映画感想 [1101-1200]
香川京子の媚びに反応しない長谷川一夫の中性性と女難を察せない無能力への苛立ちは、女難に気がついて逃れようとするあの俯瞰の坂道をスリラーの文法で捕捉する。男が逃れられないと悟ったとき、中性的鈍麻は性欲の猪突猛進にすり替わり、破滅願望という文芸的帰結に至る。
雷蔵の支那語とコスプレの愛らしさに、加東大介が食われるではないかと不満を抱くも、この支那語が黒幕スタイナーの日本語芝居を愛らしく享受させるための導管だったという壮大な曲芸である。
温厚な人格を継続したままに恐怖政治を成し得た加東大介の神秘。尻切れトンボないつもの終幕も、加東の幸福を存分に温存できた意味では安心感過剰である。
感傷の平明に覚えた反俗謡調の物足りなさが、このケリー・チャンの余裕はまさか、『アウト・オブ・サイト』のジェニファー・ロペスのような壮大なボーイズ・ラヴ計画の現れではないかという気づきとともに、後味の好い混乱に変わる。
コーカソイド恨み節の土着的リアリズムをこう高らかにしては、自己憐憫の露曝にならないかと不審を抱くのだが、メルヘンの直截さが照れ隠しになっているあたりに、語り手の自意識がある。
エロと背徳感の間を反復する、肝臓の不安定なアルコール分解性能。雷蔵は畳でゴロゴロするだけで、どこまでも場を持たせる。
縁に恥辱せる乙女連を配置し、安易なメルヘンの導きかねない不穏の狭間を適度な悶えで中和するところがシナリオワークの進歩。床を転がる運動や弧球に直撃された顔面振動の速度も豪放で表現のフォーマットに適っている。
三船の大根を不器用な情愛に転化して爆発した恐るべきツンデレ群衆劇。初な大人どもの心理を手玉にとる童貞王、黒澤の面目躍如である。
のらりくらりと常識を突破する緒形のほのぼの感がかえってホラー映画。子どもや動物の虐待もの耐え難いが、度が越えて劇画調になってしまうとストレスは軽減されるようでもある。
夕暮れ、ひぐらし、輪縄、毒団子、ガス、刃物。マンガのようなガジェットで加藤剛の内宇宙と外宇宙をつなぐ魔窟・岩下邸で試される肉欲とストレス耐性の釣り合い。
いきなり直球のクライムムービーになだれ込む呆気感を、浮気修羅場の不快度でバッファしてしまうのは職人の技だろう。ヨハンソンのイヤイヤな造形もさることながら、ブライアン・コックスの絵に描いたような善良親父振りも不気味で何げに効いてる。
シリーズに不穏をもたらし続ける田宮二郎のミスキャスト的佇まいが、フェンスに叩き付けられてほとばしる遠藤辰雄の放埒な肉厚や不快と好感の往来を高速で転調するミヤコ蝶々の舌調へと伝播し、勝新の裸体に端を発した肉体映画の本質を思い知らされる。
段々と難易度の上がる少年誌風情が、マーレイの牧歌的な青さと照応していて、好ましい生ぬるさと論理性を両立させている。
視覚的な情報量の過多と洗練が語彙を減らすかと思えばそうでもなく、野暮ったい詩吟と緩慢な対話劇の抑揚と人格のステロタイプが妙に偏頗的であり、戸惑う。
笠智衆の「はかないもんですなあ」でうっとりはするのだが、稲作文明の温潤な陰湿感が恐怖映画を謳いはじめると、儚げな回想フィルターが頸部を圧迫する真綿のように思われてくる。
現実がトリックスターを破砕してしまう様が、冷笑を呼ぶどころか、本当に嫌な感じがするので、これはえらい。黒い加藤嘉もショックである。
ごく個人的な、ある種のやおいが、見る見るうちに広汎化する様が、スケールを速度に担わせることで、表現されている。それにあたって投じられる莫大な資財に、映画であることの正当性の確信がある。
