映画感想 [301-400]
ヴィムには、フランス人のゴダールが抱える英語コンプレックスのような鬱屈がない。『ベルリン・天使の詩』に見られるような俺は守護天使的な中学二年生感性のミーハーで明朗な通俗の感覚は、時に苛立ちになる。『夢の涯てまでも』が日本語話者にとっては、オリエンタリズムというか、悪気なく恥部を呈されるような気分になるように。今作もハバナの風景が挿入されるのだが、その観光客丸出しの無邪気な好奇心が他人事ながら現地民はどう見るのか不穏を覚える。
男にとってあくまでその恋は受動である。それでありながら選択したという実感を得たい。仮想戦記を通して少年は果たして能動的になりえた。なおかつあくまで仮想であるという喚情がこの話の美的性質となっている。
ジーン・ハックマンのアイドル映画であり、独居老人の生活様態の観察であって、これは目が離せない。ジャック・ブラックら文系の扱いも好意的でそれに対するNSA体育会系部隊の脳筋振りは語り手の世界観を露骨に表すものだが、彼ら脳筋も後半でFBIの仕事を引き立ててくれるから、捨て石になっているわけではない。
心的記述を行う文芸映画の文法的基調に大写しで挿入される近未来アイテム。リュック・ベッソンと同類の地上的尺度への率直さの極限としてのパチンコ屋の衝撃。
海外観光客向け土産屋の自意識が先鋭化して手淫常習になっている。かかる自己分析が未知との遭遇を果たした時の混沌が、オマー・エプスの支離滅裂な、しかし現実的でもある挙動として現れている。彼は兄貴と感傷的に別れた直後、逃走の車内で愚痴を述べ続ける。兄貴から渡された鞄に現金を認めると、愚痴が兄貴への愛慕に変わる。
冒頭のシルカが発砲を始めれば寄ってカットを割って、さらに高速度撮影という畳み掛け。初出したアッシュは修羅場なのに不必要な緩さでワルサーPPを抜いてポージング。食堂の対話では後背の新聞を読んでいる親父にまでパンフォーカスする邦画ドラマ撮影。目前で展開されている現象に対して語り手である自分がどう知覚しているか、如実に受け手に伝えずにはいられない啓蒙的衝動である。
このハンニバルはまだ性欲に負けていない感じがしてすきだ。クラリスに性欲が発動しても、そこにたまたまクラリスがいたから発動したのであって、代わりに異性があったらやはり発動したような性欲の非匿名性あってクラリスが特権化せず、ハンニバルのオス性がそこまで強調されないのである。
オッサンの薄毛がインテリのシニシズムから作品を解放して、のどかな被災映画にしている。そんな中にあって、兄の薄弱で弛緩した顔貌が緊張を助長する。この顔からオッサンの顔の大写しが続くと、自意識が感情を制圧する様が観測され安心してしまう。そういう緊張と緩和がある。
ミランダ・リチャードソンの造形がよくない。ブンヤでかつ連合国民という非当事者の属性が女性嫌悪とたちまち結合してしまう。見方を変えれば、俗化の作用に優れた話であり、淪落ともいえる舞台をそもそも無邪気に設定できるのも、かかる精神の賜物といえるだろう。
トヨエツと真木蔵人がいくら交歓を重ねても内輪ネタのような下品が生じない。この偏頗であることはつらさでもあって、みちのくプロレスと原田知世がひどくつらい。対して、菅原文太という記号的実存には霊妙なよろこばしさを付加せずにはいられない。霊妙すぎて今までの冒険が無駄に見えてくるのは問題だが。いまどきニューシネマな結末もまた霊妙。
知世ビデオの自らの雄姿に紅潮し、小狼の姿を認めれば悶絶する艶姿嬌態。それを見守る知世の全性愛。あらゆる性愛の形が交差し羞恥を高め合う道徳の構成力。いまはただそれがうれしい。
男を孤立させたその意気地は、今度は生き残りの執念として彼を救おうとしている。一度絶望した女は男の感化を受けて、生の希求を再開する。女とわれわれが目撃するのはある人間の生き様である。
