映画感想 [401-500]
藤田敏八のバランス感覚は風俗描写も手伝ってクローネンバーグの文芸物の登場人物のような徳を彼にもたらしている。これに好意を持ったわれわれは地味なようでいて実は最大の攪乱要因たる大楠道代の挙動が不穏でたまらなくなる。藤田の中庸的造形はグルメ番組としての本作の価値も高らしめている。むしろそっちが本筋ではないかと最近思うようになった。
ロバート・ショウが撫でまわすM47の模型はフォンダの顎の暗喩である。謎の官能を奥ゆかしく感知したその顎は、この上なく延展して主人を軍服集団に埋没させるどころか、微温的な官能を周辺に伝播させて、人々の死にざまを緩やかにする。
マギー・チャンの天然逆セクハラ的な肉体言語が密室劇を閉塞させるので、旦那が逃げ出すのも何となくわかるかも。マギーの肉体の圧迫に軋みを上げ、搾り出されたポマードの脂でオス顔を強制されたトニーには下品なタイも相まってコスチュームプレイ感が付きまとう。
女のナルシシズムは可能なのか、という恍惚とする黒木瞳の投げかける難題に対する答えとは。それは根津甚八の襟のしわであり、水野美紀の背後にたたずみその演技に苦渋する柳葉敏郎の顔面なのである。
佐藤浩市のドリフ爆発コスプレの甲斐なく男たちの冒険が夢見がちな松嶋菜々子の齧歯類顔とその家事作業に収斂。媚媚のアニメ声に山田辰夫の非人間的ハスキーヴォイスが独り立ち向かう。
ニューマンが設計者という違和感はブロンソンが設計士というそれに通ずる不穏がある。果たして監獄からの脱走は図られ、本来の属性へ還るべく塔は燃え堕ちるも、煤けたマックイーンが路上生活者然としてきて不思議な緩衝材となりつつ、ホールデンの広漠なメガネがすべてを包摂するのであった。
途中でノワールものにジャンル転換したようでいて、これがまた誤誘導というか新たなるジャンル転換の誘発であって、レティシアが男二人を支配したように見せかけながら、実はロベール・アンリコの邪念爆発のリノ・ヴァンチュラ、オッサンハーレムエンドという複雑な顛末である。アンリコのナルシシズムに直面したアラン・ドロンは死に際に諦念と呆れの微笑を浮かべる。それすら暖かい。
ダイアン・キートンと並ぶとマリエル・ヘミングウェイの異物感がすごいことになる。顔が小便臭い小娘なのに巨体である。作中ではこれがゴージャスと評されるから、価値観のズレに混乱させられる。更に、このマリエルには母性らしき属性が盛り込まれていて事態を複雑にしている。ダイアン・キートンの方はかわゆすぎる平常運転でマリエルと比べると安心感この上ないが、この元夫が曲者で薄毛のさえないオッサンなのにダイアンによると絶倫で魅惑的だという。つまり薄毛性善説へと言説が回収され、冒頭のモノローグのナルシシズムにすべてが回帰するのである。
最後の帰郷で、もはやゾンビになっていいるふたりをめぐって、人々の間で不思議な共感が交わされる。作為に自覚的であることを誇示するどうしようもないイヤらしさの極限なのに、人物への好感が媚態を克服している。どこれほどこの人物たちを気に入ってしまったかわれわれはそこで気づいてしまうのだ。
中盤で戦死した兄の存在を示唆するたった一言が、逼塞して退屈なホームドラマを社会化してしまう解放感がある。この社会小説がさらに普遍化して、最後は皆同じ墓石に格納されるような、みんな会えるというあの感情へ還ってゆく。笠智衆が老人コスしていなくて髪が黒々としている。これが逆に扮装しているように見えてしまう愛嬌もある。
共産圏の軍隊行進のように配列したオブジェと極彩色の気の狂いそうな空間を一気に弛緩させる北竜二の呆然とした顔面の造形力。そうこうするうちに山本富士子の佐分利信くすぐりが始まり、われわれの頬も弛緩するのであった。
オッサンの独身生活の観察であって、ガジェットの密度もそれに呼応している。しかし、アラン・ドロンが挙動が独身オッサンなのに外貌がオッサンに見えず、イカ臭いコスプレ劇の恥辱があふれてしまう。それはそれで歪んだ愉しみかもしれないが、彼の技量に疑いが出てくる。ドロンの若者感がノワールをニューシネマに落としてしまわないか不安に苛まれるのである。
ベンアフの割れ顎がいっぱいに広がる。階級流動性の神話を祝福し抱擁するように。ジミー大西を包摂しえたその徳はまた自分の境遇への自己愛を多分に含んだ哀憐でもある。それは失恋をした男の顔として現出する。
決起将校をサイコパスとしか見ておらず、それらを社会から抹殺するような勧善懲悪の浄化らしきものが現れてくる。もはや追認の儀式でしかない現象を締め切りの忙殺感を絶えず設定することで、いわくありげに見せることに成功している。
