映画感想 [901-1000]

 監督:押井守 製作国:日本


スカイ・クロラ
 加瀬亮の視点で菊池凜子を観察するのか、あるいはその逆なのか、最初の方では視点の整理が曖昧である。凜子のエキセンな言動を加瀬が観察すると思えば、凜子の方は、加瀬のしとねをクンカクンカし始める。視点の境界が緩いのは事情があって、後に凜子と加瀬の力関係は逆転し、話の視点は加瀬から凜子の方へ、記憶を継承するキャラの孤独に寄り添う形で、移動する。この前提があるから、視点が動きやすいように、その境界は緩やかに設定されている。ただ、ティーチャーにおいて顕著なように、キャラの強度がその人の視点を排除する原則からすると、加瀬の強度が視点を排除する実体を伴うわけではない。このアンバランスは、よく言えば、ティーチャーに決して嫉妬しないような、不感症の飄々とした人徳性を醸し、また、視点分割の緩さも、そうしたキャラ描画の一助となるのだが、悪く言えば、栗山千明がたらしこまれる件で顕著なように、イヤらしいの一言に尽きてしまう。

 黒の報告書 [1963]
 監督:増村保造 製作国:日本


黒の報告書
いかにも童貞然とした宇津井健の下腹部が、叶順子の性急な官能に動じないのはおかしい。あの一種不満らしい軽蔑と確信は、そもそも自分が童貞と気づけていない無感覚の産物かも知れん。したがって小沢栄太郎が降臨して、宇津井を手玉に取り始めると、ああやはりこれが世界の正しい姿だと涕涙下りつつも、魂は安らかになる。

エリート恨み節の殿山泰司と宇津井の四畳半すき焼き交歓会も、童貞という文化が分かち合えてのことだろう。宇津井が健忘で正気を保つとすれば、彼と叶のかみ合わない猥談の傍らでひたすら調書をとり続ける事務官や殿山は技術と規律によって正気を保とうとするのだ。

 監督:ミシェル・ゴンドリー 製作国:アメリカ


僕らのミライへ逆回転
 モス・デフの造形的な負い目は言葉で説明されるものでしかない。あるいはジャックの妨害工作で生じたものでしかない。ジャックの方は戯画的なトラッシュ振りで人生の負い目を示唆はするのだが、そこはあえて彼のドンガラしか写さない。内語を明かして不満を露呈させるイヤらしさは避けるが、代わりに商業的意図がわからなくなる。この辺は、ジャックの観察大会にかまけるあまり、最初のサブプロットで物語のセットアップを20分にわたり放置するほど徹底している。せっかくカタリストがあっても、計画と噛み合うべき人生の負い目が、生活のほのかな貧困でしかないなら、造形と地誌の遠近感までぼやけてしまう――たとえばクローバーのレンタル屋とTUTAYAの幾何は? もっとも、最後までジャックは自らのドンガラしか提示しなかったゆえに、かえって試写会で街のトポロジーの参照となり得てしまい、一矢を報いてはいるのだが。

 監督:セルジオ・レオーネ 製作国:イタリア


続 夕陽のガンマン 地獄の決斗
 リー・ヴァン・クリーフとクリントの絡みに水を差すな、となってしまうので、イーライ・ウォラックへの視点誘導が不満である。また、クリントのドラえもん性に依存しすぎな点もあり、手際の悪い砂漠のロードピクチャになると、彼の造形的整合性を毀損するという意味で、これが裏目に出る。どうせ縄撃つんだろう、というのは、お約束の幸福感と解するべきか。

 監督:バスター・キートン / クライド・ブラックマン 製作国:アメリカ


キートンの大列車追跡
 変則的なハードル競技のいらだちがイベントの投入ロスとリンクすれば、エンジニアの徴兵逃れは自罰感情の内にそのいらだちを解消している。逆に機関車のハードル落としがプロットのキャッシュフローを劇的に改善すると、コンサル的神話が童貞という類型を高める。すなわち生産性とは態度である。


 監督:セルジオ・レオーネ 製作国:アメリカ


夕陽のギャングたち
物語の福祉に責任を負わないコバーンはカッコイイし、またその安心感のためにも、彼のの内面は閉ざされて然るべきだろう。内語を避けながらも内面を確信させるために、コバーンの回想はガチガチの様式美で固められ事件と分離する。しかしわれわれが誘導される野人スタイガーの視野に共感が欠けると、ジャンルムービーのテンプレに忠誠を誓うような大佐殿の造形に目が惹かれる。

スタイガーにわれわれの視野をどのように組み込めば物語の福祉と和解できるのか。いいかえれば、内面のないコバーンの追感し難さの使い道は?

コバーンのこの内面課題は、三角関係と童貞問題がこじれにこじれて3P化したとき、自己理解のオーヴァーヒートに達する。コバーンのヘヴン状態についていけなくなったわれわれはかくして、炎上を目前にしたスタイガーと共に「どうすりゃいいんだ」と嘆くことになるのだが、そこで語り手のありがたいお言葉が投下、曰く「ふせろ、このばか」――感激である。

 落下の王国 [2006]
 監督:ターセム・シン  製作国:インド・イギリス・アメリカ


落下の王国
 恣意性に対抗して幼女の欲望を誤配線しても、リハビリや自決プロジェクトは事故フラグで頓挫し、「幼女ざまぁ」の贖罪で動機を管制することになるから、官能にフリーパスを与え、意図ある自然の不毛さをむしろ享しむべきだろうか。動機と自然を和解させる歴史や容積は、ストーリー要素の連なりが突如として復元化するまで現れず、見る側に記憶の譲歩を要請する点でも危うい勝負だが、かといって復元化が前もってばれたらそれはそれで、といういつものトレードオフもある。

 ウエスタン [1969]
 監督:セルジオ・レオーネ 製作国:イタリア・アメリカ


ウエスタン
レオーネのロマンティシズム文法に、ブロンソンの動機探索スリラーを序列立てて担わせるのは苦しい。説明をしないために説明し尽くす迂回的な盲目がブロンソンに内語を煙に巻くのはよいが、では情報開示の手続きはどうするか。

劇伴や効果さんのテンポに序列性を担わせるとしても、アップとフルでルックの統一性が危うくなるような(多分に錯覚ではあるが)現場主義の力業は否めない。となるとヘンリー・フォンダの顔技に権能を委任すべきだ、という話で正解か。「兄貴に吹いてやんな☆」と、フォンダの顔面圧迫で、過去を小出しに流していた情報ダムは決壊。放流されたブロンソン性の夢想の風景が、ロマンティシズムの楔と抱擁し、オッサンの毛穴観察大会を越えていくのである。

 監督:ウォルター・ヒル 製作国:アメリカ


ストリートファイター
 自らの体内に眠るブロンソン性と向き合うのではなく、他人に見出されたその万能感といかにして馴れ合うか。のび太(コバーン)にはふたつの危機がある。ドラえもん(ブロンソン)の管理問題が、ロールオーバー・スリラーを通さないと、語れないこと。さっさと試合して、キャッキャウフフしてほしいこちらとしては、フラグ全開のロールオーバーなど苦痛でしかない。しかしマネージャーが不要だとしたら、コバーンの身の振り所がなくなるのだから、分業が才能に圧迫される第2の危機が明らかになった時点で、物語がコバーンに拘泥しなくなり、むしろスネ夫のバランス感覚さに人情の衒いを託すのも、肯ける話ではある。

 監督:マイケル・ウィナー 製作国:アメリカ


チャトズ・ランド
 殺戮プログラムとしてのブロンソン性が、ムフフと自ら完爾としては、内語開示につながる弱さへと至らないか。嫁の強姦致死はデフォとしても、力の享しみが報復された形となっては、ジャック・パランス一派の和やかなる自己充足もむべなるかな。追うおやぢどもにとっても追われるブロンソンにとっても、ここでのブロンソン性は臨在的に把握しがたいもの。だからこそおやぢどもは黄塵の丘を目指さずにはいられない。旅の果てにあるのものはブロンソンという性質の起源である。

 監督:シルヴェスター・スタローン 製作国:アメリカ・ドイツ


ランボー 最後の戦場
 人生の諦念ムードが事件の当事者たるをもはや許容しない代わりに、かかる諦念が観察対象たるサークルのクラッシュの謳う性の闘争への諦念に投影されている。

 狼よさらば [1974]
 監督:マイケル・ウィナー 製作国:アメリカ


狼よさらば
 どこかおかしい。どう見てもカタギの振りをしたブロンソンなのに、若者たちは実際に彼を襲って、自然の不確かさに戦慄を来すまで、そこに気がつかない。ブロンソンも強いて自らはカタギだと思い込むのだが、身体の習性は隠しようがない。嫁を撲殺されても酒に溺れるどころか、グラスにはミルク。何よりも32ACP(?)の尋常でない集弾性。ゴロツキが、襲いかかった男にブロンソンを見出したごとく、男は力の増長を享しむ中で気がついてしまったのだった。自分がブロンソンであったことを。

