映画感想 [001-100]
狂人が狂ったことをしでかして失敗するさまを観察しても、当たり前すぎて、受け手への感化は期待できないように見える。一方で、狂人の蛮性が、ヴェラ・リンの歌声に乗って、自棄糞ながらも逞しい人間賛歌に至ってしまうところには好感を持てた。たとえそれが誤解だとしても。
漆黒の青春だったから最後の無人の町並みには癒しを覚えたのであるが、それだけではなくて、演出という営みがやはり奏功したのだろう。不在がそれゆえにかつて何事かが繁栄したことをかえって実感させてくれるようだ。
OASのオッサンをローマで誘拐する場面が、カットは割らず劇伴なし・環境音だけのロングでばこ〜んと鈍器で殴る禁欲さ。今日ではミニシアターでしかお目にかかれないオサレ文法である。
不幸を売り物にしたくない明るさには、売り物にしたら不幸の実効性に欠いてしまうという邪念の計算がある。しかし「許そう忘れない」でついに邪念が顕現してしまうと、やっと本音が出た的な感動もある。
ガンアクションの挙動は当時のタランティーノ文脈下で、質感はテレビドラマに近い。フレーミングとカット割りは50年代か60年代のジャンルムービーかという代物で、水面下にはこの類が死屍累々なのだなと感じ入った。
淘汰によって残ったキャラクターだからみな似たような形質となる。砂漠映画であって色彩にも乏しい。物事が平準化した、正気を失いそうな気怠さの中で会話が滞留し続ける。
結末が自明なので楽しめるかと思ったら意外や意外、高熱で凍えるビル・パクストンを体で暖めるハンクスに心躍ったのである。メカアクションとは相容れないはずの肉体の近しさを密室劇が語り得たである。
このダグラスにはハイモラルな人に特有の不憫さがよく出ているため応援したくなる。一方でフィンチャーという演出家とダグラスというキャスティングの組み合わせには、どうみても悲劇的結末の予感しかない。これらのことが全編に渡って緊張を持続させるのだが、オチは直球である。
ウォーレン・オーツの年齢や不幸の度合いが微妙に見えるのである。エリータの存在が造形の不幸を緩和していて、現状打破の行動の動機を弱めている。計画の結果やっとどん底に落ちる具合であって因果が整理されていないから、最後はオッサンの超人化になってしまう。しかし終わってみると、死に場所探しだったという総括がペキンパーらしい感傷をもたらす。
ワイヤーアクションの武侠物がクリストファー・ドイルフィルターの統制下に90年代カーウァイ世界と破綻なく統合されていて、この感動というか笑いが最後まで貫徹されるのだからえらい。カーウァイ組のレスリーがまともだという配役的不気味も緊張に資している。
フェイ・ウォンに理由なくストーカーされるとなると邪念になってしまうから、奇人に追われるという体裁になっているのだが、そうなると奇人に追われるトニーが気の毒に見えるのである。ブリジット・リンのパートも香港人の人種観や言語コンプレックスが出ていて苦手である。
これが日本人の場合だと南方で餓死という結末になるわけで、ラストで猛烈にドン引きしつつも、彼我の敗戦観の違いについて興味深く思った。
97年というのは夏エヴァが公開された年で、わたしはそれを20回ほど劇場で見たのだが、そのたびに本作の予告が流れていて、いまでもその予告を見るとあのときの気分がよみがえる...と思ってYoutubeで見返したところ、何の感慨もわかなかった。当時の感想には「ブルース・ウィリス、オチで火に油を注ぐ」とある。
変則的な反戦性ばかりでなく、やはり体育会系賛歌の衝動も否定しようにないと思う。それがなければ随分とイヤミな話になったろう。劇場で笑っていたのはわたし一人だった。そもそも客が少なかった。
ダウナー系の人間の動きが緩慢なため、これを被写体にすると微細な生活感に付きまとわれてしまい、アートシアター系のオサレ文法と相容れなくなる。荒廃をオサレに表現しようと無理をしている感じが特に色彩感覚に迷いとして出ていると思う。だからベタベタ人情活劇なオチは浄化である。
上映開始前に館内でリピートされる主題歌がつらくて仕方がなく、新宿東映パラスの春は遠かった。声優のアドリブ芸を楽しもうにも30分しかない。しかも、アドリブが鼻についてきて、腹立ちまぎれに、こいつらの狂騒は原作の本質の何事かをわれわれから遠ざけているのではないかと疑惑すら抱き始めたのだが、そんなことは何もないだろう。
