映画感想 [201-300]

 監督:ガイ・リッチー 製作国:イギリス


ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ
 平和な文系のマリファナ組の行く末が気になる話で、弱者に優しい世界観なのかどうか、その不定が緊張をもたらす。武闘派が自滅する一方でマリファナ組と武闘派の中間に位置するのがニック・モラン一行。ステイサムの薄毛と骨格が照射するところのそのニックの頬骨と薄毛の予感がオサレ文法を朴訥なものにしていて好感が持てる。武闘派全滅のところがピークアウトであとは消化試合になってしまうのだが。

 監督:ランス・マンギア 製作国:アメリカ


シックス・ストリング・サムライ
 遠景がないので砂漠なのに閉塞感を覚える。状況を把握できないために、被写体同士の距離感がカットによって散乱している。視界の効かなさがアクションの型もあまって座頭市的状況を受け手に体感させるのだが、見えないということが、ここでは省略のキレではなく眼鏡が曇ったような遅滞感をもたらしている。

 監督:ポール・マザースキー 製作国:アメリカ


ハリーとトント
 老人が周遊を強いられる危うさを小動物を連れ回すことで増幅させている。これは倫理的な作劇とは思えないから、この状況に追い込まれたアート・カーニーの無能力が強調され、普遍的な老人嫌悪を覚えさせられる。

 監督:パトリック・ヤウ 製作国:香港


ロンゲスト・ナイト
 過激な現場主義の割にトニーの痩身が頼りなくて、瓶で殴打を行っても瓶の上下運動に引きずられている感じがする。ラウ・チンワンが半目でナルシシズム演技全開になると男色っぽくなって後の暗戦のネタはこれが元かと不埒に陥るのであった。

 監督:ノーマン・ジェイソン 製作国:アメリカ


夜の大捜査線
 ロッド・スタイガーのツンデレ芸がいい。スタイガーが賢明であるという事が認知できる。それがうれしくなる話で、ポワチエの技術志向とそれに伴う万能感からも明らかなように、隠された属性の認知というかたちで瞬間的に成り立つ自己形成小説の一種だと思う。

 マグノリア [1999]
 監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作国:アメリカ


マグノリア
 回顧的に見るとシーモアが不穏になっていて、あのセクシィヴォイスで下手をすると貫禄が出てしまって看護師に見えなくなる。これが玄関のロングでトムクルと並ぶと、認知の歪みすら生じる。ふたりの身長は同じである。ところがわれはわれわれは彼らの来歴からトムクルを大きく、シーモアを小さく認知する傾向があり、それでこのふたりが同じフレームにいながら異質の空間にいるような、あるいはトムクルが合成物のような、そういう眩惑を覚える。

 シュリ [1999]
 監督:カン・ジェギュ 製作国:韓国


シュリ
 絵としての品位がずっと温存される中、何か朴訥なものが顕現しようとするカン・ジェギュ印の緊張が題材だけにもっとも出ているのではないか。キム・ユンジンが桃井かおり状の無頼なのが徳高く、これでwhen I dream とやっても安易な悲恋にならない。ハン・ソッキュがスタジアムでノーネクタイなのに開襟しなのは、数年ぶりにユンジン再会したチェ・ミンシクの童貞的動揺と同じ性質の何かを感じさせる。路上の抱擁は後ろのモブがもろに入って気まずく、ソン・ガンホのスーツの合ってなさも如何にもでこれは感心しない。

 雨月物語 [1953]
 監督:溝口健二 製作国:日本


雨月物語
 翌年の『噂の女』の能楽堂で田中絹代がJホラーの遠近感をしていると前に言及した。こちらも京マチ子邸で照明落として被写体を黒く潰す黒沢清風Jホラーをやっている。その酒宴の後の事後の場面で森雅之が少し寝てしまって彼の視点が一時消失。あろうことか京マチ子の視点になる不思議な時間が出てくる。ここから川辺への例の画面展開を経ると、膨大な時間が経った感じがする。

 鉄男 [1988]
 監督:塚本晋也 製作国:日本


鉄男
 イレイザーヘッドの踏襲物が、なぜかヒューモアが無くなって垢抜けがしなくなった大和屋竺のように見えてしまう。イレイザーが保っていた徳もなくなってしまっている。ヒューモアというは善の発現の一様式なのだが、挙動を愚昧のヴァリエーションとして把握しているように見えるから、この話に共感を覚えられない。

 張り込み [1958]
 監督:野村芳太郎 製作国:日本


張り込み
 宮口精二が若い衆の大木実を連れるとなると橋本忍だから七人の侍になってしまい、それで宿屋に缶詰となるとすわ男色と例のごとく色めき立つ。高峰邸の目前で密閉というのが効いていると思うが、もはや自分が何を書いているのかわからない。

 監督:ジョー・ジョンストン 製作国:アメリカ


遠い空の向こうに
 ギレンホールの動機が皆無である。英国炭鉱映画のように将来がないとか、あるいはフットボールを使ってスクールカーストを匂わせたりとか色気を使う割に、この冒頭を消化した後いきなり日曜大工が始まるのである。これだったら冒頭から日曜大工を始めたほうがよほど美しい。ロケットも女も手に入れた帰結が苛立ちなのは、冒頭のキャラクターの動機に結節しない社会小説が後を引いているのである。

 監督:ジングル・マ 製作国:香港


ヴァーチャル・シャドー
 後半でほぼ難病物に変わってしまうジャンル転換が起こるほどの、チャン・シウチョンを死に場所探しへと追い込む装置の重奏は梶尾真治の癒し系に近い。香港映画としては異色である。

