映画感想 [1001-1100]
北林谷栄の強烈な造形が、白痴の聖性と排他性のない愛の苛立ちに楔を打ち込んでしまうと、論点は、ジャンプすべきカットをO.Lで緩衝してしまうような時空の感覚を伴って、曖昧にならざるを得ないし、型にはまるしかない加賀まりこなりの戦略も見えてくるように思う。
プロットを動かすために、薄弱な女性をあがめる叙述を愛の信憑性を試すシニスムへ持って行くのも、あるいは、その過程で物語が貨幣という計量可能な媒体に換算される図式的な明快さも、尤もなものだろう。その簡明さがなければ、プロットを光学と音の挙動で以て編成することはできないのだから。
こんなの俺の加東大介じゃないやい的な苛立ちを乗り越えると、凶悪な加東大介にはこれはこれで癒しの効果を認めてよい。奸策に長けるのであるから、彼に対する虐待は回避されて然るべきだし、何よりも今回は田宮二郎が主役なであり、虐待のターゲットは奴に違いないと思ってしまう。しかし...
田宮二郎は無能な人ではあるが、そこに山内正の怪獣映画調な劇伴が加わると、笑いと恐怖の複合した疾走感が、無能を度胸と誤解させるような合理化を強引に持ってきて有無をいわせない。残念なことに、この稀に見るプロットの動作は、藤由紀子の泥仕合で終わってしまうのだが。
あのパリの、如何にも怪しげに突き出まくったアンテナとか、ちょっとマンガ過ぎではないか、という思いはあるものの、もともとテロ屋の内偵が商売だから、ジミー大西の捕殺なんか向いてなかろう、という合理化で何となく納得もできるし、そこから窓際の家内工業な侘びしさを引き出して、ジュリア・スタイルズの造形的な愛らしさを語ることもできる。
しかしながら、マット・デイモンのイヤらしさはどうか。大西面だからこそ余計にスケベで卑猥なのだ。髪洗浄のスキンシップを始め、懇ろになるフラグの一々に、スケベ心を介在させない機能的な牢固さは認められる。が、技術が精巧な構造になるほどに、その機能性とスケコマシテクの区別がなくなり、喜ばしい口惜しさと腹立ちがいよいよ感ぜられるのである。眼鏡スナイパーのクライヴ・オーウェンも実にイヤなキャラ立ちをしていて後を引く。
「人を殺す癖がついちゃった」云々は増村らしいヒューモアとしても、長谷川明男ラインからすれば、ヘタレの誤った成長路線であるし、若尾文子をそこに絡ませると、殺人マシーンの操縦教本や彼女の万能感で、一応のところプロットの運用は可能だ。ふたりに足りない機能性は、山本学のキモい職人根性で補完できなくもない。
わからないのは、物語に初めて現れた知性、佐藤慶のもたらす物語運用上の混乱である。刹那的に見れば、彼の機能的なありさまは好まし過ぎるのだが、他方で、若尾らの程度の低さというか、そのアマチュアリズムが完全に露呈されてしまい、お話が一挙に矮小化する嫌いがある。山本学も、若尾の色魔振りに恐れをなしたというよりは、出来の悪い作品を破壊する陶芸家のノリだ。
体験学習の専門家のようなテクニカル性を発揮しながら、いったん説教モードを脱すると、癇走った声が攪乱を始める。ヘレン・ハントのこの極端な人格は、ツンデレと思えばカワイイが、磊落にしては任意的で不穏だ。倫理的な画一化は仕方ないとしても、それがあからさまなのは文芸的に野暮ったい。ニコルソンの療養を叙述すべきプロジェクトとした出発した物語は、したがって、ヘレンの造形の歪な対称を埋め合わせるべく、あるいは、心理療法の教材から実体を備えた人格を造形すべく、おやぢの顔面の描線をゆがませるわけであり、その顔芸の助平根性に物語の多価性を見てもよいだろう。
「今夜は俺の部屋に来い」と言うから、今回の芦田伸介は黒ヴァージョンかしら、とは簡単に割り切れない増村保造の猥雑なメルヘンである。何気に股間をアピィルしつつ、「たまには医者に戻りたくなる」と説教。では、良識派の装いでかえって若尾文子のハアトを鷲掴みな戦略か、と思えば、「俺が眠るまでそばにいてくれるか」といって爆睡。けれども、モルヒネ中毒で母性に訴求することだけは忘れない。
不安だといえば、尿瓶の音も痛快な川津祐介の造形もそうで、その欲求不満は察してよいが、あそこまで行くと、若尾に痴性すら見いだせるようになる。川津も調子に乗って「腕の代わりはいくらでもある!」と卑猥すぎる。
全てはインテリ増村の限界なのか、あるいは単にヘンタイの度が理解を寄せ付けないだけか。冒頭の芦田の技芸は若尾の薄弱さに対応する彼なりの熟達した態度であった、とは一応解せるし、川津だって、畸形の呈した不便に対するごく実用的な態度が、若尾の薄弱とプロ意識を競合させないでもない。しかし一方で、この好ましい技術的合理性は、小隊全滅そっちのけな禁断症状プレイに際して、その緩急を中和するように働き、俗悪な対比に至れないようにも思う。いや、そのダラダラ感がたまらんのよ、ということかも知れないが。
馬車馬が駆けるほどに遠近感が奥行きをなくす、騙し絵のように閉塞し屈曲した舞台。気が狂いそうになるソフトフォーカスの靄の底で藻掻く、ハーヴェイのクネクネとした挙動。求心性を欠いた(誰も仕事しないし)ゆえに解放されたカメラとプロットの詩学としては、音楽的な比喩に活路を見出したい。
職能が人格を超えて自律し、コストパフォーマンスの劣悪な習俗へ人々を誘う。ウォールバーグの生真面目な童貞面が語るのは、嫁の写真死亡フラグから、暖炉の前でシガーをやりながら爆笑するSenatorへと至る少年誌の世界。雪原で破壊され順序よく散乱する人塊のような、幾何学と力学のお茶目な美しさが、われわれのあずかり知らぬメルヘンを欲望するのだ。
セクシィヴォイス細川俊之の後に江本孟紀(台詞なし)を投入しては、見合い相手の進化が非来歴的すぎるし、何よりも勿体ない。けれども、この不条理な無駄遣いが吉永小百合の嗜虐心を余計に煽ると解せば、市川崑なりの奥ゆかしいヘンタイ感覚が生起した、と思わないでもない。岸部一徳の扱いも、物語の運用上、意義がなさ過ぎでくやしいが、原作の酸鼻極まる体を思い返せば、軽やかな落命も徳とすべきか。
概して、対話の発声はゆるやかな韻律で運用するのに、編集点はいつもの市川らしく切迫していて、叙述の文節に一定しない不安な速度がある。この雅な雑多さは、伊丹十三の世俗性と和解する一方で、石坂浩二を疎外するようにも思われる。
エンタメな配慮も度が過ぎると、エンデミックな観光案内が鼻についてくるし、挙げ句の果てに、「弾当たっちゃった」コントとなる。ブラピや役所の安心感は確かに捨てがたい。しかし何よりも、この成層分化した空間を織り上げるのは、治安維持の行政作用の普遍的な振る舞いだ。そこに社会派の気分もあろうが、作風を調整する機能的な厚みへの好意的な見解もまた認められる。毒々しいジャポニスム(モロッコやメキシコにしても同じか)もダンコーガイ邸に逃げ込めば安定する。
情報の開示にも技術が要る。開示してると思われたらイヤらしくなる。確信が意図されてはならず、仲代達矢は禅問答の不安に耐えねばならぬ。イヤらしさは、どちらか天然か、その不毛な競争とそこに伴う視点移動の狂騒のなかで、かろうじて処理されたように思われるし、また、やや力業ながら、イヤらしさの濃度自体を欺瞞として使用した気配もある。
天本英世はひたすら欲望に忠実で好ましいが、率直さにもリスクがあり、したがって非人間的なイヤらしさがある。そして、もっとも人格へ忠実なるままに振る舞う沢村いき雄は、その自然体と神意のあまねきありさまゆえに容赦なく地下鉄のホームから転落する。
実のところ、安定期を迎えた幸江とイサオの間に人生の動機は希薄なので、あくまでシナリオを彼らに集約するとしたら、単純な事故と問題解決行動の序列で以て、プロットを処理せねばならぬ。物語はヤクザというジャンルムービーにけっきょく依存せねばならないし、なけなしのリソースを水増しすべく、ちゃぶ台は幾度も空を舞い、情報の放流を引きとどめねばならぬ。万引きをして愛を乞うような自虐の動機が欠落し、従うべき重力を失ったプロットの詩学の動揺は、安定しないルック品質や発話のアクセントの揺らめきへ縮重し消え失せることで、かえって、たとえばシーンを一々BG onlyで分割するような整合性についての強迫観念を明らかにするようにも思う。
叙述の挙動に任意性があると、たとえば、禰津良子と中川姿子の対話は雑踏に配慮して断片に帰してしまい、説話に応じる形式的な洗練を人格に与えるリソースが心許なくなる気がする。カウンターに連なる群衆を越え、路上で曲線を描くカメラをフォローするには、川地民夫にいかなる葛藤の実践性が必要だったのか? それはおそらく、マザコン川地に抱かれたわれわれの憤激と幾重にも交叉することだろう。つまり、禰津良子の抱愛の的となったことの猥雑歓喜な意味のなさ。困窮と切迫した叙述との戯れは、その腹立たしい不可思議に依拠する他あるまい。もちろん、芦田伸介がライヴァルだから当然なのだ、といえばそれまでだが。
