映画感想 [801-900]
まずは、部外者たる寅の無責任な煽りが贖われねばならぬし、ついで、煽りの対象となった、ネイティヴによる田舎保全の主張が全うされてはならぬ。そうでなければ、知床の観光案内と見紛うばかりの田舎賛歌が一種のイデオローグ然としてきて、いたずらに不安をかき立てかねない。そして、寅の無神経も自然愛護のイデオローグも、還る場所は同じだったりする。寅より催された知床への場当たり的な興味は、竹下景子の歓心を買いたいがための功利的な所為であり、知床の景観保存の会は、もともと竹下景子のヴァージニティを守る会が、彼女の結婚に当たって存在意義を失い、田舎の保全へと拡張されたものだった。
寅がコミュニティより脱出する経緯は一見のところ不明瞭で、唐突の感は否めないだろう。しかし、逃走の車中で、景観がマドンナへ溶解した事情が開示される段になると、彼の被りつつあった閉塞感の形が、何となく見えてくるようでもある。
また同時に、かかる情報開示は、人格の優越を反転させることにより、寅への懲罰も行っているように思う。すなわち、自分にはとうてい成し得ないリスク(=告白)を、自分よりも劣位にあると思われた若者が既に敢行していた、ということ。結局、どこへ行っても地獄ならば、寅は死ぬまで運動を続けねばならぬ。二十年にもなろうかとする歳月を経て、語り手はシリーズの核心へと近接しつつあった。
あからさまに喚起された人権蹂躙の不安は、あからさまゆえに、カリカチュアに至るようでもあり、あるいは、無垢な情熱の妥当性が試されるともいえる。われわれは、何も考えていない富山県警と北陸日日新聞の暴走に不穏な空気を覚えるのだが、そこに社会派の感覚は薄く、むしろ、物語の微妙な岐路が感ぜられる。紋切り型の社会派は、時代背景の違いの産んだ単なる誤差だったのか。はたまた、最初から社会派など意図されておらず、語られるべきは、人間の無駄な情熱だったのか。後者だとすれば、ブン屋と官警のおやぢどもは、桃井かおりと連接するだろう。情熱と無知が紙一重で釣り合う場所に世間が生まれる。
もっとも、おやぢどもに見た不穏な空気については、彼ら自身にすれば、また違う意見もあるかも知れぬ。丹波哲朗は早々に修羅場を脱し、童貞キャラの仲谷昇は初めから舞台に参入しない。桃井は北陸を離脱して、おやぢどもの届かない遠い場所でほくそ笑む。岩下志麻の超然主義については言うまでもない。われわれが出会うのは、退出者の無責任というよりも、異次元への畏怖であり、あるいは、野蛮人の儚い憧れである。
機能性の奪われた生活を機能的に生きる課題は、個室で趣味に没頭するような、意図的かつ静的なものとして扱われたり(『ことの次第』)、あるいは本作のように、偶然に始まる移動として捉えられたりして、けっきょく、意図的かつ動的なプロジェクトにはなぜか至らない。加えて、ロード・ムービーなる機能性は、意図しない童女の保護を経過して、プロジェクトを失った男に享受されたのだが、実際にロード・ムービーしてしまうと、現れるのは、幼い娘の食生活的に誤った在り方であったり、錯誤した方向感覚であったりして、プロジェクトの歓楽はなかなか語られない。
語り手が物語を生活感の中に配置する限り、むしろ、これをプロジェクトにしてはならぬのかも知れぬ。若い男が意図的に童女連れ回しては、クライム・ムービーになりかねない。しかし、クライム・ムービーを否定する割には、たとえば、何気なく公安当局を介入させたり、よりによって一糸まとわぬ童女を海辺に投入したりして、物語をよこしまな犯罪の気配にさらしたりする。
ここに何らかの邪悪な意図が働いてるのか、あるいは我が脳がえっちなだけなのか、よくわからぬ事ではある。が、歓楽劇として評価すると、堕落したロード・ムービーを支える妙な付加価値が認められる。
曖昧な文芸上の作業を、物理的な修羅場で使う勇気はどこからやってくるのか、というと 心象の保証となるのはPTSDの厳密な因果性であったりする。ただ、彼がそれを把握するに至るのは手短なモンタージュの中であって、私どもから見ればほとんどブラックボックスでしかない。
聖痕を根拠にムショ仲間の侵したリスクは、宗教上の理由の名の下に合理化されたわけだが、いずれにせよ、両者の動機の詳細が私どもから隔離される程に、男がムショ仲間と接続し得た根拠が見出されてくる。聖痕示現のために、何のためらいもなく行われる自傷とムショ仲間のリスクにもはや区別はない。結論は、前に論じた『Mr.インクレディブル』('04)と似ていて、トラウマの波及劇が実用的で精密な道具となるまで信頼された結果、信仰という案外なタームで、ふたりは結びついてしまう。
三國の童貞演技が倍賞を転がしてしまうのも癪だし、また、北杜夫がモテるのも大変に腹立たしい。マネジメントのスキルとモテ度の相関は理解されるのだが、二人にあっては、かかる機能を保持すると推測されながら、その描画が敢えて省かれるために、何となく苛立ちが感ぜられる。童貞のまま殺される加藤嘉ばかりが予定調和で、やたらと泣ける。
管理者機能の描画は、そのリソースのほとんどを緒方に割かれたのであり、モテて然るべき造形は、逃亡生活の機能的な描画を以て語られたのだ。が、この手の合理化はまた、三國と北がそうであるように、緒方をわれわれから突き放してしまう面もある。彼の日常が合理的であるほどに、肝心の動機が合理化され得なくなり、けっきょく、彼のことがわからなくなる。残余するのは、フォーカスの合わない全体的な希薄感だ。ただ、行為が動機の希薄な所でないと敢行できえないとすれば、それは、繊細で微妙な均衡の風景でもある。それこそ、散骨のショットで外れてしまう光と音の同期のような。
事は、北村一輝のごく個人的な性格破綻からはじまったのか、あるいはX星人内の世代論に帰す問題だったのか。つまり一見したところ、同じ民族にしては、伊武雅刀と北村の物腰に差がありすぎる。ただ一方で、たとえば、百発百中の男、宝田の後ろで微笑む伊武はどこから見ても素晴らしいほどに怪しげで、よく笑いよく狂う北村のカウンター・パートたり得たりもする。また、普段は抑制されてるだけに、陰謀が白昼に晒された際、微妙に唖然としてしまう辺りも堪らなく愛らしい。彼らに見られた感情の表出の差は、熟成に伴って感情の発露が抑制された、というよりも、単に露呈の形式を変えた結果に過ぎなかったようであり、抑制されたかのような伊武の意思は、個体というよりもむしろ場所や空気に依拠していたのだ。