 監督:ジョン・アービン 製作国:アメリカ/フランス


ハンバーガー・ヒル
 ジョン・アーヴィンのB級節はまず遠景を安くする。現地民親子の後背をヘリとM113が行き交う社会小説をやる。猟奇になった途端にもやはり安価になってしまう。で〜んと青空を後背に内容物を展示。ナパームがさく裂すれば人物とのしつこいカットバックが始まるのである。

 監督:サマンサ・ラング 製作国:オーストラリア


女と女と井戸の中
 ミランダ・オットーの視点を入れない方がいいのではないか。そうすればセクシャリティか否かの不定がより高まる。何よりも彼女が家政婦でしかないという矛盾を暴露させてしまう。視点を整理して物語を統制する意思の曖昧さは、これはこれで文芸なのかもしれないが、最後の方で劇伴がかかるとプロモーションムービーになってしまう。

 監督:フランクリン・J・シャフナー 製作国:アメリカ


パットン大戦車軍団
 ジョージ・C・スコットの顔面に突出するものがなくて、人格がにじみ出るような類の顔貌ではないから、栄養状態のいい年齢不詳の幼児体に見える。眉だけが突出していてコスプレしているような不安定さにずっと付きまとわれる。

 監督:渡辺歩 製作国:日本


のび太の結婚前夜
 これは冒頭が衝撃である。大長編だったらジャンルの違いとして受容できるものが、テレビシリーズと変わらない日常が舞台ゆえに、劇化してしまう。テレビとは比較にならない美術の集積度や尺のとり方、レイアウトにより精密な演出意図が見えてしまい、時代が現代と特定されてしまうのだ。テレビシリーズは高度成長期を前提としていて、美術の抽象度がそうとれるようになっていた。しかしこの劇場だと現代としか思えないのに、空き地と土管という現代ではありえないアイテムが出てきてしまうのである。

 監督:ボビー・ファレリー / ピーター・ファレリー 製作国:アメリカ


メリーに首ったけ
 最後にベン・スティラーを引き留めるとき、キャメロン・ディアスはフルショットだからあの常人離れした体格が露わになっていて、不安定な気分になる。接吻を交わすときもふたりの頭部の大きさの差が露見してしまう。コントの底流にある批評精神が事態に解剖学的観察を加えていて、だからこそベンの肉体の局部はしばしば損傷を受けるのだが、これらの不穏はやはり自分のメス性を自覚していない美人のそれに還元されるように思う。

 発狂する唇 [1999]
 監督:佐々木浩久 製作国:日本


発狂する唇
 この話のアメリカ観にはシン・ゴジラのそれと共通するものがある。ドメスティックなものが信用できなくて、その裏返しとしてのグローバリズムへの畏怖がある。またルーシーの造形に見られるように国内で海外公安関係者が行動することの困難といったグローバリズムの実際的な挙動に関する興味があり、これらが誤配線されるとホン・ヤンヤンの香港アクションとなるのだろう。

 監督:中島貞夫 製作国:日本


沖縄やくざ戦争
 千葉の死後、松方の胸中で生前の彼がよみがえるという東映実録ものでは特異な感傷的な場面が出てくる。時間と感化のかかる立体感は同じ中島の『大阪電撃作戦』の最後を思わせる。松方の最後の争乱の強度が松方そのものの挙動ではなく、小林旭の顔面で表現するような感化の作劇である。

 監督:サモ・ハン・キンポー 製作国:香港


ファースト・ミッション
 サモ・ハンは格闘場面になると溝口のようなカメラワークが全開になるんだよ。ジャッキーもそうだけど80年代半ばの香港映画とはとても思えない。ところが対話場面になるとは一切動かなくなる。カット割りだけで構成して香港映画っぽくなる。それでもどことく上品なのだが。これを同時代のジョン・ウーと比べると、ウーのカット尺が他の香港映画に比べて長いことがわかる。彼はカット割りではなくレイアウトに依存している。

 レインマン [1988]
 監督:バリー・レヴィンソン 製作国:香港


レインマン
 ヴァレリア・ゴリノとホフマンとの絡みが気まずい。彼女が母性の態度をとるほどに、心障者の性の問題が緊張を誘う。これが後に後味の悪いことになってしまうのだが、ラスベガスでの金の卵属性の起動と併せて没頭の妨げになってしまった。

 監督:フルーツ・チャン 製作国:香港


メイド・イン・ホンコン
 劇伴がよくない。劇伴そのものの質もアレなのだが、使いどころがよくないと思う。環境音をオミットしない類の記録映画文体で、環境音が立ちながら質の悪い劇伴が容赦なく重なる。最初は街頭音と混同した。記録映画文体だから劇伴はめったなことでは使うべきではないのである。その方がかえって情緒が深まるはずだ。ところがそれにかまわず説明的に演歌のような劇伴を使ってしまう。語り手に感傷的な志向があって、むしろ記録映画の文体がそれに合っていないのである。

 監督:三隅研次 製作国:日本


子連れ狼 三途の川の乳母車
 松尾嘉代が軽いのである。小林昭二が似合わない配役で笑っていたら嘉代のツンツンを挑発してしまって黒鍬衆が目前でアレなことになってやはり昭二かと予定調和となる。しかし軽い嘉代にやられるのだから被虐心を煽られないというかサービスにならない。ところがラストで嘉代は軽いツンツンではなくなっている。富三郎の感化で女になってしまっている。ただのスプラッタで終わってはいないのである。

 監督:松尾昭典 製作国:日本


沖縄10年戦争
 沖縄やくざ戦争の千葉の暴力の笑劇が、周縁の千葉ファミリーへ拡散して希薄となった印象がある。矢吹二朗のラブラブ話、矢吹と姉弟話、千葉の家族話、千葉の若い衆の悲惨話で物語が四方に散乱している。

