映画感想 [2401-2500]

 元禄忠臣蔵 [1941-1942]
 監督:溝口健二 製作国:日本

元禄忠臣蔵  再興と討ち入りをトレードオフにするような狂人の発想を話の理路に押し込むのは美術の構造体に他ならないが、構造物に依存する叙体は諸所の不条理をそれとして認識させてしまう。琴の爪が未練に負けてしまったしくじりと見えてしまえば、しくじりの過程は邪欲との戦いとして新たな光を得よう。

 監督:ロブ・ジャバズ 製作国:台湾

哭悲 / THE SADNESS  ゾンビを人間性の喪失ではなく解放だと解釈するヌーディズムのような世界観では、ゾンビになればたちまち言語は明瞭になり体が動くようになる。人々は同じ人格に収斂しながらも自分が失われることはなく感染した方が利得大なために恐怖は皆無であり、もっぱら肉体損壊の迫力と政治喜劇に終始している。

 関心領域 [2023]
 監督:ジョナサン・グレイザー 製作国:アメリカ・イギリス・ポーランド

関心領域  ノイジーな音響意匠が記録映画の叙体を要求する一方で、暮らしの細部に審美を見出す趣向は生活のディティールを捕捉するために静物画を要求する。釣り合わない情報量によってミキシングの不始末を思わせるほど充満した潮騒のようなざわめきは、絶えず今ある生活の破局を予示して中産階級の暮らしをかけがえなくする。物資自体が伝達してくる好ましさを打ち消すために花壇の後背で銃声を放てばかえって画面から政治は消えてしまい、玄関先でもみ消され放置される吸い殻の方がよほど気になる倒錯がはじまる。

 監督:ガース・ジェニングス 製作国:アメリカ

SING / シング: ネクストステージ  自助否定の世界で変化をもたらすのは気づきである。演者の課題はリミッターの外し方であり、ゴリラで問題となったのは教授法のまずさ。ゾウは恋によって本来の演技力に達する。自助を厭う貴族的美徳はオオカミ社長の令嬢にもっとも体現されるので、彼女に配役を奪われたとき作中で唯一といっていい人生的な課題にブタは襲われ、才能は気分によって左右されるので課題は後を引かない。外乱に即応していれば構造が訪れると信仰する現場主義は社長を殺人鬼にする。貴族主義的世界観においてゾウはバイトに欲情できるのか。これも引っかかる。

 ハスラー [1961]
 監督:ロバート・ロッセン 製作国:アメリカ

ハスラー  油脂とヤニにまみれた徹夜明けのオッサンの皮膚感覚が叙体の質感からこぼれちている。スコットは徳論のアプローチで質感に迫り、人間性は精神の物証を求め肉体の破損をその端緒とする。成長は内面の不可視で表現されるから、しだいにスコットの視点が言及されるようになる。パイパー・ローリーは彼にとっては女難にすぎなかったのだが、その解釈こそ徳論の終着点である。

 監督:デヴィッド・ロウリー 製作国:アメリカ・カナダ・アイルランド

グリーン・ナイト  偶然とオカルトでバラバラとなった現場を視界不良と劇伴が癒着させ、その要約のテンポが自助を概念化する営みと対立している。女たちは家父長を誕生させかねない移動を禁じ、男は子宮の檻の中を巡回する。自助の実感は夢の無時間性に委託され、枕中記が要約のリズムと和解する。

 かくしごと [2024]
 監督:関根光才 製作国:日本

かくしごと  少年に記憶がなければ然るべき筋に相談する案件に過ぎなくなる。児相のマンパワーを問う技術的課題をフィクションに値する題材にするために、野趣深い法令遵守意識を前提として創話が営まれている。記憶論への固執が動機の不備を明らかにするつらみから介護や痴呆症が美化され、動機の不備を繕うはずの過去は少年を慰めの玩具し、早熟を強いられた子どものダンディズムがタガの外れた母権を〆る。

 路傍の石 [1964]
 監督:家城巳代治 製作国:日本

路傍の石  運に左右される境遇は見せかけであり、不条理に試され敗北した淡島千景が少年を階級再生産のループに束縛しているのだが、上京できるのなら奉公人のつらみが回した教養小説は無効となる。むしろ女の徳論が子の踏み台になれるかどうか母を試し、頑張る男の子に向けられるメス顔の晴れ晴れしさに最後は逢着する。

 ソウルの春 [2023]
 監督:キム・ソンス 製作国:韓国

ソウルの春  ミドルクラスへの憎悪は画面をニュー新橋ビル変えてしまう全斗煥の魔術的外貌にいら立つあまり、理念的な裏付けを見失っている。憤りが生理的要件にリンクするために根性論が幅を利かし、肝を練る見せ場を設定すべく精緻化される手続き論は、根性論を普遍化するはずの政治的理念を不活性化する。不幸は無差別に解き放たれ万人が根性が試される。

 監督:タナダユキ 製作国:日本

マイ・ブロークン・マリコ  時を遡行したい課題に童女形態と夜行バスで添い寝するアイデアが対応した時点で目的は達せられている。あとは文系の邪念濃厚な窪田正孝の特殊キャバクラに過ぎなくなる。不憫抽出に力むあまり文脈が失われイメクラ化したのか。人間の嗜好に対応して分裂した人格を観察しているだけなのか。状況をイメクラにしてしまう窪田の徳性は昼間から釣りをしていられる経済力とかかわりがある。奈緒はそれを善人のもたらすプレッシャーとして先約的に言語化する。