いずれにせよ、概して変態人間ショウである。謎の首都高バトルで特に顕著なように、余りにも情熱的な人体によって、怪獣は尽く疎外されている。したがって、野蛮な龍平ワールドから遙かに遠い泉谷の軽トラが要請されるところとなるのだろう。牧歌的な軽トラが禍々しい廃墟に乗り入れたところで現れる違和感こそ、着ぐるみと人体を結ぶ両義性に他ならぬ。
浴室のスリラーは維持されねばならぬが、持続するものはスリラーをスポイルしかねない。したがって時間は、浴室ではなく外部の視角を以てディレイをかけられねばならぬし、それ故に、物理法則の厳密な適用について、作品内で認識が別れ始めるのは致し方ない。言葉を換えると、外部の視角は劇中劇のようなもので、本編の物理法則よりは緩和されたメルヘンに、語りは制約されねばならぬ。しかし、それが理解されても、あるいは、最終的に作品との距離感そのものが誤誘導であったと合理化されるにしても、電話口の向こうでグダグダと銃撃戦をやるような、あの如何にもなB級ムービーを経験した事実は残存してしまう。
だから、ここで見受けられた、語りの技術的な美しさやうれしさとは、ミスディレクションの図解的な簡明さではないのだろう。かかる明快さのために、かえって犠牲の払われてる節がある。むしろ、スリラーの屍の上にようやく語られ始めた、男泣きだとか、犯罪心理への紋切り型の解釈だとか、そういうベタベタな人情劇への回帰を、納得ある物理法則へ定着させる技術が問われているように思う。
分岐のない閉塞したラインの物語でイベントのトレスを行うとなると、恋愛AVGとは違ってフォーマットの問題として、時系列の整序を刹那的に無視するわけには行かないし、また、トレース感の微妙な食い違いを愛でるにしても、物語はいずれ収束するが故に、分岐する未来の予感にどれだけワクワクできるか、些か心許ない。イベントのトレースは情報開示であり、他方でトレースの差異そのものも歓楽として語られうるのだが、同時に、差異は完全な情報開示を妨げかねない。
歓楽劇は、投げやり感を一種の文芸プレイとして処理でき得たのかも知れないし、あるいは、パラメーターの操作の末に、差異と開示の間で均衡点を見出し得たのかも知れない。ただ、かかる間隙を埋めるべく、人情芝居の猛烈な付加を認めることができれば、きわめて人為的で職人的な所作が見えてくるはずだ。
キゾチックな発話でモテモテになるメルヘンが、恋愛の困難を歓楽として活用する作劇に如何なる波及をもたらしたか、評価はむずかしい。困難ある恋愛はコント然としたメルヘンを引き立てたとも言えるが、他方で、メルヘンが堅実な生活世界をスポイルしたとも言える。ただ、メルヘンが、バーに駆け込むと直ちにゴージャスな女が待ち構えるような、改変力の伴う力場にまで到達してしまうと、ただでさえ散漫になりがちな群衆劇の統制に支障が来すのは明かで、したがって、SFを生活世界の界面に導く動機が生まれ、標準的な解法として、両義的な身体が要請される。少年の惚れた娘は米国籍なのだ。
もちろん、これを政治的に評価するのもありだろう。しかし、ここでの文脈で言えば、エキゾチックな発声に弱いとされた個体を長期間にわたって現地在住させたことが、文芸の合理化を担っている、とも解せる。耐性の予見が、恋愛のゲームを成り立たせてしまう。そこにあって、生活世界の浸透がメルヘンを緩和したようでもあり、また、それでも残余した希少なメルヘンが、ワクワク感のゆるやかな継続を謳うようでもある。
浪花節が暴力の場と対面したとき、異質の思考による物語の分断は感ぜられるわけだが、他方で、時系列の差異をまたぐ、何のルックの落差もない頻繁なダイレクトカットが奇妙な時間の連接感と未分化を産み、見失われがちな被写体の認知が、中村獅童の奇声や、まるで『新幹線大爆破』('75)の炎上する喫茶店のような、唐突なる発作を以て、かろうじて継続されるに過ぎなくなると、浪花節と暴力をただむき出しに陳列する他ない事情もまた見えてくるようでもある。待たれたのは、中村や発作の総決算としての無慈悲なリアリズムの空間だったのであり、かかる戦場の特異な時間がカットの平坦な連なりを遡って区切り始めることで、終わらそうにも形の見えない仲代達矢の時間が定義されてくる。
定時に帰宅可能な人生のぬるま湯感が継続されるべき幸福とされるのなら、恋愛は不幸と拮抗することで非日常を打ち消し合ったと解せるし、風景はごく貸借対照表然に語られたのだ、と思われる。また逆に、日常のルーティンワークから脱出するプロジェクトが始まったとするなら、不幸は負担して然るべきリスクとなり、あるいは、モテを獲得するために日常は欠損せねばならぬような、恋愛至上の裏返しも垣間見えてくる。
到来した非日常が、ルーティンワークの幸福を説話調に想起させる点では、ふたつの仮託は並列して合理化され得たといえるだろう。が、弱気感が恋愛も病気も事故も就業に至る刹那的な通過儀礼としか扱えなくなるにまで至ると、切実で温厚な歓楽装置の全体像が明らかになるようでもある。
観測者の思考からすれば、加藤剛の美意識にカオスな面持ちを見込めたとしても、内的には整合的な体系として、それは確立されているのかも知れぬ。われわれとしては、ただ、若山の発話を参照して、整合性の予感を見出すに過ぎず、かかる体系を把握できないもどかしさも感ぜられるし、あるいは、観測者と加藤の間隙を利用して思考の猟奇性が語られたとも解せる。が、加藤自身すらも把握できていなかったとなると、思考の分離感はわれわれと加藤の間だけではなく、彼自身の内面でも現れてくる。若山の指摘するような、制御できない美意識の眠る身体への違和感である。
加藤自身の自我の統制が問題となる以上、物語の終末の風景は、加藤の視角で担われねばならぬ。彼がそこで見るのは、頭部が脱落し、取り残された自分の身体であり、詰まるところ、思考の分離感が物理的な形で身体に波及した、と見なせる。
前二作と比べれば、見せ物としての嗜虐描画は控えめなだけに、余計、精神衛生上の変態色が濃い。
事後的にいえば、グロテスクなサバイバルの過程が、生き残ってしまったことの感覚をかえって喪失せしめたことであり、あるいは、残存の感覚が祭りの後の空虚感へ誤配線してしまって、生存の意義をもはや問えなくなったこと。事前のイベントで述べれば、総じて夢見るようなソフトフォーカスの皮膜であり、砲撃の後に訪れた無変調の森閑であり、または、死体の山とそれを認知し得ないで通過する被写体との距離感。