 ロサンゼルス [1982]
 監督:マイケル・ウィナー 製作国:アメリカ


ロサンゼルス
 ブロンソン性が彫琢されると計画が生まれる。ブロンソンを「カモ」と分類するリテラシーの病理学は報復されて然るべきだが、計画が被害を限定すると、野暴な紅旗征戎の恩沢には預かりがたい。洗練された残忍さが向かうのは、ブロンソンとして生まれたことの愉悦と責任というより、まるで韻律的な強制としてのブロンソンという形式。嫁や娘が虐殺されジルに三行半を突きつけられても、ブロンソンとして生きるほかはない覚悟と自己毀傷の嘲弄。かくて北米のブロンソン大陸化は進捗するのだった。

 間宮兄弟 [2006]
 監督:森田芳光 製作国:日本


間宮兄弟
 ゆるオタの風俗を観測しても無為閑居に耐えられない。兄弟の所作に近親相姦的な解釈を迫り、動揺は訪れるも、すかさず浴衣カレーおでんパーティーで紛らわす。軽佻の風やゲームバランスの悪さは沢尻らの内語公開にあるのやもしれんが、その暗愁たる円環からはじき出されたところで、洋行オタの玉木が知性あるオタの虚栄心をくすぐりだし、マーケティングの広闊さを見せつける。

 日の名残り [1993]
 監督:ジェームズ・アイヴォリー 製作国:イギリス・アメリカ


日の名残り
 初デエトで困じ果てた挙動からわかるように、童貞キャラなのだが、童貞のくせに有能というねじれが出てきていて、これがイヤらしいし、また母性の歓心におもねる意図が出てくると、つらくもなる。逆に、意中のメイドをほかの男に取り入らせるのは、落涙は禁じ得ないものの、よほど誠実である。


 ぼんち [1960]
 監督:市川崑  製作国:日本


ぼんち
 銭甲斐性には富むし、下腹部の放埒さは勇敢でさえあるし、船越英二がまんまと山田五十鈴をたらし込んでいたように、母系との競合を謳っても、雷蔵の地盤は揺るぎ難い。飼い慣らされた性根は、緩除調や軟熟の意図的な試みとして逆倒し、若尾らを月並みや平俗から保護するためには、沐浴プレイの怪躁さやソープの梯子気分ですかさずカウンターバランス。

 監督:森田芳光 製作国:日本


39 刑法第三十九条
 当事者感覚が自己顕示欲に至り、虚栄心が芸として試される。鈴木京香は吉田日出子を利用して猟奇ホラーへとジャンルを国替え。江守徹の人間性が試される展開は、田村忠雄の心証を気にするあまり、円転滑脱して、江守に小芝居の余地を許さなくなるが、樹木希林との夫婦漫才を一種の損害賠償として徳とすべきか。岸部一徳は人間性耐久レースに参加しないし、最初から生理状態に毀損のない田村忠雄のお買い得度が高まりすぎるから、こうなったら全裸か、という森田芳光の思し召しはイヤらしいながらも理解。

 告発のとき [2007]
 監督:ポール・ハギス 製作国:アメリカ


告発のとき
 シャーリーズの出現に慌て、半乾きのワイシャツをまとい、トップレスのオバハンには敬称を使う。規律と訓練は童貞を隠すどころか、むしろそれを暴露せずにはいられない。有能であることと童貞であることの連関が不明瞭だが、本当のところ、有能な童貞がメルヘンであることはわかっていて、それが確信に変わると、情報ダムが理路を失いアドホックになる。童貞のカワイさでその場しのぎに注意を引けても、媚びだという自覚は拭えない。では童貞が童貞性を失うことなく獣的にこじれるとはいかなることか。それは困窮に対処できないながら訓育によって自らを失えない痛ましい快活さ。

 警察日記 [1955]
 監督:久松静児 製作国:日本


警察日記
 伊藤雄之助の虐待プレイが簡単に報われるのは創意的な気まぐれ。東野英治郎のPTSDには時の観念がなく、森繁にすがろうにも尺八プレイをおっぱじめて刺戟が強すぎる。となると恃むべきは、三國連太郎の微笑的な立ち振る舞いと腰にぶら下げたM1917の不穏な巨怪さ、あるいは杉野春子の猥雑さ。


 監督:ジュリアン・シュナーベル 製作国:フランス・アメリカ


潜水服は蝶の夢を見る
 リハビリも口述筆記も進捗が見えるためストーリー生成として明朗だが、一方で回復が進むと口述筆記は動機を失い、窮境としては微妙。漠然たる虐使や羞恥のニュアンスはむしろ、不穏な前振りとして組み込まれ回収されるプロセスの中で、超地上的な要求に耐えかねたちゃぶ台ひっくり返り感を中和することだろう。

 監督:エルンスト・ルビッチ 製作国:アメリカ


生きるべきか死ぬべきか
 描写の思想性に抗うためには、誤解がジャック・ベニーを職業人にせねばならない。軽佻の風は意図を装わない計画の依託を負いながら、固有の惰性の赴くままに、機上で喜々としてPOWを虐待して、axis脳を刺激もする。つまり相互監視的な緩和と緊張。


 監督:大森一樹 製作国:日本


ヒポクラテスたち
 恋愛至上主義から見ると、古尾谷に何の不満があるのかよくわからなくなる。光田昌弘ら剣道プレイ軍団や原田芳雄のワイルドな挙動ないし医療行為のリアリズムを通じて、事態を把握する道があるのは好感を持てるが、古尾谷固有の肥大化した自己顕示欲に話の展開と感傷を頼るのは、理解できない。


 監督:マイク・ニコルズ 製作国:アメリカ


チャーリー・ウィルソンズ・ウォー
 予算措置の貧乏性だけでトム・ハンクスの動機を浮かせるなら、事務作業の挙措進退にディテールが求められる。下院オフィスを専横する巨大なマッカレルタビー。ジュリア風呂のアヒル玩具。プレスセクレタリーとの作文漫才等々。しかるに、イスラマバードより話が西進すると、今度は小道具が想像できなくなり、カリカチュアだけが残ってしまう。MANPADSに撃墜されるのがF-16というのもにわかに信じがたい考証の緩さだが、緩くせねば政治的に正しい描画に至れないもどかしさもある。

 監督:山田洋次 製作国:日本


十五才・学校4
 主人公に何の問題があるのか、これもよくわからない。対人スキルはリア充そのものであるし、おまけにキャワイイ妹に慕われるとなっては勝ち組もはなはだしい。これで訓話を行えば自覚のない嘘になるから、むしろリア充に生まれたからには、その特権を濫用して目果てぬ夢を見てみたい。この方向性は正しい。麻実れいに拾われた先がまたしてもかわいげな妹。ダン○ーガイの外貌をしたアレはつらい。屋久島に着けば金井の中性的な肢体を嘗め回し、大御所をいいことに何のてらいもなくショタ気を発露する山田。おむつプレイはともかくとして、さすがに前田吟の失禁侮辱プレイまで至るとマニアックすぎてよくわからん。どうせ最後は稔侍のデレ観察だろう、という余裕も実際デレると黄色い悲鳴。

 資金源強奪 [1975]
 監督:深作欣二 製作国:日本


資金源強奪
 ヨブ記的な話が多いこの時期の東映にあっては前向きな話である。人間を信じなくなった男は、代わりに、経済的な合理性を偏重する。しかし、経済的合理性が男を導く先にあったものは、人間との連帯である。経済性が人間の行動を予期可能にして、信頼を再醸成したのだ。


 監督:山田洋次 製作国:日本


男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎
 この際、こだわりのない詩的レアリスムはむしろ好ましいのだろう。何しろ博の資本が投下されて、俺たちの朝日印刷にオフセットが入るのだから。しかし中井貴一のオタ趣味に杉田かおるが好意を示すのは許容できない。そんな空想は信じがたい。



 監督:ポール・グリーングラス 製作国:アイルランド・イギリス


ブラディ・サンデー
 長大なFALを枕投げのようなinsurgencyにぶち込むのだから、ゲームバランスは最悪で、それではパワーバランスと共に失われた現実感の拠り所はどこに? サンパチみたいな長物を市街地に持ち込んだら振る舞いも惰性するわな、という視覚上の説得もさることながら、何よりも北アイルランドのニコラス・ケイジこと、ジェームズ・ネスベットの顔芸と陣笠議員の精力に寄りかかりたいところ。

 恐怖の報酬 [1952]
 監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 製作国:フランス・イタリア


恐怖の報酬
 ルイジ(=俺)のハートバーニングを煽っておいて、老人のダンディズムを貶める造形のフラット化、あるいは「か……漢だ」に希少価値を与えたくない気分がある。これは、更新講習教材ビデオの釈然としない痛ましさに似ている。


 母べえ [2007]
 監督:山田洋次 製作国:日本


母べえ
 支那バブル崩壊局面の風俗観察。検挙や拘置のフォークロアスタディ。所轄特高に配されてアンニュイな笹野高史。リアリズムと政治主義が化かし合いをやりながらも、小百合の愚痴が許容できるのだから偉いが、調子に乗って三津五郎まで愚痴ると道徳のバランスシートに傷がついてしまう。家計窮乏の責任問題と政治主義がうまくかみ合わなくなる。

 監督:和泉聖治 製作国:日本


相棒 劇場版 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン
 映画固有の道徳にしたがい規模を追求するバイタリティはすでに失われ、内ゲバに走るのが関の山だから、受け立つ方も仕事にモチベーションが沸かず、こんなイベントで知性を明らかにすること自体が野暮かも知れない。フフン気分で不毛と戯れる津川と一徳の掌で現場の水谷はムフフやらフヒーやらで混乱し、こうなったら事件の解決に何の関連も持たないチェスに興じて、いわば体を張って抗議活動するも、水谷に頭を売って身軽になった野蛮人寺脇の職人的奴隷根性と反応速度にむしろ好感をいだく。

