1]
大澤真幸 1992 『行為の代数学』,青土社
Hofstadter,D.R 1979 Gödel Escher Bach, Basic Books (1985 野崎昭弘ほか訳『ゲーデル、エッシャー、バッハ』,白揚社

などを参考…になるのかなあ、この文脈で?


[注2]
あくまで“ような”であってそのものではいけないらしい。
ここ参考。


 

2002/3/30


萌えと世界の多重構造
鑑賞者の背後にあるもの

われわれは、誰かに萌えているにんげんに萌え萌えする。前に使った模式図で考えれば、つまり、こういうこと。


ひとは、萌えたいがために、彼の住まう実存的な世界の中に擬似的な世界を作り、論理的な操作によって、その住民たちを萌え狂乱させたりする。だが、ここで、ひとつの疑問がわく。

物語の萌え乱れる住民たちに萌え乱れるにんげん自身が、誰かの萌えの対象になるのではないか。ひとびとが萌えるために物語を作ったように、誰かが萌えるわれわれに萌えるために世界を作ったのではないか。つまり、こんな風に。


ひとはなぜ、時として立ち止まり、空を仰ぐのか。それは――ヴォネガット風に言えば――あの青空の向こう側にいるいぢわるな誰かさんを見つめているのである。そして、それが出来るのは人間だけなのだ[注](つづく)。


[注]
これは『攻殻』の荒巻さんですね。


 

2002/3/25


主観視点人格の性格造形に関わる選択肢について
鑑賞者とのしあわせな邂逅の可能性

ギャルゲーにおいて、主人公たる主観視点人格と鑑賞者との出会いは、鑑賞者が主人公を選ぶことできないという意味で、宿命的である。鑑賞者は、温和でややヘタレなおねいさん、無口で天然ボケなおねいさん、強気で元気なおねいさん、元気で天然ボケなおねいさん、元気でヘタレなおねいさん、無口で弱気なおねいさん、無口で強気なおねいさん等々、自己の嗜好に叶う人格を選択することが出来るが、主人公に関してそうした選択を行うことは不可能である。

だが、鑑賞者が主人公の行動を選択する過程を通じて、主人公を自分の嗜好に適合するよう“調教”出来るシステムは可能ではないだろうか。例えば、@主人公のヘタレな行動とAまっとうな行動の選択が提示されたとする。@が選択された場合、その後、主人公はヘタレな人格として造形され、行動することになり、Aが選択された場合、主人公はあまりヘタレない人格として、その後の物語を通じてその性格が造形されるとか。

加奈』において、おねいさんのらぶらぶ攻撃に直面した主人公は、ふたつの選択を強いられる。“逃げる”と“照れて逃げる”である。また、『AIR』では、おねいさんが自分以外の何者かとデートする事を知った主人公は、ふたつの選択を強いられる。“無視する”と“嫉妬する”である。これらの選択肢は、主人公がおねいさんに愛情を持っているかどうか判定するために提示されたものだが、それとは別の可能性をもそこに見ることは出来ないだろうか。

『AIR』は愛される主人公の物語であり、主人公はその愛に無自覚である。一方で、鑑賞者は、その愛に恐ろしく自覚的である。主人公とのこうした齟齬に、鑑賞者はいつも苦しめられるのだが、“照れる”や“嫉妬する”行動は、鑑賞者が主人公と一体になれる幸福な瞬間を予感させる。事実、『AIR』の共感を抱くのに超人的な努力を必要とする主人公[注]をわれわれが好きになれたのは、この選択肢が提示されたときであった。ただ、主人公の嫉妬した行為、つまりヘタレぶりはその場限りのものであったが、もしこれ以降、その選択肢が選択された結果として彼がヘタレ続けたら、物語はもっと同情的に、彼を消去し得たのではないだろうか。



[注]
病を苦しむおねいさんを前にして、ふたつの選択肢が現れる。@抱きしめる、A体を求める。病人にAのような発想が出てくるところが凄まじい。


 