むろん表向き、感覚を遮蔽する大気の層は処理せねばならぬとされる。しかし同時に、かかる障壁は、少年の硬化せる面の皮として帰結するような、人格の平衡を保存する防衛機制に他ならぬ。
それは、究極的な当事者になり得ない(=生存してしまった)ゆえに、報復の正統性に欠けてしまった事へ苛立つ、ごく基本的な倫理の感覚といって良いし、はたまた倒置して、無感覚の皮膜を突破できない、まるで副鼻腔炎のような居心地の悪さを語ることに、空気感の壁が利用されたようにも思う。
このゆるふわリアリズムは、現状を肯定する強烈な信仰の反映ではないか。となると、左派には受け入れられないだろう。
岸部一徳にしか興味がない作者の禁欲で、原作の熱狂がポライトになっている。単なる興業の挫折にしては含みがありすぎる。要するに、いつもの作風である。
老人のモテを初期値とする世界観は、自嘲を含むコントとして消費ができて許容はできるのだが、主人公の能力や事件に作者の裁量が見受けられると、物語の機構をどこまでシビアに作るか、どこまで甘くするか、という制御の緩急問題が立ち上がるように思う。そこで、物語運用の厳密さを回復するべく投じられるのが、老人のモテへコントを超えた合理性の光を照射しようとする試みである。
物語の多元性がけっきょく整合性の根拠となり、適当に作られた産物がごく正直に興行的不興を被るように、常識に対する物語の態度は概して敏感である。しかし、それでコントを犠牲にするのは芸がない。日常への苛烈な包容力は、合理性であることがコントである地平――仏蘭西があってよかった――を目指すこととなる。
『パールハーバー』の如く自らは糞であるとする語りが、『パールハーバー』はもっと糞だと定義してしまう過程は省略されていて、物語に論理的な貢献をしない数々の刹那的なコントに相似する。
パロールを制御できぬ苛立ちが、語り手の内的な混沌とリンクするのなら、事は文芸上の問題に留まる。が、語りをパペットという、いささか特殊な装置で以て担わねばならなかったとなると、問題に映画的な色彩が現れるようでもある。制御の容易なパペットの受動性に、かえって過密な情報量を付託できない。パペットの緻密な舞台を、過大な光学制御が扱いかねている。
概して間延びした空気感で運用されて行くダイアローグは、制御の技術的な困難の結果だったかも知れぬ。しかしまた、かかる苛立ちの時間は、サイレントのような、オーディエンスに解釈を負担してもらうほかない、詩情の空域でもあったといえる。
江口一派が現地人に恐怖する訳はないが、現地側としても、デフォルトに配置された鹿賀丈史のおかげで、よこしまな情報量の蓄積があり、現用AFVに驚きはない。
恐怖を分割し、希薄にする流儀は、遭遇の場所を交互の視野に於いて監視し、力関係の優越をあえて無効にしてしまう視点制御として語られる。江口らの怯える視角は、すぐに、現地人側のショットと入れ替わざるを得ない。
江口にしてみれば、本当に恐怖なのは、そこに不在せるコスプレした鹿賀丈史のキレ具合であるはずだ。が、情報開示されてみると、案外に物わかりの良いキレ具合で、安心である。
場所を視角で分割して世俗化し、恐怖をスポイルする意思は何を目指すのか? 語られたものは、不在することの恐怖よりも、風景と時間の分割を乗り越えて、常にそこにあったものであり、それに関連する情緒である。あるいは、集約すべき対象を見出したいが為に、風景はあらかじめ視点群を以て分割せねばならぬ、ともいえる。
われわれの視角の求心力であり得たもの。それは、衆目せる場所に、あり得ない戦国コスプレでフレームインして、おまけに卒倒までしてしまうことで、場を一気にコントの語り口に変えてしまうような、北村一輝の魅惑的な身体であろう。彼の中で一貫していた内的な体系だけが、視野を集約し得たのだ。
語り手が邪念でキャラやイベントを作るのは構わない。いけないのは、邪念を邪念として見せてしまう表現の未成熟だと考える。
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ジュノの誇張された造形はあれで合理性がある。彼女に不規則発言を強いたくても、常識や良識の反発は留保したいから、記号的な誇張を用いて、これはマンガだという言い訳が必須になるのは理解できる。結果として造形はイヤらしくなるが、この辺の事情に同情を寄せてもよい。
対して、年頃の娘に比べれば、語り手がオッサンであるために、オッサンの心理は御しやすい。この自由度を濫用して、あらまほしき「俺」を造形してやろうと下心がわいてくる。もちろん、この欲情はきわめて正しい。だからといって、オッサンが恐怖映画の話題でたちまちの内に女子高生を虜にするのはいけない。邪念がストレートすぎる。
キモいジョックというアンチ・スクールカーストにしても、この造形マーケティングに好ましさを感じる反面、どうも邪念の無邪気さに気圧されてしまう。あるいは邪念が足りないと言ってもよい。邪念が実際の生活に即すると造形の信憑性がなくなってしまうのだ。それはありえないから。
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『デスペラード』や『レザボア・ドッグス』あるいは『コン・エアー』のブシェーミを思い起こしてもらいたい。語り手がどうしても彼を殺すことができないのは欲望には違いない。しかし祈りでもある。本作の邪念にはこういう切実さが足りない。
谷村美月がいったい何を悩むことがあるのか、これが分からないのである。天才美少女に生まれ落ちた勝ち組の最たるものである。不満が生じる余地などあるのか。萌え美少女に生まれた責任が耐え難い? ばかやろう。
オッサンが若い女の心理を明快に解析できるというのは驕りだ、であれば理解はできる。そのわからぬ内面を無理矢理こじ開けたらどうなるのか。もちろんよくわからないのである。よくわからないものが、よくわからないまま明晰に説明されるのである。
となると、天才を前にした凡才のたたずまいの観察がやはり定石になろう。才能のリスク分散のおかげで、天才を目にしても迷いがない市原隼人。実務者の態度で押し切る國村隼。全てを諦めた笹野高史。場違いがうれしい六平直政などなど。最後は、國村顔面観察大会で俺的に大団円。
