映画感想 [2301-2400]
各々のくやしさに思想の裏付けがあり、彼らの啓蒙思想は道具や振舞によって可視化されている。デンゼルとラッセルは思想的に互換するから、序盤でデンゼルの課題が解決しても啓蒙が侵されたくやしさはラッセル組に継承される。思想を共有しながら利害が相反する課題がクリアされたとき啓蒙は具体的な形となり、それまでのストレスは邂逅のタメとなる。
音楽的に肉体を使役するサイコの人間像が、春川ますみや成瀬正孝といった職業的役者陣と絡めば、軟体のなめらかさを委縮させてしまう。誇張依存の辛みは竹中の視点に筋を憑依させる展開とメタにリンクするが、他人の演技に統制され成形された竹中の軟性はもはや序盤のサイコ像から大きく逸脱している。ますみん一家の顛末が効いたとしても大仰な反応はらしくなく、それまでのサイコ小芝居が矮小化する。
最初から共通している利害が人を追い込む義理の仕込みを無効にしている。感情の裏打ちを失っている武力は、英国文官陣のサイズの合わない衣装のようにフワフワと滞空し、路上に撒かれる釘から始まって棘の鞭にエスカレートする無感情の暴力を滴らせる。総督婦人アリソン・ドゥーディは純粋暴力に最も憑依され、マンガというには闇が深すぎる加虐に走る。
芦川いづみの不感症を前にした二谷英明は顔を張られたという曖昧な物証に頼るしかない。感情は自らの外化のためにラヴコメ的スキンシップに邁進し、藤村有弘のプライヴァシーを侵害する。その今から見ればドン引きの顛末は失恋者南田洋子の傷心と共鳴する。高橋英樹は海が好きだと咆哮して感情を空間に託し、あらゆる人々の喜怒哀楽を縫合する。
災厄に応じてコロコロと怒り泣き歪むお顔が、エミリア・ジョーンズのアイドル化をいよいよ甚だしくし、階級脱出劇はますます嘘くさくなる。代わりに課題として浮上するのは笑顔で人の足を引っ張る恐るべき母の自立だが、娘のステージが動かすのはすでに自立している父である。母の性質は入試騒ぎの裏で人知れず改変され、その自分のなさが不気味な後味となる。
キャシー・モリアーティへの猜疑はヤクザ絡みで発動するように見えるが、ペシが猜疑心に呆れるように、ヤクザによる社会化の圧を逸らす処方になっている。スコセッシ節の人の内面に深入りしない唯物論は、モリアーティの内面を隠し彼女のサディズムを加速させ、デ・ニーロの肉体には玩具を弄するように改変を施し、役者根性の余波が芸人化という不思議な顛末を導く。
ポストコロナの風に吹かれ自嘲する昭和のモラルは市川の運動神経に政治的に許容できるセクシャリティを見出し、どつき夫婦漫才がセックスのアイロニーとなる。ループで前に進まない話は時間の滞留に赤い女を抑留するばかりではなく、女の拳にうれしそうな苦悶の声を上げる工藤の性癖の歪みを実体化し世界崩落の序曲とする。
貴族の自罰感情が、関与する人々の辛みを無効化する情念のブラックホールとなる。ペンギンのカーチェイスは意味をなくし、文弱をアピールする割には逞しい下顎部だけが確かな物証として残りキャットウーマンを骨抜きにする。人々は個々の身の上話に没頭するしかないが、自閉的交錯の緩さは坂元裕二のような未練がましいスケベ心を交歓させながら、災害を援用して社会不信の解消を試みる。
偶然の死に耐えられない男は因果律を仮構する。仕組まれた必然に報いるべく偶然はブラピに憑依して、人体と物体を浪費しながら己の事物化を図る。偶然とは通俗の別称である。憎悪が少女に放流先を見出せば、通俗は類型的な個々の辛みをコテコテだからこそ簡単に審美化できてしまう。憎悪が必然への応報へ観念化されたとしても、着ぐるみと蜜柑がポエジーにそれを事物化して望ましい標的に導く。
幼年期が強制終了しても恋愛ファーストがつづく錯誤は、事を郷愁として扱う政治的背徳に苛まれた無意識の産物だ。劣化した成熟は時にコミックリリーフとなりながらも、メラニーの聖性が夫婦漫才をついに恋の焦らしへ精製する。が、パトリオシズムが女の失意を包摂する脈略には映画の文体は非対応である。
菊地凛子は生体として逞しい人だ。漲る活力は観察しがいのある挙動を全編に渡ってもたらすが、完成体だから達成されるのは成長ではなく野性化であり、本来の自分に戻ったにすぎない。完成された自分が行うのは扶助を与えた市井の民を聖別していく旅である。高速を往来する人々を類型化していく強化人間の主観こそ彼女に聖別の働きを与えている。
