映画感想 [101-200]
犯罪者はオッサンで然るべき動機がある。困ったことにこの古いのが安心でいい。永瀬正敏が軽薄なだけに余計に。その永瀬が今や渋いオッサンと化している20年後に見返す機会があって、新宿の街並みがあまり変わってないことに驚いた。
アクションが『コンバット!』の水準でしかないのに、たとえばサント・メール・エグリーズの話になると、米兵がコミカルに虐殺されてしまって、内容が『コンバット!』ではなく、そこに異化と挑発の効果が出る。アクションが牧歌的であるゆえに方々で勃発する黒い笑いに迫力が出てしまうのである。
オッサン二人がユニオンスーツ一丁になって寝袋で語らいとか、マリエット・ハートレイが男装で勇ましいのに干し草満載の手押し車を押そうとすればなよっとなったりとか、硬派かと思えば色々と脱線をするのである。
最初の衝撃が過ぎてちゃんとした劇映画をやろうとする段になると、スタジオ撮影をやれないアマチュアリズムの貧相が認識できてしまう。特にジーン・セバーグの初出で毎度の英語コンプレックスが出てしまうあたりから。
ゴッドファーザーの踏襲で後継問題の話なのだが、長男のアラン・タンが無敵の戦闘力を発揮して、組織ものにもかかわらずアクションがリアリズムではない。概して、80年代というか古色蒼然としてる。アランが看護婦のモニカ・チャンと出来る件もヤクザの金と色気に負けてしまうモニカにいい印象がない。他方で、良くも悪くも80年代ジャンル物の成り行きという感じで、少なくとも然るべきものが語られているというノリにはなる。なお現実でもしばしばヤクザと看護婦は出来てしまうらしい。
マーク・ウォルバーグがすでにあらゆるものをもっている万能感が邪魔なのであり、ポルノ業界というアウトカーストの中でしかないという漠然としたわびしさで打つ消しにかかっている。もっとも、撮影をはじめとする技巧的な態度が、わびしさを作り事めくしている嫌いがある。
いかにも恐怖映画らしい文系・体育会系という図式よりも女性嫌悪のほうが気になる。たとえばもっとも実際的なレンを女性にする手もあったはずだ(いや、あの退場振りだとますますダメか)。ポセイドン・アドベンチャーのシェリー・ウィンタースの造形には、その辺の配慮が働いていたと思う。
性欲のない007らしいというべきか。デ・パルマ特有の感傷の水準に合わない大仰さが、何かが間違って甲子園予選を勝ち進んだ進学校野球部の青々しき昂奮に類するものを伝えてくれる。
Fuck it の軍曹の、絵に描いたような帰還兵顔が笑いを誘ってしまうように、想像力の問題なのか、ベトナム関連になるとジャンルムービーに堕ちる。ルーレット興行のおやじなどその最たるもので、デ・ニーロもノリノリになって内斜視になったりする。アメリカに戻ってくると急に格調が回復されて安堵を覚える。
女優よりもランカスターやクリフトのバストの方が紗がかかり気味に見えて色気があるのはどういうわけか。ロケーションの多いジンネマンの記録映画節が男性的で、デボラ・カーがサークルクラッシュよりも男色傾向を促進させるのである。
飛虎隊にせよ強盗団にせよ集団の動きが基本にあってしかも演出家が技術志向だから、後背の人物の挙動をおさえようとして広角を使う。これが家宅捜査の視界不良さをスポイルしているように思われる。80年代のダニー・リー映画の水準なのだが、それらの作品群が記録映画性とジャンル性の齟齬に配慮しているのに対し、こちらは弾数が多いだけに亀裂はむしろ悪化している。
矢野顕子の主題歌が露骨に表現するようなテーマ優先の強迫観念によって、話が牧歌的になればなるほど禍々しくなる。本編とは全く相いれない3Dパートの立体感が受け手を否応なく日常に直面させる。当時の経済情勢へと。今見てもあの氷河期の感覚がよみがえってくる。
開業医のトムクルとは、これはいかんだろうと初見で思うのだが、これが実にいいのである。例の微笑を浮かべるたびに、この人は無理をしているなあと思わせられる。こういう頑張っている感じが人を徳高くしてしまって、一夜の冒険のドキドキ感を共有できるのである。ニューヨーク路上のセットをあの長髪に歩かせるだけで、人の好い胡散臭さがヒューモラスに漂う。これは得難いことだ。
フランキーだからどんなにメソメソした人情紙風船かと身構えるも肩透かしで、さすが50年代邦画らしくクールなのである。むしろ後の『黒い画集』や『けものみち』の社会派路線に近い。再審請求でいったんフランキーを楽観させるところなど罪づくりでそういう感じがする。