恵比寿ガーデンプレスのオサレ雰囲気の中、どれどれどんなオサレ映画かと着座したわたしを迎えたのは、お上りさんのように集中力を欠いた挙動で延々とロンドン観光を続けるカーライルのバタ臭い八の字眉の泣き顔であった。
気づけばビリー・ゼインに父性的眼差しを注ぐ自分がいるのである。そんなあからさまにジャックに嫉妬せず、もっと大様に構えておれば、ローズも自然と惹かれよう。しかしそれだと話が発起しないか。と思いつつ執事デビッド・ワーナーの生きざまに想いを馳せるのである。
英雄片のつもりで見てしまって、日本の興行側も半ばそのつもりで売っていたと思うが、蓋を開けてみると文芸寄りな話で肩透かしなのである。で、それはそれで仕方なく見ていると、最後にユンファがやっぱり爆死したりして、ジャンル的に一体これは何なのか当惑した。
80年代半ば過ぎの、典型的な英雄片にしては荒すぎる作りで、おかしいなと思ったら80年代初頭公開だったというオチだった。
堅気のレオン・カーファイがユンファを安易に兄貴呼ばわりする件とか、彼の造形のブレを激しくしてしまうほど、語り手の価値観が取り散らかっている。それがこの話のエンタメ性をほとんど毀損しないのが不可思議だ。
塹壕を進んでゆく主観ショットに時折カーク・ダクラスの正面が挿入されるように基本的に彼のPVなのだが、PVのくせに役に立たないから腹が立つのである。後に見返すと、望遠で突撃を撮影したりと、この段階ですでに戦争ジャンル映画にドキュメンタリズムが導入されていることに新鮮さを覚えた。
記録映画志向が冒頭のふたりの部屋の美術を詳細にしている。この背景と奥行きを利用した構造を収めるためにレンズは広角になって、それでカメラが部屋を歩き回る人物を追い続けるから、キューブリックらしい滞空感がすでに出てくる。内容は普通のジャンル映画である。
のちのキューブリック映画の女性の描かれなさや扱い、あるいは『A.I.』を見ると女性嫌悪を思わせられる。この話ではオッサンらが全滅することでそれは中和されてはいるのだが。
オッサン二人が隠れ家でビスケットを食って愚痴をこぼすのが最大の見せ場なのである。準リアルタイム進行のために独居オッサンの生態観察になっている。パジャマを着て歯磨きして寝床を用意するオッサンの動作を一々激写する。ジャン・ギャバンの住まいは隠れ家も含めて整頓され過ぎていて、それがまた哀しい。
リメイクの『英雄正伝』をティ・ロンが濃厚にやってしまっているから、後から見たオリジナルは淡泊に感ぜられてしまった。『英雄正伝』は当時の英雄片の水準通りの出来なのだが、最後のアレの直前で湧き上がる「ティ・ロンがアレをやるぞ」という伝統芸能的高揚だけは突出していた。
『広島死闘篇』の大友革命以前の千葉真一であって、60年代の風というか、ごく常識の範囲内で暴力が稼働している。
田中邦衛が命を賭した豚小屋の向こうに、松方と北大路が暑苦しく自由の大地を見出すのだが、自分で書いてて全くよくわからない。
牧口のロマンティシズムが遺憾なく発揮されていて、当時の東映実録とはまるで違う文法となっている。論理的に整理された話が最後には松方を暑苦しくゾンビ化させて館内を爆笑の渦に叩き込むのも、いつもの芸風である。大好きな作品だ。
情報量のなさを描画の重さで代替した結果、モルヒネの多幸感が随分と濃密かつ空想科学的になって、実録ものとサイケデリック(?)の珍しい邂逅を見ることができる。
佐藤純彌の集中力の欠如が、期せずして、話をジャンルの越境に至らしめている。極道ものがスプラッタ・ホラームービーとして表現される様は、後の三池崇史を連想させるものだが、三池の自覚性が時としてイヤらしくなるのに対して、佐藤は天然のまま越境しただけだから、文字通り理解不能である。
最初レンタルで観て何か肉片が飛んでるな〜と思ったものが、後年、劇場で見てみるとキッチンの首級だと判明して座席からずり落ちそうになった。学生のころは発動編の方が気に入っていた。ところが後年になって見返してみると、接触編の方に感心してしまった。発動編は投げやりなところが気になってしまった。
奇抜な外貌の割には論理的な話で、謎の設定はちゃんとあるし、何を以て受け手の感情をキャラに向けるか明確な意識があるようにも思える。