セルジオ・レオーニをやるにしても、マカオの狭隘な街路で、あの広漠な空間をどう表現するか。時間の可延は可能だとしても、では空間のそれは? 幾何はカーテンの流動的な区画整理と隠蔽、マズルフラッシュの規則的な交歓、微動だにしないシューティングスタイルの厳密な遠近感によって支配されている。見たところ、レオーニとは関連がない。
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今回のサイモン・ヤムは、いつものジョニー杜組のアレで、まことに楽しげだが、アンソニー・ウォンがよくわからない。サイモンと変人競争をやるにしても、硬すぎで、それでは、彼が本作の常識の基準点かというと、それにしては芸が細かく、この立場の曖昧さを嫁につけ込まれる。
造形の安定性でいえば、機械のように発砲をつづけるリッチー・レンも手堅く、彼もまたアンソニーのスタンスへ疑義を呈している。どこにでもプロがいる様な空間の普遍性はレオーネ空間の支持にもなるのだが。
サイモンやリッチーの役割は、未成熟なオッサンたるアンソニーを証明写真へと追い込む牧羊犬にあるのだろう。オッサンらの喧噪を見守るサイモンの微笑をたたえた眼差しはその最たるものだ。
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童貞どもはオッサンへ成長せねばならぬ。しかしオッサンには過程というものがない。ではその一瞬をどう切り取るか。レオーネ空間はマカオにねじ込まれたようでいて、けっきょくマカオという時空を広げていたのである。オッサンという一瞬の現象を光学の支配下へとどめるために。
船越英二ファンとしては、彼を虐待する丹阿弥谷津子への報復を期するのだが、源氏鶏太原作だから、船越は船越で、真っ昼間から社長室に芸者を連れ込み、果ては、浮気先の鬼怒川ではまんま森繁状にヒートアップして、ファンをよろこばせるものの、これでは虐待されても仕方がない。一方で、川口&若尾の方はよくできていて、彼らの欲望の充足がそのまま谷津子虐待の介助にもなる。
後に、「既知外だけが成功するのよ」と若尾の自覚が発見されてきて、安易な造形相対主義の流れになるとイヤらしくなるが、最後は、谷津子がデレて、船越の男振りを大いに上げるのだから、まあよいではないか。
叙述のフォーマットと雷蔵の童貞人格は基本的に『炎上』の踏襲であるが、炎上で試された中村雁治郎の人間性について今回は容赦がない。「和尚さんは病気だから」とは杉村春子の評。
爽やかな怪演もおぞましい三國連太郎も、すわ雷蔵との絡みで人間性が試されるのか、とドキドキさせるも、5分もたたず本性を顕し雷蔵をオルグし始める。校長宮口清二の善人化や雁治郎の岸田今日子保護を見るに、人格耐久スリラーではなく人格発見の方を今回は採ったのだろう。雁治郎が岸田にいつ手を出すか!……というのもスリラーだが、これは当てが外れた。そして、よく死ぬ船越英二。
菅原健二を京マチ子に奪われた後に、恋愛の損得勘定が若尾に湧き上がるのだから、犠牲の含意は遡及的でイヤらしくはない。マチ子にしても略奪の自覚があるだけにリスクを分担している。何よりも彼女が奪わなければ若尾の愛が発見できない。
真に責められるべきは佐分利信のモラルハザードである。別に若尾がいなくても川口浩という家政婦的担保があるから、佐分利は安心して若尾をいぢりまわすのである。「泣くんぢゃなかったか?」云々と『お茶漬の味』級のたらし込みで若尾のファザコン性を確保。
船越英二は佐分利の攻勢にナルシシスムの物腰を以て堂々と対抗している。川口も今回は野添ひとみをたらし込めて救われた。
童貞の物腰を天然災害と割り切るシニカルな距離感。あるいは川口浩の欲望のバリエーションを観察する映画的正しさである。岸惠子は川口の乱脈をフォローする手際の良さで造形を萌やす。次々と投入される婿候補は「俺か!」といやな想像をかき立てられる。次々と現れるストーカーは完全に俺で顔を覆いたい。芥川也寸志のホラー劇伴で飛ばす田中絹代も川口の面白フェチに丸め込まれるからあなどれない。
北野版の座頭市は殺人マシンだから内語がない。彼を動かすのは好意の需給関係である。殺人マシンとしての雪之丞にはその自覚がある。明確な目的がある分、体が自律しているため自意識の発達が促された。しかしただそれだけなので、やはり好意の需給がないと物腰の詳細が詰められない。だが、男に寄せられる好意は無条件的で、需給関係の設定は強引である。富士子も若尾もどうして白塗りの化け物にフィーバーするのか。もっとも、この悽愴な容姿が殺人マシンとして納得というか、メロドラマに、いささか猟奇的なポテンシャルを呉れてもいるようである。
川口浩の虐待観察は所与としても、高度成長期の会社員生活は、無為に耐える技術ばかりが喧伝される欧州官僚のような羨ましさだから、神経痛の即物的なスリラーでしのぐしかない。しかしこれとて営業に回って午前様をやれば川口的には済むことなので、それができないとなると文明の断絶が映画とわれわれの間に横たわる。いや、船越英二のライフハックが本当にライフハックであったこと、しかもそれが最悪の形で報われる(やめてくれ)様を見ると、彼我に文明の差があるとは思えない。つまり、この綿密な民俗観察劇はいつの間にか無能と猛烈に馴れ合う個別的な決意へと至ったのだ。
幼児を階段やビニールで遊ばせ恐怖を煽り、あげくに団地の窓際から降下せしめるというから、これは船越英二をルソン島に放置するよりよほど身に応える。
いや幼児に及ぶアクシデントは遺憾ながら耐えられる。船越ファンにとってこわいのは、彼に波及する何らかのリスクなのだ。船越が日曜大工やゴロ寝する物腰を観察するだけで気が済むのだが、代わりに何気ない現実がホラーと化する。
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幼児のイヤらしき内語を懲罰する意味で、浦辺粂子の暴虐は評価できる。なによりも船越が例によってイベントの積極的な担い手という感じではないから、アクティヴな厭世観は正しい。しかし『クッキー・フォーチュン』のような多幸症への不安は否めない。老害を煽りまくって、一部の受け手をよろこばせるのも、かえって不安になるのである。