人が活動する様子を遠景で収めているうちはよいとして、根が俗っぽい話だけにカットを割って修羅場の構成に入ると、撮影のリアリズムがカットの割り方や間のとり方の焦燥さに及んでいるのか、ジャンル物の軽薄さと文芸路線の格調の境界を揺蕩う。似たような感じは『ディア・ハンター』にも受けたのだが。
堕ちたといってもヒモであるから衣食住はとりあえず保障されている。これでは課題として弱いものの、何をしても中途半端なジェフ・ブリッジスだからこの程度の堕ち方に然るべきものもある。選ばれたことという貴種流離譚のうれしさがけっきょくヒモやホームレス村の庇護を受けてしまう社会保障の感性と結合しているように見える。
裏の英雄片で殺し合ってる人たちが、この世界では仲良く暮らしているので泣けてしまうのである。ただ警部役のケリー・チャンは『実録・狼達の挽歌』やら『実録・幼女丸焼き事件』などを想起させてつらかった。ラストのチーホンはやっぱり外道をやりつつも、その外道がこの世界観と調和しているというアクロバットを展開してファンをうならせた。
奇性の展示が自己顕示欲と取られないために何をすべきか。あくまで当人は真面目であるべきだ。しかし真面目に奇性が見込まれてしまう事態は痴性に他ならない。それは構成する能力を欠くゆえに日常の断片を描画するだけでリソースがパンクしてしまう。2時間の尺に換算して30分弱話がまるで進まない。ファンムービーならではの気が遠くなるような体験である。
ガジェットや美術の解像度を上げることで、明確にすべきではない主題が定義されてしまったのかもしれない。TV版のラストが訳が分からないからこそ受け手には自己投影の余地があって、われわれだけのアンシーというものが、個々人の課題に応じて姿を変えて存在しているのだが、劇場版ではこの切実さがレースという形で客観化されることで霧散している。
ベルナデット・ラフォンの初出が衝撃で、彼女とマーヴィンが収まる同一フレームに眩暈を覚えるのである。手堅いジャンルスリラーだと思っていたものが、そこで突如文芸物になるのだ。悟空がペンギン村に迷い込んだ事態と言えばよいか。
原作をここまで膨張させたのかと驚愕したのである。しかし原作を知らなくとも、まごうことなき70年代の山田洋次世界があの大回想と結合するジャンル転換の狂い様をたやすく認知できるはずだ。よく喜びよく驚愕する丹波哲郎がまたいいのである。捜査一課長内藤武敏のセクシィヴォイスも軽躁する丹波をこよなく引き立てる。
小林正樹は通常運転で恐怖映画だからどうするのかと思えば、修羅場に来ると広角の遠景がバストの望遠になって視覚の統制を始めるのであり、ゲームのムービーシーンのような兆しのわかりやすさがある。修羅場になってしまうと通常運転の遠景が回復され、すごい挙動を引き起こしている被写体をゆっくりと押さえて、これがまた品がいい。
女優が綺麗だと思ったら、後の黒沢組の林淳一郎が撮影である。レイアウトは洋画ではないのでわかりにくいがよく見ると邦画離れをした質感をしている。
リングと続けて見ると質感が当時の邦画の水準に戻されてしまうため、現実に引き戻された感はある。しかし芝居は下品ではないし、淡々と事件追う展開に滞留はないしで酷い評判のわりにはそれほどの瑕疵はないので、俺の感性がおかしいのかと腑に落ちないでいると、憔悴した中谷美紀がベッドに横たわって強烈なシナで誘惑を開始。これは一筋縄ではいかんぞと身構えたのである。
中田秀夫版の中谷美紀からは飯田譲治版の色香が失われている。中田と飯田の外貌を比較すれば明らかなように、中田には色香を引き出す技術がない。自らの限界を知る彼は柳ユーレイというわれわれが投影しやすいキャラを置くことによって、アイドルに近接する昂奮の方を駆り立てるのである。
レナード・ローゼンマンの牧歌的な劇伴に乗って、ピーター・フォンダが善の表象たるあの顎を振り回しキャンピングカーの内装に目を輝かす。配役からにじみ出る善良さがすばらしいのである。フォンダとウォーレンがずっとキャッキャッしてるだけでいいのではないかと思わせるが、やがてあの顎が親父譲りの剛毛に包まれたとき、破壊本能に目覚が訪れる。よってあのラストも何とかなるんじゃないかという一抹の楽観がないこともない。