 監督:谷口千吉 製作国:日本

独立機関銃隊未だ射撃中  大人たちの頼もしさには留保がある。三橋達也の勇気は根拠のない経験則に基づき、銃後の家族が佐藤允の情緒を乱している。達也は途中退場で肝試しを免れ、允の情緒の乱れは彼の攻撃力を脅かさない。ソ連側も気をやるように、允はただ湧き上がる不可解な意気地に直面して困惑する。彼は去勢による精神的な死を予感し、人間の景物化は自分たちがモブキャラではないと信じた達也を反証する。景物化に過程がないのは彼らがはまったステイルメイトの反映である。生きてるように見えてすでに死に体だったのだ。

 監督:メル・ブルックス 製作国:アメリカ

ブレージングサドル  虚業者の自嘲に動機づけられた啓蒙はその知性主義を文系邪念として具体化させ、長尺を持たせるマデリーン・カーンの技術力は男の器質に屈し、殺人マシンらとの邂逅に邪念と啓蒙の落としどころが見出される。境界知性の群衆を揶揄して成り立つ啓蒙は自壊の危機にさらされているが、与太郎の生理を瞬間を生きる営みとして評価すれば、その解釈は虚業の在り方にまで及ぶだろう。

 監督:阪元裕吾 製作国:日本

グリーンバレット 最強殺し屋伝説国岡[合宿編]  アンチモラルの笑いを追求して作品宇宙の体系化に邁進すれば、背徳は宇宙のお約束に堕する。人の好意を誘う手管は、好意を惹く生理には一定の形があるために女たちの個性を失わせる。そもそも描き分けができないために彼女たちは誇張された性格から出発せざるを得なくなり、その類型は各々が抱える人生の課題を希薄にする一方で、大人たちはただ佇むだけで人間を提示できてしまう。しかしそれもモラル否定から始まった設定がモラルに収斂した結果なのである。

 226 [1989]
 監督:五社英雄 製作国:日本

226  真崎丹波と杉山仲代の組み合わせで沖縄決戦の意趣返しをやるネタ配役に根津とモッくんが90年代の風を運べば時代感はノスタルジーに巻かれて混迷を極める。専ら大人たちの肝を試すはずの政治スリラーを略し青年心理に向かうのなら早々に手持ち無沙汰となる。竹中だけ回想を入れない正直な審美感は青年たちがぶち当たった、有権者の軍隊を私用に感応させる困難の究明には興味を持たず、敗北に耐える閑雅な時間は絵力を性欲に転換するばかりで、その恐るべき集団色ボケは良くも悪くも五社らしい悪趣味を達成する。

 監督:黒澤明 製作国:日本

素晴らしき日曜日  物量であふれかえる郷土博物館テーマパークのような時空とそこを駆ける人間の運動量の中で貧窮は見失われ、沼崎勲の失意は浮浪児の早熟やキャバレーの誤解とすれ違い次々と空回りする。失意が不正への憤りを裏付けにできたとき音楽堂の空振りが空回りに照応し、中北千枝子が不感症からよみがえる。

 監督:フレッド・ジンネマン 製作国:イギリス・アメリカ

わが命つきるとも  脱聖して図らずも啓蒙化した王権と法律家の対比は今となっては対立軸が見えにくく、抗争は生理化に根拠を見出し自尊心は男たちの性愛のこじれへ流れ込んでいく。その際、法律家の生理化した属性は監獄で老妻を口説き落とし、能力を伸展させる。

 あのこと [2021]
 監督:オードレイ・ディヴァン 製作国:フランス

あのこと  現在とのつながりを欠いた小宇宙を構成するべく人に内向して景物を省く叙体が課題を現在から分離する悪循環にはまり、器質的嫌悪感の迫力に依存する冒涜の感性に身を売る中で災厄の中に胎児の喜劇のような生命力を発見する。その子宮の悪魔は人々の甲斐性を可視化する工程において期待と失意の往復運動に女をたたき込む。誤誘導の最たるはアンナ・ムグラリスのうさんくさいセクスィヴォイス。

 Keiko [1979]
 監督:クロード・ガニオン 製作国:日本

Keiko  口語体と景物の饒舌な情報量を整理して文化を実装する過程で人間の内面が密かに脱落している。フィクションにふさわしい風致に達した景物の満たす悲恋の社会的要件は、男たちの荒涼とした前髪が父権の記号と化する柔和な政治学でなければ捕捉できない程その構造は微細であり、だからこそ女の内面が見えてなかったと気づかされる詐術を奏功させている。

 監督:ジョン・ランディス 製作国:アメリカ

狼男アメリカン  都会者が属性の招来する好意によって田舎でモテる邪念をオフセットできるのは器質の叛乱である。報復を受ける権利を得るために男が事件を度外視して日常に固執した結果、器物は生体を拘束できる物量に達し、ピカデリーサーカスの円環構造に人を固着させるような、あるいは動物に還る工程でそれとはかけ離れた全裸の幼体が動物園を疾駆するような、遠心力となる。

 監督:トッド・フィリップス 製作国:アメリカ

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ  精神病理による矮小化に反感を抱かせるような流れは、凡人が色ボケによって儚い超人化を遂げる主旨を危うくしている。色ボケ24時なのかガンギマリなのか方針が定まらないのだが、色ボケとジョーカーは性質的に両立できず、曖昧なままにすれば法廷で凡人に戻った時にはその感じが伝わってこない。凡人に戻るリスクは失恋である。これも女の聖化の手続きを怠り、ミュージカルの詩で事後説明するばかりでは、ガガはやめておけとしか言いようのない距離感を克服できず、失意の効果が出てこない。すべてを失って初めて人格とかみ合った状況がその境遇における処世法を泣訴するも、それは追及されないまま終わる。