英雄的な挙動しかできない人々から微細な感情を見出すために、距離感のある叙法がアラカンの巨顔を誇張しストレスの兆候を精査する。この肉体主義は田崎潤の頸部を胴体に陥没させる。クロスカッティングが織り込む、道幅をスケールダウンした銀座通りと二重橋がすべてのような小宇宙に没入させるのは御製のリズム感。
女権に下駄を履かせる便利図書館と非武装ダイナーは集団的母性で子どもたちを拘引する。3世代に渡る犯罪者の再生産は孤立する父権による相対化を一蹴して児相案件の範疇を越えていく。
収容所と自在に内通する段階に至っては竹野内豊は目的を見失っている。当人に考えがないから米側は尻尾をつかめなくなる。異質の叙体を統合するディレクションの不在はこの失調の原因なのか結果なのか。ツンツンしてカワイイ井上真央と唐沢寿明がかろうじて筋の外郭となるが、ひとりマンガのような顛末を迎える阿部サダヲの類型力に制圧されて終わる。
技術職の生来的な劣等感が社会的敗戦によって励起した。ストレスとは絶縁した意識のない動物たちとニコニコなタタールらがストレスを鋳造する鋳型となり、管理職の修羅場をエスカレーションさせる。納品の圧に敗れ過眠に陥る少年と叱咤するオッサンの下士官的挙措。同族の孤絶を観測して男は職場放棄の私情から立ち直る。
立場上、常に筋の発火点となる岸部の周りにイベントが堆積するばかりで、石橋は岸部と実際にリスクを負う妻夫木に寄生しその間で埋没している。彼の人生自体が大楠道代に寄生しているのだが、ナース井上真央の等閑視にその辛みを抽出されつつ、ようやくリスクを負う役割が回ってきても、堅気に対する酌量に終わってしまう。
演者の性質に品質を左右される叙体の素直さが、古川琴音に少年が絡むと性欲の悩ましさを的確に抽出し、この感性こそ亡夫を筋の支点に据えるのだが、彼の正体はトヨエツなのである。演者が劇画の台詞を言えるのなら絵は安定し、そうでなければどのサイズで被写体を捕捉すべきか確信がなくなる。カラコレの入った質感だけは映画の自信に満ちている。このむず痒さがトヨエツ的なのである。
大人たちのストレスを捕捉し、モブの女子児童にことごとく成熟した挙措を取らせるのは、それ自体がすでに安藤の家族観に汚染されている類型的な価値観である。欲望と社会不信がないまぜになったその理念優先主義は、少年たちが被るであろう不利益を過大に見積もる。露わになる全容に比例して事態は絵空事に向かいビッグクランチの世界像を模する。
微細な日常芝居をやると、レタッチという名の人力シェーディングの質感がリアリズムのモーションと相容れなくなる。アニメ屋はリソースに不足してモーションに支配を及ぼせず、ブラコンの機微をリアリズムで捕捉する際には構成の操作に依存して筋を細分化させる。各人の事情で分割される試合進行がブラコンの重さを受け止められないのだ。中盤で回想が一段落して山王のエリーティズムと花道の今そこにある危機が時制をようやく凝集し得ても、まだまだブラコンを引っ張るのであれば、試合時間の水増しに見えてきても仕方がない。
ホアキンの取り組む課題が甥のやや特異な性格に根差すのなら状況を普遍化できないが、作中で最も予後の不安な健康問題が発火するのは意外な場所である。父子の神経生理に気をやらせる誤誘導が効いている。メタボ腹ひとつで映画を成立させる彼の肉体主義は身を呈して甥に成熟を迫り、肉体という物証が神経生理を圧する意味で事を一種のスポ根に帰結させる。
時折爆発するホームドラマには場違いなレイアウト主義の冷たさは関千恵子や田中春男ら境界人を容赦なく怪物にする。劇画化は育児ストレスとの混線に過ぎないにしても、赤ん坊は淡々と大人たちの愛欲を交通整理し、高峰と芥川比呂志をラヴコメになだれ込ませる。
犯罪扶助の動機には佐藤二朗と清水尋也の両者に一定の合理性はある。にもかかわらず、残る違和感は何なのか。伊東蒼と清水の遭遇は偶然ではなかったのだが、偶然の印象は去りそうもない。死に向き合う人々の挙動が劇画のようにカジュアルである。筋は劇画に違いないが、こちらに心構えがないために佐藤のガンギマリがあり得なく見える。森田望智に妻が投影される件で劇画はそれに値する表現に達する。伊東がすべてを把握しているオチでマンガに戻ってしまう。
全編に立ちこめる霧のような感傷は、ドニーの扮装に由来するノスタルジーにすぎないのか。体のキレが人々から貫録を奪い続け、氷結した時空に成熟を見失った男たちは大階段を上っては転げ落ちる。破損した時空はモンマルトルの夜明けを合成丸出しにしながら、キアヌの不自然に細い骨相とビル・スカルスガルドのストレスフルな無精髭に肉体的痕跡を残す。芝居が杜映画丸出しのドニーは自己完結のあまり別の宇宙を生きる。この体系の強さが階段ループからキアヌをサルベージする。キアヌの方はオチが死に場所探しだとすれば手の込んだ手続きの意味が解らなくなる。筋の作法に適うドニーの顛末を引き立てるばかりだ。