ルーカスはそんなにカットを割らない人でそれが集団抗争をやるとなると、宇宙からのメッセージを彷彿としてきて、それで宇宙〜を見返してみると抗争が仁義なき戦いそのままで感動を覚えつつ演出家の熟練度の違いに雲泥の差を確認したりと、基本的にファンムービーだから大した筋があるわけでもなく、要らぬ脱線をしてしまったのだった。
本筋よりも演出家当人の生活がじかに投影されている、撮影役の大杉漣や編集技師の老人といったベテランの技術スタッフと新人監督の関係性に魅せられた。内容の方はまあ何となくな終わり方で『リング』ほど恐慌をきたさずに観られた。
この挫折感は何であろうか。実はそれほど重篤な挫折とは思えないので、最後にサークル・ゲームをバックに回想が始まってしまうと、大げさに見えてしまう。他方で、挫折したという感傷を受け手は確実に認知することもできる。政治的文脈ではなく、いま目前で暴虐にさらされているリンダに手が届かなかった、というたいへんミニマムな感情に集中したのがよかったと思う。
三人がともに映画的な性格をしていない。マーヴィンと絡むのはよいとして、三人だけの場面になると性格の書き分けが乏しいために分別し難い群体がモソモソ動いているような見づらい画面になってしまう。この劇化に向かない少年を容赦なく劇化した事態に放り込むドン引きな感触は火垂るの墓というべきか。
原作では5〜6頁でソラリスに着いてるのにいつまで首都高を周回しているのだ、という揶揄を寸分も許さないドナタス・バニオニスのオッサンの強引な鬱顔が雨に打たれて恍惚としてこれは未来であるという実感を担保。ハリーが幾度もよみがえる件に入ると原作のエンタメの力強さを思いだす。古典落語オチにもおおよころびだ。
後に警察路線を猟奇路線にしてしまうのだから、あのシリアスな『公僕』の次にこれなのはダニー・リーらしい。しかしよく見るとすでに警察実録路線の文法で撮られていて、コテコテの喜劇という感じはしない。それにしても同年公開の警察故事とはまるで異なる文法だと後者の方を見返してみたら、80年代半ばの香港映画とは思えない水準の高さなのである。
キティ・ウィンの健康にムラがある。独特の粘着感で不健康を呈しても、次の場面ではまともに稼働している。大局的に見れば亢進はしているのだが、続けて観察している分にはこの人は実は頑丈でないかという疑念が出てきて、粘着芝居に入ると演技しておるなと作為を感じてしまう。一局面を切り取った感ということでこれはこれで格調高いのではあるが。
デルバート・マンの演出が突出している所があって、弾を受けた人の挙動が新劇調ではなく、舞台的でつまり大げさなのである。アクションが同時代の水準にそこまで劣るものではないから、人の演技の仕方が異様に映ってしまう。そもそもがボーグナインのアイドル映画であるので人間への注視があるのかもしれない。
ハックマンの落ち着きのなさが刑務所ボケような病理的なもの感じさせて、この哀れが男色傾向を緩和している。ラストの靴を直す挙動も観測実体としてはヤケクソに他ならないのだが、当人だけがそれに気づいていない。それで哀れが爆発してしまう。
冒頭から大将ノリノリのエンタメ大作である。萩原聖人のマンガ的サイコパス演技が挑発となって、意外と世俗的な中年vs若年という世代間闘争に落とし込まれるから、感情を乗せやすい。災厄が社会化してゆく恐怖映画王道ラストもそれだけにとどまらず、役所の憑き物が落ちた溌剌とした挙動が、中年賛歌を普遍的かつヤケクソな万能感の賛美に至らしめる。
劈頭からコート上空の俯瞰からシシー・スペイセクのバストに降りてくるデ・パルマ節全開である。女子ロッカールームの喧騒に後にミッドナイトクロスを爆発させるピノ・ドナッジオの悪名高い感傷的な劇伴が乗り、文芸大作化。つづくシャワーの描写も粘着質でブルーフィルムと見紛ばかりである。本編が始まってジャンルムービーになっても、ズンと被写体に寄るデ・パルマ節が時折挿入されて油断ならない。コリンズ先生が萌え声なのも困ったものだ。
こんな疲弊状態でよくこんなドロドロした話をと人間の強靭さに呆れてしまう話だから結末の行為が衝動的に見える。状況をロマンティシズムから解釈しようとする無責任さみたいなものは『ザ・ヤクザ』の結末にも感ぜられた。
時々、オーヴァーラップをしたりカットを丁寧に割ったりと通俗的なつなぎがあって、それが画面の情報量を陰影で塗抹する質感の重さとかみ合わず、作品世界から弾かれることがある。それで我に返ってみると、芝居のさせ方や劇伴に説明への強迫観念を感じ取ったりする。原因への帰着に至る最後もその感性の表れなのだろう。かかる通俗はジャック・ナンスの徳性の描画に成功している。胎児の鼻腔もカワイイ。