 監督:ジョエル・コーエン / イーサン・コーエン 製作国:アメリカ・フランス

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌  音は形をもたないために楽曲の評価はF・マーリー・エイブラハムの眉間に浮かぶシワのように肉体で評価される。精神と肉体を媒介するのはキジトラの流体筋肉であり、死者の作り出した小宇宙に監禁された男は、波のように遁走する猫に導かれ当て所もなく灰色の景色を徘徊する。車中では猫の視点は人と同期をはじめ、逃亡するペットと居眠り運転の二大スリラが激突する雪中行軍に至る。手に入るのは挫折を刻印するための肉体疲労である。

 笛吹川 [1960]
 監督:木下惠介 製作国:日本

笛吹川  反生産行為者を次々と懲罰する家政学の悪意は、合戦の物量に魅せられ社会小説を裏切ろうとする。観念の恐るべき感染力は、あくまでマイクロな家政に執着する高峰をだからこそ、当人を意識させぬままフェイタリズムの奔流に合流させる。

 日本列島 [1965]
 監督:熊井啓 製作国:日本

日本列島  怪獣が出ないゴジラ映画であり、殊に景物のディテールと熊井のレイアウトに北米コンプレックスが絡めばシンゴジの前兆が方々で観測される。専ら事件解明に奔走する二谷英明と鈴木瑞穂の傍らで困り顔を晒すばかりの宇野重吉が関係する女子を次々と遭難させる死神と化しむしろ事件を延焼させるに及んで、不在だったゴジラの正体が露わになる。芦川いづみはオキシジェンデストロイヤーである。

 木靴の樹 [1978]
 監督:エルマンノ・オルミ 製作国:イタリア・フランス

木靴の樹  地主の搾取に由来する限界状況が歳時記を家畜の健康に人生が左右されるスリラーにして、事態を合理化すべく人々の宗教観は神の規範意識を先鋭化させる。その荒ぶる神は長期展望を推奨しながら自らそれを潰す不条理に走り、時に詐欺まがいの托卵で出産制限を無効化し、階級の再生産から逃れようとする試みを砕くのである。

 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 製作国:ドイツ

フィツカラルド  計数力がオペラ狂の動機から解離し、クラウス・キンスキーは頭髪の形状に顔容を同期できなくなる。カルディナーレは肖像画を嗤いながらその矛盾を指摘する。オペラに神話を接ぎ木して動機を正当化するのは土木の物量であり、それは計算された誤算だからこそ労働者の不明瞭な動機づけと労災が経営スリラーを催す。

 私が棄てた女 [1969]
 監督:浦山桐郎 製作国:日本

私が棄てた女  女の度胸は発見されるのではなく、人格改変の産物にすぎない。社会時評に由来する景物の情報量が煙幕となってこの創話の恣意をはぐらかしている。微妙なる均衡は作者のエゴがぶち壊しにする。いかにも遠藤らしい、文士が頭の中で考えた天衣無縫の聖女におぼこが仕上がれば、頭では嘲笑できても体は素直にその文士の創作物に反応してしまううれしさと哀しさがあり、女の天然が男を狂わせる魔性だと解釈されてしまえば、メリトクラシーの怨念に凝り固まった社会時評は解体され、のびやかになる。

 監督:ハワード・ホークス 製作国:アメリカ

リオ・ブラボー  友情を性愛で捉える合宿映画は、ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンの関係性を扱いかね、後者の加入で予示される三角関係の不穏を誘拐で済ますような去勢の感性を発起する。そもそも臀部に気をやるウェインの歩き方から不穏である。アンジー・ディキンソンが発情してもラヴコメは男の不感でダラダラとし、執行官が永遠にやって来ないような、あるいは来てほしくないようなビューティフルドリーマーの低徊が警察24時の疲労を再現する。

 監督:篠田正浩 製作国:日本

はなれ瞽女おりん  撮影技師の邪念が盲人の屋敷にランプをともし、演出家の邪念は岩下に精神と肉体の詐称を強いて座りが悪い。瞽女の家事は触覚に依存して静物に帰着する運動の端緒となり、岩下はその運動にともなう自律性の喪失を性的に解釈する。彼女は舎房の視察孔に成形され、静物そのものへと然るべく還っていく。岩下が天然娘を演じる造形的不穏を嗜虐交じりに受け入れたのは髑髏の形状的ヒューモアである。

 麻雀放浪記 [1984]
 監督:和田誠 製作国:日本

麻雀放浪記  高品格の死に際してだれも人倫に走らない気品は、社会時評を損ないながら大竹の魔性を無効にして、文七元結の行き場を失わせる。経済観念の失調はドーパミンの出力に差し障る。そこで負のスパイラルに向かうでもなく均衡の静寂に淀んでしまうのはやはり気品であって、廃墟という敗北の実証によって非人倫と社会時評を統合する空間感覚はその均衡の産物に見える。

 監督:田中登 製作国:日本

安藤昇のわが逃亡とSEXの記録  ニューシネマの青春劇をオッサンにやらせるグロテスクが、社会時評のために体を張る邪念へ男を走らせている。肉体を媒体化する感性が逃亡の趣意をセックスのための滞留にすり替えると、筋の方向性は見えなくなる。安藤昇の声の軽さに肉体と筋の齟齬を見たのか、敏感になった音響意匠は夏の生活音を立てながら、小池朝雄がピーター・フォークに聞こえはしないかいたずらに不安を掻き立てる。おそろしいことには、この闇鍋を統合する視座が存在するのである。