物語の制度的規約と受け手の現実は次元の違うものである。共通するものがあるとしたらキャラクターの内部で現象する心的な流れにある。制度的にあり得ないことがあり得てしまったらかえって存在論的負担になってしまう。倫理的に意義ある世界にはならないだろう。
実証主義の姿勢が誇示されるという美的判断に強調がある。アポロン信仰が中世の闇に飲まれるのはかまわない。この逞しさは徳とすべきだが不測のものを不測のまま還元するこの実証主義は、すでにそうとはいえないわけで、ネタが割れてしまうと、キャラクターの感情を評価すべき準拠点も見失われてしまう。
リー・カンションの存在の悲しさは生活者の無辺際さのそれであって、その悲しみがセクシャリティに限定されると、あまりにも徳があるものだから何とかなりそうな気がしてくる。テクニカルな造形の問題としては、ではその徳の源泉は何かという事になる。たとえば、ソファーにちょこっと座って両手でペットボトルを保持して吸水する挙動がそれにあたるだろう。
制御不能な限界事例が最後に内面化して、修羅場で発現してしまった、当人には思ってもいなかった勇気と対面した人々が、成す術もないまま病的な意気地に突き動かされ極限に達する。
邪念が素直に出ていて嫌味がない。様式が恥を掻き捨てているのだ。クリスタ・ラングを頻繁に激写するような、エディ・コンスタンティーヌのお上りさんのような朴訥さが全編救いとなっている。記録映画文体とジャンルムービーのそれが混交し記録映画調になると安っぽくなってしまうものの、その画面でジャンル俳優のエディが動き回るのは新奇でもある。
性的にリベラルであることのこの強迫観念は何であろうか。それは、LGBTもエイズも娯楽の手段としか見ていない恐るべき通俗である。この通俗がシニシズムにまで高まって具象化したのが、清楚なペネロペというありえない情景である。
これは本編のディラン・ベイカーのパートで随分と救われている。相思相愛になって、雄雌図式からも逃避できている。しかもディランの手際の良さというか、テクニカルなことを観察するよろこびもある。シーモアとヘレンも需給が一致するところが出てきて、こちらとしてはだいぶ楽になる。
偶然に依存した作劇の要請により、テロリスト軍団が果敢に行動せざるを得なくなる。この実行力のみが抽出され規範的影響を持ってしまうと、無能の懲罰にしか見えなくなる。
最後に明らかになるのは、したがって物語が本当に隠しておきたかったのは、山田辰夫が成長して大人になっていたことであり、秩序を阻害する武闘派に対するいらつきがそこで感激に変わる。それがうれしい。
ニューシネマであるからヒッピーは挫折する。しかし事態はヒッピーならざるニコルソン一行により目撃される形となる。では、彼らをこの挫折の事態にどう関わらせて当事者とさせるか。その、挫折を彼らに委託させるやり方は納得できるものでありかつ文芸的で、『ハロルドとモード』よりずっと支持できる。
実際のところ、まともな連隊長は負担にならないように作戦時は後方に軍旗を残置したらしく、事は連隊長の個人的資質に関わるものであり、ひいては人事制度の問題となり、テクニカルに扱うべき事件のように見える。物語では扱いづらい事象であって、だから動作がどうしても大仰となり、八路側のコスプレも手伝って、なれ合いの学芸会となってしまう。
アマチュアリズムへの憎悪が統制が効かないことへの恐怖と代替する。かかる畏怖の端緒として、サイコ的恐怖の温床たる安岡力也の手早い排除があり、その緊張から解放されると、憎悪は修羅場で無能を呈することのできる逞しさへの誤接続する。
身もだえするほどの凄まじい恥ずかしさがやがて快楽へ変わる。それは、人間性が地に墜ちる瞬間でもあった。