表現の解像度が上がって何をやるかというと飯動画という欲望への忠実振りで、日用関連のガジェットから始まってフネ関係の備品の挙動に至るまで博物学的で図鑑のような世界が広がっている。
異文化交流物に付き物のうれしはずかしウルルン紀行に満ちた話で、リンゴ・ラム作品のダニー・リーのハスキーな吹き替えも手伝って、李sirも上ずって見えてファンにはうれしいが、これ、実はダニー・リー猟奇路線の前兆現象が起きている。霊柩車を乗っ取ったテロリストが追っ手に向かって棺桶を投げたりと。
実に嫋嫋たる安定のズウィック節である。最大の見せ場はデンゼルのムチ打ちで、ズウィック節の男色傾向が官能を爆発させている。マシュー・ブロデリックは八の字眉を作るばかりで、この文系集団が要塞に突入しても、嫋嫋たる文系が何とか戦えてしまっていることが、戦闘の熾烈さへの評価を下げてしまい、運動会に類するものに見えてしまう。それでいてあの結末だから混乱の度は高まる。
追加撮影の質感の違いはともかくとして新聞記者の視点で整理されているから盛り上がってしまうのである。芹沢博士がレイモンド・バーと友人だったとか、二次創作的な奥行きも広がる。海保の岩永さんの実直な人柄で異文化交流バディものの風合いすら出てくる。志村喬もセクシィヴォイスになってご機嫌になっているうちに、芹沢博士が例によって盛り上がってきて、あの哀しさが温存されていることを知るのであった。
演出家が女性嫌悪体質だから、マッチョ批判にも関わらずマッチョのよろこびがにじみ出ている。本作を踏襲したスターシップ・トゥルーパーズと同じ感覚があって、語り手の本質をよく体現するからこそあのドリル・サージェントが魅惑的となり、社会小説が嫌味にならないのである。
基本的に迷惑な話であり、島国の自虐的勤勉性が大陸を汚染してしまうグローバリズム批判にも取れる。しかし語り手のロマンティシズムはそこにペーソスを見ずにはいられない。郷愁という永遠に手の届かないものへの憧れと、もう昔の自分ではなくなったという哀感に異文化批評が転換される。
ジュリエッタ・マシーナが騙されるような人に見えないのである。豪邸で警戒しつつほくそ笑むというのはカワイイのであるがこまっちゃくれたというか老練というか、水前寺清子然としたままどこか見ても詐欺師のフランソワ・ペリエにすとーんといっちゃう。彼に視点が移転してしまって、マシーナの存在の如何ともし難さを彼が目撃してしまう形に落ち着いてしまう。
階級脱出ものの体裁が愚鈍さが善を体現するという類の情景に飲まれていて、トラボルタが階級を移動した姿をとても想像できないから階級流動の迫力が微塵も出ない。今のトラボルタからはなかなか演繹できないのだが徳がありすぎるのである。愚鈍という徳がセクシャリティに向かわずそれでかえってステファニーとのたのしい訓練場面が青臭い不穏さを帯び、社会小説ではなく個々人の感情の芽生えへ話が帰着することになる。
逃げ場がない。どこを見てもオッサンの半裸体しか落ちていない。アイドル水上運動会の食傷である。接写になってもニューマンのナルシシズム濃厚な微苦笑が画面を覆い尽くすばかりで、ジョージ・ケネディに救いを求めても、その峻烈なB級感が作品との違和を訴えるのである。最後の文芸はよくわからず。
序盤のブリジット・フォンダのメス性とサミュエルが暗闘している場面が後を引いている。パム・グリアのキャリアを知らなければ、あの無理な媚態が失われつつあるメス性を浮き彫りにする。それなのにモテるとすればハーレムアニメの感性に近くなる。つまり内輪ネタが鼻にかかってしまうのである。
覚醒したデ・ニーロが微笑するだけで大物ヤクザになってしまう。子ども演技がかえって貫禄を呈す。ロビン・ウィリアムズが内向的な性格と戦う話でデ・ニーロは出汁扱いだったはずなのに、ヤクザと堅気のバディものと変わらない。
スタジオ撮影でモブキャラの概念がなく会話主導で舞台劇の装いである。グロリア・イップ登場の不条理や色彩、アクションの様式美から見えてくるのは、鈴木清順の香港的消化という事態である。