 監督:ホアキン・ドス・サントス / ケンプ・パワーズ 製作国:アメリカ

スパイダーマン : アクロス・ザ・スパイダーバース  近代的自我とは逆行する家族観がカミングアウトにこだわるあまり、事はコスプレ趣味の恥辱感に矮小化する。父と宇宙を天秤にかける肥大化した私情は、破廉恥なほど緩み切った空間秩序の元凶だ。子育ての葛藤は今や贅沢病であると伯父さんと闇落ちした自分は正当にも指摘するが、成熟を記号でしか知らない人間によって構想された彼らの顔貌は笑いでしかない。何がこの宇宙を取り戻すのか。最後に見出されるのは血縁を克服した連帯の神話である。

 書かれた顔 [1995]
 監督:ダニエル・シュミット 製作国:日本・スイス

書かれた顔  歌舞伎をフリークショーとしか解せないドメスティックな脊髄反射に文化相対の作法はとうぜん反発する。クロスジャンルは越境ではなく漂流の結果であり、その弛緩に身を任せた玉三郎は形式主義者たる役者の本分を発揮して、言動をどこまでも軽くする。脊髄反射とリベラリズムはもっともフリークな大野一雄パートの劇伴に制空権を奪わせることで妥協に至っている。

 陪審員2番 [2024]
 監督:クリント・イーストウッド 製作国:アメリカ

陪審員2番  バーに入って酒を頼んだ時点で予後はすでに暗く、その後の災厄に際して男が決められるのが宇宙崩落のタイミングと様態に限定されてしまえば、話は免許更新講習あるいは自動ブレーキの技術的課題を扱う啓発教材にすぎなくなる。自由を行使するストレスにさらされるのはトニ・コレットであり、ニコラス・ホルトの自由のなさは演出的前頭葉を失い自動化して久しい現場の悲鳴だと邪推するのだが、自動的だからこそ女の趣味を隠さない配役と去勢された男の生態に演出家の生理が窺えるのである。

 監督:周防正行 製作国:日本

Shall we ダンス?  草刈民代の質量に乏しいアンニュイには精神的課題の含みがあり、これに同伴した役所の練度は最後まで見えにくく、場の凝集力の指標になっていない。代わりに柄本明の行動主義的気性が場の中間共同体のような性質を開闢する。練度と凝集力の構造的エラーは大会のあとに長いフラストレーションを招き、柱に向かって足さばきを空転させる竹中直人の行き場のないストレスがその予示である。場の凝集力とは何なのか。役所は見えないはずの場の呼び声を江古田のホームから発見する。初めてそこから草刈を見上げたとき、彼は場に呼ばわれていたのだった。

 儀式 [1971]
 監督:大島渚 製作国:日本

儀式  社会小説を志向する性癖の記号群は機構そのものに欲情する国粋フェチに至り、男は枕を相手に初夜を演じる。この雑魚寝一家は佐藤慶のノリの軽さも相まってリベラルな家庭としか言いようがない。その余裕は社会小説の邪念を笑いで紛らわしながらノスタルジーの遠近感を狂わせ、遠くへ来てしまった嘆じを全くもたらさない偉業を達成する。

 雨の訪問者 [1970]
 監督:ルネ・クレマン 製作国:イタリア・フランス

雨の訪問者  薄弱さの多元的な構造は女をパワハラ気質に惹かせながら、男たちを支配する蛮勇をも彼女にもたらし、特殊な母娘関係は娘の魔性と向き合う母の距離感だと解される。ルネ・クレマンのこの高踏心理は場違いでもあり、ブロンソンの視点になれば分節化される状況は女の視点に切り替われば霧にまかれ、全編が話の枕のような見通しの悪さに見舞われる。

 監督:クシシュトフ・キェシロフスキ 製作国:フランス・ポーランド・スイス

トリコロール / 赤の愛  失恋のトラウマで性癖がゆがんだ老人の出歯亀に若い女がのめりこむ三文小説のような邪念に女が忠実であれば彼女は奇人でしかなくなり、その天然と徳が老人(作者)の目論見を裏切るだろう。その裁断は撮影者によって酷使された空間の構造疲労へと拡大し、ストレッチの悲鳴として女の身体に返る。宇宙はやがて広告幕の収縮に巻き取られ、海峡を騒がすことだろう。

 少年 [1969]
 監督:大島渚 製作国:日本

少年  景物の情報量に由来する異国情緒があり、他方で観光地が異世界の求心力に抵抗する。観光地は時間の滞留だからだ。この対比は役者渡辺文雄の造形論でもあり、イケメンのインテリでありながらメタボである彼は、養豚のようにひたすら食って寝て違和感に奉仕する。ハイブリッド種族の彼らは観光地でしか生息できず、景物と交通の密度に流浪の元凶を見た少年は、現状を宇宙人のパノプティコンと解し、雪で情報量を覆うアイデアを着想する。整理された情報から出てきたのは少女への性欲である。

 監督:吉村公三郎 製作国:日本

安城家の舞踏會  気品を男性性の欠乏として解するしかない野太い人間観は、野人の原の顔面を笑みで固まらせるばかりである。耐震性に危惧を抱かせる書き割りのような居間は保有欲をそそらず、家への執着をわからなくさせる。無効化された動機で安定しなくなった滝沢の情緒は現場を流動化し、女中も運転手も階級差に性欲をなえさせるどころかむしろ爆発して、そのラヴコメすれ違いスリラーの動線を確保するのが、量塊の欠いた広間なのである。