ことごとく後継者が資質を欠くとなれば、デニス・プライスの性能ならば企みを画さなくとも自ずと機は熟したと思われる。後継者たちの個性を誇張する苛烈なメリトクラシーは、能力を当人から自律させ発揮させずにはいられない。シビラに金色夜叉しないのは不可解だったが、男は同類を見抜いていたのだった。オチも、デニスが有能すぎるから、選択の課題をうまくかわしたとしか見えなくなる。
千田是也一家の気持ちの悪さが一個の怪物を育んだ。これに自覚的な物語は、クズ情報の開示が始まれば、小高雄二の長い顎に難なくサイコ的風采を付与する。サイコとの遭遇という受け手にも共有できるリスクが三角関係のハラハラを充実させる。
犯罪に飛躍しても大して重大視されない時点で社会小説として終わっている。出生の起源に向かう高揚や元夫の変貌を軸としたオッサンたちの連帯といった劇画ならではの展開は、娘を男たちの世界への闖入者に見せてしまい、社会批評とは真っ向から対立する。女の動物的勘で彼女はこの構図を把握して恐怖するのである。
パンチドランクによって言語化できなくなったストレスとは何か。牧師たちの尽力で発見された去勢された男の失意は克服されるどころか、波止場の男たちに遍く感染し、リー・J・コッブすら荷主に頭が上がらなくなる。食物連鎖の非情な構造が辛みを汎化する。
男の幸せを願う女は文系の邪念から男を救うのだが、自分は恋と憐憫の区別をつけられなくなる。そこに端を発する恋の光が見えない問題を物語自体は把握していない。この無意識にたどり着くために、告白を試みる男は長々と客観視の作業を強いられ、女と受け手を焦らしプレイにさらす。
経済の利害は時代を越えるために、阪妻の辛みだけが伝わってくる。彼の人生に話が帰着するに及んで、辛みは逆流して阪妻は昭和のモラルを越えていく。彼は女中の病気に偏見を持たないのだ。モラルと利害の互換は、経済の利害から最も遠い木下忠司が遊民ゆえに阪妻を誰よりも理解している逆説のオチを導く。
同情と共感に誘導する技法は共通の敵を次々と投入し好悪の間合いを操作する。外敵は常にマウントや政治を抑えきれない類型的な姿で襲いかかる。観念に対抗し和解を促すのは、尿漏れや生理といった器質の圧である。母を拒み続ける乳児という器質そのものが人情交差点に鎮座する。
状況の裏付けのなさに由来する笑いが、迷路のようなバックステージをさまよううちに、80年代を文化的閉塞物として捕捉する。批評精神の発揮は、終わろうとする幼年期の古典的な辛みによって状況を迂遠に裏付け、拒みがたいホモソーシャルのうれしさと構成があるうれしさを筋に混載する。
猿山の闘争はセックスと不可分である。実家の太さでケンカする背徳に苦しむ物語は、校外の利害に意識的になるあまり、学外を抹消しついでにメスの気配を喪失してしまう。男の課題はすでに解決済みだったが、非ゲイアピールに取りつかれた彼らは友情の発覚を遅らせ焦らせ、合コンを巡ってはオーバーアクトを強いられる。
乙羽信子の給水スリラーを成り立たせるのは、期間工のような挙動で畑に注水する殿山の生産性パラノイアである。末期的シムシティのような限界状況が予見する天候不順・病気・事故のリスクと、舟を漕ぎ桶を運ぶ乙羽の肢体のセクシャリティが、宿禰島を一大アトラクションにする。リスクは島の限界経済に差し障らないポイントを発見し発動。島の地表に投地した乙羽の放つ性の気配に全く動じない殿山のダンディズム。
大状況が、移動すれば終わってしまう課題に矮小化される。ヤクザ・入院・滞納といった日常の脅威は段階を踏むが、父のキャンブル癖は世界の果てまでついてくるだろう。質感の朝ドラのように明晰な解像は彩度と釣り合わず、やたらと浸透してきて街頭を荒廃させない行政が、ハイヌーンの援用を状況にマッチしないただの雰囲気に終始させる。各種徒労感に圧迫され、祖母はバスの中でシャングリラを想う。
力を欠きスピードに依存する死霊たちは空間に人を誘導すべく挑発をしてくる。俗化された死霊に憑依された母は生前そのままの姿であり過ぎるために哀感を全く呼ばない。死霊に力がないのは正体をうまく定義できないからであり、人だったり植生だったり形姿が一定しない。生者と死者の間で哀感がすれ違うのなら、そのねじれを矯正するのは憑依された人の仕事になる。恋人の思い出で我に返る男は矯正の再帰構造の織り上げる究極の空間展開に巻き込まれ神話となる。