セットアップ全体がクリスティ・マクニコルの空疎なアイドル映画になっている。この売れない女優がどのように家計を維持しているのかまるで見えてこない。だからバール・アイヴスとポール・ウィンフィールドが登場すると観測可能な映画という現象がようやく立ち現れる。映画に実体をもたせ世界観を提示するという意味で、この社会小説化に悪い印象はない。
アップショットで延々と対話を続けて遠景を執拗に避けようとするから閉塞感が凄く、リー・マーヴィン分隊以外に人がいないような、あるいは人類は全滅したんではないかという舞台劇のような前衛が60年代映画のような古色蒼然とした感じと混交している。だからドイツ兵の場面になると安心してしまうのだ。
これはやはり最後の黄色ジャケットの活人画がいい。活人画部屋で、そのSF性にもかまわず平然とジェフリーが行動することが、彼に超越性というか観測者であることの万能感と徳をもたらしてしまう。あのジャケットから無線機や銃が魔法のように出てくるのも理に適っていて気持ちがいい。
子役が目前にいるのでヘルムート・バーガーのディートリッヒ女装のまずさがリアルにまずいのである。被写体の内面の焦点化に応じてカメラの軌道が曲線を描くのだが、子どもには内面を想定しないので、その近辺だけ無風状態となってしまう。ところが絵は劇化はしないのにヘルムートは子役と絡んでゆくから、劇化しないからこそ物騒になるという不穏が現れてしまう。
三船や伊藤雄之助が役員だと仮装パーティーにしか見えぬ。逆に壮絶に工員が似合ってしまう東野英治郎と何をやってもいき雄にしかならないいき雄。鞄の仕掛けの件で三船が見習工に戻るとあまりのなじみ具合に騒然とする周囲。神奈川県警の配役の安心感は語り手の生活水準の反映。そして山崎努の声で伊丹映画になってしまう豊穣。
主人公が殺戮兵器で面白いことがたくさん起こる。哀川もダンカンも人間ではないから棒読みで、このふたりがカットを割ってダイアローグを始めると小津映画になる。超常怪奇現象が起こっても、それに際した当人も人間ではないから、ただ倦怠しながら現象と同化するのみである。ジャンル横断のついでに川辺でさわやかな青春劇のひとコマも行われたりする。
宗方姉妹と並ぶ笠智衆死ぬ死ぬ詐欺作劇である。本命の山村聡を隠蔽する前者は喜劇調だけあってまだ許せる。東山千栄子のそれを隠蔽するこちらはシリアスでありながら、嬉々として伏線を張るなどたちが悪い。オッサンの愚痴が社会小説化するようでいて、みんなが離散するその感覚がかえって笠智衆死ぬ死ぬ詐欺を強化する様にシナリオ工学への執着が見える。
文太が当事者ではない。松方が劇中で言及するように彼は安全なのであり、その視点を物語の中心に据えると松方の生きざまをフォローする話になる。松方はともかくとして、文太が松方に肩入れするのも職業倫理上理解がしづらく、彼を無能力に見せかねない。文太の愚鈍さにロマンティシズムを託そうとする戦略は理解できるが、梅宮の頼りがいのある高性能兄貴属性を仁義なき戦いに続いて好ましく見せてしまう帰結になっていると思う。
黒澤という演出家は基本的に童貞体質であり、それは怒鳴るばかりの三船のダイコンによく現れていると思う。こういうセクシャリティ関連の話になると、無理をしている感じになってしまう。演出家の気質が好ましく反映されているのは、お白洲の後背にポツリと座って三船の狂操を観察している志村喬らの愛らしさの方だ。あの後ろの二人は三船の童貞性を暴露させてしまう。
冒頭の曲芸がよくない効果になっている。軍隊が曲芸をやると実用性に欠いた印象を醸してしまう。これがドニーの綱渡りのような造形的説得感に負の影響を与える。龍門客棧は宦官ツァオの有能さの話だと考えるので、ドニーがこの配役に合うのかどうなのかそもそもが微妙な線なのである。年齢的に貫禄がなく、外貌をいじることで加齢を表現しているのだが、ドリフの加齢コスプレとなってしまっていてコントになりかねない。他方で、若白髪と解釈すれば若年で出世したのだから有能という属性が出てくる。コントに堕ちるかどうか、かかる緊張は龍門客棧のドラマパートでも受け手を脅かす。例のごとく年寄りを三人がかりでいじめ殺す最後のアクションも切っ先ばかりが触れ合う繊細な距離感を保った不思議な動作になっている。
ロレンスがそうであるようにリーンは女性的な人だから斉藤大佐の童貞的な硬直さが男色映画傾向を与えてしまう。これが後の戦メリの伏線となる。視界が開けない熱帯雨林で絵的にスケールが乏しいのでは思ってしまうのだが、最後は川辺で茫然としたアレック・ギネスの後背に鉄橋という画面が出来て絵画する。このスケールの直後にピタゴラスイッチ的コントなオチが来る。かかる落差があのヤケクソな切なさを生んでるのだろう。