 監督:シャーロット・ウェルズ 製作国:イギリス・アメリカ

aftersun / アフターサン  特殊性癖による個別事例が少女のハラスメントによって膨張し、大人になれなかった男の闇が児童ポルノを圧倒する。大仰な記号だけで内容が不明な傷心は、過去と現在をつなぐ曲面上で視認される。デジカムを経由する彼我の視点はその局面を周回するだけで決して交差しないと確認した男は、郷愁と呼ばれるもっとも普遍的な傷心を残置して立ち去る。

 狩人の夜 [1955]
 監督:チャールズ・ロートン 製作国:アメリカ

狩人の夜  川下りの末に兄弟が発見した善と互換する知性は、サイコパスを自律性喪失の症例に通俗化する。川辺の線形はそもそも芝居が違う異種族を架橋するために書割寸前の遠近法を構成し、そこであろうことか二人は唱和して、ホラーコメディを訓話に落とし込むのである。

 新宿泥棒日記 [1969]
 監督:大島渚 製作国:日本

新宿泥棒日記  状況劇場が美人に対するゲイの悪態にしかならないようなくやしさを鎮める価値観は、時の氷結した紀伊国屋の文明空間に埋もれていて、田辺茂一は台詞が言えないから、その神殿で横山リエにセクハラされているように見えてらしくない。田辺の対極にあって台詞の言える唐十郎の方は締まりのない腹をしていて、そのだらしなさは大穴を開けた西口の猥雑な動線と提携て、若者たちの破壊衝動を煽る。

 監督:ブルース・ロビンソン 製作国:イギリス

ウィズネイルと僕  パブでできた宇宙と60年代文明の狭間にあるのは、薪とジャガイモと鶏の快適な煉獄である。人の足をひっぱる代物でしかない様々な人々の失意は、顛末を階層脱出に見せながらも、長い青春の牢獄に囚われたグラントの視点によって、一時代の終焉が青春の淡い喪失感と通じてしまう。リリカルな複眼を許容したのは、ほかならぬパブと60年代の宇宙観の相違である。

 監督:神代辰巳 製作国:日本

恋人たちは濡れた  三波春夫と都はるみの明るい旋律が情報の閘門となって失恋を確証させず、ただ重い気分だけを通用させている。人生には後がないその気分は、魔法のようなダッシュボードのミカンと正露丸その他の重々しい喜劇として感知されている。恋人たちは持続の危うい馬とびと回転自転車を駆使してすでに終わっている恋のありかを追跡し水没に至る。

 監督:アレックス・ガーランド 製作国:アメリカ・イギリス

シビル・ウォー アメリカ最後の日  その戦争は電力や流通を寸断することがなく、それっぽい状況が刹那的につぎはぎされるだけで全容は見えない。社会経済の実体をストイックなまでに脱落させた戦場は、マスメディアがFPSの視点を映画に導入するツールにすぎなくなるほど無常である。この人工空間にあって特異点となるのは疫病神と化するケイリー・スピーニー。彼女が大人たちに次々と災厄をもたらすに及んで、ビデオゲームのような戦場の起源が明らかになる。内戦はむしろ女のキャリアのために勃発したのだ。

 監督:ダニエル・クワン / ダニエル・シャイナート 製作国:アメリカ

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス  多元宇宙は目的に向かって試行する手段としては使われず、家族に課題をもたらした父権の欠損を隠ぺいするべく、むしろ目的を拒む遠心分離機として作用している。父と娘の関係性が不明なように、夫婦関係と母娘関係は整理されず乖離したまま放置され、問題の所在は目的不明な試行を空転させるうちに発見される。多元宇宙が解決手段として意味をなさないために、結論の道学臭がただことではなくなる。

 監督:小川紳介 製作国:日本

三里塚 辺田部落  賛成派と反対派の入り混じるモザイクのようになった村々の政治構造に深入りさせないのは語り手の立場であり、話題はもっぱら持久の技術論に終始する。寄合が大量のたばこを浪費するだけの感想共有の場にすぎないのであれば、主題は村のライブラリを兼ねる公民館そのものとなる。融通無碍のその空間に滞留する村の事業継続のうっすらとした危機は、村落共同体が重荷だと吐露する青年を経由して念仏講で正体を現す。危機は究極的には宗教の不在にあり、補足されるのは闘争を超えた一種のアノミーである。

 監督:ジッロ・ポンテコルヴォ 製作国:イタリア・アルジェリア

アルジェの戦い  火工品の魔力に取りつかれ中佐殿のダンディズムに結実した記録作家の性質は、血の騒ぎに背徳を覚える運動家の部分と折り合えなくなり、せめてもの償いとして捜査の過程に対するこだわりを禁じている。対話劇になればカット割りの指針が定まらなくなるように、全体としてつかみどころがない。

 監督:ジョナサン・ゴールドスタイン / ジョン・フランシス・デイリー 製作国:アメリカ・カナダ

ダンジョンズ&ドラゴンズ / アウトローたちの誇り  物理学を拒み物証を無効にする魔法がアトラクションを織り上げ、それがソフィア・リリスに肢体を翻弄したとき、ソフィアのアイドル映画は官能という物証を得る。魔法で死生観が弛緩するからこそ、クリス・パインは誤導にはまり込んでいる。下手にサルベージの見込みがあるから、未練が持続している。本当に自分が欲していたのは未練を断って前に進む方法だったと彼は知るである。