健康の問題によって男の妄想による束縛を理由づけるように、話は怪奇への発散ではなく常識への収斂を目指す。職種の頼もしさと父性依存の短絡や消防車の上でやらかしてしまう惰性は常識指向の効用である。逆に、事の帰結と無機化した子宮に釣り合わない出生物の常識的な造形は、設定が奇観を衒うだけに不安になるほど曲がない。
情に流されヘマをする人々に筋をまとめ成立させる力はなく、もっぱら恐怖は病態の迫力に依存して、事件対処の過程はいつまでたっても始まらない。近代的自我を前提とする白石晃士調の叙体は内容と釣り合わず、私的空間の侵食に躊躇がない世界像を誤配的に揶揄するばかりで、ヘマへの懲罰以上の感慨を結末に託しきれない。
貧困とは情報の乏しさであるから、状況が劇画化すればロシア人警官のように人物は類型的になる。劇画のリスクから遠ざかったホームドラマに劇画は筋の完成度において劣後し、作画スタッフは猫の描画にいよいよ情熱を燃やす。劇画と個人的な性の課題を埋めるのは、青年との密入国ロードムービー。兄の理解も含め、男たちのこうした同士感は、脱出行の太った老婆や海を恐れる母への言及を通じて女性嫌悪に至らざるを得ない。
教育の私物化と怪奇の恐怖を同列に扱う手際は懲悪をスムーズに進めながらも、政治とは無縁のはずの精神科医・物理教師・老女ら工学家たちを批評する。理詰めで世界を救おうとする彼らの営みがジェイク・ジレンホールに決定的な感化を与えてしまう。社会小説の解像度は分岐した未来を悲恋に利用するリリカルSFの結末からジャンル臭を抜き去っている。
獣性の吐け口を求める男たちに庶民の介助はもはや無用であるから、通過儀礼はインターン的仮構に過ぎなくなる。家庭の楔から解き放たれた合宿の高揚は、壊すことでしか所有を主張できない男たちの種族的不毛性の批評でもある。こうした構成的アンニュイはサム・シェパードのポルノ鑑賞を庭先でボーっとして待つ二人を映画的事象の最たる景物にする。
そのプロップガンは樹脂の貧弱な質感に量塊を与えようと代行的に阿部寛に肉体改造させるが、帰結は発砲できない刑事(須藤正裕)のインポテンツであり、阿部と男たちの同性愛的部活である。中島宏海は空疎な記号だからこそ事態の答えを発見する。男性性の記号と目された凶銃の正体はファム・ファタールなのだ。
資本家とのランデヴーによって迷惑が近所にとどまれなくなる事態の進捗とは裏腹に、戦場ならば幸福に生きられた男はオタクたちに初めて人間として扱われたために、正常な挙措に達したように見える。怪物に対する母の憎悪の的は事態の社会化に応じて自分たちに手を差し伸べなかった社会全体へと拡散していく。息子への諦念は報復の快楽に震えるのだ。
三丁目の景物と青春活劇のノスタルジーに挟撃され脱臭化した政治がたどりつくのは、映像主義の構築する物証の宇宙である。その時制を失った宇宙で女の成熟に追いついた男たちは死者の人生を再構築していく。
合宿と化した張り込みで沸き立つ捜査官と技官のオッサンたちの童心は脱毛症とヒゲの多様な生態系を展示しながらいつしか手負いの獣の哀れと共鳴し、帰結としての男女の関係性を階級脱出を餌に金銭を搾取する恋愛詐欺のように見せる。
パーティーでの金策で個人と社会の抱える負い目を捕捉できてしまう演出の群衆統制力は、元凶であるはずの機能不全の社会に精巧な監視社会を作らせてしまう。この矛盾に対応して裏社会ばかりが効率的に稼働する犯罪映画の仕様が援用されるが、この状況には社会小説に耐えうるような根拠があるのか、あるいは劇画に過ぎないのか、部外者には見当がつきにくく切実さが国境を越えてこない。機能不全に親しむあまり邪をやれば効率が出来する短絡に落ち込んだように見える。
復職と足抜けの対立項にすれ違いが生じている。婚約者とともに共感の対象だった囚人の前途がロザリンド・ラッセルの復職如何にかかってくれば、彼らは排他的な関係になる。婚約者への共感とケーリー・グラントへの憎悪は比例していた。ところが囚人への共感はケーリーへの懲悪感情をカウンターしてしまう。喧騒の最中に物語は敵の居所を見失ってしまう。