元憲兵の浜村純が船越英二とロイ・ジェームズを使ってハングマンをやってるトンデモ時空にシナリオの論理構造が引っ張られている。船越は偏執的ナイフハンティングでネタに走り、几帳面なズボラを手堅く演じて笑いを絶やさない。
二人の間のなれ合いと言うか、共棲関係が、危機感の表現を妨害しているように見える。特に、ローレンスにはシナトラの介護があるから、切実さが生じがたい。中国共産党要人のスライドで一瞬挿入される岸信介が緊張のピーク。
『乱れる』と同じく加山雄三の無意識を濫用して司葉子を虐待。冒頭8分で轢殺。入水自殺。事故。救急車。相変わらず悪意ある早漏脚本と微動する加山の眼球。成瀬は遺作まで容赦がない。
大谷友右衛門が田中絹代と久我美子の親子丼にトライする設定である。特に酷かったのが大谷と久我が能楽堂でいちゃつく場面で、ふたりを手前にナメて、奥の壁から絹代が気持ちの悪い物腰で顔を出したり引っ込めたりで、ほぼJホラーの遠近感である。
ラッセル・クロウが文人画をひけらかす冒頭からイヤな予感しかせず。直球の近代化賛歌に童貞性の試練が組み込まれる構成は嗚咽止まらぬが、ラッセルの生命が最後まで担保されている点で、八百長の興ざめ感にまとわれ付かれる。
美しいのは課題提示の明朗さである。前作では「赦しあうべきだ」が課題であり、鶴田真由を自分が殺害していた、つまり惨状の元凶は自分だったという再帰でかかる課題が具体化された。今作でも「強くなりたい」という課題が明確にある。チャラチャラした序盤が中盤の回想によって、なんとベタかと嘆じながらも居住まいを正さざるを得なくなるのは立派だ。ベタの強さを思い知らされるのである。
山茶花究が謎の中国人でキャバクラのオーナー。マネージャーは仲代。そこのキャバ嬢である高峰秀子をめぐって鴈治郎、小沢栄太郎、加東大介が――と東宝と大映が混交してSF時空が広がる。高峰の虐待が進むとあの鴉声が「ばかあ」と萌え声になってたまらない。それにしても秀子幸せになってよかったと思いカウンターを見ると、まだ30分残っている。地獄の蓋が開かれるのである。
ロバート・ショウがメタボであり得ない運動量を発揮するメタボ性善説の歪みが、スタジアムに突入する丸々とした飛行船の巨体として具現化する呪術映画であるが、スタジアムと対比されることで突出するこのズングリ感が蠱惑的に愛らしく、一種の人格を帯びるのである。
文芸的な洗練を施せば政治主張が薄くなることを恐れるがゆえの、この野暮ったさと思えば同情できないこともないが、ただやはりウザい事には変わりがない。
時事ネタへのただ乗りが醸す、傍観者的な距離感によって、このおやぢのナルシシズムがガチだとわかってしまうから、これはたまらない。
オッサンをケージで囲って観察する話と割り切れば乗れるのかもしれないが。トム・ウェイツがデレ過ぎるというか、キャラクター・ドライヴンに頼りすぎで、プロットの恣意性を隠す意志に欠ける。収監されるにしても逃走するにしても記号の域を出ない。
息子トビーの童貞臭に誤誘導はされるものの、ケビン・クラインの童貞性を同定して行く話だった。ハンドルの握り方ひとつで童貞性を示唆するアン・リーの手管である。
波乱なきノンキャリ人生をどう消化するか、という課題映画である。懐メロで経年感を再現する風俗観察パートとドラマパートが離断しがちだが、いささか強引とはいえ、ノンキャリ生活を見せ物として全うするのだから偉い。最後まで狂わなかったポール・ソルビノの尋常ならざる安定感が課題の回答。
聾唖者がソープに売られ、警察官がその身元を引き受けるという、語り手の天然という残酷さが、政治的正しさに至るところで喧嘩を売り、ひたすら緊張を強いられる。
武闘派セラピー。ラッセルの文人趣味でまた嫌な予感がして、童貞オフィサーが戦争神経症で即入水自決したあたりで、休日が台無しになる。
『太平洋の嵐』で一航艦を全没させたメタボどもと、前に加東大介、小林桂樹を非難したが、これを撤回したくなるメタボ性善説映画。桂樹が白馬の王子様という謎の世界線。
ソダーバーグ節のむつかさしといえばよいか。クルーニーとサミュエルのボーイズ・ラヴに還元されたとすれば、すべてはジェニファー・ロペスの陰謀だったというわけで、男の口惜しさが残る。しかしボーイズ・ラヴということは、性の優位性に関して男女の逆転が起こっているのである。
ナルシシズム、息子自慢、サナトリウムと、この相変わらずの集中力のなさであるが、後に老齢になって明晰さを失うと、かかる散漫が天然の詩情や断裂の衝撃を謳うという利点が見えてきた。しかし本作にあっては明晰なままに散漫を叙述するという気が狂いそうな営みが行われている。
ウェインの甲走った面の、如何にもキレそうな感じが緊張を強い、しかも、この緊張が概して正しい。ウェインのツンデレを享しめといわれても、時折、ツンツンとムラっ気が本気で錯綜するのである。冒頭とラストのドア枠が、この造形を明確に定義する営みを示唆している。
中年童貞忍者の骸の山を踏み台にして里見浩太郎がリア充化する過程が、渋い親方様の大友柳太朗への好意というか、彼の硬派がどこまで耐久するかという関心を生じせしめている。したがって、土壇場でそれが崩されるのは不満が残る。
男であることのくやしさと優越が行き交う話で、高峰秀子は兄の丸山修の臑毛を見て「けだものみたい」と蔑視しつつ下宿人の杉丘毬子とレズる。しかし、世田谷に下宿すると、根上淳にたらしこまれる。
進駐軍の携帯火器が皆カービンという不能状態からわかるように文系世界の戦争という思考実験である。ただ、この評価軸でやると女性の扱いに混乱を来したらしく、牧瀬里穂のエイリアンのような彫の深い顔貌が誤算として現れた。
相貌と表現したい感情がかい離するマルコヴィッチという人の徳が顕著に出るのは事後の男前の顔貌である。イベント的には、これが頓死という顛末の衝撃を産出する。事後の男前の感激の感化で不死性を思いこまされていたのだ。
メタボの分限でディートリッヒのハートをくすねる中年オナニーの驕りを超えて、メタボともどもカメラをエレベーターに押し込む暑苦しさに、量塊への信奉が見え透いてくる。これもまた一種の映画という技術への信奉だろう。