自由な被写界深度と可変するフレームは、コンポジットの安価な空と現代邦画のあか抜けない修辞のフィルターに陵辱されないと、ビスタフレームに辿り着かない。情報の恒常性は維持されるから、実用的な物語のプロセスは、固着したフレームに凝集した情報と馴れ合わねばならない。つまり、血の上澄みのようなルックにつぶされた造形の細部と猥雑さ。しかしながら、積層し飽和した光学情報は整理されるべきだ。ゆえに、太田川の平坦な風光へ堺正章を収束してやるのは正しいし、西武新宿線車内に至るや、やっと大写しになったマチャアキの顔面が蕩々と説教を垂れ始めるのも、こうの史代からは遙かに遠い境地ながら、やはり遠くまでやってきた感はある。
森繁は幸福に緊縮する質だから、笑うといっても嘲弄か儀礼的なものにとどまりがちだ。森繁の笑いへ感情を伴わせるために、われわれは彼の眼前で久慈あさみと淡路恵子を鉢合わせにさせねばならぬ。その感受性の反復刺戟と混乱の中から、悲壮で神々しく何ともラヴリィな呻き笑いが発せられるはずだ。
60年代の社長シリーズではややスポイルされた感もあるが、窮境に限らず、森繁の挙動一般は舞い飛ぶような激しさがあって、寿司屋のシーンなんぞ、あがりを奪取する彼をカメラがfollowできなくなる。
シリーズ6番目の本作を以て、演出の松林は興味をなくしいったん降板するのだが、松林のやる気がなくなるほどにお話は面白くなる。
義務と信頼の不連続で非対称な分布の調停を、感情値の速度を使い挙動を隠蔽する指針で処理する戦略は、文芸的な解決としてはもっともなものだろう。付加価値としては、その便宜的な行使が攪乱して、粗放な迎合と区別が付かなくなり(何も石つぶてまで投げなくとも......)、南欧風の生暖かい自虐が現れてくる辺りだろうか。
振る舞いが緻密になり堅固となるほどに、段取りは機械的となり惚けてゆく。吉岡秀隆の絶望的なプレゼン能力。理想化されたあげく無人格性に達した深津絵里のプロフェッショナリズム。そして、不安と恐怖の溶融した寺尾聰の親密さと、ほとんど美しいといってよい時間可延的な奇っ怪さ(『西部警察』から何でこんなことに!)。しかし、不自然ゆえに機械的ゆえにそれは正統なのである。親密さを可視的に登記するには、それ以外に方法がないのだから。
測定の対象でしかない臨床的な実体を扱えば、情報の差分で感興を煽る技術はかえって邪魔になるかも知れない。あるいは、空間の布置が抽象化したから、人は無時間の記述へ還元されたのか。抽象性が暴力をともなって正統化される件はコンベンショナルな説話だが、実体化する犬や車内の密閉感といった抽象性の不均等で実のところ情報を操作するのは、やはり映画というべきか。しかし、いつもの趣味がここまで恒常化すると、オッサンまたやりおったな的な安心感も否めない。
ロジスティクスの魅惑的な行程は、風景を抽象化して道徳の単位系に換算し、彼の背徳感を隠蔽することで人格を統合するように思われる。倫理のスケール効果から自責的なウットリ感が期されそうだ。が、状態の記述的な評価をすると、行程の規則正しい配列と道徳の凝集性は、箱を開けるたびに違う空が覗かれるような、風景の省略や乖離によってなされるのだから、ニコラスの液相のような人格のフォルムにとって、社会派の気分は動的な平衡の派生的な効果かも知れぬ。いずれにせよ、商売人の精密な振る舞いとセキュリティの脇の甘さ(息子の誕生日!)に介在するような非対称性をうまく御せないと、リスクに見合わない仕事へ就業する動機はあり得ないので、またしてもニコラスの人徳が活用され虐待されるハメになったわけだ。
プロットの継起や収束から設計主義への確信が湧き上がるのに、可視的な全体としての因果を田舎者の騒動記といった雑多な営為に希釈せずにはいられない。脈略の効率にたいする文芸上の恥じらいでとどまるならカワイイ☆だけの話だろうが、そこに横柄な任意性を自責する態度を認めると、後悔は構造化した文脈に妥当しながら、奇禍という倫理的なやり方で報われねばならなくなる。香港警察映画、21世紀も絶好調と悦びたくもあれば、80年代のダニー・リーから延々と続くドロドロな鬱屈にウンザリしたくもある。
松林演出の坊主くさい理想主義は、喜劇の速度を犠牲にして語られている。全盛期は過ぎたとはいえ、まだまだ体の動く森繁は、自らの気持ちの悪い弾力性を持て余し、新珠三千代の周りで小刻みに震えくねることで、フラストレーションを訴えている。
本作は特に、南方から帰還した小林桂樹の救済の話となっていて、ラストの浜辺で、ツンデレる司葉子と桂樹の戯れは、心の平安をもたらすが、しかし、それは社長シリーズに求められるものとは違うと思う。
長々しく機械的な仁義の段取りをエキゾティシズムとして解せても、聞いてる萩原健一らが集中力をなくす頃になると、意図的なかっこわるさがアンチジャンルのイヤらしさを露顕させるようでもある。というより、仁義を切る当人すら何か飽和して呆然となってくるし。まあ傾性を帯びた修辞や文節の手順に語り手が支えられたとすれば、説教ということにもなろうが、没主観的な発話の連なりが感覚の陶酔や酩酊を引き出したとすれば、これはこれでエキゾティシズムでもある。文芸的な付加価値は、世俗的な制度論とこの手のエキゾティシズムが時に散漫になりながらも何とかうまく馴れ合ったところにあろうか。凝集性のあるシニスムというか、粘性のある血糊というか。
『評決』('82)のポール・ニューマンがシャーロットの電話をとらないのはやせ我慢であるが、イッセー尾形の場合、宮沢りえの電話を阻むのは端的な距離であって、そこにイッセーの意図を組み込むのは難しい。測定の不能な空白の戯れがオトナじみた風を装いながら、実のところ、偶然に依存することの勿体なさや焦燥感からイッセーを保護して呉れる塩梅のようにも思われる。
とにかく、ホアキンの硬直した表情筋が問題で、刑務所ライブでは、動かないそれを無理やりこじ開けて、凄惨な顔芸大会で沸かしてくれる。それはそれでエンタメなのだが、凝固した表情筋とは裏腹に、いつの間にかセレブに登り詰めたりと、外貌と技能に一致するところがなく、造形のブレを感じてしまう。殊に、恋愛に至っては、表情の凝固が要領を隠し、誠実さの偽装を行っているように見える。兄貴の事故死イベントを活用するのは無意識の派生として許せても、コケたり絵本を落としたりするのは邪念が過ぎて、リーズが看病イベントで堕ちないのも無理はない。見方を変えれば、押しの強い童貞という矛盾が、挿話の無理矢理な違和感と調和していて、これを肯定的に生かすには、求愛を生活の惰性として処理して、童貞性が硬直性を維持したままでも対処可能な情勢を、そこに見出す他はあるまい。
どちらにしても離婚を重ねている設定なので、今さら、結婚願望を前面に出されても、これまた納得が行かない。また、成就しても、続くのかという疑問がある。これに対して、恋愛の宿命論で回答する構成は、現実の教訓にはなり得ないにしても、話としてはきれいだ。みなすべて、たったひとりしかいない相手を探求していた行程であったということ。
東宝特撮時代からすでに露見してはいることながら、国内組と海外組の差が激しくて、昭和基地に場面が戻ると、フラットな英語の台詞から解放されたように、深作組の野獣たちが喚叫し床を這いずり回り、木村大作のカメラはその模様を活写して躍動するのである。情報の密度がまるで違うのだ。
もはや深作のやるべきことはひとつしかないだろう。苛烈な演技指導でグレン・フォードを泣かせる他あるまい。そして、抑圧と単調さを取り違えた南極のガイジンワールドが、おやじ共同体の不器用な愛を放歌するに及んで、われわれはその試みが達成したものを知り、感激して呆れるのである。
降旗康男の田中邦衛というと、『冬の華』のたいへん好ましい印象があるのだから、彼の良識的な扱いを本作に期しても、そう無理なからぬことではない。なのに、序盤からストロークが襲いかかり、善良の固まりのようなあの渋面が苦悶に歪むのだから衝撃は大きいし、漁村をシャブ漬けにするたけしに至っては悪い夢で、恍惚と口唇を縮める邦衛が可笑しいやらカワイイやら不憫やらで、顔を覆わざるを得ない。ただ、漁村の過剰な生活感も、木村大作の望遠で圧縮されてしまうと、複利効果のような不幸の加速感が現れてきて、これはこれで自棄糞な心地よさがあるではないか。
田中邦衛の顛末が生活感のあるメルヘンだとすれば、ミナミ時代の高倉には、文芸物が唐突にジャンルムービーと化した解放感があり、やっぱり笑ってしまう。田中祐子の強烈な生活感が必須だったのはまことにもっともなことで、高倉の腰を北陸の寒村に据えるのは、卑俗すぎて卑猥ですらある萎縮したあの面貌をおいて他にないのだが、だからといって中出しすることはなかったのでは。