 TOMORROW 明日 [1988]
 監督:黒木和雄 製作国:日本


TOMORROW 明日
 死亡フラグに甘えては芸がないが、イベントが意味をなさねば話として寂しい。フラグは慎ましく身を引いて、むしろ気色の悪いほど理念的な造形の裏書人になるのが妥当なところで、あとは田中邦衛やモモーイが出産プレイでがんばってくれるのだから、これで映画として充足できると目論むのは正しいだろう。あえて冒険したといえるのは、不自然な造形の保証が佐野史郎の軛を外すあたりか。白童貞が南果歩をたらし込む世界は邪念だが、果たしてここで死亡フラグの隠蔽工作は破綻しているのか、あるいは死亡フラグはかくあるものとして保証されたのか。そう戸惑う内に暗室入りした邦衛が生存フラグをおっ立て、何となく感激はした。

 東京裁判 [1983]
 監督:小林正樹 製作国:日本


東京裁判
デレ専の賀屋に「訳のわからん内に開戦した」といわせてお茶を濁すくらいだから、検証すべき課題を追ってイベントのフローを確保したい意図は薄く、どうしても造形観察に重きを置きたい作りにはなる。日本側のアクターでは、まず「ヒデキ感激」へ頼りたくない気分があり、それなら重光葵や広田弘毅らの文官イベントで勝負するしかない。

ヒデキの扱いは、大川周明イベントさえクリアすれば楽勝かと思えば、これがなかなか難儀なのである。波平の癖にカミソリだけあって、アクターの中ではもっとも滑舌が明瞭だ。個人反証が始まればヒデキ感激は禁じ得ないので、すかさず佐藤慶のナレーションで肉声をかき消すじらしプレイで凌ぐのである。政治的には正しいかもしれんが、これでは当たり障りのないヒデキイベントは同時通訳の不手際をなじるヒデキくらいしか残らず、造形戦略の方針すらもグダグダになって、まとまりがない。そこで妨害工作を繰り出す佐藤慶そのものにカワイイを委託する途も見出されてこよう。たとえば、パルの意見書で上ずってしまう佐藤萌え。「イヤイヤ、これはパルの本心ではない」と照れ隠しするが後の祭りである。

 監督:クァク・ジェヨン 製作国:日本


僕の彼女はサイボーグ
たとえば中盤の女子校騒動で噴出するスピルバーグ風のリアリズムは何であろうか。今時の邦画な視覚表現の文脈では違和感がある。そもそもリポーター小日向文世というキャスティングがぶきみすぎる。では単なる演出上の刹那的なオサレなのか、と思ってると映画はやがて直球勝負に走り価値観をひっくり返してしまう。

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プロット上、ともかく歴史は改竄されねばならぬから、時間が明確に記述されてはまずい。たとえ余波として、小出の幼少時代が三丁目の夕日に帰ったとしてもだ。シーンを編成する動機は邪魔であるし、イベントが互いを拘束してもいけない。だがシーンが雑然として陳列されては、モニュメントとしての統一性が損なわれる。綾瀬が唐突に「田舎へ帰れ」と言い出して行動の指針を口頭で伝えても、かえってイベントの脈略のなさを深めるだけだろう。欲しいのは、関連のない個別化の前提でありながら、結果として映画の磁場となるような巨大な違和感。プロット上で関連をなくすイベントだけでは効果がなければ、映画はやがて視覚の文節上で苛烈なリアリズムを設定し、冗長で不活性化されたエピソードの陳列を後付でセットアップさせるのだ。

まあここまで極端ではないにせよ、挿話的で異質なリアリズムの遠心と求心は『男たちの大和』あたりでも見受けられるものだ。邦画はそれが40年前に失ったリアリズム――ハリウッド映画では当たり前のように見られると思うのだが――をこういう歪な形でしか扱えない、ということかも知れない。

 監督:アラン・J・パクラ 製作国:アメリカ


パララックス・ビュー
 『大統領の陰謀』ほどではないにせよ、やはりただ事ではない絵面ではあるのだから、さぞかしシブい話だろうと思いこみたいのである。けれどもブン屋はどんどん超人化するわ、マンガのような悪の組織は暗躍するわで、こだわりがない。B級SFと文芸調の絵面が互いを顧慮することなく拡散し暴走している。視覚の文節表現の品質は、人間の振るまいが脳天気になるほどに、むしろ強固な自律性を意固地に発揮して、映画をヒューモアへ至らしめるような違和感をもたらしている。

 牛泥棒 [1943]
 監督:ウィリアム・A・ウェルマン 製作国:アメリカ


牛泥棒
野蛮人ヘンリー・フォンダの管制が相棒の手から自律したのではなくて、むしろオッサンどもの強大な蛮性によって彼が相対化されたため、もはや管制の必要がなくなったのかも知れない。あるいは管制が間接的に集団の空気の手に渡り相互依存の生態圏を作ったともとれる。たとえば、彼に端を発して次々と点火されるタバコの幾何学的関係が、パワーバランスを視覚化するように。しかし遠心的な抵抗のために、けっきょくフォンダの蛮性は制御されるようで制御されない。いいかえれば制御されないように飼い慣らされる。

画主題自体は教条的意図の炸裂で、ともすればドン引きたくもなるのだが、オッサンの観察大会モードに浸れば、リテラシーを全く信用しない俗謡調と良心の暴力的な検分が彼らの徒労と後悔を神々しいまでに引き上げる有り様も窺える。最後に入る戦時国債募集のお知らせ(当劇場で買えるとな!)も容赦がない。

 戦ふ兵隊 [1939]
 監督:亀井文夫 製作国:日本


戦ふ兵隊
 戦場の臭気を描述する衛生観念は、技術的な関心固有の要請に身を任せながら光学顕微鏡の分解能に至り、移動線を指示する中隊長と小隊伝令の対話では滑舌の悪さと平坦な抑揚が緊張とストレスをもたらす。彼らの背後では、静かにたたずむラヴリィな軍用犬たちが、風土の濃淡を均質に編成したい欲望をともないながら、フィルタリングの規則にたどたどしい順応を試みる情熱を見守っている。

 ミスト [2007]
 監督:フランク・ダラボン 製作国:アメリカ


ミスト
メガネ店員の奴、俺にしては出来杉だわいと思ってたら、案の定である。キレたオバハンも弁護士のオッサンも造形だけ見ればコテコテのジャンルムービーなのに、「ゴードン・ウィリスが撮ったB 級映画」というべきか、絵面だけは格調高く、いきなりナニが出てきても、その硬さがB 級SFを許容できない。つまり『勇者たちの戦場』とは逆のことが起こっている。

事件の問題解決行動を評価すると、俺店員の一撃でナニするのは淡泊であるし、最後にみんなでナニしては、彼らの実用主義的な造形の整合性が一貫しがたい。しかしあのすげえアレなナニで文芸調の絵がB級SFのジャンル風景をちゃんと包摂したのは偉い。

 監督:アーウィン・ウィンクラー 製作国:アメリカ


勇者たちの戦場
 教科書のトレスが叙述の信憑性に恵与を預ける場で、家宅捜査は図解的な振る舞いを捨て、ジャンルムービーのように抽象化する。逆に、PTSDの予後は教科書に忠実であるあまり信憑性を失い、どうも野暮で格好がつかない。となれば、プロットの緩いジョイントを突きつめるのが生産的な態度ではないか、という乗りになって、無知が人を感情の勾配に追い込み始め、修羅場となる。

 監督:ラッセ・ハルストレム 製作国:アメリカ


ギルバート・グレイプ
 ジョニー・デップの人間性を試すことで、成り立っている話で、彼がどこまで善意を維持できるのか、いつキレるのか、そこばかりが気になり、ルイスにモテても、不安が募るばかりで、あまりくやしくないのである。



 監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作国:イギリス


バルカン超特急
この話が嫌なのは、冒頭で自己投影したオッサンらが、物証そのものと化して、その視点の信憑性を同時に失うところ。つまり、かつてわれわれだと思っていたキャラが赤の他人になってしまい、動揺を覚えてしまったのだった。


 監督:ケヴィン・リマ 製作国:アメリカ


魔法にかけられて
造形に恒常性があれば、何らかの好ましい性質の発現は発見という手続きを経ねばなるまい。つまり莫迦王子が三角関係の生け贄キャラ化を甘受し得たことで、彼の男前が見出されたこと。

恒常性がなければもちろん成長というアプローチにはなる。池沼の娘を社会風刺のダシにせず、素直に知性と金に参らせて、このフォーマットへの準拠を全うしたのは潔い。

セルアニメでパートを分割する必要があまり感ぜられないルールの緩さも、成長と現実賛歌の支えにはなるだろう。でもそのおかげで、このお話でもっとも貴いと思われる下僕(=俺)の順応性の価値が減じるのはくやしいかもしれん。