恋愛の課題は上京が解決になるから高峰秀子にとっては計数力の欠陥に悩まされる方が応えるはずだ。計数の悩みが恋の従属変数に過ぎなくなれば彼女から課題が奪われる。高峰三枝子の粘着質な姿態を追ううちに鍛造されてきた叙体にとってこの展開は物足りなく、表現に相応しい内容が求められ哀感の迫力だけが暴走し、秀子はこの謎の力に混乱し屈する。
ハリソンに生来的に備わるダイコン性がブラピから感情の幅を吸収する。多すぎるトラブルのストレスに抗すべくハリソンの助けでマシン化した彼はホームステイの仕込むアンダーカバーのジレンマを軽やかに跳躍する。ギリギリまで病変を見せない銃創に対するカスケード的反応を以て、笑いと哀れを交錯させながらメカ化は完成する。
蛮性の圧によって人々から有能さを絞り出すのは暴走する無能力である。能力の滅ぶさまをストレスフルにするのは成立寸前の恋である。無能力のアクティヴさはよりによって愛人の目前で駐在(下元勉)に偽証の圧をかけ、究極の抽象物たる正義の抽出にかかる。無能力の憎悪と肉親の情は互いを参照し合い、判決の顛末を赤裸々にしすぎてかえって胃を締めつける。
横浜流星の挙動を誤解した三浦友和が誤解を真実にする過程で、青年愛の不穏は解消するどころかシスターコンプレックスへと増感する。官能は逆流して友和を卒倒させ江口洋介を乗っ取り筆を走らせ淫靡を具体化する。トラウマを競う不毛の争いにはまり込み薄幸に飢える清原果耶は、シスコンの余波を受け止めるべく不幸の感応力を先鋭化させる。
山賊がブルース・ベネットの印象を変えてしまうように、彼らはロバとともに話の中心で筋を統べるために、ボガートの神経衰弱のヒューモアに感応してしまい文字通り災難となってしまう。すべてに意味のある類の話だから事態の好転が徒労感に直結し、共感を呼ばない狂人の仕業は悲酸を受容する力を受け手に与え、諦念は嬉々として訓話に迎合する。
倒述で明白になっている犯人の心理に対して探偵役の腰が引け方が釣り合わず、誰の視点が話を宰領するのか不明なオフビートはイヤさを増感ではなく緩和する類の喜劇である。法廷物への気負いが逆流し人物たちが倒述の作法に適った振る舞いができないでいる。法廷で構造化された作者の諧謔は、異常者の紐帯から締め出され泣き言をいう母の凡庸さに憎悪の吐け口を見出すようだ。
権力の行使に酩酊する余りやつしをやる気がない。行政のディテールを要請する行使の欲望に応じて美術は重くなり、その暗いとばりの中で呼応し合う龍之介と千恵蔵の流れるようなナルシシズムは悲恋を筋に絡み合わせ、恋に同情する度合いに基づき人物を分類する。
フェロモンを放散すべくリスク嗜好に走る男は、戦場の体臭の中にフェロモンを追体験させようとする。臭気は映像には扱いかねるゆえにたちまち統率を逸し、血が騒ぐ女はミイラ取りをミイラにする。寝取られた男は寝取られの様々なバリエーションに次々と遭遇し、事態の収束を託された妹ジョディ・メイとウェス・ステューディの異種格闘技は見つめ合う宇宙に達する。
空想の誇大さはナンパを政治の大状況に絡ませて文弱が乙女心をキュンキュンさせる文系浪漫の邪念を受容させ、信憑性を得たナンパは空想を地上化する。オースティン・バトラーの容貌も手伝ってその着地点は『HiGH&LOW THE WORST X』と変わるところはないが、潔癖なハイローに比してこちらは異性の絡みに躊躇がない分、筋には社会的奥行きがある。
出生の謎に至りでかくなる話に青春活劇が立ちはだかり、情報開示の偶然依存を許容するべく筋の進捗を押しとどめる。その展開の伸縮は計算ではなく泥縄に近く、魔性なのか薄幸なのか、互いに相容れない訴求の根拠の狭間で男たちは翻弄されつつも友人中田青渚の聖性だけは見逃されない。最後に女の主観になり泣かせに入れば罪はカジュアル化し、その造形はいよいよサイコじみてくる。
序盤でソープドラマに終始して錦之助の戦闘力に対する言及を怠るために、山狩りされているうちに暴力に目覚めたように叙述され、錦之助の発動に並行して説諭をやる三國はよくいえば予言者的だが、自分の世界観に応じて錦之助の課題を創作したとする方が実情に近く、このランボーはトラウトマン大佐の自己愛に利用されたに過ぎなくなってしまう。
発端となった夫のDVと女の戦闘力の辻褄をあわせるために掘り出される埋没していた覚悟は、自己証明を求め筋を遡ってグレムリンを構成する。端緒のない円環構造に巻き込まれ、任務不明にもかかわらずわかった振りを強いられる叙体の悲鳴は、甲走るクロエのアニメ声がクルーたちのNG発言を抹殺していく教条性の恐るべき迫力となって木霊する。