あり得ないショットは作り物くさいから、ライトプレーンをフォローして空間を縦横しても、かえって息苦しい人為的な密閉感に苛まれはする。けれども、この箱庭のような矮小さには懐かしい感傷もあって、たとえば、『モスラ』('61)の渋谷であり、倒壊した東京タワーの遠景ショットでもある。つまり、ここで物語を表現しているのは特撮映画のフォーマットに近い感性である。おそらく、それ以外に昭和三十年代を扱う術がないのだろう。ここから幾多の問題が派生する。不自然な台詞回しやぎこちない動作、社長のすさまじい造形等々。それらは、3D 然としたオブジェクトやワークとの妥協や兼ね合いであるのだが、同時に、特撮の不自由なフォーマットで文芸物を扱わねばならぬ苦悶でもあったわけだ。しかし、制約は、古典的な人情の片鱗へ至るショートカットであったりもする。
獣よりもデナム(ジャック・ブラック)の造形を見てしまうわな、というのは、それはそれでありなのだが、メルヘンじみた造形が物語の因果性に寄与しなくなるのもまずい。物語の利益に貢献するように、彼の幼児性は誘導されるべきだ。
同様に、いかにも文系のドリスコル(エイドリアン・ブロディ)をモテモテにしても、かえって悦ばしくない。文系への不自然な好意が作為性を強調して居たたまれなくなるのだ。だから、あのモテが自然に妥当する場を見出したいし、それは、相互に理解の不能なデナムとアンの非対称性を横断する文化の帯域に見つかることだろう。ドリスコルが共通の友人として設定されるなら、モテを彼の両義性の副次的効果として許容することはできる。
多価的な物語の傾向性は、野蛮な自然においては、偶然を装いながら系統的に調整されたムシムシ行進として現れることだろう。あるいは、より直裁には、鏡像を通してドリスコルを追いかけるアンの眼差しのように、意図と視線の織りなす網の目として物語を覆うことになるだろう。
異端者への迎合は鼻につく。かといって、違和感を素直に表明しても芸がない。差異に対して鈍感になるのはよいアイデアだが、その振る舞いが余りにも堂に入りすぎると人間味がなくなるし、またイヤらしくもなってくる。これはこれで迎合の変形であり、巧妙な偽装にすぎないのではないか。
たとえば、奥崎謙三ならば、違和感を表明するやり方に付加価値を見いだすことだろう(『神様の愛い奴』)。人間の違和感に対する彼の反応は極端に分裂していて、平やんの知性を疑うかと思えば、白痴の神性を仮託して土下座したりもする。彼は、直情的な高慢と卑屈で、妻夫木が隠し通せないものをまんまと隠しおおせたのである。つまり当事者の感覚問題だ。
たとえ失恋というコストを共有して路上に泣き崩れても、こればかりは妻夫木の手に届かない。彼は何処へでも歩いて行けるのだから、むしろ、負担した心理的なコストを誇示するパフォーマンスに見えかねないのである。ただ、当事者ならざるものの欺瞞が、当事者になれない口惜しさへ転じたと解せば、文芸的な落とし所も見えてくるだろう。
ライブアクションの信憑性を確保したいが、実際に事件を長回しで俯瞰したら、映画として意味のない品質にルックが劣化する。個別的な動作がフレームの周縁に分散し、被写体の追尾がもはや困難にもなる。物語の美的意図は、サイモン・ヤムの不穏な微笑みを借りて、秩序を招請せねばならないのだ――「ショーを見せてやろう」。
かくして、擲弾をフォローする急激なパンの号砲を合図に、事件の信憑性を保存したい美的意図と、技術を欠いた恨み節は境界をなくし、テクノロジーに対する解釈の逆流が始まる。すなわち、視角の分割が必然であるような作為性のトポスとは何か? その答はわかりやすい。
しかし、画面を分割せねばならない強迫観念が行き過ぎると、今度は、媒体により細分化した視角の中で情報のノイズが高まり、被写体の監視はかえって困難になる。おやじどもは凝集性の要請に服さなくなり、放し飼いになる。サイモンは娘の尻を追いかけ、ラム・シューの厨房では男の手料理がおっぱじまり、路上のホイ・シウホンは焼き芋を食い散らかしながら、高らかにメタンを大気へ放つのだ。
フレームを固定すると光学の情報量を上げるコストが軽減され、ルックの質感は向上するだろう。だが、代わりに運動という空間把握の情報が薄くなりかねない。そして、フォローできない運動の軌道は、緊張関係の演出に利用されることもあれば、被写体の肉体を収めきれない苛立ちとして露呈することもある。カメラが運動を追尾できないために、肉体への暴虐な攻撃はフレーム外から期せずやってきて、暴力の切実な実感を語り出す。躍動する肉体はあくまでフレームに押しとどめられ、あのガターのないレーンの居たたまれなさのように、身体と齟齬を来す精神の窮状を訴えもする。非来歴的に備わった才覚がボンクラの感性を壊しかねないのだ。
物語の標準的な手続きは、社会的で視覚的な許容可能性のフィルターを操作し、整合性を失い孤立したジョン・ヘダーの特性に指針を与えねばならないだろう。その過程で、執拗に固定され情報の緊張を煽ったフレームは、行動と情報を定義する緩衝剤として転義され再活用されるのだ。
愛が破れるたびに人間不信へ陥っては生活に支障を来してしまう。損なわれた愛から生活を保護する保証や担保がないと心理的なコスト意識ばかりが目立ってしまう。アニメキャラの結婚なんぞにいちいち動じていては身が持たないから、洗練されたルールに準拠して情緒の交易を計るのが大人のたしなみだ。が、感情表出の洗練には恋愛の信憑性とトレード・オフする欠陥もある。信頼を温存しようと試みた時点で、人間に対する信頼はすでに効果を失っている。だからコスト意識を伴わない愛の信憑性は、恋愛を自覚する以前の心的な状態に含意されるはずだ。人為性への端的な不信は感情を一般的な習慣や技能の内に拡散し自動化させるのだ。身体の内に構造化された感情が、記憶を失い人格の継続性に欠いても表出して信憑性を訴えたように。
仁科亜季子の死病や上田耕一の痴呆症はいうまでもないことだし、蓄積されつつある田中裕子の書籍にしたってそうだ。線的で不可逆なタイムラインの指標に物語が事欠くことはない。が、皆が同じ方角へ走り出すと時間の空間把握が困難になる。不可逆な運動が時間断片的な振る舞いとして誤解されかねない。『ビッグ・リボウスキ』('98)の停止した時間の把握問題がここでは反転して提示されるわけだ。したがって、われわれが必要とするのは、流れゆくタイムラインに抗い物語を構造化するような時間の比較考量点、つまり岸部一徳が描く超信地旋回の円環になる。もっとも岸部からすると、時間の一点を旋回する動力は不可逆のタイムラインから伝わるものであり、それが失われると彼としても時間から退場せざるを得なくなる。あるいは、上田のように抽象を操作する能力が高じると、滅びつつあるのに幼少期を繰り返す認知症を利用して時間の自己完結が合理的な充足をみることにもなろう。
恋の神経戦から解放されて訪れたのは豊穣な沈黙の時間。カーチェイスをやってじゃれ合う親密な愛の戯れ。それらすべての浄福を灰燼に帰する詐欺のような遭遇の喜劇。春の淡雪のように儚く美しいオッサンどもの肉体は、娘の目前で嵐が通るように躍動して散華し土に還ったのだ。
網膜に映ずるリアルタイムの情報は彩度に欠ける。光学が色彩を手に入れるのは回想の中である。つまり、視情報の需給の定義は明確で、在庫処分として設定されるロードムービーの実践性も合理的で好ましい。だが、現在という時間が拡張されて、ついに過去へコミットできたとき、今度は男の記憶が鮮度を保てない。視界は彩度を得る代わりに記憶という情報を失う。
もともと情報資源の配分問題から始まり、全体の情報量は変わらないとされるのだから、けっきょく、フラストレーションの溜まるような情報の代替関係に至るのも、もっともなことだし、人格に許容される情報の制限に視線が誘導される意味では、人間の偏狭さといった、訓話調の趣をそこに認めるのもありだろう。ただ、彩色の政治学が明瞭であるだけに、需給曲線のシフトをまるで起こすことのない、付加価値に欠けるような作劇が見劣りしてくるのも否めない。
どうも山崎まさよしが脂ぎっていけない。貧血で卒倒して関めぐみの気を引いても、「スケベ心、最後の躍動」といった下心が仮託されて困る。相合い傘で腰に手を回すのは論外だ。ハン・ソッキュの天然童貞演技が淡泊で、それがまた哀れを誘っただけに、余計、手練れなおやぢ臭が鼻につくのである。
これは、やはり、内面に介入する距離の度合いなのだろうか。ホ・ジノはニコニコするハン・ソッキュを突き放して観察するだけだが、その距離感に、ギャルゲのような、内面の了解不能性を利用して白痴の少女に人格の強度を与えるような効果が認められると思う。対して、脂ぎった山崎まさよしには内面を解析する余裕が設定されていて、特に解りやすいのが最後の手紙だ。あれでくどくどと内心をテキストにして赤裸々に説明してくれるのだから、脂ぎるのもしょうがないと思う。まあ、それはそれで、またちがった情緒も出てはくるのだが。
家計のガジェットを転がすだけで機能性を担保できる職人の自信がある。しかし、暴力と経済のリソースを欠いた革命は偽善で不道徳だ、という思いもある。生活感の分泌で統御される風景には、頓知で危機を粉飾するような危うさがともなうが、暴力や経済性の保証があったところで、男は責任に怯えるばかりだ。もちろん、男の素性の統合するために、そこで恋愛の動機を利用せねばならないのは解る。それが筋であり効率というものだ。けれども、感化のリソースとしての恋愛がまた我慢ならない。エコロジーのからまない性愛が信用ならない。