 エアポート'75 [1974]
 監督:ジャック・スマイト 製作国:アメリカ


エアポート'75
今回のジョージ・ケネディは現場から離れているので、本当にすることがない。ヘストンの後ろでぐにゃぐにゃするばかりで、可愛いいといえばそうなのだが。当事者ならざる苦しみを逆手に取った大人の顔芸である。

逆にカレン・ブラックには顔芸に至る素質も動機も過剰すぎるから、そこを何とか抑えないことには格好良くなれないし、ヘストンのオペレートがある内は何とか均衡を保つように見える。が、無線が壊れ、いざたったひとりで恐怖に立ち向かわんとするとき、形相の地獄の蓋はついに開かれ、顔芸がスリラーの臨界を易々と越えてしまうのである。

 監督:ウェス・アンダーソン 製作国:アメリカ


ダージリン急行
 色彩が緩衝帯の厚みを担うがゆえに、かえって色を隠したくなる。という意味では、光の届かない溶暗の海から現れる『アクアティック』のジャガーシャークの恒常化。光彩は褐色と塵埃の乾燥帯からコンパートメントによって隔離され、列車の外殻線に沿って配色を可延させるラストフレームへ至ることだろう。むろんプロットの幾何でいえば、オーウェンからおかんへと移動してきた生け贄キャラの換算が調停された、ということにはなる。

 監督:工藤栄一 製作国:日本


必殺!III 裏か表か
いつもの風刺とはいえ、公務員が銀行員をいじめても詮方あるまい。主水の窮状も娘にホイホイついて行ってのことだから同情がわかない。巻き添えを食らうりつ&せんの挙動の方がよほど好感が持てる。

成田三樹夫も銀行屋のくせに武断派すぎて、伊武がキレるのも尤もなのである。銀行屋の私兵軍団も謎であるし、ドヤ街から悪の巣窟に至る町割りの空間把握もわかりづらい。

 監督:河野圭太 製作国:日本


椿山課長の七日間
西田敏行の顔面大接写でよろこびが催されても、和久井映見のカルト勧誘セミナーが容赦なさ過ぎですぐに萎える。

四次元ポケットがあるからスリラーがやりにくい、ということもある。事件の投入にロスが出ないことは和久井のカルトを払拭してくれはするが、イベントのタネがすぐに尽きて先は見えやすい。道徳のバランスシートを話の可動性につなげようにも、西田は西田で余貴美子とよろしくやっている。

情報が文脈の内部で半ば解決された形で発見されるならば、われわれは不確実性のデザインにおいて内向的にならざるを得まい。つまり、おやぢどもと童女を安全に観察できる歓びと、滅びることがもはやないという希少性のなさがもたらす自由の喪失との間で、事件の振る舞いが戯れるのである。

 監督:ニック・パーク 製作国:イギリス


ウォレスとグルミット 危機一髪!
 人体の可動域が乏しければ、演出のコストはばかにならなず、着衣にも食事にも表現は大仰で、まるで管理社会の介護業務を見ているようである。照明設計のフリーパスも箱庭の細密さとトレードオフ。では何を以て美の査定をくぐるのか。それはオートミールからチーズに至る粘性の形態学なのだ。


 受取人不明 [2005]
 監督:キム・ギドク 製作国:韓国


受取人不明
童貞は成長という物語の慣行で、イベントの利回りに貢献できる。もはや成長し得ないオッサンはオッサンで飛び道具にはまり、モチベーションの維持に勤しむだろう。

弓道プレイの民俗史的記述は、オッサンどもをはしゃがせることで、図像的な効用をもたらすだけでもない。童貞に機能性を与えてくれるし、親密性の配慮にもなる。


文芸脳がジャンルムービーの教化を放置する諧謔は、相変わらずのキム・ギドク印だ。童貞がアーチャーに目覚めるのは愛嬌としても、その後の殺人マシーン化が唐突すぎる。

犬神家状態とおかんの探索モードも、流通するイベントの編成に問題があるのか、時間の測定にあたって自明感に欠けがちだ。そもそも70年代と設定してるくせに個人装備がPASGTだったり。F16も何げに飛んでおるが、ググったら在韓の51stFWには'88年配備とか書いてあった。

時間と空間の記述が良くも悪くも歪んでるため、クストリッツァの『アンダーグラウンド』ほど露骨ではないにせよ、フォークロア化が著しい。半島の内戦の気分がほのかに去来する。

 ごめん [2002]
 監督:冨樫森 製作国:日本


ごめん
立派な映画である。手にめもめもプレイ、マフラーをクンクンプレイ、いきなりヘッドロックプレイ。「今のキスなん?→口があたっただけや」等々。

いつもの話だが、視点移動で萌え美少女の内面が開放されたら、人格の強度が保てない。由貴花が由貴花でなくなってしまうだろう。しかし、そもそもわれわれは萌え美少女の内面に興味がないのかもしれん。由貴花の凋落で童貞のつけ込む隙ができる、というもっともな理屈もわかるのではあるが。

 大空港 [1970]
 監督:ジョージ・シートン 製作国:アメリカ


大空港
 管理職のランカスターが現場で修羅場ってるときに、ジョージ・ケネディはカウチで嫁と乳繰り合う。地上勤務なので現場に出ても、職人を魅せてくれるようなリスクに出会わない。ディーン・マーティンらパイロット族も、パーサーに横槍を入れてババア(ヘレン・ヘイズ)を見逃すはで、もっともカッコイイ技術職のはずなのに心象が悪い。むしろ脇に控える技術者の方が、リスクを負うことの正統性とエンジニアであることの機能性のバンランスについて敏感だ。たとえば現場に居合わせたドクターのオッサンら、税関のヴェテランジジイ、貧乏くじを引いて半泣きなGCAのあんちゃん。出番が限定され、造形を深く知る機会がないので、神秘化に有利な面もある。世界観が技術者に優しくない、というよりも管理職への配慮が働いているのであろう。

 監督:アン・リー 製作国:アメリカ・中国・台湾・香港


ラスト、コーション
トニーが小娘にナイーヴすぎて余裕がなく、物腰が硬化した童貞のそれである。これが気に入らない。

挙動が可笑しいのは性欲を持て余したからだ、という説明も一応は出てくるのだが、すぐに目隠しプレイでハッスルして情けない。あの半ケツもみっともない。小娘は、台詞を受けるたびにアヒル口で微笑むだけで、造作が少ないと情報の流出もなくなるから、人格に強度が出ないこともないが、この応答のルーティンが精巧すぎて、小娘がロボ化してしまう。

イケメン演出家の凋落ということで、本来ならば好ましいお話な筈だが、癒しに欠ける。みんな一緒に墜ちてしまうため、イケメンの落下速度が体感しにくいのである。勝ち組はトニーの副官くらい。

 監督:ジョエル・コーエン / イーサン・コーエン 製作国:アメリカ


ノーカントリー
幸運に耐えられない貧乏性なのか、あまりにも手際がよいと、かえって居心地が悪い。ドラッグストアの爆破から外科医プレイに至る現場主義が造形を魅せても、物理的な査定の甘さが気になるのだ。

才能と人格の整合性にこだわりたい気分があれば、『飛べフェニックス』の造形淘汰と何となく似てくる。ルウェリンの出来すぎた造形があっけない顛末を迎える辺り。

シガーの現場主義は、その純度のあまりヒューモアにもなるだろう。圧縮空気で陥没する前頭骨やシリンダーの力学的高揚が速度とヒューモアを差別しない。彼は、才覚で超地上になりがちな造形をヒューモアで中和することで、存在の合理性を確保する。

トミーは刹那的な状況対応の輪郭に沿って自動化された思考する機械である。情報の家畜化ができないのだから、造形の生存競争において責任は問われない。当事者感覚の欠損は老人の来歴で粉飾すべきだ、と解すとイヤらしい話にはなる。

 フリック [2004]
 監督:小林政広 製作国:日本


フリック
 香川照之の造形的優越は飽和した当事者感覚の賜物で、果ては環境に恣意的な作用すら及ぼす。民宿のおやじやパン屋とたちまちの内に独自の文化圏を築き、ケツの青い田辺誠一をビビらせる。問題は、アル中の被害妄想の信憑性を査定するレースが始まると、その恣意性の扱いが厄介になるところだろうか。事件が火サスや浪花節を指向するのは正しいとしても、その中で試みられる香川の動機の解決にとって、空想を査定するレースの貢献が曖昧に感ぜられてくる。環境が操作可能なら査定する必要など最初からないのではないか。

 明日への遺言 [2007]
 監督:小泉堯史 製作国:日本


明日への遺言
フェザーストーンは最初からデレているので、法廷でどれだけクネクネするか、といった量的な問題でしかない。良くも悪くも出来レースの感は否めない。あのけまらしい自己紹介プレイを見よ。

バーネットはとてもわかりやすいツンデレ。いつデレるかキャッキャウフフ。この男の職業意識は恥じらう乙女のそれだが、藤田×フェザーストーンの人海戦術に気圧され気味でもある。

藤田まことのドM性は、法廷のスリラーを損なう意味ではやっかいな代物だ。人の良さ気な裁判長も何か迷惑そう。彼の造形は、法廷の合間に挿入される独房のコンサルタイムやマッサージプレイで生かされることだろう。