わたしはこれは駄目だった。笑いの獲得に性急すぎて、鼻白んでしまった。
『毛の生えた拳銃』『裏切りの季節』とともに、ボックス東中野の特集で観ている。おそらく1999年2月あたり。星の温和な造形がいいのだと思う。背中を掻いてくれとか。話が本筋からズレてゆくのだが、そのずれ方に程よい切実さがあってアングラ臭くならない。焼肉、釣竿、カメラ、ラジオ体操等々、ガジェットの使い方にも気品がある。
若さに対する好意的見解をセクシャリティに委託させる工夫が、この見解をかくあるものとして受容させやすくしている。牧歌的で開放的なアクションも嫌味になっていない。かかる見解を抱き得た二人の徳をそれが表象するからだ。
いつおふざけが始まるのか構え続けていると、そのまま真面目に終わってしまって、かえって不気味な印象を受けた。
デ・パルマのポエジーにシナリオが追い付かないことがある。たとえば『愛のメモリー』、『スネーク・アイズ』、『ミッション・トゥ・マーズ』のラストで、こんな感傷的な話だったのかと私たちは驚いてしまう。本作は中身がエレジーな文法にもっとも追いついた話で、ここまで過激にやらねば追いつかなかったのかという感動を覚える。
モノクロで撮っているのだが、人の心理を表現するための間尺がモノクロ映画全盛のときのそれとはまるで違う感覚で取られているため、時代的な無国籍というか、いつの時代かわからない拠り所のなさがある。50年代初頭にはもちろん見えない。
画面的に劇映画を構成しようとしている箇所でデニスの手癖が差異化してしまうというか、この人には何かを観察してる人のその容態を観察する癖があるのだが、つらい状況の絵になると、つらい顔をしているデニスのバストになってさらに額の汗をぬぐうという説明の重ねようで、つまりこれはくどいのではないか。
熟女と小娘の対比が性的なそれだけにとどまらず、能力の対比に還元されると、そもそも逆セクハラという状況もあって、男の課題の深刻さに乗れなくなってしまう。
『汚れた顔の天使』を観たときと同じパターンになってしまうのだが、先にリメイクの『人民英雄』を観てしまって、しかもこれが傑作なものだから、インパクトが欠けてしまった。ただリメイクの前者が密室劇を通したのに対して、こちらはニューシネマだから銀行物の割には世間と接続していて、随分と風通しの良い話に見えた。
戦争アクションの文法に革命を起こしたにもかかわらず、この無残な邦題からも明らかのように、あくまでペキンパーの作家性の産物だと解釈され、この文法がジャンル的に受容されたとは言い難い。結果、プライベート・ライアンがこれを継承して、ジャンル的波及を起こすまでに20年かかってしまった。
狂人の自滅ロード・ムービーで不可解なのだが、普通に生きれなかったという感慨が謎の感動をもたらしているように思う。
この面白さには不安がある。千葉繁のアイドル映画ともいうべき本作はアイドル映画ゆえに、彼と玄田哲章の徳に笑いを依存しているように見える。もしアニメ文脈から外れた受け手が観察したとしたら、この面白さは残存できるのだろうか。かかる不安感はパトレイバー2が日本の政治事情に詳らかではない受け手に通じるかどうか、という問題に通じるものがある。鈴木清順は知らなくとも楽しめると思う。
渋谷を火の海にしたり前田愛をぬるぬるにしたりと、乾湿両面でハッスルが感ぜられた。樋口真嗣のその後のフィルモグラフィーは、樋口と金子修介の性欲の差を回顧的に照射することになる。
勝ち戦でメソメソする心証を説得的に叙述できていない。ゆえに日本語圏民としては、自慰のオカズにされたような居心地の悪さがある。
母性というには年増すぎるというか、ジーナ・ローランズの曰く言い難き微熟女な容貌や戦力組成が状況を定義しづらくしていて、話にどう没入すればよいのかよくわからない感じがした。
このドキュメンタリズムはダニー・リー警察映画の亜種とみてよく、言われるほど新鮮な感じはしない。中身はベタベタの忠孝思想になってしまって困惑した。
ぼーっとした女の魔性が裏日本の吸い込まれるような寂寥に曝されているうちに、話が武藤洋子のアイドル映画に化けるのである。
当時の香港映画からは浮いた作風で、冒頭に30秒のフィックスがあったりと、カメラワークはそうでもないけど間のとり方と演技の仕方の文法がややロマンティシズよりである。少し違うことをやるぞという主張が特に出だしに感ぜられる。