物語に誠実であればこそ動機の言及が空々しくなるとしたら、物語の貪欲な多価性は緯度を変えて仕事を全うせねばならぬ。われわれが、時間の高圧滅菌にさらされ凝集した修辞学の向こうに見るのは、脳の軟化と戯れるように満たされ歌われる温潤な放吟なのだ。
認知フェイズが分岐し焦燥したとしても、誰も参入できない意匠の障壁へ収束すれば物語は余裕で耐久できる。浜辺に出てドンパチをすれば、それで充足するのだし、懐疑を物語として整序できるのは、そうした修辞の保護障壁あってのことだ。が、表現の配当に安住すればするほど、幸福の喪失を怖れて自責せざるを得なくなる貧乏性もまた現れてくる。スノッブアピールに対する極端な照れと恐怖が吐露されてくる。それがわかっていながら、車は海辺へ向かってしまう肉体の裏切り。奔り出るマズルフラッシュと連携できないプロップの短機関銃は微動だにせず、松村邦洋らの脂肪厚だけがデモーニッシュにたわむ。自己充足に対する生理的な呪いは自らを罰そうと足掻きつづけどこへ向かうのか? 彼を迎え入れるのは、究極のやましさたる敗戦のトラウマの不安な陰翳なのだ。
西村晃の戯画的な幼児虐待が観念的で中身の伴わない復讐の動機を助成したとすれば、シンプルな病理学の問題になるのだろう。あるいは、動機はすでに梶芽衣子の中で充足されていて、それがヘンタイ西村晃の介入であさっての方向にぶっ飛んだとすれば、実感に対する強烈で生真面目な信仰が見えてくるような気もするし、だからこそ梶の動機は不定形のままに留め置かれたのではないか。色彩も形もない生の漂白は多量の血流に染まることで演繹的に実体化したわけだが、そもそも動機と実感に接点があれば、現実への信仰がこれほど加熱するとは思えない。むろん身も蓋もなく言えば、多量な血流を刹那的に欲した時代の猟奇趣味が広がりのない心象の岸辺にたどり着いた、ということなのだろうが。
斉藤弟の造形にわれわれを投影できる余地は少ないと思うが、その遺影の前で長澤まさみと斉藤兄が乳繰り合うとなると、苦い感慨も出てくる。何だかわれわれの方が乳繰り合いを遺影のフレーム越しから眺める心地にもなる。
このくだりでは、いかにも犬童一心らしく、ジメジメとした負け犬根性の連帯感が活用されていて、届かない恋愛が他人であった斉藤弟とわれわれを同期させて呉れる。ただし、怨念はしょせん怨念なところもあって、道徳のバランスシートを作成する段階に至ると、この手の陰湿な実践的倫理は、長澤まさみの可憐な不感症に応酬したくもなってくる。プロットの運動を担った長澤の欲望は、実際に甲子園を目前にすると、視座の剥奪を伴いながら自己当事者の感覚から乖離するのだ。
われわれと斉藤弟の情緒的なシンクは、当事者になれない苦しみを分有する形で、長澤当人と安藤希の間で変奏されたと見てよいだろう。もちろん、これは『メゾン・ド・ヒミコ』('05)の柴咲コウへ遡及するものでもある。
恋愛をストレートに恋愛として表現すると、高倉のストイシズムに信憑性を担保できなくなる。つまり、富司純子を板東の嫁にして炎上するような仮構のスワッピングを想定しないと高倉の欲望は充足しない。物語の受け手にとってみれば、彼の異常性癖はごく可視的に定義されていて解りやすい。というより、高倉の顛到は物語の命題としてそもそも扱いやすいものなのだ。しかし被害者の板東はそうもいかず、天然と作為が混然となった童貞演技が毒をもって毒を制すように活用されることで、その不可思議な奇禍はかろうじて隔離されるように見える。友情の利用なのかホモセクシャルなのか、やがて区別を問わなくなる怪しき雰囲気も手伝って、このふたりの絡みは不安で不安でたまらなく、その負担に耐え得かねたように板東がフレームアウトしてゆくのも仕方ないと思うが、ジャワ行きの死亡フラグまで畳み掛けられると、後は色々な意味で笑うしかない。乙女のような男どもの神経質な運動の求心点で無邪気に笑う富司純子も怖すぎる。
意外だったのは、郷^治のこれはどうかと思われる凶行が彼を生育した環境に帰せられる件で、動機に対する社会性の付与自体はありきたりだが、野田幸男(不良番長)の粗暴な作風がそこに至ってしまうと、70年代の東映がベタベタの社会性に目覚めるなんて、という意外性の感激がまずあるし、加えて何よりも不似合いなのは、その回想をわずか数カットの場景スチールで済ませる慎み深さだ。郷^治の不可解な焦燥感が走馬燈のように切り替わるモンタージュの速度を要求したのであり、その軽さなくしてはトラウマの実感が沸かないのである――まあ、これはこれであざといのかも知れないが。
群馬のド田舎で広東語が跳躍する不可思議やアンソニー・ウォンが畳の上で伸びている違和的恐怖は、物語を統べる悦ばしい強権的なインパクトにもなれば、自身の粗野な空間把握によって応酬されることもある。たとえば、拾い上げるべき内心を時として混線してしまう統辞法の不手際のように、あるいは振る舞い方が解らぬゆえに躁暴を装い身体を持て余すアンソニーのように。
もともと目標も動機も曖昧だった物語のストイックな編成を思い起こせば、粗暴な距離感が不安でゆるやかな連結の渦動点として利用されるのはもっともなことである。その貪欲さが流動性とうまく絡み合うと、内語の混信はモーショングラフィック然にZ軸を行き交う画面分割の官能的な躍動につながる。あるいは、軋む懸架の奏でる力学のセッションが、物損事故に至りそうで至らない破綻のたわむれを感傷の手堅い軌跡として物語へ繰り込めるようにもなる。
情報から疎外されたジミーの内心には、勝新を媒介にして拡がりと重さを与えたい。けれども事情を全て把握する勝新にすれば、下手に情報量があるだけにジミーの内心を走査するインセンティブに欠ける。関係の輪郭を決める相対的で流動的な情報の波は、さもすると意志の不通を言い訳にした作劇の甘さを招きがちで、ふたりの距離を隔てる政治の幾何学を思わせる。したがって歓楽の投影は、かかる政治の意識がはにかみに転じた間隙を狙うほかない。一瞬の戯画的な対話を語らせた、あの意義深い偶然のひとときを。
岸本(オダギリジョー)の計数的な才覚が惹起した事態は、多分に孤独の感覚を含んでいる。卑弥呼(田中泯)から経営者の機能が引き渡される際、経営者であることの孤独もまた彼に継承されている。いいかえれば、孤立を分かちことで合うことで、彼らは絆を確かめることができる。
中小企業の事務職、沙織(柴咲コウ)は、オダギリの機能的なありさまを傍観するしかない。けれども、造形の機能性から疎外された感覚は、ヘテロセクシャルであることに由来するセクシャリティ上の優越感によって繕われるような気もする。
当事者意識の欠落を利用するために、柴咲の心理的な平安は、物語を観察するわれわれにとってみれば、一種の気まずさを伴いかねないし、そうなると映画的な幸福を営むダンスホールの異文化交流などは、同時に、倫理の教材のような訓話調の興ざめに脅かされることにもなる。当事者であることの統御が問題となっているのだ。
それは『ジョゼと虎と魚たち』('03)の復讐戦ともとれるし、あるいはその発展解消のようにも思われる。自己憐憫とも解されかねない、あの妻夫木聡をどう処理すればよかったか? つまり、ひとへ当事者の実感を与えるためには、どのような工夫があるのか。
オダギリと田中泯は機能的な同質性によって共犯関係になり得たのだが、既述のように、事務職の柴咲には縁のない話である。むしろ彼女が利用したのは、これまで隔壁として作用していたセクシャリティの方であり、今度は逆に、オダギリとの間で同質性を確保するために、それは活用されるのである。自分に対するオダギリの好意に体がともなってこない苛立ちや、ホモセクシャルの異性愛が信憑性の減摩作用にどこまでも落ち込んでゆく気分が、オダギリらのトランスジェンダーの困難へ誘導されている。
コソコソとした、しみったれた勤勉性が素直に報われるだけでは足りなくて、その労力は職分の機能的な色彩と結びつかねばならぬ。あるいは、機能的に生きなければそもそも報われるはずがない。それが倫理的な相貌の下に語られるあたりは、作劇の構造も含めガイ・リッチーぽい。顕著な違いというか、映画の自我が剥き出しになるところには、極度にステロ化された人格の平坦さが横たわるばかりで、いささか決まり悪い。
考えてみればイヤらしい人格の造形である。無意識とはいえ、お人好しな小市民の風情をこれ見よがしに誇示するサラリィマン宮田(中村靖日)の卑屈さは何となく卑猥であるし、神田(山中聡)の「俺様は不逞なのである」という如何にもな装いもイヤらしい。
合理性の需要充足が同時に倫理的であること、つまり、無能と傲慢がそれ相応に遇されねばならぬなら、神田に対する懲罰が直截的になるのは解りやすい。あるいは、登場の冒頭から経営実務の労苦を『実話時代』風に陳述することで、浅井(山下規介)が心理的な移入の中心を占めるのも正しい。彼の苦労と機能性が物語の経済倫理に唯一適うからだ。