対照的にこれはどうかと思うのが、富司純子の下世話な叙述。このリテラシーの強迫観念はとても暴力的で、受け手のそれをまるで信用しようとしない。

 ダークナイト [2008]
 監督:クリストファー・ノーラン 製作国:アメリカ・イギリス


ダークナイト
ブルースは陰気なマゾヒストで、造形に破たんがないのだが、ジョーカーの明るいマゾヒズムは厄介だ。ブルースは陰気に自己完結するからまだしも、ジョーカーのそれはサディズムと区別が付きがたい。また、ドM同士が互いに自虐を気層から、プレイが成り立たないの。

ジョーカーの造形は、誰も当てにしない孤独な現場主義で魅せる。ブルースのリア充と併せれば、その機能性は哀しげな品位に至るはずだ。もっともそこで抽出されるドMは精製度として高級なものとは思うが、だからこそ彼の顛末に扱いがむつかしい。造形の権威が陳腐化する意味で、客船の浪花節はあまり適切ではない。

 監督:ロバート・アルドリッチ 製作国:アメリカ


飛べ!フェニックス
ボーグナインが顔芸だけで使い捨て、というまことにアルドリッチらしい酷薄さ。長期戦に弱い体育会系の露呈から奇跡の復活を遂げたピーター・フィンチも好感度青天井のドクター(クリスチャン・マルカン)もあっけなくナニする。これは技術至上主義への警告なのか。

ジェームズ・スチュアート&アッテンボロー組も、技術者なのだが、彼らはひたすらツンデレプレイに励み、技術的才覚の隠蔽工作に勤しむ。特にアッテンボローはこの困難の中でも造形的成長を維持して如才がない。

いちばん難しいのは、究極のエンジニア体、ハーディ・クリューガーの処遇だろう。彼のエンジニア性に熾烈なカウンターアタックをお話の価値体系としては加えたいところ。しかし森○嗣ブログのようなオチは、プロットの信念体系そのものを全壊させておらんか。

ということで、けっきょく最後の堡塁はジョージ・ケネディ一行の所作にかかってくる。こいつらは常に画面の奥で太平を謳歌し、観察に理屈を挟ませない。エンジンがかかれば屈伸運動で歓びを表現してかわいい。むろん映画史の文脈では、ジョージ・ケネディこそこの災難の元凶にほかならないのだが。

 監督:小津安二郎 製作国:日本


生まれてはみたけれど
喫煙をしながら鍛錬に励む斎藤達雄の生き様もずいぶん刹那的だとは思うが、殊に弟の青木富雄の惰弱な造形がライフハック風の強迫感をあおり立てて落ち着かない。もちろん芸としては面白いのだが。

低廉な生活の技術論から逃れるには、造形の権限を振り替えねばならぬ、とするのがお話の最初の階梯だ。技術論にこだわるのなら、隣人たちの悪意は白痴の管制術で打開されることだろう。

ただ、三河屋の操縦がうまく行き過ぎたことのやましさがないわけでもない。つまりは経済問題。

ここで政治に走るのもありだが、上司の坂本武の経済的なリソースを利用してプロットの資金繰りを円滑にしたい途もある。

例えば、8ミリの映写機とその映写幕の中に発見される在りし日のオッサンどもの生態。これは今日の邦画の文脈では死亡フラグ以外の何者でもない。そこから導出される疲弊した斎藤の色気もたまらんものだ。


斎藤の痩身は、ややもすると中途半端なサイズに収まりがちで不安定である。だから光学の課題からすれば、これはオブジェの均衡の経済学ということにもなる。経糸と緯糸の和解のために、庭先にたたずむ斎藤の背後を池上線が猛烈に疾駆するのだ。

 監督:オーソン・ウェルズ 製作国:アメリカ


上海から来た女
 この可動性に富んだ童貞レースは、勝利ヘクスとの距離感を把握するのが一見むつかしい。グレン・アンダースの奇矯なセクハラの勢いやエヴェレット・スローンの希薄な影と挙動不審に比べれば、オーソンの童貞隠蔽プレイ(=童貞露出プレイ)には芸がない。しかしながら、芸のない装いが童貞の信憑性の栄誉をオーソンへもたらすのも確かだ。加齢が童貞性の顕現の邪魔になるのだから、童貞性への好意的な見解に自らの少壮さ(当時もう30超えたりしてるが)を利用できないか、というムフフな目論見も、オーソンの生真面目なアップショットに認められないこともない。となると、なかなか順当な結果ではあるのか。

 監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作国:アメリカ


ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
 嗜虐プレイのダウンストリームを循環させるのは、世代をまたぐ少年誌めいたライバルリィ。振る舞いのテンプレに依存した技術屋の営業努力が、憎悪の循環の招いた緩慢な時間の不感症に安住したいと欲望する。ゆえに負の意味合いであれ、片方の人格がサディズムを誘わないほど成熟すると、造形の権能の資金繰りは詰まる。つまりは、ライバルリィが失われたこと、時が知覚されたことの口惜しさと痛快さ。

 白い巨塔 [1966]
 監督:山本薩夫 製作国:日本


白い巨塔
有権者の資質から見て贈収賄の弾力性に疑問があるからこそ、石山健二郎の医師会一派のプロット的な前途はある。脳の働きに期待ができぬなら、単純労働の集約が質に転嫁する一線を目指したい。「権力には金や」な自棄糞じみた現場主義にいつか合理性が芽生える時を待ち続けたい。

彼らは、加藤嘉と併置されると、プロットを何らかの美学の格子に至らしめることだろう。加藤の超然主義が、臨床の現場との隔たりで維持されるに過ぎないことを体を張って教えてくれるのだ。つまりは、玄関先で咆哮する加藤&風刺漫画調に転落して土下座する石山。物語の市場経済が道徳の取引関係を可視的にした場である。

 監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作国:アメリカ


ゴッドファーザー PARTIII
セレブの貧乏性ともいうべき造形固有の誠実さと、規模に応じた人材を配置できなかった経営的な責任の間で罪悪感が混乱している。

贖罪とエンターテインメントの表現は、糖尿病とかちょっと遣りすぎの感もある断末魔の大転倒など、パチーノの肉体を鼓舞する方向でカバーしたい。しかし他方で、老いてもなお体の動く現場主義が、彼を軽く見せてしまう。

 流れる [1956]
 監督:成瀬巳喜男 製作国:日本


流れる
 財務諸表にこだわりたい粋のなさは、恋愛至上主義のダラダラとした可延性で調停したい。それは、時間の減衰する通景を粉飾する意図的な過誤である。が、継ぎ目のない流体化したイベント圧が生理的に耐えられないのなら、われわれは個別化と分割の磁場を求めねばなるまい。おそらくは、物語の民俗学的導入を担う田中絹代の機能的な身振りに。酩酊して天国と地獄を行き交う杉村春子の反復刺戟に。あるいは、仲谷昇の好ましい造形が投影するハーレムエンドの予感に。高峰秀子のミシンの規則的な挙動が、山田五十鈴によってコーディングし尽くされたプロットを破壊してくれる期待に。そして、それら人格性の逐次投入の示す幾何に。

 監督:君塚良一 製作国:日本


容疑者 室井慎次
君塚良一らしいというか、いくら何でも八嶋智人のような記号的人物はねえだろうと思うのだが、しかし、小説よりも奇なりということで、本当のところ、ありうるのかもしれない。つまり、われわれの判断が臨床的な検証を超えてしまうと、物語宇宙の何もかもが信用に値しなくなる。このような造形情報のブラフを君塚は好んで用いて、『真下正義』の犯人の顛末のように、意匠と誤信の区別を投げだしてしまう。

『レインボーブリッジ』で、科捜研の研究員がプロファイリングをやる場面がある。この技官がメタボの眼鏡で発声が不明瞭という絵に描いたようなアレ。その口から語られる犯人像が、いかにもアレをしそうなベタな造形の数々。そして、本物の犯人は、ビジネス本で犯行の解説をやりはじめる。これが本気かコントなのか判然としないところが怖すぎる。

 青春残酷物語 [1960]
 監督:大島渚 製作国:日本


青春残酷物語
桑野みゆきの美人局についていえば、造形に応じた愛を超えられない問題。つまり、性愛の妥当する風景を乗り越えて、二本柳寛のベンツに乗り込むには?

自意識がある以上、振る舞いの技術的課題は如何ともし難い。錯誤や掛け違いが積極的に受益されるべきだとしたら、心理の偏差する頻度に課題が出てくるだろう。このとき、おそらく性愛は発見されるという形態でしかあり得ないはずだ。

 監督:ブライアン・デ・パルマ 製作国:アメリカ


スカーフェイス
訓話としては、この類の生活に充足感が出ては困る。

達成感を阻むために、栄達の過程は省かれるべきだが(たとえば北野武の『BROTHER』)、われわれはそうした無時間的な記述の中で、罪の贖いを愛でることができるのか。あるいは、自らの痕跡を隠しながら、時間の観念を取り戻すには?