教育の効能によって階級上昇のエンタメが始まるのはよいとして、これが教育の効能によってモテはじめるとなると、文系の邪念ではないかと不安になるのである。
ファンにはチーホンが悪役にしか見えないところが悲しくもうれしい。追いかけっこが唐突にスプラッタで終わってしまったりと、後のジョニー・トゥを思わせるところもあり、お宝度は高めである。
社会小説というか社会病理への通俗的な関心を装いながら、後継者問題とか殺人マシーンをどう訓化して制御するかなど、エンタメ志向を外さない作りで好感が持てた。
冒頭の場面が典型的な作劇で爆発の動機を執拗に設定する。しかし、サイコパス属性がそもそも冒頭のような退屈に至るのだろうか。かかる理屈で見てしまうとサイコパスの顕現に唐突な印象が出てくる。だからこそ、冒頭で執拗に日常を構成せねばならなかったと解せる。シシー・スペイセクの構成的な内語も手伝って、理念優先の作り事のように見える。理解できないものを理解するためにはキャラを俗化するほかないが、俗性を嫌悪するがゆえにそれを粉飾して、よけいに俗っぽくなっていると思う。
家族再生現代邦画のようなひどく感傷的な話なのである。抑圧することでかえって感傷は爆発しているのだから、感傷をどう出すかはすでに問題ではなく、このベタベタ活劇がイヤらしくならないためにはどうすればよいかが課題なのである。この映画の美徳は、グレイタイプのエイリアン化するリー・カンシェンといったキャラクターの徳を構成する力にある。
これの翻案といってよい『未来世紀ブラジル』と比較すればよくわかる。美術自体の規模と質感は比べるべくもない。しかし様式が混在してしまっていて、話の底流にある世界観が見えてこない。インパクト優先の見世物的な作りに徹していて、美術が屹立して何かすごいことが展開するたびに、それがあまりにも認知できてしまうため、語り手のドヤ顔がオーヴァーラップしてしまう。
ジュリエット・ビノシュの体格が逞しくて、これならば路上世活も耐えられるか、という気分になってくる。キャメロンがこの映画を好む理由も理解されよう。少女マンガというよりはむしろ、あの肉体によって成立した空想科学的な状況とそれの呼応する奇抜な挙動を観測する話になっている。当時の感想メモには「カップルはしねや」という殴り書きが残されている。
レスリーの魔性の解放ぶりがそれを嫌がるトニーの演技(ではなく本当に嫌がっている)によって明快になっていて笑う。このキャスティングの安心感と風格は、男はつらいよ以外の70年代山田洋次映画のそれに通ずるものがある。
親に棄てられた、つまり孤立の絶頂に一度達したら、肉体的には回復をしても感情的には取り返しがつかない。鬼畜な結末が鬼畜ゆえに感傷的になる所以である。この感覚は博士の異常な愛情の最後を回顧的に照射している。また棄民の悲哀はAIに拡大投影されることになる。『雨に唄えば』ファンの同僚は大嫌いらしい。
狂人というよりも善性に誘導されることへの照れがあるように思える。照れが母性を誘発するのではないかという自惚れの期待とそれへの反発をない交ぜにしてキャラクターの意図を混沌とさせつつも、照れの持つ客観性はこの邪念を見世物にすることを可能にもしている。
Modern Love の横移動の最後で劇伴が終わって疾走が止まる。すると我に返った人物が、今度は家路を急ぎ始めて下手にフレームアウトする。この段取りがせこい。空想科学なのに概して小市民的なのである。結末には懲罰的な爽快を覚えた。
ティム・ロビンスが潜在的に掻き立てる成功者への憎悪が、モーガン・フリーマンと彼が対比される段に至ると、世代間の憎悪というか若さという軽薄さへの不快に変わるような気がする。ティムがモーガンを教導する結末に乗れなくなってしまうのである。
まさかこの題材をオカズにナルシシズムを発露させているとは思わないから、感動できてしまうのである。
漫画原作の痛々しさやコスプレ感が、文脈が分からないゆえに伝わってきてしまう。その軽薄さや内輪ネタな感じがつらい。
医療従事者の宿命的な傍観者性をフィルターにして批判的に軍隊を観察する企図が、医療従事者に共通する生命観とその生態をむしろ浮き彫りにするので、反戦映画という感じはしない。法医学関係者の生態を追った森谷司郎の『首』に近いのではないか。後者もブラックコメディである。