宮田の顛末は、このふたりに比べて随分と曖昧に処理されているが、だからこそ、作劇に付加価値を与え得たとも解せる。浅井と神田の機能性をめぐる競争が物語の流動性を担う一方で、宮田の才覚は物語の裁量に参画することを自分に許さない。結果的に、幸福も不幸も恣意性をともなう形で彼の目前に現れることとなる。宮田に対する物語の好意は、同時に、偶然に依存せねばならぬリスクのある生活に報復している。
アリソン・ローマン(自称14歳)が好いて呉れるなんて、詐欺か宗教に決まっているから、ニコラス・ケイジはきっとナニな目に遭うのだ。ここで感ぜられるドキドキというものは、ニコラスの先行きわからぬ未来ではなくて、ほぼ自明な彼の凋落自体に基づくように思われるのである。
ここに、また例のごとく、ひとの凋落をむしろ積極的に望むような、忌々しい嗜虐心の荷担を指摘してもよいのだが、実際に彼の生活が破綻し、これ以上に凋落しようもなくなったとき、もう俺たちのニコラスが弄られることもない、というような硬質の安心感に顔が弛緩してしまうのも確かだ。
平衡の感情や水準化の目論見は、すでに冒頭の強迫的な風景のなかで、光学的に預言されているし、あるいは、半ば達せられてもいる。対話劇のせっかちなモンタージュが、窓を開け放たれた途端に光学の渦に翻弄され遅滞してしまう情報の定常状態のなかに。
体内に摂取される情報量が結果的に同じであるなら、物語は、それこそプラシーボに始まり自称14歳のアリソンへ至るような、ニコラスを壊しそうで壊さない緩衝装置に対するじらしテクの集合として現れる他はないのだ。
被写界深度をものともせずに、宮崎あおいの痴女めいた眼差しが映写幕を弄したとき、われわれが目撃するのは、天然の属性が、女優、宮崎あおいから発せられる強烈な輻射により、人格の強度として転釈されつつある有様だ。彼女が戦わねばならぬのは、ほとんど漫符のような、自己実現という地獄の中心、中島美嘉のライブステージである。フレームはその舞台に突き進む際、容赦なくあおいを足蹴にして彼女をフレームアウトさせるし、加えて、ありがちなことではあるが、あおいの自己実現の願望を消毒していた恋愛は、やがて破綻に至ってしまう。こうした畳みかけ方には、たしかに、白痴を貶めて嗜虐するような、たちの悪い快楽の趣がある。しかしまた、中島のセレブリティに抗するには、あおいの感受性を隔離せねばならなかったのも確かである。
奇妙にも過去形で統一され、時間の間隙の感覚を伴うあおいの内語も、時空を利用したセレブリティ耐性の防壁なのだろう。われわれはそこに、彼女の知性を発見してるのだが、そのような属性はセレブリティへの耐性を無効にしかねない。ゆえに時間の隔壁は、保護膜たる造形の鈍重さが知性と競合しないように設けられた、と解せそうだし、そこに、基本的には負け犬根性消毒のバリエーションである本作の付加価値があるように思う。
エリザベス・シューのフェイク・ドキュメンタリーが物語をまとめるのならまだしも、どうも扱われ方が散漫で刹那的というか、オサレ演出の一環に過ぎないところが一見するとイヤらしいのであるが、ただ、妥当な規則をそこに求めないからこそ、フレームの外を気にせねばならぬような逼迫感がかえって出てしまい、したがって、あのような作劇が何故に必要だったか、という問いかけもしたくなる。
ニコラス・ケイジの内語の戦略を考えたら、これはごく教科書的で、彼の内面を閉ざすために、彼を眺めてあげられるような観察者(エリザベス・シュー)が必要になるのは解る。理由は、即物的には、そもそもアル中の内部が解析不能なことがあるし、そして、人格の緩慢な摩耗には、その人格に強度が必要である、ということもある。強度がなければ過程を省略して人格は折れてしまうだろう。いずれにせよ、そうした強さを確保するために、内語は語られるべきではない。
フレームを意識してしまうことは、難病のプロセスを表すためにニコラスを時折フレームから除外*1できるような、移転の可能な視角を約束してくれるし、反面、所述のフェイク・ドキュメンタリーが唐突に感ぜられるように、フォーマットの統一性を損なうような気もする。ただ、そういった心地の悪い節操のなさに、ときどき小康しながらも確実に生を極小化してゆく死病の類型を見れば、そこで、浮気がちな語り手は筆致の効率性と結託することにもなるように思う。
意図しない与件による過剰適応が、結果的に、幸福だったかどうかはわからない。つまり語り手は、生存の基本的な保存と生活の組成の改訂というトレード・オフについて評価を挙示しない。われわれの前にただ横たわるのは、ほんの些細な、個人的偶然に過ぎなかったような適応行動の背部に控える、広汎で物質的な基層である。
行動の格率が空気を読まないとき、メルヘンの好ましい浮揚感はホラーとして甘受する他はない。インテリ三國の感化で合唱隊と化した部隊に文系の浸透力を見れば、何らかの思考に浸潤される恐怖があるし、また、このメルヘン状況の成立に希少価値を認めれば、政治的な苛立ちを催すことも可能だ。
ど文系、三國部隊とは対照的に、北部の最前線において快調な市川モンタージュを以て戯画然と破砕していく体育会系の投入は、たしかに、三國一派のメルヘンを強調する物でしかないように見える。しかし一方で、かかる多元主義が媒介となって、メルヘンと世界の和解が生まれるようにも解せる。三國らによるヒッピー化の享受は、当人らの自助努力に偶然が混濁した結果、叶ったのではない。むしろ、ビルマ北東部の戦線により保護されフィルタリングされた空気というものが見えてくるのである。
体育会系と文系の微妙な棲み分けとか、共有され得ない観念とか、そういう対立図式をここに見る必要はないだろう。語られるのは、偶然に介入する作為性の異常な強調であり、あるいは、それが偶然であって堪るものか、といった素朴な後悔と怨念なのだ。
ハナ肇の経済的な冒険主義が高倉の攻撃を借りて弾劾されるのは如何にもだとしても、その総括と転向が、かえって、窮乏した倍賞千恵子農場に駆けつけるハナ肇のトラクター軍団とか、農場を廃絶した倍賞に対する生活援助といった、冒頭で発揮されたそれを遙かに超える経済性で描画されてしまう教条のなさは何か。規則性の配慮に欠けたというよりも、むしろ、ハナ肇の人格の強度やその強さを保証した与件が見えてくるように思う。
高倉の人格構成は自足していて、その手堅い体系の一貫性が倍賞をまんまと陥落させたようであり、そうなると、好意的な変容とは言え、ハナ肇の尻軽振りは否めない。また、ハナ肇が恋愛の既得権をあっさりと放棄する辺りも、彼の恋愛の信憑性を疑わせるものであるし、保護膜に覆われた山田洋次らしいいつもの人情劇か、とも思ってしまう。しかしながら、高倉と倍賞という物語の古典的基盤をやがて突き崩してしまうのも、ハナ肇のイージーなお人好しに他ならない。先回にもふれたような、三角関係の生け贄キャラへ進んで志願してしまうハナ肇は、高倉の自己完結性を無効にし、むしろ自身の成長の物語を問いかけ始めている。彼には物を学ぶ人格的な容量があったのだが、高倉にはそれがなかった。そして、ハナ肇に可塑性を与えた用件に思いをはせると、われわれは冒頭の、執拗に彼につきまとう資産性の問題へ立ち返ることになるだろう。人格の可塑性を行使するには、ある程度の文化的基盤が、引いては、経済の規模が必要であったのだ。
終幕の、お人好しな気性のおもむくままに爆涙するハナ肇は、高倉と倍賞の不幸に情緒的な帰依を示す感性と自分の境遇に対する自己憐憫に区別をつけていない。分化を自覚しないといえば未熟な意識ではあるが、分別をすでに越えていると解せば、本来ならば負け犬根性の合理化や自虐趣味にすぎない思弁に対する、文芸の思考からの精一杯の防腐処理であるようにも思われる。
高倉ならぬ身としては、殊に妹の言辞から襲来する、いささか強迫じみた過去の窮乏が鬱陶しい。だが、利害関係のある彼には、これを不快なものとしては把握できないし、したがって、適切な処理を下すに能わない。平たくいえば、貧困が視野を矮小化し貧困を再生産するおなじみの風景があり、かくして、われわれは文明の伝教師、丹波哲郎を待たねばならなくなる。
まことに間が悪いというか、物語の流動性の悪乗りが過ぎるというか、貧困の浸透力は、「仮釈!」&「手術成功!」に至り、そもそもの前提を趣味の悪いタイミングで覆すほどに苛烈で不条理だ。高倉の神経症が切れそうになったとき、なぜかアクシデントはトリアー的に生じ、伸びきった外延が物語のハートランドに繰り込まれ自壊をする。われわれの背後に迫るのは、猟銃を装備し気を違えた、もっとも蛮性から隔離されるべきはずの丹波哲郎その人だ。しかしながら、高倉が身を以て強迫観念と対抗できないとするならば、丹波の身体は高倉を追撃するようでいて、実のところ、目的論的な錯覚を起こしている。高倉は過去と戦うために丹波の身体、特にトロッコで運ばれ来るその速度を利用せねばならない。PTSDの強迫観念が時間の堆積した質量である以上、そこに抗し得るのは、丹波の強迫観念のスピードだけなのだ。