ミュージカルが始まると音楽上のマイノリティの場違さが露見する。迎合以外の態度は模索されるべきだが、未開の風俗を参与観察するような高慢は隠せそうもない。目前で展開される歌劇への気まずい手持ち無沙汰が緊張を掻き立てる。
サイコパスなので牧瀬里穂と併置されると彼女の話になるしかない。牧瀬が退場するとこの匿名性を匿名のまま成り立たさせるために、他人の視点を借りて構成せねばならなくなる。視点を借りるべく駆り出された人々が招集するさまはハーレム映画のそれと変わらない。
世代継承が出来るか否かの緊張というよりも、勧善懲悪が酷なあまり、莫迦息子のほうに同情が行ってしまう。老人世代の交歓もヤクザと堅気の関係のぎこちなさが否めない。前作の反動は明らかで、ハッピーエンドという自己言及で露見するように、幸福への力みの不自然さが全体を支配している。
キューザックの懲罰といっても監禁の場所がもっとも感化ある代物である点で、敗北感が相殺されている。入れ物たるマルコヴィッチの心理の追及も深入りはされておらず、修辞の意欲が構成への志向を減じているように見える。
何をやっても悲愴な文体にならないイーストウッド節でジャンルムービーを扱う珍しさがある。感情のすべてが均一化した中で、老人の肉体のグロテスクのみが屹立して、養老院の仮装劇たることを否定にかかる。
救えなかった。つまり武断主義の先鋭化が足りなかった後悔があり、課題は身体能力を問うている。したがって、道学者の無為の存在論は心的記述から物的記述へと接続。自意識の媒介のないあるがままの認知は、反応速度の問題として、あの二人を救えたかもしれない実践的な跳躍へと変奏される。その因果的効力へと挑戦は瞬時に空間を横切り街を燃やす。
コーカソイドの上官がヨンエの美麗なお多福を強調してしまうと、その曲線は一見、小娘の顔貌をオバハンであるようなないような、混沌の境界へとわれわれを導く。この混乱は女性嫌悪へ舵を切りたい欲望を留保させるとともに、うれし恥ずかしい民族の集合的自意識の調べに乗せて回顧的にガンホサークルをクラッシュさせる。
衣裳も部屋もそうであって、この兄弟の生活感のなさが不安でたまらない。感傷を付託するには値しない明朗さにとどまらず、信仰を経由して同性愛のセクシャリティを訴えかねない。これらのことはこのふたりがサイコパスであることに起因しているので、ウィレム・デフォーによって事は観察されるべきであり、そうなると現象に形を与えるよろこびが安心を与えてくれる。
有標化しない美術と捜査よって現実を構成しようとするアラン・アーキンの営みはもはや互いに生理的接近が可能とは思われないほど重ならない。アーキンがガタカのオフィスに参入するとその後背で行われている諸活動が標徴を失い、やがて宇宙が特権化する意味すらも失わせる。
武田真治の身のこなしが癇走っていて、それでいて顔容が微笑を湛えているから、現実充実者の余裕が充溢していて、リー・カンションだったら号泣を誘うような消え入りそうな感じが光学迷彩に見える。唯野未歩子も負けじと超人といっていい生命力を発揮して多摩美の威力を見せつけるが、真治の光学迷彩も空間に偏在して未歩子を包み込むような境地に至るのである。
外套のような着丈の上着がズボンの長大な股上と交叉し、広く開襟された白シャツを圧迫している。それは被り物のような、異なる身体のような輪郭で、頭部は甲虫のような膨らみによって自動的に運ばれている。意思は男にはなく甲虫の躰にあり、離断された身体が続ける発砲の火炎を目前にした男の頬は呼吸を求めるかのように膨張する。こうして世界最大のカブトムシが産出されたのである。
ピーター・ファースの頭部はいうまでもなく、スティーヴ・レイルズバックの方も前髪の危険な高橋悦史というべきか、要は薄毛の映画である。これがマチルダ・メイに迫られるというのは、薄毛の外貌ではなく絶倫に重きが置かれていて、自らの絶倫が引き起こした課題は再帰的な解決を見ることになる。