 監督:深作欣二 製作国:日本


やくざの墓場 くちなしの花
 警察官の視点なので、冒頭を見ていると三下の生態が観測されて、それと同時に場所の奥行きが出てくる。署に戻ると川谷拓三が捜査員なのは前例があるとして、署長が金子信雄と判明した瞬間、絶望が広がる。

 秋刀魚の味 [1962]
 監督:小津安二郎 製作国:日本


秋刀魚の味
 日本が敗戦したことが幾たびか言及される。一方で個人的な人生の敗戦が並走して叙述される。岩下志麻が失恋したこと、笠智衆が岩下を嫁に送らねばならないこと、杉村春子が婚期を逃したこと等々。ラストでは軍艦マーチが敗戦という社会的な経験を援用して、人生に敗北したという個別的な実感をもたらすのである。

 監督:周防正行 製作国:日本


変態家族 兄貴の嫁さん
 台詞に抑揚がないのはスピードを担保するためであり、その速度はリズムとなる。このパロディでまず気づかされるのは元ネタのスピードが損なわれていることだ。あくまでエミュレーションであって形態模写に時間がとられている。それに引きずられるように編集点前後の間も元ネタに比べて引き延ばさざるを得なくなっているようだ。大杉漣の演技において特にこれが顕著で、目に余るいやらしさで小津とはまた別物の世界観が呈されている。

 監督:チェン・カイコー 製作国:香港


さらば、わが愛 覇王別姫
 煙幕で常に視界統制をしている、明度はあるが湿ったリドスコのようなもので、このフィルタリングでキャラの感情に時々ついていけなくなる。たとえば京劇を見た人物が感激しても感情を補足仕切れないから唐突に見える。折檻の場面でも趙季平の劇伴がぼ〜っと入って夢のようになる。ただレスリーは前カットノリノリなのはわかる。

 監督:ジョン・アミエル 製作国:アメリカ


エントラップメント
 これは老人ホームのラウンジ以外のどこでよころこばれるのか、老人の邪念が露見しすぎていて、ターゲットの不明瞭さに戸惑うのである。コネリーの眉だけが黒いだけに胡散臭さ倍増である。ただあの眉はロングでもコネリーの感情を描画するのに役立ってしまうのだが。クアラルンプールの駅のラストカットはよかったと思う。最後に二人が消えたホームが話の非現実さを儚いメルヘンに昇華している。

 晩春 [1949]
 監督:小津安二郎 製作国:日本


晩春
 最初の原節子物だけあって小津の性欲が全開なのである。冒頭からやたらとさえずる鶯がすでにイヤらしい。杉村春子の原を舐め回すまなざしがまたアレで、それで帯を直すから何をかいわんやである。原節子も全編シナの作りすぎで目に余る。これだから近親相姦だとおそろしく的確な評がつくのである。笠智衆も年齢と感情が安定せず不自然で、変態家族の大杉漣は正しい演技をしていたと気づかされるのである。

 監督:リドリー・スコット 製作国:アメリカ


G. I. ジェーン
 あくまで訓練ということもあって、デミ・ムーアの動機に最後まで信憑性を託せない。それはそのはずで、彼女はアン・バンクロフトやそれこそヴィゴ・モーテンセンといった周りの大人を描画するための手駒である。あのモーテンセンの気が遠くなるほどかっこいい人間性の発見は、遡及的にこの物語を性愛を超えた教官物に定着させ、その不自然な禁欲を合理化することができる。

 監督:ピーター・チャン 製作国:香港


君さえいれば 金枝玉葉
 トッツィーといえばそれまでだがレスリーがそれをアニタ・ユンにやられることで、思索的な事態が招来している。男装したアニタに参ってしまったレスリーは、もうゲイで構わんと宣言して幕が下りる。これはこれで標準的な展開ではあるが、そのレスリー当人がリアルではゲイであるので、それが男装とはいえ異性のアニタにそうなるのは信ぴょう性があるのかないのか、こちらとしては大混乱に陥るのである。

 監督:澤田幸弘 製作国:日本


俺達に墓はない
 このイラつく岩城滉一を許容し、弟分の岩城と竹田かほりセックスを屈託なく観測する優作の心理とは何か。岩城の何気に残虐な挙動が例によって内輪ネタなダラダラで埋没する。内輪ネタが単なるサイコパスの描画になってしまい、取っ掛かりと起伏のない話になっているのである。

 トミー [1975]
 監督:ケン・ラッセル 製作国:イギリス


トミー
 ロジャー・ダルトリーのロン毛の圧倒的ヴォリュームへの生理的嫌悪が、時折、歌唱と日常芝居の無理な並走で余裕がなくなり何となく当人の地がでてしまう朴訥さに救われているような気がする。アン=マーグレットの胸はでかくてどうすればいいのだ。

 第三の男 [1949]
 監督:キャロル・リード 製作国:イギリス


第三の男
 小説家脚本の語彙の多さが絵から浮いていて、展開が滑空する感じがする。展開のその速さは徳かもしれないのだが、役者の芝居が能弁な台詞に引きずられてしまって言葉を画面に定着しそこなった結果とも取れる。ダイアローグでレイアウトを斜めにするキャロル・リードの演出も、文法上の違和感を生じさせてまで異化する必然性があるとはなかなか思えてこない。

 RONIN [1998]
 監督:ジョン・フランケンハイマー 製作国:アメリカ


RONIN
 冒頭でデ・ニーロとジャン・レノとナターシャ・マケルホーンのツンツン顔の対比が強烈である。このオッサンどもがこのツンツン顔に手玉を取られるのかと勝手に妄想が膨らむ。そんな話でなかったのがよかったのか肩透かしなのか、おのれの性癖と向かい合うことになるのである。このアンニュイを反映するかのようにラストの別れ際でデ・ニーロを見上げるジャン・レノの顔はガチャピンに似ている。