初期投資が過大なために、ハーレムの損益分岐点が問われかねないのである。四肢を失う苦痛と倍加されたモテ度との兼ね合い。あるいは、性愛の質を問うのなら、病床ハーレムの招集した愛の信憑性に対する疑念。弁護士フリアの造形は、かかる疑惑に呼応するように念が入っていて、信憑性は保たれている。問題が立ち現れるのは、この労力を木っ端微塵にしてしまうロサの造形にあるのだろう。つまり、人の不幸に同情することから発する自己陶酔。これはいかにも物語らしいのだが、彼女のほのかな自覚が利用される段になると、ハーレムの損益分岐点から解放される道筋も見えてくる。
ここで言うロサの自覚とは、ナルシシズムではなくて、行動の衝動性とか制御の効き辛さといった話題に収まるものだ。もちろん、ままならぬ身を以て情緒の信憑性を確保する試みと見ることはできる。ただ、熱情を寄せられるラモンからすれば、この御しがたい怪物は、制御が効かないからこそ、かえって自らのプロジェクトに欠かせなかったと思われる。これから非常識圏に身を投じたい彼としては、既知を外れた他人の感化を利用するほかない。
人の介在で自らの失われた身体を律する技術への情熱は、また、過大な初期投資たるあの岩場へ還る想いでもある。取り返しのつかないと思われた投資は、ただひとつの方法を以て、償却することができるのだった。すなわち、こんどこそうまく岩場から身を投じてみせる、ということ。
ぬるま湯のホームドラマが機能的な職域を圧迫し負荷を与えている。高島礼子の家族主義がイヤらしいほどのステロタイプで語られるほどに、仕事のできる保坂尚輝が好意を以て受容されるように思われる。これは、反グローバリズム批判かも知れない。あるいは、プロジェクトに欠けるものを扱えない物語の特性に因るのかも知れない。
保坂の侵略に抗して、高島の共同体に機能的な発展解消の途はあったはずだし、山田純大の人格拡張はそれに応ずるものであったと解すこともできる。しかし、その超人化が不条理の体をなして挫折したように、あるいは、極妻のテンプレに従うままに、投入される女性の数だけ風景が無機的に分裂するにつれて、保坂の戦うべき土俵もまた液状化している。
高島側から見れば、縦深陣地の泥まみれな構築であったわけだが、保坂にしてみれば、劇伴で唐突に盛り上がってしまうこの姐を、もはや行動の見通しが立たない分裂病患者として扱うほかない。女系の空気を生理的に受け付けない線の細さが敗因か。
冒頭のプラットホームで導入された見当識の失調は、かかる視覚がソン・イェジンに担われているにもかかわらず、認知症に因るものとはされない。では、認知症でもないのに、どうしてそれを思わせる効果を語らねばならないのか。物語は、ソン・イェジンをたまたまおそった災難だけではなく、より広範な人格の特性に波及し、普遍的なトピックを語るように思われる。つまり、認知症であるとなかろうと、物語の運営に耐える機能性がそもそもその人格に欠けている。
認知症を担う視覚の内面が、やがて語られなくなるのは自然である。しかし、ソン・イェジンの語り難さを問題とするなら理屈は反転し、内面を閉鎖したいがために認知症を語るような態度が見えてくるし、生活障害のスリラーがそこに伴われることを考えれば、彼女の機能性を生かす道が嗜虐的な方法を用いるほかになかった、とも解せる。才能ある土方、チョン・ウソンの綿密でこれ見よがしな機能描画からしても、物語が認知症というタームに託した機能性の欠落一般という、いわば人生の動機の造形が窺えるようでもある。
プロットワークは理念上、嫌みなほどに合理的であるが、かかる生真面目な計算高さのためか、語られる風景は硬質で無菌室状である。付加を与えるほどに情緒がストレスを与えないと思えば、ごく真っ当な歓楽劇である。
70年代で停止した身体があり、その脇で生活を営み生を全うするブシェーミがいる。PTSDのmomentumは発見されず、70年代ともPTSDとも無縁なブシェーミが巻き添えを喰らうことで、被験者から波及する効果が語られる。
ブシェーミは会話に介入することはできない。しかし、70年代で停止した身体が線形で不可逆な運動であるところのボーリングを実際に行う風景は見あたらない。それをなせるのはブシェーミだけである。停止せる身体の停止せるを把握するための準拠点がそこにあるのだろう。
生存した、過去を生きるおやぢどもは、停止するがゆえに死に至らないのかも知れないし、あるいは、ブシェーミの灰が反転して彼らに襲いかかるように、かかる身体は既に非生存と同義であるようにも解せる。逆にブシェーミからすれば、灰になることでようやく停止したボンクラどもに介入し得た、ということになるのだろう。
お話もここまで来ると恋愛AVGの日常劇みたいなもので、トニーのウインクやアンソニーの微笑に赤面したり、エリックの意図不明な「ははは」笑いにうっとりしたり、アンディの引きつりを愛でたりと、それ以上のものは何も望むまい。
もはや思い出の中でしか出会えないおやぢどもと頻繁に邂逅し得た意味では、かかる回想を可能としたような、後期アンディの神経質な童貞演技は十分に活用されたといえる。また、繊細と罪悪感に基づく回想が、アンディへの加虐プレイとして返ってくる辺りも効率的である。アンディの内面で生存するほか無いトニーのモテ演技は神懸かりなのだが、それはひとえに、アンディの内から溢れる、焦燥する童貞の想像力あってのことであった。
童貞の想像力は、回想の忙しげなさに着目するなら、かかる頻度自体が物語装置の隠蔽工作として利用されたようにも解せる。われわれがアンディの内語から余りにも頻繁にトニーを見出すといっても、それは想像と回想として処理されているに過ぎず、何らかの緩衝や情緒の油断がある。結果的に、その頻度がかえって、終幕に去来するリアルタイムの時間の鮮度を保存するように思う。
希薄なレイヤーをまとったに過ぎない古ぼけた入射光を眺めれば、性急なコンポジットが風景を解体したように思う。しかし、自棄気味に入るトニー・スコット調のパラがフレームに不穏な影を添えると、表現の技術史に取り残された語りの間隙を補正しようた試みも思わせる。そして、晴子おかんの背後に広がる浜辺を見遣れば、海は嵐とも平穏ともつかない不明瞭な韻動をたたえる。
語りと光学のアナクロニズムが時代を越えられなかったのは疑いがない。ただ、風景の質感を分離し、フレームそのものを分割し、やがて話者の分裂へと至る多様性が、無分別ながらも表現の淘汰圧に耐久した風もある。風景の分離と統合を越えた、蠢動する不定型な質感は、時間をかろうじて乗り切った表現の残滓だったのか。あるいは、意図的で老練な光学制御の賜物だったのか。
視覚情報上、怪異な面持ちの割にシナリオ・ワークは常識を配慮するようになっていて、美鈴ちんの白痴度は低下。ゲームの猟奇的な情緒の高ぶりは皆無だが、こちらはこちらで可愛らしく、色々な意味で観鈴ちんぴんちである。
才能あるエイリアンの特異な運動を認知するためには、観測点としての常識圏が必要である。ところが、物語の定点となるべきキューザックには妙な虚栄癖と恋愛癖があって、なかなか観測者の常識圏を受け付けてくれない。だから、才能にとっては社会に居場所を見出すお話だったものも、キューザックにとってみれば、物語の常識圏を見つけて物語の観測者や自分自身と和解する話となる。すなわち、才能の備えた人格に好意を抱き得たことであり、かかる才能と自分に正当な評価を下し得たこと。彼を常識圏に登記したのは、人格に好意を抱く人格もまた好意的に語られうるフォーマットである。
才能は、語り手の能力を超えているので、彼のアイデアそのものを開示してはならないし、また、開示することもできない。才能は、断片的な情報を逐次的に投入できる態度だけで表現される。したがって、劇中劇のメイキングが終わり物語の運動が止まってしまうと、どんな形であれ才能の頓挫が語られかねない。ただ、ここにも才能ある人格の限界と言うよりは、むしろ、能力を超えた者を直截に語れないわれわれの限界があるようにも解せる。常識圏に立脚する観測者は、視界の外から闖入してきて一時的に空間を共有し、やがて圏内から離脱してゆく何かとしてしか、この種の人格を把握するほかないように思うのである。
刀剣を使いたいテクニカルな願望が時代劇のジャンルを超えてしまったとき、殺陣の合理性をシナリオワークから考え保証したのが、何だかんだ言っても北村龍平の偉いところであった(『Versus』)。つまり、時代劇に依存せずに徒手や刀剣の使用を合理化するには、という伝統的な話題なのであるが、佐藤信介がこれをやってしまうと、良くも悪くも即物的で刹那的な作劇となりがちである。シューティングスタイルが確保されるのに不自然な時間が要されるのは理解され、したがって、刀剣の使用は説得的である。しかし、銃器を扱う遅滞した動作とカットの連接について、その場限りの視覚情報を越えて説明しようとする動機はない。ただ、そこにたまたま、そういう文法があったにすぎない話なのだ。