2002/3/23


最近観たアニメの手短な感想(その2)
天然ボケとリサおねいさん萌えについて


『ギャラクシー・エンジェル』

何か深刻なものに深刻になると物語が生まれ、全く深刻ではないものに深刻になると滑稽が生まれる。事態が真面目であれ、滑稽であれ、物語の当事者はいつも深刻である。だから、天然ボケほど、滑稽と身近な人格の様に見えて、実はこれほど滑稽からほど遠い人格もいない。彼女は哀しいまでに、何事にも深刻になれないのだ。天然ボケが、深刻な事態に至っても、深刻になれないその人格特有の様相を呈し始めたときに、われわれはその真価を見出すことが出来るだろう。


『フィギュア17 つばさ&ヒカル』

家族愛に飢える強情なおねいさんという萌え図式。つまり、「あ〜ん、さくらおねいさ〜ん(はぁと)」ということ。伏兵は思わぬ所に潜んでいるから伏兵という。家族は萌えの温床である。


『FFU』リサおねいさん考

おねいさんぶる人格は、基本的にヘタレではない。ヘタレでは、主人公の保護者というおねいさん人格に課せられる機能を果たせないからである。おねいさん人格が、鑑賞者にとって身近な人格になるのは、彼女が保護者をやめ、ヘタレてしまうときである。

リサおねいさんが、われわれにとって印象深いのは、かようなおねいさん萌えとは異なる新たな萌えの可能性を、彼女が示唆しているように思えるからである。従来のおねいさん人格が「非ヘタレ→ヘタレ」で萌えを演出しているとすれば、リサおねいさんの萌えは「ヘタレ→非ヘタレ」の中で顕在化する

大方のおねいさん人格とは違いリサおねいさんはその本性においてヘタレている。都合の悪いことや為す術のない事態で、無力なリサおねいさんは作為的に笑い、はぐらかす。“気功術”を用いるときのリサおねいさんが恥辱の表情を浮かべてしまうのは、気の弱い彼女にとってそのような示威行為は恥ずかしいのである。

保護者としての機能に欠けるリサおねいさんが、おねいさん人格の役割を果たさなければならない悲劇、換言すれば、ヘタレが後ろめたい義務感から自分の基調人格とはあわない行為を無理して行う健気さみたいなもの。それがリサおねいさんの萌えを形作っているのではないだろうか。また、逆に、『エヴァ』のミサトさんが多くの人々にとっての精神外傷的な嫌悪の対象になるのは、本来はヘタレではないミサトさんが親近性をアピールするためにヘタレを装う行為に、ヘタレた鑑賞者は何かとてもいやらしいものを見てしまうからなのかもしれない。

 

2002/3/19


最近観たアニメの手短な感想
ジェット・コースターなメテオさんとあゆあゆの体当たり


『コメットさん☆』最終回
気高いメテオさんが、善良なへたれっ娘に墜ちる過程は基本である。ただし、メテオさんは、墜ちるだけにとどまらず、そこから“へたれっ娘がんばる”人格へ成長を遂げてしまう。“哀しいときに笑う”様式である。

 


これはたまらない。



『カノン』 口パクがずれていますよ〜。
あゆは、祐一に体当たりする。


これはたいへん結構な図だが、変だ。にんげんは何らかの物理的保証がなければ、このように身を投げ出す運動は出来ないと思う。“受け身”とか、下がマットだとか。このケースでは地面が雪に覆われているので、この運動が可能になったのかな――と考えるも、前後カットでは地面に雪が見あたらない。??となるが、次第にくだらなくなってきた。ここから、例えば「…だから、地球が滅びる」などという理屈がひねり出せれば楽しいのだが、それもいつものパターンか。



『フィギュア17 つばさ&ヒカル』
散歩するだけ、カレーを作るだけ、牧場豆知識だけ、では物足りなく、物語にはもっと何かが必要だ。その“何か(非日常)”は、ちゃんと存在している。ただし、それは日常といまだ接点を持っていない。それどころか、とても軽薄な情報量で構成された非日常は、日常との区別がもはやつきがたいのではないか。

 

2002/3/17


人格の匿名性と空虚な部屋
夢と容積の問題

データ移送用に購入したUSB接続のハードディスクは、転送速度その他に問題を抱えるものの、その小ささが素敵だ。ポケットに20GBの夢が詰まっている。それはとても楽しいことではないか。