内容が内容だけにポランスキーの文系暗黒面を照射して、そこに引きずられるように生々しい記録映画文体。これはさすがにやばいだろうとジャック・ニコルソン×バート・ヤングで粉飾。ロッキー前でバートの起用だからえらい、というべきなのか。
経済力で圧倒されてオスとしての面目を失ううちはつらいが明快である。経済力が仇となってライフハックが問われる段階に至るとメスがオスを評価する準拠枠を喪失する。何が生存に有効なのかわからなくなるのだ。ただ道場に駆け込みたい衝動だけは込み上がてくる。ブルース・リー映画よりも余程に。
文明の威光観察と貧困脱出プロジェクトが、武闘路線への説明なき転換で頓挫しているようだ。ウェインが味方であるからゲームバランスは劣悪であるし、スチュアートはリア充化して観察対象から外れる。ウェインの自棄糞を観察しようにも、頑丈だから大丈夫でねえか、という感慨が邪魔をして、逆に誰かリー・マーヴィンを救ってやれよ、となる。このあたりに武闘路線と物語の取引がある。
造形への好意からエンタメをやりにくいのは、借金のサーキュレーションが責任の分布を観測不能にするからだ。あるいは山田五十鈴を観察してキレ具合を測定しようにも、すぐに動機の合理化がやってくるから造形は突出できない。フレームも縦横する行動と動機のフォローにいつも遅れがちで、光学的に造形へ立ち寄れない。したがって山田五十鈴とようやく正面衝突できたラストフレームは図解的でわかりやすい。
理解ができないことが建前にある。しかし物語という形式で叙述する以上、感傷は不可欠である。この両者を併存させる解としてラストに来るのが怪獣映画の不可解なスケールである。
モダニズムの街を批評するのか、それともあの喧噪に参加できない孤独からエンタメを引っ張り出すのか。後者に走るとなれば、ユロのイヤらしい失語症に一種の追感が出ると考える。たとえば、テレビ団らん観察大会の遠景。失語症が共有され造形が一体となった生暖かさ。
最初は、藤村志保のナイーヴな造形に反感を持って、ホモソーシャル賛歌の路線かと考えてしまった。にしては、天知茂のいつものムフフモードはともかくとして、雷蔵は雷蔵でナイーヴで締まりがない。どうしたものかと、乗れないでいると最後にあっとなる。志保のナイーヴさは隠ぺいであって、ホモソーシャルを超えて行く彼女の変貌を、数カットの画面構成で観察可能にするための手立てだったのだ。
病弱な体育会系という渡哲也の身体の根本的矛盾を捕捉しているヌーヴェルヴァーグの、記録映画文体のイヤさ加減が渡の病変演技で炸裂。次いで小百合の視点になるかと思えば、それは小百合の内面をブラックボックスにするフェイクという悪辣である。
谷啓一派が鑑識を待たず現場を荒らし始めて、早くも消化試合の気分に至る。家族話と捜査の連関がなさ過ぎて、中原理恵の件が解決して終わりかと思っていたら、まだまだ話は残っていたという罠。つまりこれが犯罪捜査であることを途中で失念したのである。
木暮実千代のシナの作り込みがすごいあたりは、ラブプ○スのポリゴンかと余裕の構えであり、小柴幹治が鬼畜眼鏡化してセクハラを繰り出しても、まだ苦しくはない。本当に顔が凝固し始めるのは、進藤英太郎が無心に来たあたりから。
ウルルン滞在記メソッドに堕したくない欲望が、内部抗争の勃発や造形の童貞性の暴露に頼らない、禁欲を装う作風へ至るように見える。
貧困の再生産という監獄の自力脱出スリラーが否定され、カウリスマキ映画のような救済のランダムさが公権力の投入という苛烈な意志で体現される。ランダムと意志という相反する要素を時事物の緩みが統括している。
小林桂樹が原知佐子と社内不倫する前提から間違っているため、ここに受け手との距離感が生じる。西村晃にネチネチとやられて、せっかく顔芸が爆発しても、この距離感が虐待観察をスポイルする。
「寒いからこの布団に入れて下さい!」「三人で雑魚寝しよう!」と平田昭彦の感激のエロ顔芝居である。池部良のダイコン芝居を悪意的に解釈した世界観であるが、この池部虐待劇場に中村伸郎まで荷担させてくると、東宝スコープでなんてことするんだと、怪獣映画に憧れた少年の夢が破壊される。
『黒い画集』を踏まえると、池部良がもはや男前を装っているようにしか見えず、しかもその世界観で世界である。対して小林桂樹は包み隠さず、池内淳子に「身体が目当て?」と図星を突かれ凄い顔芸を展示する。伊藤雄之助はすばらしいが相変わらず役に立たない。小沢栄太郎はコスプレのやりすぎで原型を止めず。
学園の暴力が法体系の域外にあるために、この手の暴力の軽重がわからない。このわからなさを利用して語り手の遊びの余地が出てくるのだが、反面、最後に浅野順子がヒィィしてもコントなのかシリアスなのか判別がつかないのだ。
ADHDに遊牧民の血を仮託してウットリするのはよいとしても、その感傷の担い手が当事者ではなく、兄貴のデヴィッド・モースだとしたら、話は違ってくる。また、ブロンソン観察大会もファンとしては手じまいが早すぎるように見える。デニス・ホッパーの予定調和は愉しいのでよい。
異邦人を文明の威光下に置く社会的な手続きが老人の属人的なナルシシズムにうまく組み込まれ、それぞれが独立して語られるなら大変なことになりそうな所を互助している。この相互作用から産出されるのが製造業の賤業化への感傷である。
オッサンらのコスチュームプレイ劇と否応なく認知させるのは潜在的なサークルクラッシャーたるローリーの存在なのだが、衣裳劇の惨めさがあるからこそ、事が部活動めいてきてかかるサークラの緊張が実効的になるという哀しみがある。
川崎敬三のデリカシーが空想的過ぎると我に返るところもあるが、論文が事業計画書として作用して将来に期待される男の甲斐性の担保となるように、風刺ゆえの明快さがモテる理屈を設えるのである。川崎自身が天然ながらも嘆くこの男女と経済の因果を相対できるのは伊藤雄之助と船越英二の中性的造形というのも図解的わかりやすさ。
大滝秀治が味方だからワンサイドゲームではあるし、もともと加藤嘉が空幕長を担う世界に造形力の手がかりを求めても徒労である。ロッキードの生産ラインで仲代の軍オタ魂が沸き上がっても大勢とはあまり関連がなく、いつもの強引な顔芸で誤魔化すほどに、どこの時空にいても全く変わらない山本圭の偉大な天然が浮き始める。しまいには高杉哲平の岸信介コスプレでナニもかもがぶっ飛んだ。