法則に準則せねばならぬ態度が禁欲的ならば、制約なき刹那的な語りは欲望の裏返しでもある。一人暮らしのさえない俺様の元に、手負いの釈由美子が転がり込んできて、俺様のベッドで看病イベント。俺様の目の前でお着替えイベント。女の子らしい格好イベントで「似合ってるぜぇ!」。次第にダウナー少女の釈は、俺様に心を開いてゆくのであった......。改変前の『英語でしゃべらナイト』を観たりすると、けっこう面白いのではないか。
ジョニー・トーをコントと割り切ってしまえば、これほど楽なことはない。サイモンのニヤケ顔をゆったりと愛でることはできよう。ただ、コントと解すことに躊躇したいこともある。コントとして志向しないところから始まった笑いの、その「コントではない本気印」が、何故か病理的な場所として現れてしまい、何となく不安を覚えるのである。サイモンのネジが一本抜けてるのは仕方ない(当然)としても、サイモンに代わり常識圏を作ると思われた彼の部下どもにも何かが欠けていたりする。誰かまともな人間はおらぬかと見渡せば、そんなものはいない。物語自体が世間の思考を否定してしまうホラー映画があり、ある意味、ダニー・リー風の香港映画らしい相対感覚もある。映画が世間の思考を思い起こすのは、少年の自転車が深夜を通り抜ける時くらいで、逆にいえば、彼らを世間に定着させるべく、自転車は深夜を徘徊せねばならぬ、とも解せる。下手にバランス感覚もあるのだから、余計に訳がわからない。
DVD特典にあるジョニー・トーのインタビューはいつも面白い。コントでありながらどこまでも本気でいることのできる、ふつう人の達することのできない感覚が、天然のままに語られている。このとぼけたおやぢは、何か意味の通ったことを言ってそうでいて、まるで何の意味も成していない。世界というものは不思議でむつかしい。
当事者になるまでは、なかなか危機を実感し得ないものなので、如何様に語れば彼を当事者として認知してもらえるか、ということを考えたくなる。
たとえば、トム息子のようにプロジェクト描画へ参画する意志がジャンルムービーとしては望ましく、さもなければ、身体に致命的な損壊でも被ってほしい。もっとも、トムっちが執拗に息子をとどめるように、前者の方策に対して物語は禁欲的である。
後者は後者で誤謬があり、致命的な損壊を被った時点で、自らを当事者として把握できる視座を失いかねず、そうしたら当事者も糞もない。これはまあ極端な話だが、ただ、プロジェクト描画を使わずして当事者の語りを導入する困難は想像されるし、また、かかる焦燥は語りの対象たる人格の感情に転化しても良い。すなわち、車窓に映ったトライポッドとトムっちの顔面を隔てる空気の層。鏡面を壁にして身を隠蔽しうるセンサーの感度の悪さ。あるいは、窓にぺったり張り付いてしまうピーナツバター。つまりは、危機を把握できず当事者になり得ない苛立ちである。『グエムル』のソン・ガンホを語ったフォーマットと似ている。
菅田俊が好ましい。三下の小指をリズミカルに刻んで行く、板前風の精度と態度が素敵だ。下士官や中間管理職の美学であり、あるいは、職人やエンジニアの好ましさ、といってもよい。
追っ手の菅田がエンジニアだとしたら、追われる岸谷はマシンそのものである。几帳面に拳銃を室外機の上に並べ黙々と機動隊に発砲する運動は、ジャンプカットで処理された結果、もはや機械同然だ。汚物まみれで美木良介を狙うに至っては、彼の意図は問題とされておらず、ただ、体が勝手に動くだけである。行き着く先は、あり得ない膨大な血流の奔流であり、そこになすすべもなく流される身体だ。
如何にも三池らしいメルヘンを即物的に解せば、人間ではなかったことが物理的に実証された、ということだろう。が、彼を墓場へと運んだ血液の洪水が、自らの損壊した身体に発していることを思えば、自動化が循環し自己完結し得た風景も見えるようである。
谷啓は若者に理解のある上司っぷりでお話を浮かせるし、寺島進も軽薄な苦労人振りでそれを支援をする。娘の写真なんぞ取り出す辺りは、さすがにイヤらしく、あるいは、イヤらしさ余ってかわいい。そういう意味では罪がない。
無害な善良さが憎い、ということはもちろんある。だが、善良を演じる作為が鼻についてしまう、ということもある。芝居があくまで作為的な所作と解されるのは、フェイク・ドキュメンタリーに近接する語りあってのことだ。記録映画を志向する天然の素人芝居と職業的演技者が遭遇し、意図されたフォーマットの誤用が発動したとき、ドキュメンタリーのルックを受容すべく、強烈な作為が始まる。
フォーマットの掛け違いが、作為的な意図を産んだとすれば、かかる作為を打ち消すのも、また別の作為であり、掛け違いである。作劇の眼差しが風景にとけ込んで、誰も見てないと想定される舞台で演技の始まる、あの劇中劇だ。
その、もっともドキュメンタリーであって然るべき場所で、演技者は初めて、ドキュメンタリーに相応しい演技をやめてしまう。作為が作為であることをもはや隠さない。
本編のフォーマットを超えてはならない劇中劇の制約が、作為が作為であることを隠そうとして作為する本編と対比を為すことになった、と思う。
スリラーを支援すべき人情芝居が肥大化して、逆にスリラーを腐蝕させた風にも見えるし、あるいは、國村準のツンデレと出会いたいが為にただスリラーを導入するといった、歓楽劇に対する刹那的な態度や割り切り方が試されたとも解せる。もっとも、國村準から離脱した眼差しが地上へ登ってしまうと、物語は準拠枠を失うこととなり、スリラーとも人情芝居ともつかない不安なコントの象徴、西村雅彦と遭遇してしまう。ジャンルの逐次的な投入で語りを持続させる戦略が、結果として、見えてくるように思う。
暖色に埋没した風景はモノクローム調で息苦しく、色彩はかえって失われている。光彩が取り戻されるのは、ブレーカーの落ちた船内や深海の闇にあってであり、そこで、色彩ある風景は懐古的に回復されるほかない。あのけばけばしいジャガーザメが、闇の中から現れねばならぬ事情もそこで了解されてくる。
ブルーノへミディアムより近くフレームを寄せてはならぬ警戒がある。魅惑されてはならないのだ。おやぢは、手前の被写体越に発見されねばならぬ。恐る恐るアップショットになるや、フレームは速やかに離脱せねばならぬ。それは、視角配分の多元性から現れた距離感の混乱であり、かつ、愛らしいほど臆病な政治的配慮の要請かも知れぬ。が、情報開示と力関係の工学からいえば、被写体の内面から視角が退くほどに、人垣の向こうに見え隠れする被写体の優位性は強固になるようにも思われる。政治への配慮が、視角を担う者が決して当事者になり得ない、寂しさと安堵の混交する微妙な空気へ昇華/誤魔化された、ともとれる。
社会的な認知に関連した、かかる類の寂しさは、裏を返せば、パブリックな被写体が、ふと、こちらの私的な圏内に入り込んできたときの、あの強烈なはにかみの物語でもある。そこで、距離感の混乱は混乱ではなくなり、情緒喚起の官能的な運動として語られてくる。
政治への嗅覚が、白痴の娘を健常者として処理してしまう、邪気のない倫理上のエラーを見たとしても、あるいは、語りという論理的な生成物が、かかる事態に介在するメルヘンの容易さと規則への寛容のもたらす、ごく即物的で技術的な事柄を畏れたとしても、いずれは、モンタージュやフレーミングの不整脈へ至りかねぬ。が、不穏を内包せるその風景は、また、別の規則によって運用され分割された語りの違和感とも解せる。
たとえば、フレームの隅をふと横切ってしまう、石橋蓮司の奇態した影。こんなものに入ったら妊娠するではなかろうか、と恐れ悦ばせる、西田敏行と一緒の露天風呂。そして、これほど動揺を誘うショットの数々もないはずだが、その不穏が、かえってフレームを安定させてしまう不可思議。
個々の風景の不穏と調和は、語り手と観察者のごく個人的性向に帰しても構わぬ。不安に感ぜられるのは、むしろ、かかる語りの流儀が集合して作る風景群と、メルヘンな恋愛AVGを恐れ扱いかねている不安定な語りとの間で、明確な分割線が引かれていることだ。サイケな光線を噴出させる迄に至るメルヘンへのおののきと、被写体のサイズすら変えることで、メルヘンを一種の劇中劇に変えようと欲望する、西田敏行その他の牽引力と彼らを眺める微塵のブレもないフレーム。
それは、佐々部清なりの、メルヘンを生活圏へ定着させる試みであった、といえるだろう。恋愛AVG風の不穏から、おやぢの肉体に逃げ場を求めた語りは、西田敏行の嗚咽顔どアップショットに至らねばならぬ
諸人格に対して割り当てられる視点の公平性は、政治性に対する物語のバランス感覚(=ナイーヴさ)を経由するものであろうが、物語の観測者には、それこそ、タイムラインの整合性を無視してまで、これから行われるだろうプロジェクトが執拗に語られるために、実際に事が施工される際、それはもはや既知物の再描画に過ぎなくなるほど、情報の開示が過剰になってしまう。