それは、おそらくスティーヴ・バウアーの一件のような、罰せられるつもりがないのに報われてしまった、好意の優美な彎曲上にあるようなものだろう。

 影の軍隊 [1969]
 監督:ジャン=ピエール・メルヴィル 製作国:フランス


影の軍隊
 人格の強度を敢えて放棄してオヤジの内語を開示しないと、道徳の整合性の債権取引は扱えない。失われた強度の代償として、オヤジは小動物化せざるを得ないが、どちらにせよ仕事がいっこうに進む気配はないので、オヤジの観察大会にプロットの運営を頼りたくなるのもわかる。すなわち、ロンドン観光にランカスターからの降下アトラクション。優雅な廃屋ニート生活に街角でいかにも怪しげピクニック。それはさまよえる陰気なラテン人の終わらないヴァカンス。マジノ線の迂回突破も納得である。

 白昼の通り魔 [1966]
 監督:大島渚 製作国:日本


白昼の通り魔
 佐藤慶のモテを把握するには、ある程度の知性が必要だ。川口小枝は、自身の生命力を保証した造形の堅牢さに阻まれて、男のモテを捉えられない。小山明子のイヤらしきヒッピー路線は、ただ佐藤に報復されるだけでは輪にかけてイヤらしいだけだが、佐藤のモテを解析できる知性としての意義もあったとなれば、経済的な補食関係の有り様が見えてこよう。もっとも、たとえ非モテ逆襲の一点収束だったとしても、そこで円環が完成してしまったら戸浦六宏は浮かばれないし、川口小枝にとってみれば、この知性化戦争はいい迷惑なだけだったりする。となると、造形の堅牢さの神聖化に向かう他はないのか。

 監督:クリストファー・ノーラン 製作国:アメリカ


バットマン ビギンズ
 コスチュームプレイの想像力が物理学の査定を受け入れたい風景に取り返しの付かない痕跡を残したと思えば、正義を可触的にするフェチの下で一貫性の要求が盲目ゆえの公平に至ったりもする。その脇では、金持ちの道楽に理解のある職人のおやぢどもが満面のほくそ笑みを。


 忠臣蔵 [1958]
 監督:渡辺邦男 製作国:日本


忠臣蔵
家畜化された思考に対する滝沢修の反逆は老化でもはや風化した事件の記憶のなかで完成し、もともとファナティカルの気が多い長谷川一夫は、山科の暴遊モードの形式的洗練の中に情熱と計画性の調停を託してモテまくる。ティム・バートンのように、同窓会でホワイト・トラッシュに堕ちたジョックをニヤニヤ眺めるだけではまだ足りない。屈辱は忘却によってもたらされるだろう。ファナティックな生き様への報復が加熱すると、それはまた別の狂愚と変わらなくなるのだ。

滝沢は本当に気持ちよさそうに暴虐をやって格好良すぎるが、いちばん好ましく思われるのは、変人どもの跋扈と脇の甘すぎる世間に独り激高する職業調略人、小沢栄太郎の意地と挫折である。

 大統領の陰謀 [1976]
 監督:アラン・J・パクラ 製作国:アメリカ


大統領の陰謀
 オフィスの地平線で離散と集合を繰り返す同僚たちとシーンの律動を醸成する打鍵音。あるいは、そのテンポを敢えて阻害するデヴィッド・シャイアの劇伴(ゾディアック!)。計画の描画に指向性は乏しく、むしろ情報の際限なき漏洩の加速度や分散された責任の交通整理に物語の美的な感覚は織り込み済み。当事者の実感と達成感の希薄さは、デレるジェイソン・ロバーズ観察大会へとつづくゆるやかな連続体の内に一端は遮断される。が、情報漏洩の方向がワイヤータップという形で逆流し、打鍵音と劇伴の抗争が積分されてしまうと、音と光の文節表現は投げ出されるように形跡を失うことにもなる。

 イヌゴエ [2006]
 監督:横井健司 製作国:日本


イヌゴエ
 主観の一時的投影では夢がない。存在に先行するクラスに帰属させてはメルヘンすぎる。かくしてその声の同音性は、瞬間に時間を遡り、記憶を改変していった眼差しの正帰還に至りたい。あるいは、自分の寝顔を眺めるかのような、ハウリングの不快な波紋に対抗する横柄さへ。


 監督:ロバート・アルドリッチ 製作国:アメリカ・西ドイツ


合衆国最後の日
 バート・ヤングの咽頭神経症からチャールズ・ダーニングの成長路線に至るメタボリックスリラーの呪術性が戦うのは、オーバルオフィスで形而上化するニューシネマ脳の禅問答。その傍らで、プロットを牽引すべき現場職業的な発想は、リチャード・ウィドマークの道化じみたキレ具合で死屍累々。溶融したジャンルムービーとニューシネマの混合体に引導を渡すのは、国防長官メルビン・ダグラスの高貴な無責任である。

 監督:中平康 製作国:日本


泥だらけの純情
 浜田光男は文明の威光で操作できるにしても、その文明を担う吉永小百合にイヤミが出てはいけないから、欲望と信念の形状に従って移動する実際性は好ましい。しかし、そこに計画性を持たせる知性がなさ過ぎると、今度は吉永の造形から希少価値が奪われかねない。問われるのは、知性を憐情の寸前で抑制する造形の天然成分の経済学であり形態学なのである。もっとも、萌え美少女におたくから足を洗えと泣きつかれても何の逡巡もない、ということであれば、人生の動機にはなりにくい話でもある。

 笑の大学 [2004]
 監督:三谷幸喜 製作国:日本


笑の大学
 癇癪の凝結と発酵から掘り出されるのは、生き甲斐と才能の偶発的な発現。作家はその先天性に寛容でありながら、実のところ、自らの不幸を利用し、身を挺して怨念を放たねばならなくなる。つまり、文芸の自己弁護で偽装した、また別の政治主義。



 監督:ビリー・ワイルダー 製作国:アメリカ


お熱いのがお好き
 惚れっぽい天然娘の属性が相手では、モテ技術の周到な展開もプロットの福祉に欠くべからずものとは思えないので、むしろ、その遣り口の持続可能性を配慮する方が経済的な対応かも知れない。構造的なまでに先定されたモンローの造形をいじるよりは、ジジイ(ジョー・E・ブラウン)の信頼性を試す方がよほどにスリラーではあるし、その試練を易々と乗り越えたからこそ、女装癖と経済的実用性をめぐる混乱と融即の旅は、われわれを壮絶な乙女モードに駆り立てながら、ようやく時を越えるのだ。

 監督:フランク・キャプラ 製作国:アメリカ


スミス都へ行く
 文明批評のイヤらしさを、キャンプ地が実のところアレであったような偶然性の強調や、挫折したオヤジ(クロード・レインズ)のツンデレ耐久レースで凌いだとしても、代償として視点操作の一貫性にばらつきが出てしまうのだから、議長のハリー・ケリーは、分割された眼差しの空間にイベントの構成を投影するため、自らの顔芸を縦横無尽に用いねばなるまい。殊に最後の三十分は、萌え美少女もかくやと思われるおやじの苦笑いの独壇場で、クロード・レインズのやせ我慢がついに崩落しても議長観察大会の邪魔でしかない。

 ある殺し屋 [1967]
 監督:森一生 製作国:日本


ある殺し屋
 環境の作用に弱いことを自覚するゆえに、羽田のガスタービンなノイズに何となく弄されても、経済的な配慮は忘れない。それが照れ隠しに見えるのは人徳の波及効果の賜物なのだが、自らの間抜けさを飼い慣らす雷蔵の戦略が理解されると、やたらとお節介な彼の造形に一貫性は出てくるし、野川由美子の虐待ショーをゆるりと眺める余裕も出てくる。成田三樹夫のデレも、まあ鼻出血。

 ミュンヘン [2005]
 監督:スティーヴン・スピルバーグ 製作国:アメリカ


ミュンヘン
 外注に出すのであれば、情報の保全が危うくなるのは見越されるべきだが、そもそも行動の隠蔽をあまり気にしないのなら、速度を活かす途も出てこよう。つまり、プロットの防塁として活用する意味でも、隠蔽or速度を検証する行政コストの計算はあって然るべきだ。しかし逆に、どんぶり勘定の魔術的な魅惑を露見させる前提として、行政評価のバランスシートを持ち出すのも、ありといえばありだ。たとえば.22LRで人体破壊なまったり猟奇趣味であったり、濡れ場とアクションの舛田利雄調カッタウェイ(勘弁してくれ)であったり。

 監督:キム・デスン 製作国:韓国


バンジージャンプする
恋愛の過程を何となく誤魔化すというより、むしろ積極的に隠蔽するために、フラグの物量作戦があった、ということ。童貞の粗雑な恋愛に過程があってはならない。プロセスが把握されるとすれば、それはもはや童貞ではないのだ。童貞の感覚を保存しつつ恋のプロセスを追体験させるために、愛は個体とイベントを置換して、時をおいて回収されることだろう。

とはいうものの、これを長澤ま○みでやるとすれば、また例の癒し系か、となりかねない。何とか付加価値をということで、ナニにアレさせたわけだが、いや、やっぱり長澤まさ○が胸部を押し当ててくるのだからたまらんのであって、ナニをナニしてオージーを旅されても、これは困る。いや、その困ったところを愛でるべきだ、という態度も理解できなくはないが、それでも即物的な造形の置き換えでお茶を濁した感は残るだろう。

 へそくり社長 [1956]
 監督:千葉泰樹 製作国:日本


へそくり社長
米食は胃癌と久慈あさみに煽られる内は、森繁の哀しげを愛でる余裕ありだが、それが寿司屋からサンドイッチへと昂進悪化すると、炭水化物の飽和で締め木にかけられたような悲鳴があがる。後半に至り、ようやく動機が見出されたと思ったら即座に釜茹。あとは憎悪の暗い中心、三好栄子まで真っ逆さま。