話は変わる。ギャルゲー主人公の部屋は、いつも広々として寒々しい。ほんとうに彼らの部屋面積が広いのではなく、部屋主の個性を主張して然るべきものが全く存在しないからである。あるものは、机、ベッド、小さな本棚、ラジカセ、それだけである。こんな部屋で暮らすことを考えるだけで、発狂しそうな気分になるが、彼らには匿名性が求められるがゆえに、個性を主張する部屋はあってはならない。

どんな形であれ、部屋には夢(=情報量)が詰まってなければならない。われわれには、連続殺人犯の部屋に踏み入ったときのようなあの驚きが必要だ。だから物語は、人々の部屋に夢を詰め込む。この点で、ギャルゲーの物語への逆行は、不快であるとともに興味深い。

部屋に詰め込むだけ詰め込まれた夢は、やがて、建物の構造の耐えられる限界を超えたとき、床を突き破り、階下の住民を押しつぶすだろう。夢は他者の夢を犠牲にして成立する。『ベルセルク』であり、社会面の片隅に載る数多くの小さな悲劇のひとつである。かくして、物語はそこで終わり、そこから始まる。

 

2002/3/10


“おねいさん”と萌え(後編)
狂乱人格と鑑賞システム

妹に狂愛される兄という関係図式では、お兄ちゃん人格が狂乱している。匿名のお兄ちゃん人格は鑑賞者と同義的な存在なので、ここで狂乱するのは鑑賞者自身であり、前に上げた主観視点鑑賞システムに特有の狂乱様式である。

他方、被保護対象人格を熱愛するおねいさん人格の物語では、狂乱するのはおねいさんであって被保護対象人格たる鑑賞者ではない。そして、ここで感情移入の対象になるのは、被保護対象人格ではなくかれに狂愛するおねいさん人格である。鑑賞者の感情移入が、主観視点人格以外に向けられるとき、その物語は主観視点というよりむしろ、世界視点鑑賞システムとして成立する事になるだろう。

議論をまとめよう。つまり、

狂乱人格が自己の物語→主観視点鑑賞システム
狂乱人格が他者の物語→世界視点鑑賞システム

という区分が可能なのではないか。ただ、多くの場合、これらの鑑賞形式は分化されておらず、ひとつの物語の中で並列している可能性がある。『痕』の千鶴さんは、「耕一さんらぶらぶ〜、でも愛してはいけないの〜」という側面に注目すれば、狂乱しているのは彼女なので、これは世界視点鑑賞システムであり、主観視点人格の耕一は、鑑賞者の嫉妬の対象ではあっても、感情移入の対象ではあり得ない。

だが、彼女に殺されることに萌えを感じうるとすれば、そこで狂乱しているのは鑑賞者自身であるため、主観視点鑑賞システムが成立する。視点の置き所で、世界が変わってしまうわけである。

 

2002/3/09


“おねいさん”と萌え(前編)
保護者がそれをやめてしまうとき

“おねいさん”人格は、主人公の保護人格として造形される。ゆえに、彼女は主人公の憧れの対象ではあっても、彼女が主人公にらぶらぶになることはあってはならない。萌えのヒントは、こうした通念的禁制のなかにあると言ってよい。萌えは、それを為し得ないと想定される行為をある人格がとろうとすることと、それにまつわる狂乱から生まれるからである。

妹に迫られた兄が狂乱するのは、それがあってはならない事だからである。教官は生徒を愛してはいけないから、“教官物”が成立する。そこでは、教官が渋く静かに狂乱する。

同じように“おねいさん”人格は、保護人格として行為することを要求される以上、保護対象にらぶらぶになってはいけない。そのことが、保護人格の放棄を意味するからである。

しかし、物語は残酷で、常にかような“おねいさん”人格に保護対象を熱愛するよう要請する。表層ではその要請に抗し、あくまで“おねいさん”として彼女は彼に接しようとするが、彼が他のおねいさん人格にいちゃつかれる情景が出現すると、彼女は嫉妬し、同時に自分のその感情に戸惑い、狂乱する。つまり、萌えの成立を見るのである。(つづく)