未来の詳細な予見が、スリラーに如何なる寄与をもたらし、いかなる損失を与えたか、判別にはむずかしいものがある。だが、人格を公平に語らざるを得なかったバランス感覚は、情報の配分に関しても、また異なる次元で、配慮を見せるほかない。開示された情報と拮抗すべく、秘匿される情報もあらねばならぬ。タイムラインをノンリニアの戦場と化した時間に対する制御への意志は、光学情報の場に至ると、被写界深度への極端な介入として現れるのだ。
複数の場所を共有する物語の観測者は、人格の視界の外にある情報を知っている。ところが、フレームにある人物個々の視角に目をやると、彼我の情報量は逆転しかねない。DOFが浅いために、観測者にとってみれば、場が霧に包まれたように、被写体の背景情報が制約され、たとえば、被写体が光学的に把握している、廊下の向こうからやって来る物体を、観測者は詳細に認識できぬ。情報配分の公平性は、かくして、未来の過剰な開示にあってもスリラーという観劇の活用できる途を、そこで見出したように思われるのである。
ジャンル枠から零れ落ちそうになる田宮二郎の暗鬱な自意識を60年代大映天然色が焼きつかんばかりに照射する勝新の肌が抱擁するどころか、海辺で浪花千栄子にぶたれたいものだわい、とかえって別の禁忌へと迷わせる。
タコ社長の中小企業経営者の苦労を寅が攻撃することで、寅の急所がかえって逆照射される。この過程をドライヴさせるのがおばちゃんの母性なのである。おばちゃんの母性が母性の天然のままに事態を社会経済と接続する。この世間知のスケールがとらやの茶の間に浸透してさくらが感応し事態を総括する。
徳重聡の自宅に押しかけて愛らしく茶菓子をかじる國村隼や上品に弁当を使う岸部一徳らの技巧が、渡のジャンル俳優であることの野暮を際立てるように、異種格闘技戦の趣が強い。しかしこの野暮が最後の「めりぃくりすます」で、野暮ゆえの恥辱のうれしさにつながるくやしさである。
道徳教材映画の図解性が、やはり作家映画というべきなのか、タンディ・ニュートンのセクハラの叙述に見られるように肉感志向への信頼へと互換する節があって、この趣向が、天使の話で張られる伏線への警戒をペーニャの大げさなわななき顔が強引に突き崩してくる顛末を導く。
船越英二が何の仕事をしているのか、全くわからない。にもかかわらず局内の情報量は壮絶だから、亡霊じみてくるのだが、一連の現象をインフレ社会の余禄と解せば、時事映画として正当な叙述を獲得しているようにも見える。
清張の怨念庶民主義のフィルタリングを試みた結果の化学作用なのだろう。庶民のグロテスクな外貌を定着させられてしまった加藤嘉が事を階級映画にしている。山形勲&志村喬と加藤嘉&南広の間に超えられない壁がそびえるのである。
田宮二郎の不穏を脱ぐことで別の不穏で以て誤魔化した前作だったが、ファーストカットでいきなりフンドシを大写しする割に、今回の勝新はあまり脱がない。田宮は自分の不穏と対峙し、それを自ら制御すべく、妊娠発覚時に織りなす器用な顔面操作技術に見られるような、焦燥を重ねる。
伊藤大翔を蔑むテリーの息子の眼差しが艶っぽく、開拓されたくない趣味が開拓されそうになって動揺するのもまた一興だが、ネクロフォリアはカウンセリングの領分じゃないかと、リアリズムの水準を疑いたくなる面もある。
面の皮の厚さが、ガンホに現実を認識せしめないようでいて、なにか彼に痕跡を残しているようでもある。こうした解釈の余地を使って、哀しみの余韻に誘導する手管が上手いし、やさしくもある。
喫煙をこれ見よがしに記号化する欲望が「君も女装しなきゃな」云々と戯れる、クルーニー×ストラザーンのボーイズ・ラヴと恐らく同質のものと目されるから非難はできないが、そうこうするうちにマッカーシーの頭に目が釘付けになり始めるうれしい不条理。
不二子と秋桜子が体を張るほどに、何もしない野村宏伸が浮上するように井口昇だから男性映画である。荒川良々も『恋する幼虫』からの、スターシステムを利用した救済という意味合いが強い。
南原宏治の天然が虐殺を招来したというもともと綱渡りの感のある筋が、社長加藤嘉という社会地位的ミスキャストが加藤嘉虐待映画の最高峰『砂の器』の前哨戦ともいうべき不幸の蓋然性に落とし込まれる運動に組み込まれ、映画という現象に到達している。
どんどん自決する件とか、自殺の衝動性を考えれば、ありえない挙動ではないのだが、こういうものは、通常、物語に落とし込む形でその衝動は合理化されるはずだ。ところが、この話は、そういう細かいことをしないで突き放す。要は、集中力がないのだが、ないがゆえに不気味な迫力になってしまういつものパターンが、前作とは違い顕著に出ている。
赤井と若山の戯れの背後から顔芸ひとつで画面を支配する國村隼に実業の強さを見てしまうと、その國村をいぢめ追いつめる庶民主義とは何かと憤りを覚える。
虚業という業界人の根源的課題に立ち向かうべく、フィクションが人類に貢献したとフィクション内で訴える自慰ギリギリの綱渡りを支える、狂騒する丹波をしり目に寡黙に対策本部で髭剃りに興じる鈴木瑞穂の胆力とそれを全力でぶち壊しにかかるDVD特典「中野昭慶、爆発を語る」。
屋上で勝負していて、一カットだけ、別の屋上から撮ったロングが挟まる。オッサン、考えて撮っているなと、ついつい当たり前のことを思わされてしまうほど、訳が分からない。素晴らしい話だが、この、屋上の場面とアーロンとルイスの乱取りがピークアウトになってしまい、終わりは冷めている。
自らがサークルをクラッシュさせたという話の求心点に身を置きながらもボーイズ・ラヴを観察していたい。当事者性を温存しながらも観察という傍観の営みを試みたい。バスを必死に捕まえようとする香川照之が一種の緊張になってしまうのは、彼がまさにこの語り手の邪念から離脱しようとしているからだろう。
星由里子も水野久美もなびくものだから、加山雄三が憎々しく、佐藤允の安心感もこの悔しさを中和できないのだが、これは、加山雄三の性格の悪さを、成瀬と同様に岡本も、意図しない形であれ利用できている証左でもある。
円谷が本編演出をやるという恐るべき事態の下、石坂浩二がソーリという着ぐるみを、トヨエツが田所博士という着ぐるみを被って演技するという隔靴掻痒の中にあって、國村隼が器用に難を乗り切る。この大人たちの阿鼻叫喚の中、草なぎが魔法のような空間移動で自身の特撮的身体を露曝する。
性格の良さというか、汚染されなかった人間の内観という、理解の及ばないものを表現するために投入される膨大な情報量に圧倒される。桂樹のみならず、直木賞を祝福する天本英世の穏やかな善意も鑑賞に値する。
私的財産批判からわかるように、図式的な話なのだが、この論理性が話の明快にしている面もある。同時に、明快さと感傷は対立しかねない。われわれが、あの浜辺で出会うのは、シナリオ構造の論理性と感傷という相容れないものを邂逅させる、技術なのである。
長澤まさみが、そのグロテスクな身体を利用せずとも能力を発揮できていた時期なので、なぜに体を売るようなことをと、これまで間接的にしか現れていなかった彼女の形姿自体に戸惑うとともに、その露曝を訝るのだが、やがて、いや、この話の低調さでは露曝せねばならぬか、と納得したのである。
現場の凋落がもはや映画の質感を維持しえてない一方で、役者たちが奇妙な爛熟期を迎えている。西村晃はすべてのカットで途方もない運動神経を発揮している。平田明彦のメガネを直す挙動のスピードも、中村伸郎の冷たい励ましも壮絶だ。
加藤嘉が幸福になりますように、間違っても落命しませんように、とスリルを覚えつつも、須賀不二男の「ふふふ」笑いの虜になってしまう三隅研次のprofoundな語り口である。
三船を含め天領の安い年貢でぬくぬくとしてきた百姓らには深みがない。が、幕臣軍団の深刻劇で彼らが浮き始めると、思想を表現できない苦しみが理解もされてくる。
裸体を挟んで禅問答するコントを、天知は余裕の構えで演じ、対して雷蔵は大まじめにやっている。結果的にどちらが物語に資するのか、永遠の問いかけがある。
「時に、君は女が好きか」とか「まさか金ぢゃないだろうな→ところがそうなんだ」と 加東大介の身体が森繁の思索を半ば担う、事実上社長シリーズ裏番組の捩じれに、小川真由美の女難化も納得である。
他人との比較で奇抜さを表現するのはたやすいが、一人っきりで居るとむつかしくなる。書斎で独り座ってるシーモアは、気まずさを持て余すようでもある。
長回しの緩慢さにあっては、車のドアに蹴られてゴロゴロ転がってゆくような直線の運動に目が惹かれる。ともかく事態に過大な情緒付けを行いたがる真面目さが直線運動の意図せぬ喜劇性を倍加するのだ。
東洋人のコーカソイド劣等感を煽る野際陽子に抱かれる苛立ちがパン助め的なものなのか、はたまた加東×雷蔵(逆か?)のボーイズ・ラヴの障害となるからそうなのか、この混線でますます彼女が鬱陶しくなる。