この感覚はわかりづらい。天与の属性が埋没していてそれが見出されるのは標準的な話である。しかし宿命論的で階級の流動性を断固として否定するこの映画は、あからさまに露見している天与の属性を周囲が埋没しているかのように見せかけながら讃えつづけるという力技で溢れていて認知的な違和感に苛まれる。
この映画の保守観は、保守であるがゆえに何かが終わってしまったことを認知せずにはいられない。それは絵で言うとヒッピー化してゆくキャンパスのモンタージュとなって揶揄の笑いとなってしまうが、最後には何かが過ぎ去ってしまったことへの淡白な感傷が出てくる。技術志向の話だけあって、ベトナムの場面はプライベート・ライアン前夜という趣になっている。
侵攻してきた山口組が千葉真一というのがありえない話で、初出で豪快に笑う彼を見て絶望してしまうのである。これと松方弘樹が組んでハナ肇を虐めるのだから地獄絵図であり、野蛮すぎて話は制御不能に至っている。オープニングの御陣乗太鼓が実録路線のネタの枯渇を感じさせる。
冒頭の劇中劇で落下する被写体を切り取るカット割りの下品さ。それを見る試写室一同の絵もB級ジャンル感漂う。アクション映画でないのにタイトルクレジットそのまま西部警察。何もかも安くせずにはいられないジェフ・ラウの圧倒的感性である。
これは昼間爆撃の話なので照明がクリアで、総天然色というかお化粧の綺麗さが映画を舞台調に見せてしまって、セットで演技している感がどうしても出てしまう。ワイラーのドキュメントよりもデイトンの『爆撃機』の影響が強いのではないか。猟奇的な志向や構成などが。
描写に粘着がない中島貞夫の演出が小林旭と成田三樹夫にかえって貫禄を与えてしまっている。渡瀬襲来でもこのふたりは微動だにせずあっさり流してしまうことで、大物ぶりを体現する。手打ち式の有馬温泉でジングルベルがかかっているのがいい。例によって松方暴走の巻であるものの、やってることはすごいのに描写はあっさりである。身体検査を静かに強いる成田三樹夫の貫録や叛乱を知らされた小林旭のすごい形相といった、松方の生きざまを目撃した人々の挙動がむしろ盛り上げてくれる。
アンヌ・ヴィアゼムスキーのげっ歯類のような口の作りが何ともいいのだ。あの朴訥さが厭味ったらしいインテリジェンスを打ち消していて何の揶揄もなしに中二病の観察という距離感の体裁を整えている。内容よりも真面目さという現象の方を評価するように促され、彼らのことを嫌いになれないのである。
邦題も原題もミスリーディングで格闘アクション映画である。ただ受け手はそうじゃないと思って見るから頭を切り替えるまで、あまりの古色蒼然さに混乱を覚える。質感だけは90年代半ばなのだからますますわけがわからない。
演出がコッポラでシャーリー・ナイトがジェームズ・カーンをヒッチハイクで拾いそれらをビル・バトラーのニューシネマ全開の撮影が統括。回顧的な意味でジャンル横断も甚だしく、しかもロードムービーなのに謝肉祭へいくぜ的な目的がシャーリーに設定されておらず、カーンのトラブルに対処療法的な挙動を強いられるという、ゴッドファーザーの前兆現象というべき先の見えなさなのである。
自分のメス性に自分が飲まれてしまう女を叙述することでメス性の全能感に対して報復しようとするマッチョな世界観が時にアリシア・シルヴァーストーンに貫禄をももたらしている。自分が間違った場所に生まれ落ちたというサイコパスのダンディズムである。
これは戦争映画ではないのではないか。戦争映画にしてはキャラが立ち過ぎで、ジョン・ウェインに造形に隙があるから、この時代の文法の解像度で叙述した青春群像劇のように見える。
チン・シウトンがレスリーを撮るとみごとに色香が剥落して、子どものようになってしまう。質感に浸潤がないのである。それでいて、この性に乾いた感じがジョイ・ウォンの色気にかからないというアイデアになってメス性の超克になるのだからえらい。
みなが小林正樹の旧劇よりの怪異な芝居をやっている中、三船だけがダイコンだから能天気に新劇の芝居で通常運転である。ところが、この通常運転のまま実に迷惑というかマイペースというか、気の違ったことを真顔のままやり始めるので、よほど気が違って見えるという仕組みなのである。