過ぎ去った時代の相対視に基づく笑いは、フルートで発情する短絡のような生理学の裏付けによって道義的根拠を得ている。語り手の価値観を統べる教条的態度は、笑いの通底にある昭和のモラルに対する哀惜の背徳に耐えられなくなると、笑いの根拠を剥奪してキャラクターは事態の即応に終始し筋の見通しが悪くなる。裏方の技術職たちの機能的挙措のみが時代性の脱色によく応えている。
絵空事を現実に定着させるために少女が地質学者とともに掘り当てた家族史の地層には、80年代への郷愁が滞留する。その油田層から奔流する私の履歴書的な老人たちの感傷は幽霊たちを筋の傍系へ押しやる。
内務班批判をまともにやれば庶民嫌悪に堕ちかねない不安が常に酌量を働かせ、災厄はあくまで自分の色ボケに起因し批判者の資格はその正当性を留保され、木村功は客人待遇の寄る辺なさに困惑する。演出家の体育会系的生理は内務班の喧騒の中に解き放たれ初年兵にいきいきと制裁を喰らわせ、宙づりとなった木村の憤怒は下元勉の第三者的パーソナリティにだましだましガス抜きされながらも最後は爆発して然るべき場所を見出し、ついにインテリの庶民憎悪が花開く。
もはや公害になり果てた背中で語る美徳は演者たちを野放しにして、「兆治」は統制の利かないカオスの空間となる。七三分けの池部良を始めとして役者たちは外貌の記号に性格を依存し、芝居に幅のない彼らの狭間で細野晴臣は挙動不審に陥る。高倉健は物語秩序を統べる加藤登紀子の垂れ目の戦慄すべき包摂力に依存している。大原麗子・カラオケ狂の美里英二・佐藤慶はこの公害の殉教者たちである。
身を亡ぼす以外に身を立てる術のない状況がインポを流出させている。この経路の直撃を受け色ボケするオリヴィエは喜劇だが、奴隷たちはインポを流通させる機構に対して身を張る抗議以外に為す術を知らない。インポと正面から対峙するのはチャールズ・ロートン&ピーター・ユスティノフ。誇りを病気だと嗤いながら最初から男を断念した失意のメタボたちである。
企業総帥の段取り力は、遭遇する人々がいずれも都合よく奇行を競ってくれる酌量の空間を構成し、メタボに安んじて体を張らせて禁治産者の内面に肉薄しながらも実践倫理の枝葉末節なこだわりに収束してしまい、その実業家らしい吝嗇さによって面白逆噴射親子は完成する。
ブルーカラーがインテリ女を惹いてしまう邪念はスタジアムの件の体たらくにカウンターされる。いずれにせよ破局したであろうと予感させる気質とそこに由来する諦念は、ジミー大西の解像に乏しい表情を煮崩れない程度のゆで上げるような加圧を追及している。圧力鍋の底に残るのは拳の行き場に困る真相である。
明確に定義された悪に対する憤りはヴィラン物の体裁に出鼻をくじかれる。父の苦難がそこに加わればいよいよ収拾がつかない。男たちを交差させるのはジェニファーの自覚的すぎるセクシャリティであり、生理現象で感情を操る手管は大人と少年兵のあるいは軍人と民間人の間に生じるバディの共鳴をよく捕捉する。嘘くさくなりそうなレオの変心は、動機はともあれ利害の絡みの招いた誤算として扱われ、この趣向は割と最後まで守られる。逆に情でしか動かない父は筋の進捗を攪乱し続け、ランダムウォークで牡丹餅にぶつかったようなうさん臭い伝記物のオチに話を収束させる。
岡田茉莉子の野太い体躯が女学生コスを内破しそうな勢いで関東に上陸する。あわよくば時空を超えて漂流を試みるその巨顔は高橋悦史の尺八の調べに乗せられて日蔭茶屋の構造体に巻き取られる。占有否定のために重婚する細川俊之のヒッピー精神は巨顔を滞留させる構造体と折り合えず、時空を破って漏れ出るその惑乱は現代パートの伊井利子の顎を逞しくする。
人生は可変ではなく既定だと解釈するのだから、筋になりそうにない事をそれとして飾り立てるために末節でしかないトム・ハンクスは虚構の人為を創作し、かえって徒労感と不自立の嘆じを溢れさせる。伝記的紋切りの人生の転機を盛りまくる社会小説と筋の絡みは唐突であり、内向する性格造形をド演歌のデザインワークにどう向き合わせるのか指針がつけられないでいる。
社会的文脈にこだわれば当事者性はウォルブルクに取られてしまうだろう。社会を捨象すれば男たちは成熟とは無縁の永遠の思春期に迷い込み、そこで恋愛主義の罠にかかれば、推し仲間の連帯に沈殿するしかない。リヴシーの老け芝居に幼形成熟を見た若者は、色ボケを懲罰する衝動に駆り立てられる。