シーンの初めの車輛進行やオースン・ウェルズのような大クレーンショットに毎回ギョッとするのだが、このドキュメンタリズムと日常芝居のカットが松林宗恵の特撮映画のように離断していて、70年代直前の風を感じる。
自分の言葉を持たず他人の言葉を伝えるしか芸のないのが映写技師という属性だとすれば、 自分を表現するには他人の言葉を以てやるしかない。この価値観が逆転して、受け手の人生を表現するための受け皿となる素材提供者としての業界人像が出てくる。これは業界人のオナニーでありながらも、それを克服する試みでもあるだろう。
アンソニー・クインに感傷を投影しやすいというのは、ジュリエッタのミニラ顔に覚えるわれわれの嗜虐心の賜物であるような気がする。
フライシャーと舛田利雄というまるで違う演技の文法で分断された物語を統合すべく奏されるゴールドスミスのオリエンタルな劇伴で、ますます混乱の坩堝に。
美術や衣裳にピープロというか非円谷特撮を思い起こしてしまって、その連想から同人の即売会場を初心者が彷徨う感覚がトレースされた。
スペイシーの髪型とラッセルの垂れ目とガイ・ピアースのナード然とした骨格のピラニア軍団風味なキャスティングの2軍感はなんであろうか。50年代に見せようとオープニングタイトルが取り繕うにもかかわらず、時代感は彼らがフレームに入った途端に喪失し、日活無国籍アクション化。
ロケのドキュメンタリズムとセット撮影の混在振りと撮影と美術の水準が鈴木則文的というかトラック野郎に似ていて、バイカー軍団が室内で騒ぐ場面になるとものすごい郷愁に襲われる。
ジャンル横断的に構成されていて、中隊の記録係が登場するように最初は日記文学であり、髭剃りに至る過程に膨大な尺を費やしたりする。これが後半になると恐怖映画指向のディザスター物になる。娯楽映画ではないが良くも悪くもジャンル的な俗っぽさが出てくるのはワイダらしいというべきか。
最後の狂騒を観測する人物のショットが挿入される構成が効いている。その観測者は微笑を湛えながらも、自分が場違いと感じていて居心地が少し悪そうな様子である。帰る場所があるのにそこにはもう戻れない。当事者ではないからあの狂騒には決して入れない。その心理を表現できるのである。
アン・ホイのドキュメンタリー寄りの画面に後のジャンル俳優のユンファが自然に溶け込んでいるのが驚きと衝撃で、演出家と役者の実力が再照射されるのである。代わりに、話には浄化が皆無である。
日本の戦記物でよく想定される美化された海軍の士官像とは全然違う。三船は癇癪持ち英語を全く解さない。これが新鮮なのである。また野蛮人なのに浜辺に枯山水を描いてオリエンタル神秘イメージを展開したりと、造形の奥深い混濁が奥深い。
60年代戦争大作が扱うような物量をニューシネマ以降の文体で撮っていて、そこに感動を覚えるのである。どうなるかというと大物量のただ中に放り込まれ視界が効かないのである。
後に『道化師』で再現されるような、狂騒の中に出現する場違いなのにかわいいという異化作用をここでもたらしているのは、確たる人格性を帯びたダークスーツとウェリントンだと思う。場所はどんどん変わってゆくのだが、マストロヤンニの衣装はほとんどかわらないから、形式が人格を担ってしまう。
これがフレンチ・コネクションと同じ年に撮られたとは信じられないくらい古色蒼然とした照明と構図である。ただ時折ホーラー映画のような違和感のあるカットが挟まって何かが違う気がしてくる。この内容を60年代の文法で撮ってみたところ、期せずして恐怖映画のそれに似てしまったのか。
クロフォードが表情の操作に不都合のある肉厚な赤ん坊のように常にムッツリしていて、 異性との絡みでこれがすごく気まずくなる。『グラン・プリ』でジェームズ・ガーナーに絡むときの三船の気まずさと似たものを感じる。
トンシンはアニタの伯父役のポール・シンに前作の『人民英雄』で極悪人をやらせていて、ラウ・チンワンもそのオッサン臭い外貌がこの綺麗な難病物を奥深くしているのだが、ジョニー・トーが爆発してしまった今日ではトー組常連のチンワンにも色眼鏡がかからざるを得ず、このキャスティングは実に不穏なのである。