 監督:森田芳光 製作国:日本

の・ようなもの  秋吉久美子の内面はその行動を観測して推測する以外に知りようがない。そのために彼らの別れが収納できる意味合いは広漠となり、人生の予後の悪さをぼんやりと男に含ませる。道化の内省を捕捉するために景物の情報量も私小説のように膨張し、それはいつしか絶頂に達しつつある文明そのものを体現している。男がおこなうのはその多幸感の中で青春をひっそりと終らせる対位法である。

 監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作国:アメリカ

フェイブルマンズ  献身的な男に飽きてしまう類型的な話に対して、彼らの息子はせわしなく反応する。男同士で連帯しようにも実務家の父はフィクションの効用を認めず、境遇を受け入れられない母の未熟さは男たちを翻弄してやまない魔性と解釈され、母をいったんは拒んでも息子はマザコンに復帰する。というかミシェル・ウィリアムズだからとうぜんか。プラムの件で立証されるフィクションの効用は、家庭の解体原因を父の性質に求めている。フィクションの素養の有無が漂流する母の行方を決めたのである。

 監督:ロブ・ライナー 製作国:アメリカ

プリンセス・ブライド・ストーリー  ケイリー・エルウィスのホストじみた芝居に最初は笑っていられても、ウォーレス・ショーン一派に好意を誘う手管が効いてしまえば、最初の決闘ではだれを好きになればよいのか決めかねる。よしんばその混乱が呉越同舟のタメだとしても、恋敗れるクリス・サランドンとホストとはやはり対比の構図にはまらない。男たちの背景を語りつくすほど埋没してしまうケイリー・エルウィスの薄さが元凶なのか。冒頭で短く言及された、ほんらいケイリーからキャラクターを引き出すはずだった恋の駆け引きが、ピーター・フォークと孫のそれに吸収されている。

 野獣死すべし [1980]
 監督:村川透 製作国:日本

野獣死すべし  サイコの生きづらさなど知ったことではないから、鹿賀丈史の抱えるつらみがサイコ生活の課題を翻案し、あげくに母屋を乗っ取る。鹿賀は戦場で解放されるほどサイコではなく、だからこそ架橋ができる。優作はすでに解放の手段を尽くしているように見える。そこに構造の難があり、再現された戦場ではストレスに発散をわからせるためにオーバーアクトで笑いに走る悪癖を呈し、鹿賀を位置づけられない困惑を勢いでごまかす。

 ハーヴェイ [1950]
 監督:ヘンリー・コスター 製作国:アメリカ

ハーヴェイ  ステュアートの自閉には小なりとはいえ実害がある。困ったことにジョセフィン・ハルの多動もにくらしく、取違のくだりには懲悪の含みがある。正常を相対化するこれらの方策は、器質を矯正すれば感情の抑制が効かなくなるアイデアに至る。これはむしろ現実の認知症では逆だと思われるから、検証に値するジレンマではなく、いかにもフィクションらしい嘘に見える。

 TAR/ター [2022]
 監督:トッド・フィールド 製作国:アメリカ

TAR/ター  マンガのような経歴に顕著なように、貧乏人が構想したようなセレブ生活を実に堅実な人物がこなしている。これは揶揄ではなく、巨匠を前にしても平然としている新人の天然こそ物語は文化資本だと定義し、小娘に振りまわされる中年のうれしい屈辱がタイプキャストの助平顔を躍らせながら、育ちのコンプが課題だと示唆する。どんな生き様をすればよかったのか。柴田理恵の顔貌と化したニーナ・ホスの副官のダンディズムが解の一例だろう。

 赤ちょうちん [1974]
 監督:藤田敏八 製作国:日本

赤ちょうちん  現代から眺めればニューシネマのパロをやるには世相が明るすぎて南こうせつが上滑りしている。脈絡をもたないエピソードを重ねるオムニバスの構造に世相と話の乖離が寄与しているのだが、脈絡のなさはかえって経年の感覚をもたらしながら、サイコスリラーをいい意味で発効させず、ベビーカーのくだりが闇深くなる。男の職歴が社会経済にリンクしていよいよ生活が回りだせば均衡は破綻に至るが、やはり世相が災いするのか、同じオチでもスケアクロウとは違って厄介払いなノリに見えてしまう。

 監督:ジョン・ヒューストン 製作国:アメリカ・イギリス

王になろうとした男  暴力装置の体現者たちが正統性という目に見えないオカルトとの距離感を図りかね、その戸惑いが場面によって宗教的権威への感受性を変えるグルカ兵に投影されている。男は政治と呼ばれる正統性と物理的暴力の中間項に活路を見出し、政治が性欲を掻き立てるわかりみ深い副反応に直面する。プロビデンスの目が首の皮一枚で世界観を統一するような薄氷は、皮の削げたコネリーの首級に本来ならば真っ先に脱落しそうな薄毛を残置する。

 監督:雨宮哲 製作国:日本

グリッドマン ユニバース  日常芝居と怪獣活劇が互いに関連をもたない散乱した宇宙がマルチバースだと積極的に誤解されている。究極的には女が何を考えていたのかそこに関心があり、その内面に容易に行きつかせない誤導の試みはマルチバースを喜劇の間合いに落とし込み宇宙を瞬間的に統合するが、誤導が効きすぎると女は状況に反応するだけの記号にすぎなくなり、結果として男の懸想がわからなくなれば、宇宙の手ごたえのなさが増強されるにとどまる。