シリーズ後年の松林宗恵の微温的なオチを莫迦にするところがあったが、オチが微温的でなかったら、これは単なるホラーだ。

 ベニスに死す [1971]
 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作国:イタリア・フランス


ベニスに死す
 セルアニメのような粘稠で図解的なワークが少年を弄ぶ内は、可視的な助平根性の標準的な政治学。逆にノホホンとするおやじが謎の視角に襲われてしまうと、愛の連結規則の緩和政策の始まり。不明な眼差しの先には、何故か少年の背中があったりするのだから、「モテの季節到来!」と混線するのも無理はない。ボガードの奇態は発動した童貞脳に対する防衛反応としてごく自然である。

 山の音 [1954]
 監督:成瀬巳喜男 製作国:日本


山の音
 小津へのあてつけと言わんばかりに、ビシビシと原の鼻血を搾り取り、その疲弊した気韻をものにして意趣返しをやる成瀬。山村聰は、原作の醸した微温的な非人間感を省かれた結果、かえってムッツリな蒙気で原をねちっこく視姦し、背徳感が増幅したのだった。


 監督:坪島孝 製作国:日本


クレージー黄金作戦
 才気縦横さを偽装するテクノロジーに報復するのは、砂漠に横たわる単調な地誌の厚み。植木等の横柄なシニスムを試すのは、観客の肉体的な疲弊。救済は、冗漫なサバイバルが文芸調の重みと交換する錯覚にあるのか。はたまた、コントの身振りを特殊な習俗と誤解して笑うパンナム客乗のカワイイ偶然にあるのか。ドリフから加山雄三(これは酸鼻きわまる)に至る地獄のようなフィルタリングを経て残存するハナ肇の造形がただ好ましい。

 監督:深作欣二 製作国:日本


柳生一族の陰謀
帰着するところは、蛮性(松方弘樹)と文明(西郷輝彦一派)の闘争というより、それぞれの内部統制の脇の甘さ。『日本の首領』にもいえることだが、実録物の作風に明らかな変化が見受けられるのである。

本作の場合は、やはり錦之介の寄与するところが大きいだろう。三船、芦田、丹波の同時投入で東映フォーマットが破綻寸前だというのに、かてて加えて錦之介がウキウキとキレまくるのだから、それぞれの造形の戦力比が算出できないのである。錦之介・松方・千葉の戦闘力が三船・芦田・丹波のそれを上回るか否か、これが誰にもわからないのだ。したがって、輝彦グループの三船・芦田・成田三樹夫(=俺)が、輝彦の薄幸力の抑止に口惜しいながらも費やさざるを得ないし、錦之介も千葉も自らを持て余さざるを得ない。

しかしながら、うれしい誤算もある。戦力比の狂った評価軸がなければ、われわれは成田三樹夫の超文系モード(戦闘力の高い公家)と出会うことはなかっただろう。いうまでもなく3ヶ月後のガバナス帝国皇帝(『宇宙からのメッセージ』)の前兆現象である。

 監督:ポール・グリーングラス 製作国:アメリカ


ボーン・アルティメイタム
 イヤらしい望遠は、ジュリア・スタイルズの張り出した頬のフォルムをボーンの肩越しから執拗にナメ回す。薄幸さと淫猥さの分別をなくしたスケベ根性が根拠とするのは、男の不幸に刺激された母性愛。エシュロンから悪の秘密研究所へエスカレーションする陰謀脳はギャルゲ・ラインの付帯として忍従すべきなのだろうが、相変わらず同盟国の雑踏でのたうち回り、現地公安の面子を破壊するのは、リアリズムの毀損として、やはり腹立たしい。と言いつつ、『アイデンティティ』で散々コケにしたイタリアの国家警察(あいつらに検問できるかよwww)に、今度は「アメ公が撃ち合ってんぞ」と通報されたり最後はNYPD涙目などと、けっこうバランスはとれてるかもしれない。前作に続き最後は乙女モードで締めてくれる。

 監督:クリント・イーストウッド 製作国:アメリカ


ミリオンダラー・ベイビー
 自己愛を経ねばイベントを検証できぬほど充足した老いがある。他方で、フレームが被写体を逃し、ショットが編集点に追いつけないような脅えと焦燥もある。フィルムの若さが恥じらうのは、事件を災難と受け取るしかない完成された冷淡さに対する何気ない興行的配慮なのか。あるいは、これもまた自己愛の偏折した共鳴に過ぎないのか。もはやその境界すらも明瞭ではない。

 監督:山下耕作 製作国:日本


博奕打ち 総長賭博
無能と正統性の戯れがバランスを失うと、統御のとれなくなったその体は、人の無能を記述する精密さを速度に換算しながら、準自然的に作動するほかない。中間管理職の鶴田浩二の苦労と職能は感嘆に値するものの、若山のジャイアニズムはもはや自然の災害のようなものなので、その責任には重みが欠けないか。

やはりすべては金子信雄が正しかったと言うべきだろう。若山に跡目を継がせても遅かれ早かれ悲劇は訪れたはずだ。特に三上真一郎や藤純子にたいするガバナンスが無茶苦茶すぎる。factionalizedされてない戦闘員は内戦を泥沼化させかねない。

対して、金子の口唇の、優美に収縮したその湾曲の何と気高いことか。鶴田とは違って彼には自らの驕慢を楽しむ余裕すらある。機能的に生きることの誇りと確信が、ファナティックな鶴田&若山と見事に渡り合う金子の細腕を支えるのだ。

 監督:ウディ・アレン 製作国:アメリカ


私の中のもうひとりの私
天然のスーパー男殺し(ジーナ・ローランズ)が、相手に与え得た感化を知覚してニヤニヤと自己充足するだけなら自然災害もいいところで、オカズにされた男どもが報われない。

かといって、観測可能な希望を担保するために、インテリ殺しのハックマンを使って恋愛の貸借対照表を織り込んでも、これはこれで乱交パーティではないか、という感慨に至りかねない。

加えて、この円環からはじき出されたインテリの前夫が何とも哀れかつ気まずい。「君の論文は素晴らしかったよ」「人生は無意味だ」とか一度はいってみたいものだが、これに引っかかるジーナもアレである。

 泥棒野郎 [1969]
 監督:ウディ・アレン 製作国:アメリカ


泥棒野郎
 工程が訓致され皮膚の記憶になるとしても、いったんビジョンに明るくされると体が動かない。友情や愛をいちいち大仰に装わねば強盗やブラックメールが始まらない。つまり、ナイーブさをプロットの外部に委託するたわいもない技術論。しかし、そこで装われた愛や友情が、よほどに尤もらしい嬉戯の挙動に至るのはなぜか。プラシーボは旋回し環状に飽和するのである。

 逃亡者 [1993]
 監督:アンドリュー・デイヴィス 製作国:アメリカ


逃亡者
有事にエンジニアがサヴァイヴするとなれば、理工科の学生が徴兵猶予になるような羨ましさが文系の受け手には感ぜられる。ハリソンの造形は、さらにそこから、良好な地頭の広汎さへとチューニングされるのだから、トミーと愉快な仲間たちではなくともこれは口惜しい。

しかしわからんのは、地頭の良さがホワイトカラーの肉弾戦へと落とし込まれる件で、これにはさすがのトミーも違和感を催していた(「なんて男だ!」)。顛末は明らかになったのだし刹那的なスリラーとしてもアマチュアすぎるし、何かとプロットの幾何が掴みにくい。

万能なハリソンに自分を投影するのはむずかしいのだから、彼と同僚の肉弾戦が他人事になるのは仕方ないし、やはり惹かれるのは、トミー一派の謳うしみったれた凡人の美学、ということになろう。それは、地頭はないが、資源があることの悦びと責任と背徳感のようなものだ。

ハリソンのこの軽躁さも、暴力の専門家、トミーのニッチィな戦略を引き立てているのか。にしては、最後はトミーもドジ踏んでハリソンに借りを作っているが。

 エレクション [2005]
 監督:ジョニー・トー 製作国:香港


エレクション
カーフェイのザコ振りがあまりにもアレなので、基本的にはサイモンへ身を任せたくはある。そこで障碍となるのがあの含み笑いというわけで、つまり、そこに機能的な裏打ちがあるのか、それとも、ただの微笑む無能なのか、よくわからない。サイモンの限界が試されているのだ。

もちろん、ジョニー・トーは例のごとく集中力に欠けるから、サイモン家の団らんにカメラを持ち込むはカーフェイ家と釣りに興じるはで、フットワークの異常に軽いおやじたちの観察に余念がない。嬉恥ずかしい無理やりな共同体の描画が一転してアレになるあたりは、『デッドポイント』のバリエーションといえそう。

しかしながら、今回のサイモンは仕方ないのでは。カーフェイがアレでは同情に値する。釣り大会をカタリストにして、サイモンの能力検定は、寛容さの限界とかキレ方の然るべきタイミングとか、そういったものに変貌したと解せないこともない。

そういえば『デッドポイント』のとき、サイモンの笑みは銃弾を浴びてもなお絶やされることのない含み笑いとして昇華され、お話に一貫性と恐怖をもたらしたものだが、今回はなぜか正調のファミリーものに転身してしまい、やはり不気味だった。

 ジャーヘッド [2005]
 監督:サム・メンデス 製作国:アメリカ


ジャーヘッド
アマチュアなき軍隊に情熱はないのだが、儀式上の案件としてその効用が認識されるゆえに、体育会系のマイクパフォーマンスは渋々ながら享受される。そのプロ意識のフィルタリングによって恒常化された風景には、砂漠と焼死体から成る、色彩の単調な起伏が広がるばかりである。

色彩を回復するために、情緒的な文芸モードが動作の機能的なディテールを汚辱せねばならぬ理屈は解るが、自動化したプロの動作の余裕が思索を担保した、という理屈も一方にはあるだろう。

 社長忍法帖 [1955]
 監督:松林宗恵 製作国:日本


社長忍法帖
助平と職業人との亀裂をチューニングできてないありさまは、シリーズが後半に進むにつれて悪化するのではないか。営業力を誇示する割に、出張を情事の偽装に使う心理は何か?