同ジャンルのアンダーカバー・ブラザーと比較すると、オースティンには前者の世界観の底流にある民族の哀切がまるでないため、異邦人であるという課題はイーブル側に託されている。語り手も、弱者いじめに見えかねないような暗い影に自覚的らしく、時折それに対する自己言及が作中で行われる。
ここまで顔芸がキマッてしまうと、顔の力で誤魔化されたんじゃないかと、ニコルズのその後のフィルモグラフィを併せて考えると、かかる疑念にとらわれるのである。
藤原弘の外套姿の野暮ったさが、私服警察官の徳のようなものを表現していて、キャラの立て方がうまかったと思うのだ。ただ皇家師姐なので、後半は影が薄くなってしまって、日本人観客としてはもったいなく思ったのである。
かくありたいものに自分がなっていたという再帰的な感じがする話で、当人には自覚がない点が垢抜けている。またかくありたい状態が他人に感化を与えうるような童話めいた社会性もある。
徹夜明けで劇場に足を運び、『菊次郎の夏』と梯子してとうぜん爆沈したのだが、睡魔をこらえて映画を見るというのは苦痛きわまりない。この苦悶が劇中のオッサンのステイタスとリンクして、話の筋はまるで追えないものの追体験だけ行われるという不思議な事態になったのである。
けっきょく、郷^治の凶行をPTSDで解釈する標準的な展開なのだが、それをわずか写真二、三枚のインサートで済ますあたりに気品がある。
この映画の美徳はアクションと日常場面との間に文法的亀裂が生じないことである。日常場面の美術もエレベーターから管制室に至るまでガジェットに富んでいて濃密であり、図鑑的楽しさがある。
不安定なのである。笠原和夫語としか言いようのないあの仮想方言はスピードによって現実感が担保されていたのだが、この青春映画は実録路線とはまるで違う文法で撮られていて、笠原和夫語がそのカットの長さに耐え切れず、虚構性を露曝させてしまうのである。殊に原田美枝子関連シーンではこれが顕著になって気まずくて仕方がない。ショーケンの特別出演場面に至っては、どんな文法で演技すればいいのか不明なあまり、たいへんなことになっている。
興味深い思考である。タイトルからわかるように猟奇性に自覚的なのだが、自覚したら猟奇ではなくなるので、ここで表現されている猟奇は猟奇の形をした別物なのである。事態を生真面目に解釈していて、猟奇の成立に不可欠なヒューモアがない。
殺し屋のジャッキー・チュンが惚れた女にストーキングして、女もジャッキー・チュンに惚れてしまう。この人の本質はアイドルではなく性格俳優にあるので、そのアイドル性を当てにして主役にするとたちまち不条理劇になる。
作家タイプは職業監督を兼ねれないが、その逆は然りというジャンル作家の意気地である。俺が本気を出したなら、アートシアターなオサレ文法でアクションを撮ることなど朝飯前という気合である。それが本編の人情活劇と融和している。
デ・ニーロが外道すぎて、人類の幸福のために速やかに始末されるべきなのだが、この願望をカイテルが妨害する形になるのだからむしろ彼の方に憎悪が転移して、イライラが募るのである。役者の格の差が出てしまっているのかもしれない。翻案のカーウァイの『いますぐ抱きしめたい』の方には、このイライラがまるでない。
今日では内省的なウィリスなど普通にみられるものだが、この時期ではまだ珍しかったのだと思う。どうして彼をこんな配役にしたのか、違和感を最後まで克服できなかった。
民族的な感情が新人とベテランの構図へと普遍化されるので、結末の印象はさわやかだ。技術への共感が感情を超える一種の理系信奉にも見える。狙撃手映画らしいというべきだろう。
同じ題材なら『青島要塞爆撃命令』('63)の方がよくできていて、当時の邦画の技術力について色々考えさせられた。
何かを構築してやろうという作為が俯瞰の一種である以上、斜に構えてしまうのは自然だ。語られているのは、斜に構えたまま、あるいはそうであるからこそ、感傷的になってしまう事態なのだ。
おそろしいのはシェリー・デュヴァルの顔貌の方で、いわば自然がジャックの作為を圧倒してしまう。その哀れは、キューブリックという作為の塊自体にも波及するようにも見えて、時空がエレジーに交錯したあのエンディングに諸々の哀感が結実していると思う。
狂気と倦怠感が互換する疲弊といえばそれまでなのかもしれないが、冒頭と終幕のボンヤリ感が副鼻腔炎的というか、蓄膿症の人が醸すヒューモラスな徳のようなものが感ぜられてしまった。