まだ東宝の60年代前半の技術力が残存している一方で、芝居は後年のヒューマンコメディであり、60年代の人間が未来を予見してリメイクを作ったような倒錯を覚える。キャラの飄々さを展示するばかりで話が前に進まないところも後年のそれ。
伊藤雄之助が首謀で大丈夫かと不安におののきつつ、三船のプロモーションムービーがオープニングクレジットで始まる前衛。それで本編に戻ると三船の台詞が始まり、岡本の都会的センスが一気に田舎じみてくるも、いつもの雄之助の地が所々で出てくるから油断できない。アクションの軽躁にカット割りとレイアウトで物事を構成することのよろこびと限界が見える。
会話の重い内容にも構わず茶室の場面で鹿おどしがポンポンと鳴るのである。演出の統制が及んでいない。テレビドラマの質感なので映画というシステムの構築にも失敗している。中井貴一はキャラの属性に合わない芝居をしていて、そのように原作を解釈したのかと新鮮だった。
珍作である。話法も内容も帰結も完璧にニューシネマなのに、この現象を画面に定着させている撮影技術が60年代なのである。ロケはともかくとして、室内ではヒッピーがスタジオ撮影の質感で描画されているから無声映画に携帯電話が出てくるような気持ちの悪さがある。
ジェイソン・ロバーズが幼児性を装うのは無理している感じがある。ペキンパーが喜劇をやると品のあるレオーニになってしまって、それもぎこちない。ただジェイソンの幼児性に付き合ってあげるステラ・スティーヴンスが徳高いのだと思う。沐浴させるところで離れぎわに頭なでるとか。ああいう挙動がいい。
美術に物量があって貧乏くさい感じがまるでしないのである。質屋の懸吊された自転車の列。保管されたシーツの天井に届くほどの山。役所の後背の大量の書類。これらはカフカ的というかオーソン的な秩序で配列されている。雑踏も往来が激しく、自転車が死活問題となるような貧困が埋没している。
ハーレイはうれしがっている容貌がジュリエッタ・マシーナに似ているんだよ。ウィリスは中顔面が長い。ウィリスという属性が根源的に持っているブルーワーカー性をあの中顔面が暴かないかどうか緊張を強いられる。
納得がいかない。話は哀川翔の報復の物語に帰着したのであって、不幸の強度は竹内力をはるかに上回ると想定されるのに、戦闘力のSF的発揮の段階になると竹内がメインになってしまって、その超常さに哀川が唖然としてしまう。この視点転換が気に食わない。ふたりを両立させ得た点で次作の逃亡者の方を好ましく思う。
舞台設定はアクションのお膳立てであって、特に思索があるわけでもない。映画館を出たらみんなブルース・リーになっているという現象に、能力がその発揮を要求するという倫理的で崇高な気持ちを付託できたことが、この話の差別化できた部分だと思う。
基礎体力が高い。藤澤順一の撮影で映画の質感になっている。橋本麗香のステージ場面からもまともな稽古量を想像できる。しかし構成に気に食わないところもある。冒頭の写真撮影にやたらと被災者のカットを挿入したり、ステージのシーンでも浅野忠信の仏頂顔を入れたりと、作品内の状況を作品内で批評して現行邦画ではきわめて貴重なこの乾いた設定を一気にATG的な田舎臭さを横溢させてしまう。批評は受け手に任せるべきだと思う。
内紛を起こして社会小説化しようとするのは、この場合邪念になっていると思う。長いと10分間くらい対話をやっていて、舞台劇を見てるような気になる。こういう造作な感じは広葉樹林の向こうにすぐ人里があるような気にさせる。人の痕跡が安心になってしまう。
最初の笑いの関門である浅野忠信が堂々と誘う場面は、現代とのセクシャリティの違いでコントを成立させている。これがトミーズ雅と松田龍平の絡みになるとおかしなことになる。この場面ではトミーズ雅の衆道観が現代のそれと一致していて、同調していることがコントを成立させる前提となっている。雅の新劇調の芝居も手伝って、楽しいことは楽しいのだが、メタ化あるいは内輪化の危機に陥りそうになる。いずれにせよこの時期の邦画ではきわめて珍しい映画のまともな質感が、龍平の妖艶に現実性を与え、無駄に格調高くすることでコントを増幅させている。
誤用なのだが、構築主義ないし反記録映画なのではないか。桃井の空想造形は言うまでもないし、これが同じく構成的属性の伊丹十三と絡むとキューブリックとかオーソンとか、そいう無機構築物に放り込んだ方が本当ではないかという気がする。この乾いた感じが80年代寸前の邦画の質感で叙述されているうれしい困惑がある。