野蛮人同士が互いに族滅を謀るような病理としての戦争の情景が産んだ頑迷さが勇気へと誤接続すると、その勇気は文脈から剥離して倒錯した敬意の対象となる。これはノワール映画に近い。
キューブリックのマチスモがまず女性嫌悪に接続し、このミソジニーがさらに親から捨てられるという感覚に接続している。『時計仕掛けのオレンジ』のアレである。フィルモグラフィーの大団円にふさわしい。
あの狂愛には恐怖とともに、こんなに愛されていたという優越がある。それを発見した男の顔貌は陰気なのに声には張りがあってどことなく陽気な感じがするように。その愛を発見したとき、身振りは驚愕の挙動をするのに男の顔容は特に変わらない。われわれが被るのはむしろ、作中で最大のかつもっとも興味惹かれる謎、柳ユーレイの生活世界を垣間見れたよろこびである。
男の中庸な顔貌はその戦いを熟練の旋盤工の綿密な動作に還元してしまう。人間ドラムマシンの調べが森と牧原を町工場にする。かかる製造業観はあの最後の銃身切断芸として結実する。
アラン・カミングの救済の話を間接的にやっている。主役ふたりの場合、女性という属性が状況を深刻に見せてくれない。彼女らはむしろアランの救済のための手段に過ぎない。彼の救済を物語の中心に置くと出木杉になってしまう。
最後にチャーリーの存在が偏在化して眼差しのような抽象物となる。これが救いとなってる。女性を男性社会に従属させることでかえってメスの優位性を露見させてしまう図式がより普遍的な話題へと接続できている。
扱われている事件と個々人の私生活や心象の叙述にあまり関連がない。ただ個人を劇化したい欲望が事件の無意思的性格を許さず、たとえば日本海軍の描画に、われわれが英米の日本軍研究書をひも解いて困惑するような神秘化がよくあらわれている。
語り手のナルシシズムが自慰的なストーリーという後ろ盾を欠いていて中庸的なそれと絡むと、前作と似たような感想になってしまうのだが、文法のみがナルシシズムとなってしまって、カットを割りすぎるといった叙述のくどさが気になってしまう。
当初は「ジジイとババアは高得点」というあくまでダーヴィニズムにとどまっていたものが、レース委員の轢殺以降、 死の平等へアプローチしてきて文芸的になる。
絵葉書の三重の間接性がいい。絵葉書の内容は他人の願望であり自己実現を示している。その絵葉書自体は、願望表象の対象となる人物とは全く別のキャラクターよりもたらされたものである。そして絵葉書を発見して、われわれとともにその内容を知ることになるのも、青年ではない別の人物である。西島秀俊がそれを渡されたとき、遠景で観察するわれわれには何を渡されたのか分からない。この謎が最後に明かされたとき、上記の複層が一気に成立して迫力に圧倒されるのである。
冒頭での寅の長台詞、カメラがじわりとトラックアップしている。振り返るときは細かくカットは割られ、恋人の話を打ち消すときは引きの絵になる。心理にあわせて丁寧に絵が作ってある。とら+さくら+社長というレアな組み合わせの島根行きで、普段とは違う落ち着いた社長の物腰が見られるのがうれしい。
寅がピアノを糾弾する件で博を泣かせる。これがすきだ。いつもは評論家である博がオスとしての甲斐性を問われてしまう。後の場面では愛と経済が互換しないと博は語る。これは意味深である。
ふたつの気まずさがある。話の要請上、さくらのセクシャリティが強調される。これが寅との絡みで近親相姦の気まずさを醸す。志村喬の投入は階級間交流の気まずさで緊張させる。この気まずさが最後の披露宴で衝突して緊張が臨界に達した瞬間、糸が切れたように皆が互いを理解するのである。
とらやの居間会話で帝釈天の鐘が寅に突っ込みを入れて、寅は「鐘までうるせえ」と激昂。メタフィクションに近接している。この作品はシリーズの暗黙の了解を突破するのである。マドンナに寅の恋ごころがはっきりと伝わってはいけない。あくまで寅の独り相撲で終わらねばならない。このルールが破られている。マドンナに伝わって上で拒絶される過酷な話になっている。