強者にハンデをつける形で、勝負の鑑賞性を高める方法論をとったため、勝負自体の質が低下する代償が出ている。檀れいの件も狭量さの発揮よりも、受容を選んだ方がコンフリクトが表現しやすいと思う。つまり、あくまで地に足をつけたい方針がみられる。
ホビットをオカズにした人間賛歌という歪みが、たとえばフロドとサムの前近代的関係の居心地の悪さという形で、多方面に波及している。ゴラムに至っては気の毒という他はない。
実録物の典則そのままに混濁する若者の場末感と意外に余裕のない大人たちの分水嶺で秩序をもたらすのは、高橋悦史の広大な鼻孔である。
佐分利、鶴田、松方、千葉、成田、文太って、この面子だったら関東どころか銀河系でも逝けるのでは、という前作からの違和感を、組織の凋落イメージでちゃんと合理化してやるところが偉い。原作の軛を外れた高田脚本はほとんどメルヘンである。
なぜか文太に舞い降りる近代的経営のセンスと地味に殺人マシーンと化した高橋悦史。そして、無垢な女学生の群衆に包囲され含み笑いを漏らす佐分利を以て、東映実録ファンタジーは極限に至るのだ。
ドラマ画質のセル素材が背景の質感と乖離して、スクリーンプロセスの味わいがでている。その齟齬感がウィリスの隔靴掻痒な行態とシンクロするあたりは、良くも悪くも映画的である。
怪獣映画の、三丁目の夕日な風景がヌーヴェルヴァーグの文法で切り取られているから、見入ってしまうのだが、それに慣れたとしても、脚本がそこに甘えていないから、興味は持続する。そして、福岡と熊本の県境の秘境ぶりに、怒涛のコント化。
キャスティングの不平はどうしても出るもので、トニーとアンディが普通のあんちゃんになってしまった落胆は仕方がない。ただ、アンソニー・ウォンがマーティン・シーンに変貌したのは地味に凶悪だった。ただの善良なおやぢにアレは効いた。
論理構造をそもそも気にしない禍々しい筆致に唯一抗し得たのは旭の恒常性である。直上で電球が揺れても、彼の影は微動だにしないのだ。ただ、旭とてもついには超然には構えられず、やせ我慢風情になってしまう清順の愛嬌は、今回は好ましかった。
看病イベントでも墜ちなかった(それがこのお話の偉いところではあるが)シャーリーが最後に気を変えても何で今更感は否めず、愛の信憑性が疑われる。のみならずこの尻軽さが許容された時点で、ジャックのせっかくの成長に負のフィードバックがかかりはしないか。
幸福の絶頂に達した三國がいつハート・ブレイクするか、これがものすごいスリラーなのだ。雪をかき分けるところなど、山田洋次の手管に感嘆するばかりである。
冒頭から呈示される戦争という大破壊の予感が、どう見ても退屈だろうと思われる分校編を不穏極まりないものにしている。男どもの墓標が地表に居並ぶ結末は、終末映画と見違うような寂寥感だ。
「ひさしぶりに男を味わってみろ☆」「ひさしぶりに一汗かかんか☆」――芦田伸介のラヴリィなセクハラをバックにさえずるは、丹波&三國&大滝の支那語三羽鴉。全ては満蒙の驚異的な自由度が可能にした想像の産物である。
北朝鮮建国神話の底抜けスケールを余所に、西村晃のセクハラ芸と高橋悦史の小物感が三國&芦田を補完して楽しげにフィルムを踊らせてしまうヘヴィ・コミュニスト薩夫の苦悩
俺の伍代財閥は何処に行ったのか。滝沢修&加藤嘉の鑑賞を頼りにノモンハンを堪え忍ぶ三時間であった。芦田と三國が健在ならば敗戦どころか太陽の赤色巨星化も乗り切れると思うが、高橋悦史だけはどうにかしろよ、と切に願ってやまない。
滝沢修イングリッシュのイヤらしい巻き舌が、三國の前頭葉を余裕でなめ回すのは当然としても、昭和の妖怪、佐分利信すら陵辱にかかるのはどうも納得が行かなかず、高橋悦史の腕一本で興業性の負託が凌がれている。