 監督:グリゴーリ・チュフライ 製作国:ソ連


女狙撃兵 マリュートカ
 中尉の最初のアップショットがすごい。どうだイケメンだろうと語り手が力み過ぎて中尉がナルシストに見えてしまう。これでイゾルダ・イズヴィツカヤがオバハンなので、目前で展開されつつある少女マンガの評価に困るのである。

 監督:アンドリュー・ラウ 製作国:香港


風雲 ストームライダーズ
 アンドリュー・ラウの撮影が質感も含めてジャンル映画として世界標準に伍していてシュリよりもこちらの方が当時の日本語圏映画ファンには驚きであるべきだったのではないか。この時点で邦画のジャンル映画が絵の品質の面で及ぶべくもなくなっている。

 普通の人々 [1980]
 監督:ロバート・レッドフォード 製作国:アメリカ


普通の人々
 メアリー・タイラー・ムーアの大柄な身体を観察する会である。家庭内に異生物が徘徊する感じが気まずくて、ティモシーと並んで写真撮影が壮絶なことになる。ただの女性嫌悪では終わらせない生命の迫力がある。

 交渉人 [1998]
 監督:F・ゲーリー・グレイ 製作国:アメリカ


交渉人
 交渉人だから文系と体育会系SWATの対立図式と考えたら大違いで、文系虐めのマッチョな色彩が濃厚で後味があまりよくない。最初の交渉人のステファン・リーの辛辣な扱いから始まって、ロン・リフキンの顛末に至っては弱者いじめに見えてしまう。SWATの方は突入莫迦扱いしながら、いざ突入させると身内の仁義を切らせまくって立てている。

 監督:デビッド・マメット 製作国:アメリカ


スパニッシュ・プリズナー
 問題作である。小津が間違ってジャンル映画を撮ったというべきか。バストでダイアローグが続くような脚本家映画で、しかも棒読みで編集点の前後には小津映画のような間が付随するのである。ホームドラマなのにホームドラマの空気のままアクションに類するものも最後に行われる。シナリオはともかく映画として品質自体は劇場公開される水準ではない。

 シェーン [1953]
 監督:ジョージ・スティーヴンス 製作国:アメリカ


シェーン
 滅びつつある悪徳牧畜業者の断末魔であり、これを滅ぼそうというのだから、課題の深刻さにおいてどちらに分があるかというと、シェーン側の方がどうしても軽くなる。本作を踏襲した『遙かなる山の呼び声』では悪徳牧畜業者がハナ肇へと改変されて、最後は見せ場を奪ってしまうのだから、山田洋次はこの問題点を理解していたのだと思う。

 監督:サム・メンデス 製作国:アメリカ


アメリカン・ビューティー
 オスの性の哀しさをどちらが変顔をできるかといった異能合戦に置き換えてしまうために、それだったらケヴィン・スペイシーが楽勝であり、つらい映画にはならいない。ミーナ・スヴァーリが初出で増女のような顔でチアリーディングをやって沸かせるのだが次の場面では早々にスペイシーの顔演技に圧倒されている。

 監督:ケヴィン・スミス 製作国:アメリカ


チェイシング・エイミー
 これだとジェイソン・リーの話にならないか。彼のタイムラインを観測すれば、まず冒頭のトレーサーの揶揄で課題が設定される。それから恋に破れる過程を経て作家として自立する標準的な構成が見受けられる。しかし中心となるのはあくまでベンアフ視点だから、痛くも痒くもないようなフワフワした話になっている。

 人狼 [1999]
 監督:沖浦啓之 製作国:日本


人狼
 ケルベロス・サーガは設定からとても迷惑な話である。共感の対象になり得るのは特機隊という子どもの周縁にいる大人たちにあって、紅い眼鏡が室戸文明の視点に帰着するのはごく自然なのである。ところがこの話は特機隊の迷惑なロマンティシズムに接近するから移入することができない。演出の水準にも疑問がある。カメラワークはカット内で完結する。ワークでカットつなぐ意図がない。最初に火炎瓶を受け取るときのカット数の多さからわかるように、段取りを踏み過ぎて眠いフィルムになっている。

 監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 製作国:アメリカ・イタリア


海の上のピアニスト
 この価値観を物語という教訓的な形態で描画するのは珍しい。船を下りるというのが標準的な帰結であり、そうでなければ受け手への訓戒とはならないはずだ。ところが引き籠ったままでよいと母胎回帰な結末を持ってくる。いやこれはこれで何か感銘があれば構わないのだがそういうものは皆無で、ヴァージニア号が爆破される模様をただ唖然として眺めたのだった。

 恋恋風塵 [1987]
 監督:ホウ・シャオシェン 製作国:台湾


恋恋風塵
 なかなかイヤらしい。米袋の受け渡しで肉体の近しさが合理的となる状況を作ったり、拒食の子どもが食ったのかどうか判然とする直前でカットを切ったり、眠気の予感がすれば陳明章の劇伴が被さったりと、環境音活用の記録映画文体なのに物語志向なのである。オッサンは遠景ばかりなのに、ヒロインはここぞとばかりに望遠でバストにしたり。あさましい。

 π [1997]
 監督:ダーレン・アロノフスキー 製作国:アメリカ


π
 アロノフスキーを嫌いにはなれないのだ。今敏との絡みで批判的な評価を受けるけれども、わたしには今敏よりもずっとおもしろく思える。この作品も最初はイレイザーヘッドかとなるわけだが、ご丁寧にモノローグがついている。今敏の気取りが苦手なわたしには、こういう朴訥なサービス精神をどの作品でも成功させているアロノフスキーが好ましいのである。