副官に身分保障があるのだから人身御供は成り立ちそうもない。中間職のストレスは裁量のなさに因るはずだが、窮地の元凶は自己管理の頓挫に収束していく。芝居は叙体とかみ合わず、ドキュメンタリー調にあって人目を気にしない芝居が続けば群衆統制は難を来し、忙しいわりに職場を放棄してバックヤードに集いたがる人々は筋にオチをつける力を放散させる。
おそらく受け手にはすべての怪音が聞こえないまま、女の主観で筋は進む。不可解でありながら既知のふりをするこの呆けはナメクジのような粘性で、飽和する怪音の予感させる空間意匠を圧縮し、オッサンを時のない眠りに誘う。距離感を失った耳元の怪音はどこか遠くの営みに音源を遡らせ、筋を俯瞰視するオチへ誘導する媒質となる。
人の生死に対する無常観のハードボイルドは、沼田曜一の嗜虐を増幅させてタメを作り、多々良純の善性を抽出する手管となり、桂樹の聖性を完成させると、勢い余って高峰秀子を父子関係から孤立させて、拾ったのが雄三だったというネタ配役の災厄を引き起こす。
やって来たのが劇画的人物なのはお約束だが、他の人物も紋切り芝居に終始するから男の劇画度を図る基準がない。この相対性は後を引き、杉本哲太編が仕込む、本編から遊離するほど長すぎる伏線によって膨張した二部構成に対する期待に、劇画人物が劇画な挙動をするだけの顛末は応えられず、ひとり劇画を乗りこなす斉藤由貴の奮戦はポエム一家に遭遇した市民の災厄を喜劇寸前にする。
妻のキャリアが夫をインポにする橋田寿賀子ドラマは、妻の性嗜好に妨害され女の欲求不満を家庭崩壊に導けず、夫の方も盗作という留保によって体裁が繕われ憎悪の水路は閉塞し、宙づりとなった感情は盲人による消化試合と戯れながら、虐待されても愛さずにはいられない動物心理へと化学変化する。
エスカレーションしてしまえばどの分野であれ世渡りできそうな行動力が無自省に由来する嫌悪を克服する。彼は別な形で自分を正しく認識しているのだ。しかし内省の発見に終わるオチは本編とかみ合わない。自己査定の正しさはあの病的な行動力をもたらさないだろう。
流行り不幸に貪欲な商業精神は自然の摂理には敏感に感応するのである。男に放っておかれるはずのない杉咲花がクジラの孤立に我が身を重ねる嘘くささを男たちを悩乱させる女難劇(キャスト的にはまたかであるが)でフォローするのはよいとして、これが流行り不幸の諸々と乖離している。通俗的な自然観にはLGBTが淘汰されない理由がわからないのである。
すべては人的資源の無駄である。不毛さを糊塗すべく広報とブンヤは徒労ではない証明を求めて紛争し、マンパワーの投入に贖罪を見出した官僚主義は喜劇的なほど罪深い生産性に低さに至り、14年間監視という幻想的な機構を開発する。薄幸に依存するストレスの宴は家庭内紛から老人の交通事故死へとそのディテールを積み上げ、オッサンたちの面貌を起伏豊かにするが、吉岡秀隆だけは例によって時間を超越している。
謎の社内政治にのめり込み業務で発揮すべき能力を浪費する佐藤浩市。その割に物分かりがいい三浦友和のせいで事は伝言ゲームに過ぎなくなり、労働の意味がますますわからなくなる。永瀬正敏が取り残された静止した昭和の宇宙は二つの相において構造化されている。吉岡秀隆の老けそうにもない肉体であり、広報室とブンヤたちが巻き込まれた官僚主義の不毛である。吉岡は苦し気に老け芝居に走り停滞空間を脱しようとするが、ストレス依存症の筋はブンヤ内の力関係にたちまち引き寄せられ、何を怒っているのかわからない彼らの挙動を劇化して、動物園と化した会見場で柄本佑をおびえさせる。
冒頭から8分かけて事件を起こしてもまたすぐに関係のない回想が始まり動機が消失していく。未成熟な人間に惹かれてしまう男の特殊性癖が本来ならばフィクションを成立させる要件に欠ける状況をかろうじて興行化している。空論も甚だしい女たちの自我の弱さは破綻を嘆く男の心理に接近させてくれず、私情に利用されたホスピスの迷惑が際立つ始末である。
無産者の負い目を共有する男たちはオカルト集団心理の活用で課題に対応する。自己言及されるように怪奇は逆転していて、虚構から実体を組み出せる証明の手段として肥大化する。その物証の最たるものは山アをオカルトから引き戻した笛の音である。膨張するオカルトの宇宙は時や場所を越えて流通する芸の効用と重なり、男の無力の落としどころとなる。
壮年性脱毛にメタボ腹と二重顎。肉体と精神の荒廃に流されるまま昼サウナに赴き会議中に居眠りするオッサン密着24時。その鄙びた時間感覚は真相にはたどり着くがとうぜん手遅れとなり、捜査は犯罪の背景説明しかならず、何をやろうが結果は変わらない徒労感はオッサン生態観察にますますのめり込み、修羅場にあって人事不省に陥ったメタボの救護活動に倒錯的に長い尺を割き始める。