水谷豊の怪異な体形がおもしろいのである。巨大な頭部を載せた痩身が不安定で、あれが駆け回る非現実な遠景はバスター・キートンのような喜劇となる。膨れ上がった頭部も原田美枝子の躰をまさぐると独立した怪奇生命体に見える。
ノートンと対話をやってしまうと、ブラピがジャンル俳優であることが瞭然となってしまう。ブラピが何か言うたびに、こんなダイコンにどうして男色的な羨望が引き起こされるのか疑問が生じて文系のみじめさが成立しない。むしろサイコパス・ノートンが爪を隠しているように見える。実際その通りなのだが。
ドキュメンタリズムとレイアウト主義の使い分けが演出意図ではなく技術的課題の反映に見えかねない。動線の整理がなされておらず、文法の差異をつなぐものがない。レイアウト主義に依存せずにカットを割って構成を始めるとジャンルムービーになる。これらは演出の不在を予感させる。
恣意的に状態を変えることができる。あるいは、あの状態で機能的な動作ができるのは演技の信憑感を損なう。しかし敢えて恣意性を暴露させる意味が見えてこない。恣意は物語という秩序を構成するための代償だったはずだ。ところが話はまるで進展しないから、素面のまま滞留するという極めて月並みな事態が全編を覆う。
真行寺君枝の棒読みがいい。この形式主義は人間をみな朴訥な造形にして安心できる。自己愛の発露に怯える心配がまるでなく事態は客観化され、あのイヤらしい原作のガジェット趣味が後味の好い小林薫の旅番組となっている。
ジョニー・トー世界がまだ閉じきっていなくて、バーのマスター(元彬)によってその世界が観測されている。この客観視が、ジョニー・トーの外縁にいる人々の心情へ接近することも可能にしている。最後はボスのフォン・ピンの視点になっていて、亡霊に怯えた彼が不条理なトー世界に飲み込まれることで綺麗に物語が閉塞している。
インクワイラーの最初の新聞が出る所でずっと長回しだったのがオーソンとジョゼフ・コットンの対話になって二人のバストになる。大写しになったオーソンは色香のあるマシュマロ状で、それがジョゼフに微笑むのだからすわ男色かと色めき立つ。次のパーティーのところでは、例のダンスの長回しの最中にアップショットの挿入がある。ジョゼフの接写でその後背にバーンステインのバストという暑苦しさである。このふたりの顔面が歌に合わせて玩具のように震える...と長回しとアップショットの媒介に苦労があって、突出した意味合いが付着してしまった接写カットが映画の水準を時代相応に引き戻す感じがする。
ジャネット・リーの途中降板は決まっている。それを知っている語り手は、資源の節約のために、ジャネットの心理に接近したくない。あるいは接近しているように見せて実は避けている。彼女は横領に何の葛藤ももたないのであり、それが受け手には悪女ものとして現れる。人格のズレがすでに別の個体で最初から出現しているのだ。
なぜこんなメンタリティの人物がこんなことをやっているのかわからないでいると、木村佳乃当人が自分はなぜこれをやるのかわからないと言い出すのである。筋が統制されているというよりも、方々で勃発する社会小説への衝動に翻弄された木村佳乃のフラフラな軌道が筋となって立ち現れていると解釈するしかない。被災者とボランティアが内紛する後背で老人の南方ボケがフラッシュバックする錯綜具合なのである。
鶴田法男の俗謡調は麻生久美子に機能的色彩をたいへん愛らしく与えている一方で仲間由紀恵を扱いかねているように見える。線が細い割りに意外と頑丈という造形の違和感に付きまとわれる。セットも60年代後半にはまるで見えず、小道具が事あるごとに時代背景を自己主張する。
本来、華美に挙動するはずがない巨躯がヌルヌルと動く不自然がサモハン的で、ステージ状のような舞台の上でそれが作動する様を遠景でたっぷりと見せるから余計に不安を覚えるのである。サモハンの場合自嘲があって何の問題もないが、スナイプスの場合、自己愛のあるサモハンだからつらい。
最初の方でハートブレイク・リッジのイーストウッド軍曹のような、この若者どもを叩き直せな感情になってしまって、それを後々まで引きずり、ヒンメルストスの扱いが不当に思えた。若者に感情を寄せすぎているというよりも、庶民嫌悪があるように見える。戦闘場面は30年後の史上最大の作戦よりもはるかにプライベートライアン調の記録映画タッチで、オーパーツのような気味の悪さがある。