 監督:渡辺武 製作国:日本


極道の墓場 フリージア
 英雄片のような湿っぽい話になりそうなのにそうはならない。北野武・黒沢清のヤクザ映画革命の洗礼もあるのだろうが、意外なことに群集劇に近いのである。

 サード [1977]
 監督:東陽一 製作国:日本


サード
 ATG配給で寺山修司脚本というだけで、ひな壇が川から流れてくるような心地がして虫唾が走るのだが、東陽一は決して虫唾を走らせない。少年院のセットからおふくろ島倉千代子の配役と裁判官内藤武敏のセクシィヴォイスに至るまで、むしろ正攻法過ぎて驚いた。

 監督:浅香守生 製作国:日本


劇場版 カードキャプターさくら
 俺は包帯縛り水没プレイよりも、抽選箱に手を突っ込んであさっての方向を見やりながらごそごそ手を動かしている姿態を見たいんだよ。現金に手を出すなのギャバンがラスクを食うところみたいな。演技の間合いの取り方に慎重で眠いフィルムになっている。

 監督:リドリー・スコット 製作国:アメリカ


グラディエーター
 組織化のよろこびに満ちた中盤のコロッセウムがピークアウトでそこから先はホアキン虐待になる。体育会系が根暗な文系を虐めぬくわけだから、娯楽も何もあったものではない。しかし虐めの中で今度はホアキン本来の暗い属性が輝き始めるのである。

 裸のランチ [1991]
 監督:デビッド・クローネンバーク 製作国: イギリス・カナダ


裸のランチ
 ガジェットの集積度が、被写体の徳を構成する状況への真摯な対応のきっかけを作っているように思える。全く色気のない昭和館陳列物の中にあって発現する暖色で明晰な幻覚はトリップというよりもセルアニメと実写が絡むディズニーの歌劇映画に近い。

 黒砲事件 [1985]
 監督:黄建新 製作国:中国


黒砲事件
 このモダニズム(?)志向は、状況を観察する人物のバストを挿入したり劇伴を加えたりで、説明を加えたがる土俗根性に侵食されている。ただそういう土俗性が、オッサン賛歌の裏返しとしての女性・若者憎悪をももたらしている。底流にあるのは映画制作者が抱く技術屋への共感だろう。

 戦火の勇気 [1996]
 監督:エドワード・ズウィック 製作国:アメリカ


戦火の勇気
 ハリウッドジャンル映画なのに驚くべき感傷のズウィック節である。感傷の度が過ぎて体育会系のルー・ダイアモンド・フィリップスは電車にカミカゼアタックを敢行し、マット・デイモンは湖畔で静かに絶望するマンガ記号的描画に達する。しかしかかるマンガ感性はメグ・ライアンをこの上なくかわゆく描写し、受け手によろこびをふりまきながらもまったく彼女を場違いにする。

 監督:トーマス・ヤーン 製作国:ドイツ


ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア
 冒頭のいかにもなふたりの会話と衣裳からわかるように主題優先であり雰囲気映画である。ダレそうになると病状を悪化させるように病を手段としか見ていない。これは倫理的ではない。引き起こした課題が自助努力ではなく天与で解決されるのも話の重さを台無しにする。浜辺に到達して都合よく転がるに至っては喜劇の潜在性がある。

 監督:アンジェイ・ワイダ 製作国:ポーランド


灰とダイヤモンド
 ワイダのジャンル精神が冒頭から爆発している。銃撃された車が丘に乗り上げて人が放られるまで長回しというジャッキーのようなサービス精神で、また投げ飛ばされる人の姿態が大仰で、そんな落ち方するのかと笑わせつつ、弾着では人体に火が灯るのであった。

 監督:原一男 製作国:日本


ゆきゆきて、神軍
 彼自身は弱者ではないので、戦場で虐待された弱者の報復をしても、報復にならない。むしろ純粋な暴力の発動の合理化に報復を利用している。そもそも報復の相手というのがもはや仮構の存在なので、暴力の純粋な観察に帰結する他はないのである。

 監督:フランシス・ヴェベール 製作国:フランス


奇人たちの晩餐会
 ここでいう奇人とは発達障害であり、問題が起こるのであれば今日では臨床の対象となるものだろう。映画制作時点でのフランス社会にはこういう対応がないために、テクニカルな問題ではなく文芸的対応の対象として現れる。それは根性論といってもいい。これに臨床的な対応をしようとする視点からすると残虐きわまりない。嗜虐を行う人間も罪悪感をうまく定義できないから応酬は神罰に類するものになる。

 監督:ブラッド・バード 製作国:アメリカ


アイアン・ジャイアント
 冒頭10分観、事態が進展しない。卑近の課題も人生の課題も設定がされない。こういう準備なしにアイアン・ジャイアントが出てくるために途方に暮れる。現象が統制されないで展開されてきたために、更なる混沌要因のために話がますます拡散する心地がしてウンザリするのである。

 監督:エドワード・ズウィック 製作国:アメリカ


マーシャル・ロー
 ズウィックという人は日本語圏の映画ファンからすれば興味深い。グローリーでも戦火の勇気でもラスト・サムライでもカミカゼアタックで終わりである。本作のシナリオもおそらくパト2を踏襲していると思われる。ただ、状況の稼働ではなくそれに対応する人物の心理を構築してカミカゼアタックに追い込んでゆく、この人の少女マンガ的感性は本作にはどうも向いていない。心理の焦点化がブルース・ウィリス将軍の自己愛に充ちたニヤケ顔としてなぜか結実してしまい、ブルースのナルシシズムを発見してしまうという功績を挙げてしまうのだ。いや、挙げんでもわかっておる、という向きもあるだろうが。