不可能がない超人たちに過程が重要ではないとしたら何が狙いなのか。誤認によって贖われる過程軽視は自責を転移させる。交通事故の自責が誤認により地下鉄事故から他責性を奪う。殺めた相手もまた犯罪者であるから、その自責には気安さがあり立ち直りは早く、誤認には大した意味がない。因果の寓話も雰囲気に終始する。
ポルノを成立させるのはポルノを拒む矛盾の運動である。客の回転率を上げるために経済合理性を追求する技術志向は、愛が器質による実証なしには成立しないと確信する男の物化論に危険なほど近づいている。技術の追求の先にあるのは彼女らが忌避すべき精神の隷属にほかならず、その逆流は女のジレンマを客観視してポルノを成り立たせてきたサブキャラたちの人生にまで波及してそれぞれの課題を抽出する。池を回る徒競争が小宇宙を完成させるのだ。
母の抱えた課題を代わりに解決すれば自ずと母の呪縛は消えるはずであり、さもなければクリエイターの自慢話を越えられない。目前の異能者が何物にもなれなかった自分を糾弾し自由と独立への恐怖を植え付けた。その残留思念は遺された人々の行動によって図らずも体現され、ある意味で報復を果たしている。餃子の製造にどれだけ尺を費やすのかあきれたとき、母系社会の喧騒は母の同調圧力に近接してはいないか。
チート国家には工学の苦悩がない。観測に値する苦悩を技術の課題に見込めないのなら聴聞会でも開いて良心を構造化するしかない。メガデスへの責任は事が大きすぎて抽象を越えず、トルーマンを苛立たせるように自己陶酔との区別がつきそうもない。罪の所在探しに熱中すればそれは他人に飛び火して、妻をノイローゼにしてダウニーの立身出世を危うくする。彼らの課題の方が具体的な分よほどジャンル映画の筋に相応しい。
ループの試行錯誤が訴えるのは人々の利他性である。彼らの尽力はリニアにはつながらず、オチでピースを一挙にはめ込む体裁なので、それで少年の成長譚をやると無駄死の感が濃厚になる。妹のオカルトがサルベージするのも兄ではなく父の方である。筋の経済性に気をまわし過ぎて帰結に振り回されていて、地下室のガジェットが八百長めいてくる。ただこの八百長には愛嬌がある。
古代人のような幸運への恐怖症は運の持続が保証されない未決囚の状態に耐え切れず、自罰に走るか物証そのものへのこだわりに帰着する。自分の運は自助の産物だと確信するためにあえてlazyになり、様々なすれ違いで運を外化する手管はミュージカルの物量で80年代の文明を構造化する。その太平の世は卒業と称される終焉の予感に脅かされているが、そこで男は女たちの度量と官能に究極の物証を見出すことだろう。
器量に主体性を奪われ投げやりになる桂木洋子に比して望月優子には体を許せば何とかなる気安さがあり、絶望の担い手としては軽すぎる。無能力の直視に耐え切れないために動物化に走る上原謙の工芸的な思考回路はホラーだ。彼は自然に流されるだけではどん底にすら至れない女たちのいら立ちを逆なでにする。自然の呪縛を振り切るべくホームを疾駆する望月を捕捉した、語り手の嗜虐心がそのまま実体化したようなあの絵面の構成力は人間賛歌と見分けがつかない。
感情を顔芸に依存し欲情に応じるままに逞しい顎を伸縮させてやまないメグ・ライアンは、真意がダダ洩れなために恋愛の力関係において劣位に置かれている。彼女がオーガズムという意図の最たるものを公衆の面前で爆発させたとき、そのむきだしになった天然によってかえって意図を失った自然そのものと化し、各パーツを振り回す放埓な面相が男には手に負えない筋肉の波となる。
ドウェイン・ジョンソンには動機が希薄で大魔神のように女には恭順する助平本能以外に行動の指針がない。JSAは相手の弱い動機に動機づけられているために、助平と呼ばれる情実の招きかねないカオスへの憎しみは理念にとどまり、自らが準拠する正義に実体を与えられず、その弱さを民族主義に突かれても個々人の負い目で動機を粉飾するのが精一杯で、相手の正義を論破する術がない。
カットを割っていく映画の叙体が旧劇の芝居を持て余すようになり、やがてカットを割れなくなるのはいかにも理念の先走りで根性がなく、叙体が吉右衛門のダメさと同期する。造形と叙体の互換は岩下の一人二役をバッファに使い本妻が金策に協力する元々不可解な筋を黙々と男を片付ける黒子たちの身体能力の助けを借りながら狂愛に組み替える。