アウトローを自覚する川口浩のイヤらしさが、熟女の三益愛子ならば通用するというもっともらしさを経由して担保の件でその身体性が問題となるうまさがある。野添ひとみの恋が自然に受容できる。
香川照之に関しては、話が超地上的になれば、これもまたいつものことで、安心して観察できる距離感も出てこようが、しかし刺戟が足りなくなる。むしろ見せ場となるのは、息子の派兵フラグや小泉今日子の熟女緊縛プレイといったおふざけを、キャラへの確信的な好意へつなげる技術であろう。たとえば、発動した息子に群がるギャラリーと風光の投げやりな、いかにも黒沢らしいわざとらしさ。そのイヤらしさがうれしいのである。
プロジェクトの淡々とした観察が後ろめたいのか、計画の正統性を訴えるのに忙しすぎる。言い訳はトムクルを無能に見せるし、爆弾や鞄をかえって宴会芸の小道具にしてしまう。その分、ゲッベルスの肝が据わってる感などが浮き始めて、旧枢軸民をよろこばせる。
外貌が若返るといっても中身は幼年から老人へと通常の成長手順を踏むためか、若返る設定がなくとも成立する話に見えてしまい、そうなるとブラピの失踪が無責任に思われる。 その原因となった家計の不安も社会保障の未達というテクニカルな問題にすり替わりかねない。
アクシオムにとどまってもメタボ以外に問題があるとは思えん。天災が人生の動機を急速に顕在化させるわけではなく、地球に戻りたい欲求の説明が不十分で記述的である。わたくしは宇宙で遊んで暮らしたい。また、人類の動機づけがウォーリーによるナンパの誤配線的副産物であり続けることも、メカの冷淡さを連想させやすい。プロットの弱さがそのまま、やればできる艦長の物腰の過剰さに代替されたのではないか。
物証があるからSFや古典落語に墜ちるわけでもない。しかし事件が明らかだとすると、何を以てシナリオの求心力とするか。ディストピアを享しむには隠蔽工作がずさんすぎるので、収監先でライフハックを学ぶ程度に抑えておきたい。何よりアンジーの顔芸が怖すぎて、虐待の気分があまり出てこない。事件がつながっても、早くナニを掘り出してアンジーを救済したい気分とは別に、オッサンに事件を隠蔽してほしくない欲求が感ぜられる。造形の好意と常識の範囲を確定してほしい。
消化試合の辛辣なコーディネーションは相変わらず趣味が悪い。事件の全容が露わになったらなったで、今度は絞首刑の模様を執拗にモニタリングして、語り手のノスタルジックなキッチュが猟奇趣味の効果を狙わんでもいいのに狙ってしまうのである。
キャラクターの挙動に受け手の興味を託す類の作であるから、ジャンル映画としての質を問うべくもないが、藤原竜也のゾンビ化計画が進捗して国会のセキュリティが嘲笑されると、小芝居のやりすぎでイヤらしい岸部一徳がふわふわ不思議時空を統べ始める。邦画でしかやれないことをやっているのだ、と考えたい。なお、今回の菅田俊はサークルクラッシャー水川あさみを仕留めて『勝手にしやがれ 強奪計画』の復讐を遂げている。
ダニエル・クレイグのキスの吸着音の生堅さが、しょせんは公務員稼業というシリーズの暗部をつくのであるから、チュッチュッ音が響くたびに、作中最大の緊張が走る手軽さ。
京マチ子が成敗せられるならば鴈治郎の犠牲もやむを得まい。とはいうものの、やはりサヴァイヴしてほしいもので、鴈治郎の幸福の可否を餌にしたスリラーが生じる余地はある。また、若尾の仕掛け地雷が明瞭すぎるので、マチ子の凋落が確定済みという安心感もある。いくら金のためとはいえ、マチ子の堂々たる肢体にむしゃぶりつかねばならぬ田宮二郎も見もの。
菅田俊が黒沢組でまたも宇宙を巻き上げてるのか、というのはフェイク。話が哀川と國村隼の人間性を試しまくるのは、ファンとしては不快であるが、意味の無さを耐える修行は、好意の位置を宇宙が回顧的に模索することで報われる。しかしながら、小芝居がそこに至るまでのイライラを救えたかというと、七瀬なつみの強烈な造形に抗し得なかったと思うのだ。
山茶花究にせよ若尾にせよ目移りするのは同じで、倫理上の貸借を気にすることはないが、恋愛に資産の特殊性を求める山村聰が即殺されるのは激しすぎる。藤巻潤の買春斡旋やフランキーの婿入りも陰湿な若尾いびりであるが、だからといって江戸の敵を討つ的な意味で高見国一を若尾が転がし始めると、目移りが報復の手段と変わらなくなる。
では負け犬のサンセットを希薄にするために、何が成されるべきか。
それはたとえば、山茶花の「酒で殺すに限る」的な道楽芸であったり、童貞高見に死亡フラグを立てる若尾の悪意ない仕草だと思う。信州のド田舎でフランキーとエンカウントするという確率要因に自律性という空想を託したいのである。
愛が費用便益分析の賜物と強調する割には、交渉力の分布に偏りがない。勝新は勝新だから自活できるだろうし、田村高廣はデフォでモサクレだから、内務班で枕を高くしていられた。トラブルメーカー勝新の襲来でかえってその文系処世術が試されるのだから、田村がそこまで勝新に肩入れする理由がわからないし、勝新も「どうして自分に親切か」と不審を抱く。権力を自制するワクワク感を田村から引き出そうにも、相手が勝新だから自制しなかったらそれこそ命の危険があるのだから、自制が自制として成り立たない。
造形の政治的属性でプロットの動作を説明できなくなればなるほど、田村の表現は露骨になる――「お前みたいな奴はほっとけないんだ☆」「ばかだな☆ おまえは☆」「俺はあいつを見捨てても、あいつは俺を見捨てない☆」等々。愛と費用便益分析の関係は逆流したのか。あるいはプロットのもっともらしさを物腰の奇っ怪さで乗り越えようと割り切ったのか。
ケンカに明け暮れる内務班はまるで私立リ○アン女学園のような閑雅さである。これはいかんとひとり奮起する成田三樹夫の格好良さが突出。
要は、男がみんな若尾に狂って逝くいつもの話なのだが、まだ彼女の造形的強靱さに甘えている分、若尾が邪悪とはなかなか思わせないし、むしろ服従の強いられ方を享しむゆとりがある。若尾に暴力を振るってみたところ、かえって関節を決められ組み敷かれるとか、紳士の極みもはなはだしい。この甘酸っぱいドキドキが4年間煮詰まってドロドロとなり『妻は告白する』に至るのだ。
大映末期の、崩落した質感が捕捉できないのは緑魔子ではなく、船越英二の質実共にぼんやりとした形姿であって、童貞が奪われたら次カットでいきなり声変わりするように、とにかく不安定で、見所が分からないのである。かかる崩落を舞台調の芝居という形式主義で食い止める方策が試みられている。