 監督:ヴィム・ヴェンダース 製作国:ドイツ


ベルリン・天使の詩
 守護天使がオッサンというのが肝要で、遡上して自分の出自がそれであるような、そういう万能感を享受するためのオッサンの自慰映画であるから、最後はきもちいいのである。外套のポッケに手を突っ込んで街頭を歩くだけで中二病に浸れるのだからこれは手軽で安い。ブルーノ・ガンツの割れ顎がどうやって口説いたのか、いやヒトラーは婦女子に人気があったというし、等々混乱もまた格別である。

 監督:山田洋次 製作国:日本


幸福の黄色いハンカチ
 武田鉄矢視点から始まり、それがベースにあるのに彼の隠された属性を発見する旅なのである。健さんの回想話で涕泣する鉄矢もいいが、その彼に共感できた桃井の機能的な属性もまた発見されている。鉄矢と健さんの力関係が逆転するのもいい。

 38度線 [1984]
 監督:ハンス・シープメイカー 製作国:オランダ


38度線
 70年代初頭のニューシネマのような品質がそう思わせる部分もあるのだが、ホームムービーを眺めているような引っかかりのなさである。筋らしきものはある。状況は展開されている。しかしその状況によってキャラクターの造形が彫琢される感じがしない。民間人が多く投入されていて、見えないものがない。つまり視点が統制されていない。あるいは物語を統制する視点がない。

 監督:フリッツ・ラング 製作国:ドイツ


メトロポリス
 別にゲーテッド・タウンになっているわけでもなく往来が自由であることが、階級の固定を思わせず、状況をスポイルしてる。フレーダーが下界に降りてきて期間工の挙動を見て驚愕するのだが、カッコいいと感動しているのかと一瞬、思ってしまった。母性を仮託する類の女先生もの様式でマリアのまぶさを瞬時に叙述してしまうのはえらい。

 監督:ロバート・アルトマン 製作国:アメリカ


ロング・グッドバイ
 エリオット・グールドがダークスーツに被膜された毛むくじゃら状で、輪郭のはっきりしない地球外生命体を思わせる。劇中でやってることもそうかもしれない。この異星人の視点で話を進めて行くと文体がコントに近くなる。

 蛇の道 [1998]
 監督:黒沢清 製作国:日本


蛇の道
 こういうハスキーな声質が暴力映画のジャンル俳優をやっているのが間違いであり、声質があるべきところに帰って来た安心感が全編を通じて醸されている。ただ然るべきところに収まった時、その声質はコントになっている。サイコパスの視点に同化して状況を観測すると、理解できないからそれは笑いになってしまうのである。プロットと同様に再帰的な何かが謎数学の私塾を中心に流通しているのだ。

 監督:ティム・バートン 製作国:アメリカ


シザーハンズ
 降雪が孤立者の創作と社会との接点の表現となっているのだが、ジョニー・デップの理念優先の造形からも明らかなように、きわめて恣意的な舞台造形が社会という概念を希薄にしていて、語り手の自慰で舞台が閉塞している息苦しさを覚える。

 プルガサリ [1985]
 監督:チョン・ゴンジョ 製作国:北朝鮮


プルガサリ
 本編がヴィスコンティっぽい。キャラクターの心理の焦点化にカメラワークが追従する類の文法で、これが芝居の挙動の仕方に逆流してしまっている。カメラの動作におもねりながら役者が動作して、芝居と芝居の間に一呼吸入る。

 監督:大河原孝夫 製作国:日本


ゴジラ2000
 鉄塔が倒れようが居酒屋が崩落しようがホームドラマの間合いである。朝ドラの画面なのである。ゴジラを追走する村田一家はピクニックと見違うばかりの牧歌。何分たっても展開が見えてこない。前衛である。

 監督:ドニー・イェン 製作国:香港


ドニー・イェン COOL
 イカ臭い。遠景で雑踏を歩いていると貧相のオッサンなのに、寄ってしまうと大変で和製アニメで言うところの、顔をシャフト角度に傾けてナルシシズム全開となる類の映画である。その割に肉弾戦になると落ち着きがなくなり喜劇がかる。身体能力が愛嬌となって救われた気持ちになる。

 監督:トム・ティクヴァ 製作国:ドイツ


ラン・ローラ・ラン
 フランカ・ポテンテが不自然な顔をする。ダイコンか否かはともかくとして、闘病を重ねてきた新生児のような、人を不安に陥れる朴訥な落ち着きがある。これで走っても疾走感皆無だが、ループを重ねるとあの顔が生活履歴の裏付けを体現し始めて、荒唐無稽な設定を受容してもいい気分になる。

 監督:ブライアン・シンガー 製作国:アメリカ


ユージュアル・サスペクツ
 ピート・ポスルスウェイト派であるわたしがコバヤシ弁護士がフィクションだったなんてと最後にガックリしたところあのオチである。乗車してきたカイザー・ソゼと見つめ合う時間が不自然に長いのもこれまたサーヴィス。

 監督:トレイ・パーカー 製作国:アメリカ


サウスパーク
 ブライアン・ボイターノのネタの扱い方に象徴されるような、マッチョイズムを肯定的に解釈している件が好きで、それらはおそらく、この映画の底流にあるのがマッチョイズムに他ならないからだろう。

 セルピコ [1973]
 監督:シドニー・ルメット 製作国:アメリカ


セルピコ
 画面は硬質なルメット印でありながらミキス・テオドラキスの劇伴が情緒的で、職場がアットホームである。つまり、共同体化ゆえの汚職という設定なのでそうなる。最後は22LRで顔面を撃たれてむ〜んとうわ言で、厳しいというよりもアンニュイである。