中村雅俊がとら屋を爆破炎上させる回で、当初はこの中村の造形が寅を飲み込んでしまう。しかし後半に至り寅が恋の当事者になると、寅のアリアの暴走が止まらなくなり、ゲストキャラとの力関係が逆転する。中村の汗まみれTシャツを嗅いださくらの表情がいい。こういうセクシャリティがこのシリーズに異様な緊張をもたらす。
寅が若い二人のためにやせ我慢をするパターン回。この自己犠牲が、寅が青い鳥であると定義して、万人の幸福に薄らと貢献するような暗喩的帯域の広大な場が構成されて感激をもたらす。
初代の劇場三部作のフィルムの眠さは、カット内の会話間の間の悪さに起因している。よく観察してみるとリップシンクがめちゃくちゃで、演出家が想定した台詞の調子が冗長すぎて役者がそれに合わせて演技できず、声と絵が合わない事態が招来している。本作ではこの演出の不手際が解消されている。
奇特を誇る癖が特異な美術にフォーカスをあてずにはいられない。グローバリズムへの憧憬が人間一般対する汎愛に連接するのだが、この愛には自己愛も含まれる。実験的民族誌は自負心のために堕落してしまう。
矯正思潮が現在とは異なるので、この事態が行政のテクニカルな問題と解釈できてしまう。そして解決可能な社会問題になってしまうと不幸が希薄化される。浜辺の生真面目な走行のフォームに典型的に表れるような、ジャン=ピエール・レオの徳も厄介で、脱走をジョギングに精を出しているように見せる。それはそれで奥深い
寅の独り相撲で完結させる前提がある。しかしそれでは歌子が薄情に見えてしまう。意識の切片もないから男の恋に気が付かないのである。この問題をクリアするためにマドンナの無意識が発見され操作の対象となる。夜の帝釈天で歌子が結婚の決意を語る。女はうれしいはずなのに泣いてしまう。当人にもこの涙の理由がわからない。女の無意識が傍らの男の愛を回収したのである。
悲酸を抽出する試みが機械姦の世界観に定位していて、姦通によって悲酸が吸い取られるような感じがするので、落ちるというよりも快癒や解放を思わせる。あるいは、目の前の事件に対処するので精いっぱいで悲痛を感知する器官がすでに失われている。暗い印象は残らない。
人魂のように暗闇に浮かぶヒゲ、メガネ、後退する額の間を徘徊する男前メタボ、ブルース・マッギルのアイドル映画、二重顎の自己陶酔である。膨張した腹が遠景に引くとその姿を露わにして、魅惑の錯視でカメラワークの勢いを加増する。
エスター・バリントのポニテと鞄で脚が隠れてジオング状となった形姿が、これだったら何とかなりそうなという淫靡な朴訥さを醸し、従妹物のいかがわしさが青天井。周囲のオスの口数も天井知らずで童貞度濃厚。
任侠物に出てくる小作農を虐げる小悪地主というか国税査察部というか、感情の表出がきめ細かくて貫録がない。しかし実物のヒデキも細かい人なので、ではなぜこれでヒデキな感じがしないのか。その細かさにスケベ心があるのだ。いやドイツ駐在のときヒデキも現地夫人に手を出したじゃないかという話もあるが、この場合、勉学振りにご婦人の歓心を得たといらしく、これはヒデキらしい。
渡哲也のアンパンマンのように隆起した頬肉のふくらみが安心させるどころか不穏の形象となるのはなぜだろうか。あの隆起はムッツリとか下心とかそういうタームを連想させることで、メスへの従属に堕ちる不安を絶えず帯びているのだ。したがって、吉永小百合の熱狂がシュールに見えてしまうのである。
アン・リーのこじれた性欲が要求するのは、メスに雄が従属する前提を保ちつつも、オスがメスに感化を与えうる状況である。それは、恋であるような無いような負い目として最後に結実するのだが、秘めた性欲を絶えず放出しているユンファのムフフ顔がかかる格調を台無しにしてかかる。