ブラッカイマーの物量体育家系が文系のあの切ない感傷を補足するべく怒涛の物量を揮って時をかける。その疾走感のもののはわれ。
ごく真っ当に監獄物をやるためのシナリオ的な頭脳労働と、役者の挙動という水増しの肉体労働がトレードオフする作劇の経済学である。
貧困が人を蝕むのは確かだが、その過程には多様性があり、それが芸になる。説話の緩やかな外延は優しさでありながら、時に悲劇と喜劇を紙一重に制御するように思う。
政治に敏感な眼差しとしては、肉体そのものに向かってはかえって気まずい。肉体はメカとセットで考えてやることで中性化し、それでも不足とするなら、運動 の線形そのものまでに抽象化したくなる。エンジンと瓦屋根、タイプライターの鍵盤と人の皺、そして重力に抗う筋肉と懸架のたわみ。
若山富三郎と岩下志麻の対比が混乱のもとで、オスの哀しさを抽出しようにも、若山の属性がこの文脈では定義しづらい。アクション俳優としての西村晃の凛々しさをかかる文脈が見出すのはよいとしても、やはりその捕捉は中途半端で終わってしまう。
威力偵察が早々に瓦解する喜劇のような速度からしても、回想をめぐる統辞法の混乱からしても、イベントの継起に人の思考が追いつけない。情報の洪水を物語の布置に整形する作業は、廃墟の下に残された負け組おやぢの仕事だ。
如何にもすぎて一見のところ俗物趣味な風景もセットも、イヤらしさが高じてコントの感受性と近似するとき、そこになぜか品位と普遍性が誕生してしまう。むろん、いつものパターンではあるが。
成熟社会の定常性を感じてしまう話で、いつもは真っ先に虐待される鈴木瑞穂が、大手新聞の記者席で狂言回しをしている。大滝秀治は法相で検事総長の加藤嘉と微笑みを交わす。山本組最凶キャラ、三國連太郎すらサヴァイヴ。山本学と高橋悦史はまあ仕方なかろう。
男を襲撃する中村玉緒の臀部の躍動に解剖学的所見を加える三隅のムッツリに抗して全く性欲を隠そうとしない雷蔵のギャクメイキング。三隅の性向は西村晃貫禄の猥談として実体化する。
盲目の蒼井優(!)から上野樹里の客死へとヒートアップする女性への強迫観念と才能への即物的な恐怖。性の政治学を隠蔽できない詰めの甘さを責めるべきか。あるいは、そうした青春の嬉し恥しへ身を委ねるべきか。
ほとんど猟奇ショーの言い訳にしかなってない文芸の装いが、かえって露悪的な歓楽を成田三樹夫の強烈な現場主義とともに充填している。
木下助監松山善三に高峰を奪われた成瀬の怨念が、加齢に伴いコスプレめいてくる佐田啓二と高峰を通して幻視される。窮極的には、植田調のようなモダニズムに撮られた灯台の傍らにたたずむ、遠景の幽霊のような高峰の姿として。
京マチ子も船越英二も機転とドジの配分規則が明瞭でなく人格のまとまりに戸惑いがある。
基本的に陰気な感傷でしか物語を編成できないのに、ミディアムよりサイズを踏み込まない場違いな慎みもあれば、機能性とメカに執着するリアリズムもある。 語りの空間を寸断するイデオロギーの錯綜に混乱するほかないが、現代邦画の垢抜けないキモさが段々癖になってくるのも否めない。
世代論に思い出と後悔、それに試合のルックの下世話な亀裂。ベタベタな人生の動機が、大根演技の自虐的な利用に濾過されてたどり着くのは、それらを統合して凝固する強烈な確信、つまり物語への素朴で古典的な信頼である。
戦闘力の差は明瞭で、対位法のスリラーは働きがたい。どう見ても野暮なモノローグは、したがって人格の強度を減じて公平なゲームを語るための必要悪であり、他方で隠し芸大会でもやって力関係の粉飾に勤しまねばなるまい。