とりあえずトラウマの因果を隠しながら造形の特性だけを準備して、プロットを引っ張る興味としたい。あるいは集団療法の形式的先行を許したい。しかし不死であるならアル中を更正する動機は薄い。
西海岸の犯罪率よりも、ホモセクシャルの真贋判定の方が余程に命がけで地に着いている。この感性でシャリーズ・セロンの遡及的な妄想をフォローするのがそもそもの掛け違いか。
本田宗一郎がなぜこんなリア充なのか、というのが、よくわからない問題で、その違和感を解決すべく、ハンヴィの車中でタンブラー片手に武勇談を吹かすところから、中央アジアの洞窟へ追い込むのだが、しかし、その間のマンガ的な亀裂は否めない。マンガだから当然か。
末期戦のルソン島に船越英二先生を放り込む、という怖いもの見たさである。が、昭和二十年のルソン島すら、あのマイペースを崩せず、超人的な生活力が船越のほのぼのを温存してしまう。これでは事件の切実さは担われず、受け手の視点が船越のそれに重ならない。切実さは、滝沢修ら周辺の人物に担われ、彼らを通して、船越を観察する体となる。
やがて、滝沢がテンパリ始め、受け手の視点を拒絶し始めて、ようやく、われわれは船越の視点へ回帰するのだが、もっとも船越英二性というわれわれの経験を越えたものに誘導してどうするのか、という疑念は残っていて、物語の宇宙はそこで瓦解する。
曹操が真意を明かせないのは、呉宇森が華北のリアリズムを解さないからだろう。呉宇森にとってリアリズムとは、中小企業のおやじで、自然、身振りが太宰久雄風の苦労人のそれを連想させがちだ。
これが江東に入ると、呉宇森のホームだから、一気に怪しくなる。トニー・レオンの顔をフレームへ入れず、じらす尽くすあたりから、先生乗ってきたなとなる。
曹操もここまでくれば乗ってきて、トニーの嫁にストレンジラヴして、童貞性が暴露されたりする。もはやアクションは不要だろう。両陣営の評定をワイプでつなぐシーンがあるが、アレを永遠にやればよい。
増村が三島の童貞性をいたぶり尽くす話になりそうだと思ったが、全くそうはなっていない。増村や船越英二の、三島を見守る眼差しには、微温的な優しさがあるし、何よりも、三島の自意識が自らの童貞性を受容していて、好感が持てる。童貞性が母性におもねるところまで墜ちるのは頂けないが、これは役者の責任ではない。最大の見どころは、三島の裸体への、船越のボディタッチ。
ジュリアン・ムーアに設定された万能感を、逆にどう抑止するか、課題を抱えている。下手に万能だから、状況が悪化しても伊勢谷の帰宅プロジェクトに勝る切実さは出てこないし、どうしてここに至るまで彼女はブロンソン化しないのか、不可思議になる。
事件の動向で話を持たせるよりは、造形観察を優先したと考えるべきだろう。安全性はジュリアンに担保されているから、サバイバルはアトラクション化して、人情劇を大船に乗って観察できる。この際、大船が人情劇の重さを損なうのは仕方がない。
二作目は市川崑の担当パートで、船越英二の登板だから安心。市川は『穴』を撮ったとき、船越と京マチ子のパワーバランスにあまり頓着しなかった。今回も富士子の陰謀が早めに割れる点で視点の散布界は緩いものの、陰謀の臭いがあるからこそ、俺の船越がダマされる!――というドキドキがある。川口の童貞性を試すのもスリラーとはいえるが、若尾の心理は最初から完全に割れているから、破綻の特異さやタイポロジーで増村は芸を見せている。
万能なジュリアン・ムーア(声)では話にならない。ということで、オフラインでは一転してダルマでしかない焦燥が設定される。つまり、頭に身体が追いつかない。一方で、ビリー・ボブ・ソーントンは、体はいくらでも動くかわりに頭がついてこない。ゆえに、話としては、肉体賛歌へと向かいたい。
ジュリアン(声)にしても、迫り来るUAVを前にして自死を決意したソートンにしても、才能の局限性の牢獄に光差したのは一条の自由。そしてそれらがリア充の踏み台にしかならないくやしさと嘲弄である。
この話が語る、幼女の強さとは、健忘ゆえの強さなのである。当人は自分が健忘することを健忘していて、当人に危急の課題が生じるとは思われない。役所広司がそれを哀れむのは理解できるが、幼女のためと称して彼が転がす話も、幼女には課題がないため、自分に対する心理療法に幼女を利用しているだけとなってしまう。
法廷のフォークロア・スタディのネタ切れこそ最大の難関である。出産プロジェクトすら頓挫するから余計にきつい。その場しのぎとしての、サービス精神過剰な法廷の悲喜こもごもや寺島進の味噌汁スリラーといった宴会芸は客のデリカシーに期待しすぎだが、メインプロットに絡まない限り害はない。しかし木村多江のヒィィが乗りすぎてホラームービーをやると、リリーの人間性がどこまで耐久しうるか、そのレースを観察する余裕がなくなる。多江の症候がライフハックネタに落とし込まれるのは、少し危うい感じがするが、そこに至るまでどうしのぐか、それが勝負の分かれ目になりそうだ。
まさか本気ではなかろうと思う。しかしながら、ここまでキモくやってしまうと、ひょっとしたら本気じゃないかと、一瞬迷ってしまって、そうなると作品との距離感がつかめなくなってしまう。ドラマ画質の絵も不気味さに花を添える。セットアップに50分もかける不手際に、どうも語り手自身、混乱している節がある。
『グラン・プリ』を踏襲しながら、無菌的で誰も死ぬことができない世界観という矛盾なのであるが、この不死であることがかえって亡霊に憑りつかれるような趣向となり、やはり『グラン・プリ』のラストにつながる。
童貞は人生を日常のイベントに組み込むことができない。自分が童貞であるという人生を信用しないからである。組み込めない以上、童貞の人生を日常に即して描く術はなく、その不遇の生活はぎこちなく口述されるしかない。話は典礼的になるほかない。
童貞は迂回的に日常を把握せねばならぬ。と同時に童貞は童貞を越える物事を理解できない。したがって、オトナのオトコたるモーガン・フリーマンの妄想が勃発すると、童貞の繊細な想像力は耐えられなくなり、再び説明をモンタージュに頼るほかなくなる。マッチョな自分などあり得ない以上、ストーリーは常に童貞の想像力を越えてしまうのである。