暗い車窓に浮かぶマッケンジー・フィリップスの上顎前突とチャールズ・マーティン・スミスのメガネが然るべくして罰せられる。しかし語り手の道徳の純粋な動機はエゴイズムと変わらない。それは後日談で虐殺を呼ぶ
股引。ヒゲ。着ぶくれのTHE被り物映画。毛ダルマの中から覗くカート・ラッセルの湿った憂い顔は、むき出しとなった被り物の内臓の官能に感応するように郷愁を帯びる。その顔面を喚情するのは母体回帰の強迫である。
宿主の恣意的な恩顧に依存せざるを得ないヒモの不安定な心理を緊張の源泉としている。解放ではなくいかに恭順するかが課題なのである。
『ミンボーの女』の伊丹十三あるいは黒澤にはヤクザや野武士に共感があまりない。これがペキンパーだと村のゴロツキに心性が近くなる。撲殺するにせよホフマンは躊躇の挙動を一々行う。消火にどれだけカット使って、しかもなぜ高速度撮影するのかと大げさなのであるが、これも英雄的劇化というよりためらいなのだろう。
ケヴィン・ベーコンの視座から始まりながらケヴィンがサイコになるゆえに、エリザベス・シューとブローリンの映画になる。しかし受け手としては、ケヴィンの不遇への同情もあって、その視座を引っ張ってしまう。話の方もその視点がしばしば割り込む。ただエリザベスの躍動と肉体に加えられる虐使が始まると、いずれにせよ肉体の賛美があるように感ぜられてくる。最後のグロ官能なキスで、ケヴィンが不幸云々の文系感情はバーホーベンらしく克服されている。
出資者、脚本家、演出家、現場Pの共同体が文字通り共同体化したように見える。ヴィンセントが最後に記憶を取り戻すなど正気の沙汰とは思えない。Are you living in the real world? なども現実解離した問いだと思う。
ウィリスとアレック・ボールドウィンのムフフ顔対決の狭間で、NSAファンタジー映画だからこそ奉職概念のさまざまな具現化が見られる。極限としての暗殺者から文系NSA職員の良心とその容赦のない顛末に至るまで。
加工肉しか食わないので、不健康へ明朗に挑戦する薬物アルコール中毒映画に近い。老人の会話もダウナー系のそれを連想させる。
筋を統制する心理の構成というものがなく、統制から解放された物体の運動が起伏なく続く。巻き上げられた砂塵で夢のような儚い解像度となった西海岸を。
誤算なのか意図なのか、ミミ・レダーの自虐的文系観がマーセル・ユーレスに同情を寄せるあまり、それを鬼のように追尾するクルーニー&ニコールの体育会系組の肉食振りが際立ち、評価の仕様がない作りになっている。エピローグのいちゃつきに至っては不条理である。
ジャン・レノについていえば、サイコというより精神遅滞の問題であるように見える。アイ・アム・サムといった類に近いのであって、これをナルシシズムだと誤解してしまうといらだちは募ることになる。あるいは、濃厚なナルシシズムと精神遅滞は区別がつかないのか。
ライブの冒頭で客席を背にしたカイテルのアップが入って、彼の内面に言及がある。そこでの彼の顔貌は國村隼を彷彿とさせてしまう。役を選ばないため、という事もないのかもしれないが、結果として中庸の存在となってしまって、もはや誰なのかわからない。物まねをやっても似ているのか似ていないのかわからない。それで客席の反応を頻繁に挿入して劇中内でその評価をする。しかしこの場合、それは下策なのである。
ニコラスだから善への衝動が出てくるのは予想され、背徳的なコスチュームプレイ劇を享しむ体となる。しかしいざ善への誘いが発動すると、デ・パルマの例のごとくな内実の伴わない感傷がその衝動を引き立てるどころか、むしろ唐突に見せてしまう。これはこれで背徳ではあるが、本来のニコラスの性向が予定調和として出ているのに、解せなくなってしまうのである。