アホな子の内面を分節化して物語にするのは難しい。だから、生産的に生きられないその苦痛が、循環し蓄積される生活の重量に内面の手がかりを得ようとするのは正しいのだが、結局のところ世間は娘の成長を待ってくれない。
人材市場のミスマッチでプラグマティックな地頭の良さが空転するありさまを殊更に政治化して嘆じることなく、むしろそこで語られる残酷な間抜け感を利用して、貧乏サバイバル劇に愉しげな色合いを良くも悪くも与えてしまう根性論である。
隠し撮りと本編画質の差異を保持できない緩慢な視感覚が恒常化したとき、結果として醸成された偏在する監視への覚悟と耐性が感受性を収束し、コテコテの恐怖映画を語る土壌がようやく出来上がる。ジャンルムービーを形象化しないと処理できない文芸脳の喜びと悲しみである。
過去が歳月を持たない記憶となったとき、青年は虚実の到達関係を立証しようと試み敗北する。光暈と修辞の凝固した地層は決壊し、思春期の殺人的な情報継起の体感速度(秒速5センチ)が宇宙を蹂躙するのである。
情報の空所を利用した流動性によって小市民の定義をひっくり返す方向性は理解できるものの、山田洋次の倍賞萌えがこじれすぎたのか、弁別の不能となった心理の扱いにブレがあって常人には少し荷が重い。
横須賀の起伏を利用した空間の快楽と小ぎれいに撮られてしまうドブ板通りの微温的なフォルム。情熱と技術の過剰がかみ合うこともあれば、的確な射像をなかなか得られず自らを持てあますこともある。病がすすむとかえって機敏になる丹波のように。
物語の蓋然性が耐えられるギリギリの限度まで荷重された好意の集積があり、グロテスクに至る寸前まで時間に抵抗する老人の成長がある。これらは、物語の職人が挑んだもう一つのレースだろう。
夫婦愛を高らかに謳いながら、発情した久慈には冷淡な森繁。フランキーの暴走に憤りながら、いきなり湖畔で爆唱する森繁。心理的な信憑性の土台を縦横無尽に透過するその身体の周りには、メタボリック妖精・加東大介&小林桂樹が守護天使さながらに浮遊する。
早々と反リアリズム化する肉体の開放感が文系のやせ我慢を包括できたかどうか心許ない。かえってクレイグの素性の同一性を担保し損なったように思われる。ただ体育会系と文系の狭間で両者をつなぎ止めようとする常識の地平(ロンドン)の狼狽振りと機能性は楽しい。
時間のゆるやかな流体を前にして動物クッキーもシリアルキラーも区別を失い、希薄な環境光は情報の輪郭を故障した自販機や食いかけのハンバーガーへ拡散させる。消費された時代はやがて愛すべき体積の広がりとして現れ、男を抱擁する。
空間を寸断するガジェットの密度と閉塞感に順応し流動性を獲得した森繁の身体と音節は軟体動物のように街路を放縦するのであるが、広がり求め上昇した視界の向こうには地獄のような書き割りの遠近感が立ちふさがるのである。
プロットの配列を細かに乗り継ぐ奇妙に世俗的なバランス感覚が訴えるのは、壊れたことの自棄と愉悦よりも、何をやっても壊れない自負と哀しみである。
倫理の貸借対照表というよりは道徳の信託投資。株式は我慢料。メインプロットとサブプロットを区別しない作りのためか娯楽映画としてはやや締まりがない。
円滑な世代交代に欠けるため、娘は擬似的にいつまでも娘のままで、人が時の指標になり難く、時間の樹形図は空間に代替されて語られる。回想の紙芝居は街路という形を得て定着し、迷路のような路地を駆け抜ける徒競走はプラネタリウムの弧球に至り全うされる。
何か途方もないことが起こったことに驚愕する広末の顔面が、われわれとGDP10兆ドルを架橋する感動。
ロバート・ヘルプマンの高慢な悪人面が素敵すぎるが、NPO女の恋バナが妨害工作となる。整序なきマルチタスクが祝祭のような喧噪で奏でるのは滅び行く中世の憂鬱な挽歌。