 野良犬 [1949]
 監督:黒澤明 製作国:日本


野良犬
 志村喬は言うまでもなく、係長の清水元やスリ係の河村黎吉といった大人たちが稚児を可愛がるようなセクシャリティがあって、彼らが三船を諭すたびに微妙な気分になるのである。三船が中身はオッサンだけど外貌がピチピチしているところが事態を一層深刻にしている。タイトルクレジットの犬の挙動からして猥雑だから致し方がない。

 監督:デヴィッド・O・ラッセル 製作国:アメリカ


スリー・キングス
 いかにしてマーク・ウォールバーグの顔に高橋悦史を連想しないでいられるかが勝負なので、この二人を区分する唯一の箇所、つまりウォールバーグの深い眉間ばかりに着目することになるのだが、後に検索してみたら悦史もけっこう眉間が深く絶望した。

 監督:黒沢清 製作国:日本


地獄の警備員
 誤誘導というほどでもないが、隠された属性がふたつあって、諏訪太朗が昼行灯だったのはよろこびであり、かつなぜ諏訪がここまで英雄化されるのか、という不条理もある。いまひとつは何を以て恐怖とするかという点で、松重豊に追われることがそれだと普通は考えるのだが、そこに怖いところがない。不審に思っていると最後にスプラッタが始まる。黒沢清とこういう物理的な恐怖は結びつかないからこれは意外だった。

 監督:深作欣二 製作国:日本


新仁義なき戦い 組長の首
 これは同じ高田宏治脚本の資金源強奪の姉妹作とみてよい。明るい作風が印象的で、娑婆に出て不遇を買っても文太は全く前向きに事態に対応しようとする。結果的に立身出世ものに近いテイストになっている。文太は宮崎駿映画のキャラクターのような明朗さと明るい狂気の狭間をのびのびと往来する。

 監督:深作欣二 製作国:日本


新仁義なき戦い 組長最後の日
 文太の造形が前後半で豹変する。侵略してくる関西側の配役も、組長が小沢栄太郎で配下に藤岡琢也と非東映実録かつ重厚な布陣である。栄太郎が実録路線では珍しい飄々とした怖さを演じれば、成田三樹夫も高田脚本の『大阪電撃作戦』の冷酷な属性を踏襲している。幕切れも文芸映画のようだ。

 監督:ロバート・アルトマン 製作国:アメリカ


ショート・カッツ
 長広舌を受けている被写体のバストでそのキャラが視線をあらぬ方角に向けてしまう。こういうのがヒューモラスでいい。何かを作業している人物の遠景で、そこに次第に寄っていってサスペンス調になったり、話者のミドルショットに寄っていったりと時々ひどく通俗的になるのだが、ワンカットが長くその通俗的なワークが同じカット内で別の挙動に入ったりするので、格調は損なわれていないようだ。

 監督:深作欣二 製作国:日本


新仁義なき戦い
 若山富三郎に神経質なメタボをやらせて狙われる人間の心理を追っているので、内容は同じでも前五作や他の実録ものとは趣が異なる。若山は遠景でモブが見守る中、襲撃されて息絶える。狙われる恐怖が最後は、死ぬという個人的な作業の孤独を構成する。

 Hole [1998]
 監督:ツァイ・ミンリャン 製作国:台湾・フランス


Hole
 グレース・チャンのミュージカルがヤン・クイメイの恋慕を表現しているようでいて、実は相手のリー・カンションの感情から目を背けるよう機能している。最後に彼の慟哭が始まった時、わたしたちは驚いてしまうのだ。そういう話だったのかと。『楽日』はこのヴァリエーションである。

 監督:オリヴァー・ストーン 製作国:アメリカ


ナチュラル・ボーン・キラーズ
 それがあるからこそ共感を誘うような、キャラの倫理観を構成する挙動が冒頭で行われている辺りにタランティーノ印を覚える。若い女性を殺害してメタボ中年を生かすような女性嫌悪である。ダークナイトでヒースが勇敢な警備員を殺さないアレである。

 監督:スティーヴン・フリアーズ 製作国:アメリカ


未知への飛行
 ルメット版からの最大の差別化はグレテシュール教授の造形にあるだろう。前者のウォルター・マッソーはサイコパスな内容を普通の人が冷静を装って語る向きがあった。後者の造形は内容から演繹されたようにサイコパスそのままで、無感動なままサイコパスな台詞を述べてすごく頼り甲斐がありそうに見えてしまうのだった。

 監督:ブライアン・デ・パルマ 製作国:アメリカ


ミッション・トゥ・マーズ
 デ・パルマのリリシズムの要請に応えるにはトンデモすらも動員せねばならかった。そういう畏怖すらも覚える。ベタベタのジャンル物で彼のリリシズムが内容と絡み合って空転しなかったのは『ミッドナイトクロス』以来のことでないか。トンデモはアレとして、ゲイリー・シニーズの回想話がやたらと感傷的なので変な予感はしたのである。『オデッセイ』が本作なしに成立したとは思えず、しかも本作のほんの一部を継承しただけで一本の作品が産出されたことを考えれば、色々な意味でという修飾をつけなばらないのは残念だが、豊穣な作品である。

 監督:深作欣二 製作国:日本


バトル・ロワイヤル
 この世代の挙動を記号的に構成する際、特に点景の人物についてはヤクザの三下の心理を援用するしかなかったのか、全体的に昭和元禄的な品位が漂っている。秩序崩壊が要請したとされる設定とまるで秩序が崩壊していない無菌室のような校内の美術にも、語り手と被写体の隔たりを感じる。