愛人、池内淳子が生産的な共生関係に組み込まれ東野とつながる件は、たしかに、社長シリーズとしては経済的な展開で、プロットの運用の円滑な心地よさが感ぜられる。

しかしながら、相変わらず残念なことだが、この効率性が、かえって森繁の分裂症を際立たせる効果をも担ってしまう。というより、その方向性のなさをコントとして解釈できなければそもそも負けなのだ。

森繁の人格的亀裂は、副次的な効果としては、涙ぐましい小林桂樹の堅実さを歌い上げるのだから、けっして無下にはできないが、いったん、小林が会社の利益に貢献してしまうと、いきなり聖人面をして訓戒を垂れ始めるのだから、現金主義にも程がある。それがカワイイといわせたいのなら、今少しの品がほしい。

 雨あがる [1999]
 監督:小泉堯史 製作国:日本


雨あがる
後期寺尾聡の不安な形象も、莫迦殿三船の画一化された所作の危うさも、そのままでは、良くも悪くも品のない黒澤の善意に荷担するだけで終わりとなりかねない。

寺尾の気味の悪い善意は、やがて、その内語がアンカバーされることで相対化されるのだが、これはこれで覚悟が足りないように見てしまう。

むしろお話の品位は、多分に山田洋次の藤沢周平ものと被るのではあるが、理念的にいえば、“実はやり手だったサラリィマン”様式の悦びに、具体的にいえば、カットを割らずに情報量を高めてしまえるような、無外流の端的な体の動作に見受けられる。

野暮な善意の相対化は、この機能性を導入する触媒として止む得ないもの、と解すことはできる。つまり、品のない善意と格式ある動作が互換してしまう文芸的なたたずまいが現れているのだろう。

 ターン [2001]
 監督:平山秀幸 製作国:日本


ターン
倍賞美津子の隠然たるプレッシャーで抽象化したニート生活が、終わらない循環に嵌るというのはわかりやすい話で、つまりルーティンの不安のなさ望まれたのだろう。ただ、ニート生活のリプレイは、物語の観測対象としてあまり適したものともいえないので、文芸的な付加価値として、ニート牧瀬のワナビィの性根が勘太郎によって試されることとなる。

しかしながら勘太郎は、その虚言癖といい、倍賞の疲弊つけ込むやり口といい、あっぱれなほどに気味悪く造形されたものである。牧瀬のワナビィを充足させるあたりなど、ほとんどカルトの体で付加価値の度が過ぎる。そして、よりによって最後に北村一輝が予定調和な振る舞いでぶち壊しに。

いうまでもなく元凶は小日向文世である。時空いっぱいに広がるヒッグス場たるあの画廊に鎮座した彼は、ほくそ笑みながら世界の対称性を操っているのだ。

 SAYURI [2005]
 監督:ロブ・マーシャル 製作国:アメリカ・日本・中国


SAYURI
アングラな教養小説を装いながら、けっきょく成長の詳細を省いてしまっては、ガジェットへ依存せざるを得なくなる。だから、花街の裏手をスモークで焚くしかないサイバーパンク脳は、あながちオリエンタリズムの所産とばかりはいえない。

ただ、いずれにしても、ガジェットだけではプロットの運用が行き詰まるので、作風の編成替えはなされて然るべきであり、そこでちゃんと、ツィイーや桃井の性格の悪さは言うまでもないとして、ペドフィル謙さんのハスキーな笑いや童貞役所の不穏な挙動がサイバーパンクの陵辱を始めるのだから偉いし、それなりの感慨も出てくると思う。

 狂った果実 [1956]
 監督:中平康 製作国:日本


狂った果実
母性愛に対する訴求の効果が強烈なものだから、世俗化の戦略で弟と棲み分けをする裕次郎は好ましいし、津川を支援する機能性も生態観察に価する。かれにとっての不幸は、この粗放な弾力性が、下手に使い勝手のよいものだったから、北原三枝と対比されるハメになったことか。北原の成熟した造形を表現する媒体へと貶められるのだ。

裕次郎を人格性競合レースに参入させる具体的な機序にはいささか不明瞭なものがある。が、経済性のあることの薄幸と侘びしさが文芸的な正統化をもたらすのは理解できる。津川も完全にキレた顔芸やアクロバットな結末で即物的な支援を惜しまない。というか、これは一種のポリアンドリーか。

 小早川家の秋 [1961]
 監督:小津安二郎 製作国:日本


小早川家の秋
いきなり冒頭から森繁&加東大介が小津調を演るのだから、この辺はパロディにしか見えない。

この無邪気なメタボコンビに、凶悪な笑みで肘鉄を食らわせる原節子がコワイ。森繁は森繁でだんだん地が出てきて気分はほとんど社長シリーズになる。小津と森繁の間で困惑する加東と小林桂樹もまんま社長シリーズだ。

基本的には中村鴈治郎観察日記ではあるが、これもまた死亡フラグの羅列(キャビア!とか)で笑いを絶やしそうもない。ゾンビのごとく復活した後には、この笑いが、生きてるのか死んでるのか解らない透明感に変貌してなぜか恐怖映画の格調に昇華。でも、相変わらずの残酷なつなぎ方でやっぱり鴈治郎を殺してしまうのだから、これでは喜劇調に戻らざるを得ない。小津好みにツンツンする新珠三千代も「船頭多くて進まない」とメタ発言をして物議を醸す有様である。

こうなると、もはや笠智衆の投入して、酷い台詞のひとつやふたつ吐いてもらって、引導を渡す他あるまい。火葬場の煙突や葬列もモダニズムのやりすぎで不気味だ。

 清作の妻 [1965]
 監督:増村保造 製作国:日本


清作の妻
 田村高廣は村の模範青年という割に造形がキモ過ぎるし、若尾は若尾でハードボイルドを衒う割に寂しがり屋で、色々な意味で好感が持てる。病的な傾向の適切な誤配線がバランス感覚につながる不思議なのか。村を競輪場に変えてしまうような偏執狂のキモさが、田村のJock性をかえって救済するのである。

 監督:ポール・グリーングラス 製作国:アメリカ


ボーン・スプレマシー
機能性の動機を文芸的な心理へ連結するために、機能的な意義は凝集したカットの散漫な密度を情報の淘汰圧として利用し、その見当識をいったん失わねばならぬ。機能的な意義がないからこそ、人格の文芸的な動機が記述されてくるからだ。そして、そこで露わになる動機はトラウマの反復性に基づくものだ。しかもそれは、自分の内に反復されるのではなく、他人にあって再現し解決される。利用されるのは、動機が生じたことの不幸な歓びなのだ。

ということで、ロシアにわざわざ出向いて娘をたらし込んでも、スケベとは言わせないのだが、これでは前回の繰り返しで、スケベの正統性が確固としてるからこそ、余計にスケベなのである。

ではどうすればイヤらしさを超えられるのか? われわれはそこで、ジョーン・アレンになされた露骨なたらし込みへ至ることになる。もはやスケベ心を合理化しないあの癒しプレイ(「少し休め」)である。それは、機能性を超えてなお、然るべき事が然るべき場所で振る舞えるような全体感への参与、とでも言えばよいか。あの小憎らしい大西顔が、ひょっとしてこれは格好良くないかしら……キャッ☆となって、これはくやしい。

 沈黙の戦艦 [1992]
 監督:アンドリュー・デイヴィス 製作国:アメリカ


沈黙の戦艦
希薄な人格造形の形状や人生の動機が、即物的なfunninessに依存したいのはわかる。その最たるものが、ゲイリー・ビジーの悲壮な宴会芸でありダラダラと続く誕生パーティーだろう。が、逆に、造形の泥臭い過去を執拗に問わないことが、気品をもたらすこともある。それは例えば、パワーバランスのスリラーよりも物を破壊する段取りや身振りの観察に終始してしまう実用的な態度に現れるし、あるいは、人格の情報が開示されないゆえに、かえって、トミー・リー・ジョーンズの何気ない顔芸が、いわくありげな効果を上げることもある(けっきょく何もないのだが)。

トミー&ゲイリーの道化芝居とセガールの無味乾燥な動作が結託して唄うのは、まるで不安のない穏やかなヒューモアだ。おそらくこの先にあるのが、アンチ・ダイハードの感動的な怪作『コン・エアー(――スティーヴ・ブシェーミと愉快な仲間たち)』('97)なのだろう。