 深夜の告白 [1944]
 監督:ビリー・ワイルダー 製作国:アメリカ

深夜の告白  男前は通じなかった。しかし共犯に足ると女には認められた。男を誘導しているのは営利と性欲を分化させない方策だ。仕事への執着で女の感化から退避するにしても度が越えると倫理すら超克してしまう。人の恋路を邪魔する童貞の陰湿な執念に堕ちてもしまう。職業人の極限に去来するのは怪物を成敗し公共の福祉に奉じる無心。その無感情こそ女を本気にさせたのだが、その頃には男はすれ違うように性欲を克服している。

 火宅の人 [1986]
 監督:深作欣二 製作国:日本

火宅の人  淪落を家計に変換する感情の現金化や失意がブリに化ける魔法のような物象化は、喜劇をそれとして認識しない生硬い視点の逆流ではないか。ただ、緒形拳の文士らしくない暴力的な肉感がかろうじて叙体のかけ違いを繕っている。その実録シリーズのひなびた運動感覚は、練馬〜駿可台〜浅草にまたがる広漠な空間を圧搾し、石神井池のほとりでは夢のような怪力を発揮して家族を再興する。

 監督:ニール・ブロムカンプ 製作国:アメリカ

グランツーリスモ  くやしさはあくまで大人たちの専有物であり、中でもネポティズムへの憎悪が当面のくやしさを裏付けているから、大資本が早々にバックにつけばデヴィッド・ハーバーの代理戦争にすぎないレースに感情がともなわれなくなる。青年とオッサンを包摂するアイデアは別にあって、ハーバーの根源的なくやしさの発見こそ事実上のクライマックスなのだが、それすら今ではブルーカラーにすぎない父の課題には対応できず、息子にどう接したらよいか彼は最後まで戸惑っているように見える。

 監督:木下惠介 製作国:日本

カルメン故郷に帰る  ヴィランの見明凡太朗が意外にも指揮者として高峰の芸術に関わるのは正しい。状況を常に動かしているのはこの男なのだ。話の課題は佐野周二のオルガン返還にあり、彼は戦場で失明しているから、そこに社会的な負い目があるのだが、経済原則で稼働する見明は裁量でオルガンを左右できず、巫女的媒体である高峰を経由して間接的に自分の無意識に眠る善にアプローチするしかない。運動会ではこの意欲が対象を見失い空転暴走して群衆統制に失敗し、佐野にたいして人々が負っている借りを露見させてしまう。

  [2025]
 監督:吉田大八 製作国:日本

敵  経済的窮乏で物質的裏づけを失い丸裸になった精神は、おさまらない性欲を利用して譫妄を亢進させて戦場を仮構し、放置してきた自身の未成熟と向き合う。そのさい、文士の想像力は河合優実というマンガのように貫禄のある学生を構想して劇場を沸かせながら、男を物件へ同化させる。彼はその時なぜか、ダンディズムと呼ばれる形態に達している。

 棒の哀しみ [1994]
 監督:神代辰巳 製作国:日本

棒の哀しみ  問題となっているのは時間の創作であり、絶え間ない緊張の源泉となるのは、アウタルキーを侵犯する哀川翔との関係性である。すべてをVシネに変えてしまう哀川のハスキーヴォイスに抗するのは、ぼ〜っとした時間の延滞だが、外延する時間は否応なく社会を創造してアウタルキーを犯すため、男は事実上の自傷によって時間を体腔内に押し込み、その内臓の質感が女を熱狂させる。粘体化した時間はやがて哀川との関係に破綻をもたらすことだろう。

 監督:神代辰巳 製作国:日本

悶絶!!どんでん返し  男は他者に眠る本当の自分を鉱脈のように掘り当てたのである。本当の自分探しは社会化して連鎖し、それぞれの課題から解放された人間たちによってベンチャーが再興してしまう。が、やはりそこは社会小説で、コミューンが崩落したあかつきには性マイノリティは解放と社会的現実の狭間で明朗な加害と出会うのである。

 黒薔薇昇天 [1975]
 監督:神代辰巳 製作国:日本

黒薔薇昇天  ただでさえ分化の怪しい経済とアートの現場に純愛が混ざりこもうとしている。いくら動機が愛だと訴えても感情を説明せずにはいられない口舌が愛を記号に還元する。そもそも奇人に愛は不可能なのだが、奇人だからこそ口舌に乗せられて人造された愛の現場にのめりこんでしまう。愛の芽生えが禁じられるポルノの現場にあって人造であろうと尽力するうちに、純愛を保証する背徳へ人間たちはたどり着く。

 監督:アンディ・ムスキエティ 製作国:アメリカ

ザ・フラッシュ  各人の課題を一本の筋に収束させず、並行宇宙を俯瞰して現況是認の嘆じに終わるのでは芸がない。本当の課題は、変えられない事情にも自由意思が働いてしまう余地に潜み、自然災害に準じる事件に自責を介在させる時空の戯れが、死者の呪縛からの解放を実感させる。

 監督:関川秀雄 製作国:日本

日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声  モンテーニュのストイシズムをこれほど感情的に受容してしまうひ弱なエリーティズムに、不条理をマクロ的に分析する力は望めず、大隊長の教養を精査せずにはいられないように、事は個人的なマネジメントの失敗に矮小化されていく。エリーティズムを標榜する質の悪い庶民感覚は、プルタルコスの描くような感情を失った超人たちの闊歩する戦場に耐えられず、それに逆行する人間像に依存しエレジーの迫力に手を染めていく。