 13デイズ [2000]
 監督:ロジャー・ドナルドソン 製作国:アメリカ


13デイズ
 ケビン・コスナーがケネディ兄弟と並ぶとトム・ハンクスがセレブの動画に合成されたような胡散臭さを発する。撮影が『フォレスト・ガンプ』のドン・バージェスだから、というのはうがち過ぎだが、ロジャー・ドナルドソンの中庸体の文体が事件に触れたとき、出来事は表面的なものに終始するのである。

 監督:ジョン・アーヴィン 製作国:アメリカ


プライベート・ソルジャー
 心理的構成の意欲がなく、したがって対話でカットが割られる事はなく、引き気味のフレームで延々と何らかの説明が行われている。後始末でしかない戦場の諦観である。

 監督:ウォルフガング・ペーターゼン 製作国:アメリカ


パーフェクト・ストーム
 キャラクターが感覚的に補足できる形象となっていないために、意思や選択の挙動があまり見えてこず、金に目のくらんだ漁師が馬鹿一直線に嵐へ突入して玉砕したとしか言いようがない。これが『タイタニック』のジェームズ・ホーナーの劇伴をはじめ朗々たる美文で劇化されるので、ますますわけがわかならい。

 花火降る夏 [1998]
 監督:フルーツ・チャン 製作国:香港


花火降る夏
 フルーツ・チャンだから若者憎悪になるわけはなく、トニー・ホーのサイコ化は世代間闘争の名を借りた無能の糾弾に見える。無能なオッサンどもがサム・リーの機能的色彩を好ましく浮上させるだけに。

 監督:ヴィム・ヴェンダース 製作国:フランス・西ドイツ


パリ、テキサス
 のぞき部屋の場面でナスターシャの視点に切り替わるとギョッとしてしまった。ナスターシャがマジックミラーに映る自分の非人間的な容姿を注視しながら、ミラーの向こういるスタントンを見透かそうとしている。のぞき部屋の構造の過剰な可感性がカットが切り替わるや一瞬で押し寄せてきて、恐怖映画に近い形象を感じた。ナスターシャの魔性で廃人となったかつてのスタントンを、ナスターシャの心理に接近するからこそ、追体験できるのである。

 スナイパー [1996]
 監督:ラッセル・マルケイ 製作国:イギリス・カナダ


スナイパー
 スポッターが異性に設定されてしまうと、ドルフ・ラングレンが性の課題を負わざるを得ない。メスへ従属しようとする自然の欲求とどう立ち向かうかという緊張である。これについては、最後はメス視点で締めてドルフを非人称的な扱いへ昇華することで、性欲へ負けた感じを回避しつつ同時にオスの独りよがりにもならずに済んでいるようだ。

 監督:ラース・フォン・トリアー 製作国:デンマーク


ダンサー・イン・ザ・ダーク
 アメリカの医療福祉と司法制度にたいする北欧人の憎悪が具体的な制度論となり、事を後天的に解決可能なテクニカルな問題としている。つまりビョークは福祉国家にいたらかかる事態は起こらない。したがって、文芸という形式でこの事態を扱う意味が見出せず、結末では愕然となるのである。

 早春 [1956]
 監督:小津安二郎 製作国:日本


早春
 朝の蒲田の住宅地からワラワラと湧き出す白シャツ軍団に斎藤高順ののどかな劇伴が被さってはディストピアになるし、岸惠子とのキスシーンで扇風機のアップショットを挿入するノリはブルーフィルムである。

 監督:キース・ゴードン 製作国:アメリカ


真夜中の戦場
 戦争ジャンル物にもかかわらず、この映画はキャラクターの心理へ文芸もののように接近して、かつその有り様は科学的である。心理に寄るからアクションが遠景化しないが、しかしながら目前の現象を分節化して把握しようとする。戦争映画の文法が変わりつつあるのだ。

 暗戦 [1999]
 監督:ジョニー・トゥ 製作国:香港


暗戦
 ラウ・チンワンとヨーヨー・モンの邂逅がすきだ。われわれはチンワンの発見を通じて、画面の外にはアンディの知られざる私生活があって、あの別れのあとも彼がしばらく存続していたことを知る。アンディの造形が非人称的に発効することで、フレーム外に広がる生活圏が知覚され、香港の地誌に奥行が生じる。

 監督:マイク・ニューウェル 製作国:アメリカ


狂っちゃいないぜ
 天才が降臨したとき、どういう態度をとるか。自分が凡人であることをどう克服するか。これだったら、物語が観察すべき問題となり、その落とし前をキャラクターにつけさせることは意味のある叙述となる。本作でもビリー・ボブ・ソーントンが現れて、キューザックはどうするかと興味を惹かれるのである。解答はソーントンの卑俗化で、彼も苦しんでいたというオチだった。

 鉄道員 [1999]
 監督:降旗康男 製作国:日本


鉄道員
 当時の広末の非人間的な存在感が、鉄オタというあり得なさとともに、瞬時に画面を恐怖映画にしてしまう。もっともアレだから、ホラー映画になって当然であるし、鉄オタという属性も、のちの彼女の人生の顛末を考えれば、やっぱり似合わないのだが、しかしそこに含まれている語り手の邪念は随分と薄まった。そんな気がするのである。

 監督:大友克洋/森本晃司/大森英敏/梅津泰臣/北爪宏幸/マオ・ラムド/北久保弘之/なかむらたかし/福島敦子 製作国:日本


ロボットカーニバル
 大友克洋はあの顔貌そのままに相変わらず間のとり方が悠長な眠いフィルムを作る。それでもこの中ではもっとも古くなっていないから立派である。