成田三樹夫をはじめ、悲鳴を上げるおやぢどもの通奏低音に耳を塞がざるを得ないが、サラリィマンの虐待プレイと馴れ合う内に、今度は優作の破廉恥な美的意図が拡大遷移。これは愛らしいというよりイヤらしい。
加藤嘉の、子犬のような潤んだ眼がまた堪らず、その咽ぶような声を聞いただけで、これから彼に降りかかるであろう不幸に暗澹としたのだが、意外と苦しまずに逝ったのでよかった……いや、全然良くないのだが。 健さんも除隊となり、池部良も味方だからと安堵したらそうでもない人の浪費と死体の山。これでは、人望が無能を隠蔽しているように見える。
本来なら明示を慎むべき死亡フラグを、もう自棄糞に羅列してコントじみたスリラーに昇華する力業。しかしトラブルが起きすぎてどうでもよくなる、という無常観もある。
固定したフレームが塗り重ねる光学の水紋と波。仮象のような情報の滞水層が被膜するのは汎性愛的な神経戦の傷ましいアクアリウム。
何が行われているのかわからない、というよりも、わからないという現象があるにはあるのだが、それが課題となっていることに気づかない。したがって、結末で、わからないことが簡潔に解説されると、判明した心理に感動があるとともに、それが課題だったのかという驚きもある。
舞台に密閉され乱反射する赤い空の鮮烈な階調と霞の向こうに散乱し色も形も失った風化せる身体のカウンターバランス。クローズドな生活の循環が終わり色彩の粘着質が解体する様には陰気な開放感がある。
融解した加山の脂身の海、その浜辺で高峰のストイシズムはラブコメを越える。
肉体がプロ根性を記憶する階梯は終わり、身体は合理的な無意識に委ねられ、ダラダラと遊泳する。その軌跡を追うフレームの美しいカーブとフィラメントの光彩の眠るような緩やかさ。
三橋達也の期待値という不明瞭な魅惑に新珠三千代が吸引される微細さが壊れはしないかと、河津清三郎の隠しきれない脂質まみれの恰幅を川島の洒脱が取り繕う、言い知れぬ緊張がある。
コロコロとフレームに近寄るロートンのゴムまりのような肉厚と昇降装置への異常な執着。流体のように運ばれる証拠調べと証人の足取り。老人たちの陶酔と戯れは法廷の厳密な幾何学に従って光学的な配列に介入しその遠近感を担う。
高倉の逆さ煙草なダンディズムと野豚のような勝新の鼻血まみれな被虐紀行。ホモとヘテロの間で引き裂かれたセクシャリティが梶芽衣子の機能性を捨て石にして回復されるハードライトな夏の日々。
構造化できない時間と妥協し共生を決意した、哀しいまでに明朗な生活感。
地上を這う個別的なショットと遠景の物語視点をつなぐフレームの目まぐるしい円環軌道。輪舞のような景色の渦動感に形を与えるのは、中産階級の生態観察へ注がれる好意に満ちた眼差しである。
愛の信憑性は人格の継続性を失うことで逆説的に強化される。
感性の危うさで人格を造形する戦略なのに、漸進的な凋落は視圏の外で知らない間に進行し、事件はいつも唐突すぎる。図解的なカメラと素朴な知性は、事をスリラーとして処理するほかない。
セキュリティを担保しほのぼのと事件を押し込める店頭取引と水道局のカウンター。鮮烈な雪の反射光を封じ込めるのは寒々しい青のルック。ぬるま湯なのか、閉塞感なのか。
光と空間の叙述がある閾値を超えたとき、情報の作為性の悪乗りは止まらなくなる。ゲイリー芦屋の劇伴も全く自重せず、「志村うしろうしろ」で腹筋が割れる。
ウォーターベッドに抗い悶える迅速な所作に見られるように、成長と退潮を器用に繰り返す行き場のない活力が若い。