これが後味が悪いのがケヴィン・J・オコナーの扱いである。思いっきり移入した上で、死に至る過程においてサヴァイヴの期待の持たせ方が周到で、石で圧死イベントで二度までも緊迫させておいて最後はアレだからたまらんのである。
ビル・パクストンの間男顔をマシュー・マコノヒーの垂れ目が中和して何が生まれたのかというと、アメフトの部室というかロッカールームというか、スクールカースト上層の陰険な脳筋が髭カイテルの喜劇的異化作用によって際立つのである。
自分が選ばれたのだという悲痛な感激がある。しかし、選ばれたのは搭乗する機械の方であって、自分は付随物に過ぎなかったという結論がある。これは気落ちではあるのだが、機械と機械が人知れぬところで交流するような、ピクサー映画のようなメルヘンが醸される。
マーク・ウォールバーグ鼻の穴禁止令。接写になるたびに、闘病する新生児のような貫禄でユンファを圧倒する。ユンファは例の剥き歯で対抗するも歯が立たず。
メルギブとミカ・ブーレムの絡みが気まずい。正面から胸を二度もチラ見して、何をするのかと思えば、「会いたかった」とやって、ミカも満更ではないのである。もはや歩く性教育なので、ヒースら息子どもはともかく、あの小さな娘と同じ空気を吸わせるのはまずかろう。
無為の形象となってしまった男が女どもを拘束する邪念が逆転して、女の方が男を拘束していた結末が来る。しかしここに屈辱感がない。女は、もはや場と化している男を経由してその場に組み込まれて包摂される。これが好意的に解釈されていて、包まれることに温暖さがある。
車社会が自律的な市民を産出するという想定があるのではないか。最後の無政府状態がただの混沌にとどまらずサーカスの大団円のような挙動になっていて、フェリーニ映画のフィナーレになってしまうのである。
フランシス・ンの映画であることに躊躇がない。フランシスの課題の抽出に冒頭で丁寧に尺を割いていて、躊躇がないからこそニコラス・ツェーが中盤で潜入捜査官の心理になる件が活性化される。如何にもなガジェットを使った短絡的な描画にもかかわらず、それが効果を発揮してしまうのである。が、次第にエリック・ツァンの鋭角的なM字禿に目が奪われ出す。
人間中心主義の倒錯であり、性欲を抱く前提があるとは思えないのである。人間として構成してみたところロビン・ウィリアムズになってしもうたというのも黒い喜劇になりかねず、逆転している因果の不可解と眩暈がよく出ていると思う。
力み過ぎた滑稽は文化的周縁堕ちたことの屈辱を矯飾するのか。あるいは自嘲的な含羞にすぎないのか。オリエンタリズムを指向しようにも主体になりきれない弱さが、矯飾と含羞の境界を曖昧にしている。
脱帽したときの、エド・ハリスの禿げ上がった額がすべてである。こんな虱のたかったような状態でレイチェル・ワイズとまぐあうのはどうかと思うが、やはり悔しさがあって、エドを応援するのは人情である。それであの顛末だから衝撃は大きい。レイチェルがサークルクラッシュしたのか。そうでもあるのだが、アノー印と言うべきか、ジュード・ロウにある程度の女からの自律が許容されているようにも見える。
脱走という身体能力が問われる場面がやってくるとステイサムのごとく対応できるユンファの身体的属性が定義しがたい。刑務所での立ち位置もそうなのだが、それでいて喧嘩には使えないのである。野性はびこる香港の地誌も謎深いし、挙句の果てに爆発するのが水浴びをする全裸オッサンふたりのグラビア系イメージビデオであった。
人狼よりもよほどリアリズムの文法であり、説明や記号ではなく描写の物語になっている。記号を使えないゆえに集積される情報の重さは、重ねるだけ暗くなるセルアニメのフィルム撮影を経由して、暗く不穏な色調を至らしめている。記号としての光学表現が介在できないために余計にそうであり、自意識の希薄な小動物の根源的な不憫さが際立ってくる。