 監督:ジャン=ポール・ラプノー 製作国:フランス

シラノ・ド・ベルジュラック  下心を管理して誠意の信ぴょう性を担保するロマン主義に、下心があるようなないようなアイロニカルな技法を強いられた男は、死に際に自分の手紙を”代読”させられる。しかし、男性の諦念心理は目くらましであり、本当の課題は別にある。脳筋に対する知的優位はくやしさを中和するのだが、彼が脳筋であるほどそれに惹かれる女の聖性が欠落し、物語の前提が損なわれる。実は男は女の聖性を探る長い旅路を続けていたのである。

 監督:レオ・マッケリー 製作国:アメリカ

我輩はカモである  フォークロアのような痴の聖化は社会時評といかにも相性が悪く単なる他虐に陥っている。他虐者を罰する試みは霧深い愚者の自意識を探るうちに、怪獣映画のような実験精神に至っている。その場しのぎを徳とする人間を放置すればどこに向かうのか。彼らを互いにぶつければいかなる化学反応が惹起されるのか。即興は戦場の物理的現実に対応する代表的な心性であり、そこで彼らが淘汰されない理由が知れるはずなのだが、社会時評は生真面目に他逆の懲罰をやってしまう。

 午後の遺言状 [1995]
 監督:新藤兼人 製作国:日本

午後の遺言状  食欲をはじめとする老人の生理がせん妄下の人体をかろうじて管制し、朝食を済ませたらもう夕食の時間のような老人の時間を体感させる。老人の生理は春子より乙羽の方に感応する津川というわかりみ深い合理性を時に発揮しつつ、春子を民俗コントの虜にして、そこに社会小説を接ぎ木できるような闇鍋を煮えたぎらせる。むろん鍋に接ぎ木できるわけはなく、老人たちは海没せざるを得ないのだが。

 監督:アーロン・ホーヴァス / マイケル・ジェレニック 製作国:アメリカ・日本

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー  ビデオゲームのインタラクティヴ性がなくなりキャラの挙措に介入できないとすれば、今や必然性を失ったスティープルチェイスに何の意味があるのか。ピーチの肢体を障害物で酷使させ運動を官能に変換する良い意味で下卑な自意識は、植物から類人猿へと階層化された植民地主義を構想せずにはいられないが、その政治的緊張こそ、デザインワークの思想のなさを尊くする。

 監督:アラン・J・パクラ 製作国:アメリカ

ソフィーの選択  パラノイアの男は女の不幸を自己憐憫に利用している。女は男の不幸の踏み台に積極的に甘んじて、みずからのPTSDを矮小化する。ふたりの利害が一致しすぎるあまり因果は倒錯して、蜜のような薄幸の味が奇妙に技巧的なサディズムの発作に人々を駆り立て、メリルにセックスアピールをやらせる荒事をこなしていく。多分これはチャーリー・カウフマンの『アダプテーション』に近い。

 バービー [2023]
 監督:グレタ・ガーウィグ 製作国:アメリカ

バービー  男性性の喪失を課題にするのならば、マチズモへの揶揄がもはや賛歌と区別がつかなくなるほど饒舌となり、ヴァーホーヴェン映画のような屈折に至るのは自然だ。メリトクラシーの壁にぶつかり属性主義に走ってしまったケンを糾弾すれば、バービーのシスターフッドも問題となり、啓蒙の意図が不明になる。いずれにしてもメリトクラシーに憎悪があるのなら再分配を云々する話にもなろうが、性の政治学のテクニカル化もまた嫌うのである。

 監督:阪本順治 製作国:日本

どついたるねん  露呈した脳へのフェティッシュな拘りは、いまだキャリアの頓挫を俯瞰できない消化不良に由来している。挙措を作りこむほど台詞が言えなくなる美川が暗躍し、人の密度が過密な街頭と釣り合わない西成の人工空間に情意の方向性を見失った無念は、赤井と原田のどちらに尺を配分するのか最後まで混迷したあげく、試合に冷や水を浴びせながら彼らの場違いな恋愛劇へと誤爆する。

 シャンプー [1975]
 監督:ハル・アシュビー 製作国:アメリカ

シャンプー  男娼化した自覚は男の性欲をもはや持続させないだろう。この示唆は方々で女を抱いて回る過密スケジュールに影を投じ続け、永劫文化祭に滲む心身の疲弊が立場を越えた連帯を交錯させれば、単なる懐メロのプレイリストは失われようとしている文明の回顧に着手できるだろう。

 汚名 [1946]
 監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作国:アメリカ

汚名  相手の真意が不明なほど思慕が膨れ上がるのは自然が交配を駆り立てるからだ。実際に事に及んでしまえば信任は相互に確保されているため自然の駆り立てはすでに減じている。しかし、真意が不明なまま事に及ぶ状況があるとすればそれは何か。緊急避難としてやむを得ず許した体は危険だからこそ燃え上がってしまうのだが、この好ましい誤爆はなぜか男性性を試す究極の選択をかませ犬に突きつけ、彼の感情に寄り添ってしまうのである。

 監督:アントワーン・フークア 製作国:アメリカ

イコライザー THE FINAL  南伊の反社は隣人も国家も信用しない原子社会の産物であり、デンゼルが迷い込んだ街は宇宙のどこにもないアトラクションに見える。この作りごとは反社が堅気に加圧してくるフラストレーションを巧みに制御する一方で、堅気の後援がなくともデンゼル一人で何とかなるため、堅気の決断や勇気が無駄になり西部劇としては道半ばになる。ただ、あの殺戮の後でも彼を平然と受け入れてしまう住民の暴力耐性に社会の荒廃を見るのである。

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