光彩の優しい重さに付託された選択と行動の淘汰圧から、意図と計画の整合性がふとと浮上したとき、自嘲の諧謔は北国のド演歌に乗って昇華する。
状況を文芸的に評価するにはある程度の余裕が必要で、貧困が重すぎると生活の技術論に終始してしまう(それはそれで面白いが)。伴淳三郎が見せ場を奪うのも頭師佳孝が使い捨てになるのも尤もなことで、三谷昇に至っては勧善懲悪の爽快さが炸裂。
小日向文世の嗜虐プレイが加瀬亮の成長を加速させた挙句に吹き飛ばし、オッサンの意地を虚無主義にまで近づけてしまうと、物語はおぞましい恐怖映画から逆に解放されるようである。過剰な警官の隊列といった、ほのぼのとしたデストピアも趣がある。
やつれた生活臭に宿る木暮実千代の強烈な色香といい、川上康子の「壁をナメて怯え」プレイといい、マニアックなのである。
冷淡さは単純化の賜物というよりも、逆にマンガ分が足りない印象があって、恋愛の決壊がぶおおおっと露呈する件で特にそう思う。
観察に値する課題が提示されないからか。ウェルシュコーギーのもふもふ感やトニーのマザコンプレイといった細々しいものが引き立っている。
顔ひとつでどこまでも笑わせる仲代はうれしくもイヤらしいが、静物的な鴈治郎を使ってどうスケベを叙述するか、となると表現の難易度はより高まるし、血圧計の助けでも借りたくなろう。
身内や幼なじみがライブで騒ぐか、という疑問があって、その親密さの地誌が物語を作りもすれば、その偶発性がスリラーをないがしろにもしている。
然を装う造形のイヤらしさから分岐する不明瞭な陰影の冷気と、電車が併走するようなくすぐったい力学の浮遊感。
シリーズを通して蓄積されてきたモチーフが言語化されていて、しかも明瞭化が感傷を損なうどころか、それを増幅している。惜しむらくはマギーの退場で、以降、危機感が弛緩するきらいがある。
軟化した脳が文節の不明瞭な海を穏やかに遊弋している。
仲代達矢と中村鴈治郎が人格性を競いだしたら結果は自明で、むしろ鴈治郎の重量感に雷蔵が巻き込まれる様に悲喜交々。
香川照之の癒し度が尋常でなくなるほど、木村大作が憑依したかのような龍平の性悪さが際立ち、けっきょく最期までその造形を信用できず話に身が入らなかった。宮崎あおいの物腰も芸妓と見紛うほど場違いでぶきみだ。 こういう不穏な人間関係から一歩引いた仲村トオル一派にかえって安らぎを覚える始末である。
ICUのアラームを使って事件の進捗を語る音響のドキュメンタリズムがわけのわからん内に現代邦画の深淵に飲み込まれリンゴの木を植え始める。ネタの割れた後がまたさらに長く、圧迫面接のごとき意味のない試練で劇中の人びとをストレスにさらす。
浜村純に限っていえば、たわいもない痴話を事件の動機にするのは飛躍だと思うし、そこに観念化の危機がある。手切れ金を渡す件になるとキザすぎて見てられない。逆に乙羽信子の切迫感は理解できるし、だからこそ最後には話はエンタメに至ることができる。強盗よりも入院手続きの方がよほどスリラーなのだ。伊藤武夫の絵はこの危ういプロットを堅調に粉飾している。
ハイディ12歳の出木杉な作り込みはややもすると浮世離れで、ライターの趣味趣向につき合わされる心地を覚える。事件が子どもを聖化する手段になりかねないのである。理想化された娘の造形を執拗に語るそのまなざしはやがて風景へ転用される。エンタメを社会派の疑義から救うのは、北米郊外の風俗を観察するまなざしの解像度である。キューザックのいら立ちを誘う顔芸は堂々の横綱相撲。
小日向文世がカツラをまとい、渡部篤郎がニヒルに笑えばそこは異世界。この大人たちがマンガであることを徹底するからこそ、加瀬亮と岡田将生の不毛なダイコン畑に色彩が添えられるのである。