インテリ擁護というより、友愛が庶民性とは相いれないという発見への絶望があるのかもしれない。逃走と収監を繰り返すような作劇の技術への依存はこれらを乗り越える汎愛の現れのようでもある。
特に救う必要のない場所に偶発とはいえメリー・ポピンズを投入してしまうのだから、劇が作為であることを強調しかねない。構成的な人種配分もアーリア人の罪滅ぼしな五族協和を居心地悪く謳い、平等主義であるがゆえに、時に視点配分に混乱を来してカット割りが乱れる。
リーランド・オーサーという記号的文弱童貞に対して、障碍者属性でデンゼルの現実充実属性を中和する方策であり、後ろ向きで不毛なのである。しかもそれでも勝てない。障碍者の性の問題はアンジーの迫力でねじ伏せられたというよりも、やはりデンゼルの乙〇洋匡感が強い。
自分が最終兵器であることをどう認識するのか、という事すら問題になってはいけない。自意識と最終兵器は両立しないのである。課題は自意識がないという自然体のステイタスをどう表現するのかであり、その結果が徳高い天然表現の宝庫であり、ラブコメ脱線ゲームである。
現実において他人の信頼に乗じる作法が撃滅されないのは、それが例外事象だからである。これが例外でなかったらサイコパスという属性は生き残れないはずだ。したがってその特異例は勧善懲悪の対象にはなり難い。サイコに直面してしまうことは、ネガティヴな宝くじを引き当ててしまったような運不運の問題でしかない。それにもかかわらずなぜこの話に勧善懲悪を覚えるのか。サイコではなく姥捨てが課題となっている可能性がある。
怪奇である。趙自強の酒とバラの日々である。髭をおとして善人度倍増しの呉孟達が所長アンソニー・ウォンに全財産を奪われ脱獄、蜂の巣にされるのである。このアンソニー自体、髭メガネスーツで原形を留めていない。総じていえば猟奇実録映画に近い。アンソニーの風体も猟奇路線から杜h峰への移行期と思えば納得できる...か?
スクランブルの場面からプライベートライアンのような終盤のプラハ襲撃ショットに至るまで、フレッド・ジンネマンのような描画しかやらない、邦画離れした作品である。この文法は70年代末の日本では全く受容されなかった。
二航戦司令官が三船敏郎で艦長が田崎潤である。彼らの背後には先任参謀の池部良が控え、さらに後方の発着艦指揮所では飛行長の平田昭彦がランプを振り回す。飛行隊長の鶴田浩二は甲板でブリーフィングを行い、佐藤允が鶴田らの直衛である。こんなフネ沈まないだろうとタカをくくっていると、場面は赤城の第一航空艦隊司令部となり、作戦参謀の加東大介と戦務参謀の小林桂樹がスクリーンに広漠たる顔面を曝し、万事休すとなる。
物腰は広島やくざでありながら、北村和夫にも沢田研二にも対応できる菅原文太の造形がわからない。仕事が人格を作っているだけで内実はないのだが、沢田はそこに市民の自律を見出して共感を覚える。しかし非情にも文太のゾンビ化という回答が下されたのであった。
ヴォネガット節はビリーを観察している文体で、その距離感で宿命に殉じることの感傷が爆発していたように思う。映画だとマイケル・サックスが観察の主体になっていて、その朗々とした様子で話が単なるご機嫌なロイ・ヒル節になっている。
これはむしろジョディ・フォスターが使えなかったことが救いかもしれんよ。ジョディだったらクラリスに本格的に屈したことになってしまう。しかしクラリスが別人によって担われることで、クラリスに属人性が出てこない。あくまで匿名の何かに屈しただけなのだ。つまり商売女を買っても自分の性欲が問題にされているのであって、女性に従属したという感覚はないのである...という理屈だったら、こんなドジなレクターは俺様のレクターじゃない的なくやしさは少しは軽減されはしないか。