女性の性の優越性を強調してしまったら、課題が消えてしまう。しかも性風俗に向かわず、強盗という手段に走るために余計ハリボテになってしまう。課題となるのはむしろ、ハーヴェイ・カイテルの中庸な造形が醸す玉なし感であり、レズビアンに際した男が被ることになる、男であることの如何ともし難さである。
痴性を賛美するために痴性に自意識を見出しては、それはもはや痴性ではなく器用な生き方という処世にすぎないのである。こういう通俗さに反感があると、最後に広場で訳も分からずなぎ倒されてゆく不器用な人々の方に共感を覚える。
貫禄と通俗の間で苦悶するアンソニー・ウォンの中小企業経営者的小物感が未だコメディリリーフと化していないサイモン・ヤムの流し目を不穏化する。仕事ができるラム・シューもファンにはうれしいものの、今から回顧すれば笑いである。ジャスコの射的大会の、イカ臭くなりそうなところを、最後の清掃係の突入で回避する緊張が作品の不穏な綱渡りをよく表している。
ジーン・ヘイゲンの業界からの落伍が技術職の不安という普遍性を訴えてしまうまで映画が技術志向であるから、結末が残虐に見えかねない。『時計仕掛けのオレンジ』の引用は偶発とはいえ的を得ているのである。
アラン・ドロンの三下振りから、世代間憎悪や若者憎悪を誘引されそうになりつつ、ドロンと同じフレームに入ってしまうとギャバンのメタボが増感してしまって、崩れた姿態が痛々しくなる。性懲りもなく相棒のドジで挫折してしまうのもあって、引退しないギャバンの空回りする精力の方に淪落を覚えるのだ。最後は新聞で顔を全部覆えばいいものを、少し覗いて未練を残すから大仰さが貫録ではなくヒューモアになってしまう。
六平直政の行状にはモンテスキューが言及するローマの偉人のような徳高さがあり、かかる尋常でない態度に対応する人々の動向の記録である。これに対比すると、復讐の鬼になる哀川翔は、やはりどこかおかしいながらも、標準Vシネの造形変動の通俗に収斂する気がある。と油断させておいて、「拳銃は捨てなかった」の歓喜に満ちた最後のモノローグでついに本来の属性が解放。直後、あまりにも卑怯な当人作詞作曲歌唱のエンディングテーマが爆発。館内大爆笑必死なのだが、これがサビに入ると、完全にキレてしまったような、人格を喪失したような哀切に達する忙しさなのである。
コスプレ劇である。ジェニファー・ロペスにはこういう欲望が眠っていたのかという恥辱である。それは女権への嫌悪と報復と取れるし、あるいは愛嬌でもある。ただ愛嬌だとしても卑小化の手段とも解せる。ジェニファーが恥辱コスプレをしても物の役に立たない文系然たるものへ集約されるため、後ろ向きな同情になってしまうのである。
生理現象の極限に達しつつある人体にこの遠望映画は生理的接近を許さない。極限の苦痛からの解放が救済となるはずだが、臨床的不快を伝達しようとしない。あるいは、今日では前提とされていない倫理観のために岸部一徳が死神のごとく解放を阻止する。これは恐怖映画である。
宮城まり子との生活を契機とした人生の再建が始まらず零落する一方なのがいらつきで、さらに敗戦で選択の自由が広がった段階でなお他人に人生の責任を託そうとするのだから、渥美清に好感が持てない。しかしこの凶状は、渥美の本来の属性もあるのだろうが、南方帰りほど苛烈ではないにせよ帰還兵の緩慢な心障に言及しているようでもある。
双方ともに同時死滅にはまり込むべく画されるピタゴラスイッチである。それが発動して完結した瞬間はピタゴラスイッチが本質的に含有するヒューモアを露曝させて笑ってしまう。ところが死滅の全容を明らかにすべく遠景に切り替わり、海辺で果てて立ち尽くす人々の活人画に至ると、それは詩性を帯びる。
マイケル・チャップマンの撮影が魅惑的な街路映画にしてしまっていて、SFジャンル映画の絵から程遠い。このリアリズム寄りの生活世界にレナード・ニモイをあの髪型のまま投入させて、かつモジャモジャのサザーランドと激論させて人間の芝居させる異化作用の重奏である。最後はヴェロニカの顔の方がこわい。
怪物のように濃厚なソフィア・ローレンよりもマーシャの方がええだらう。ロシア篇のマストロヤンニも渋いオジサマになっていて、マーシャが堕ちても不思議ではなく、加齢扮装して年齢不詳どころか謎の精力生命体としか言いようがなくなっているソフィアの追跡を如何に振り切るかと、そういう話だと思ったらマストロヤンニにも未練があって。ここで話の価値観がわからなくなる。協議離婚に至るも腑に落ちない。
テリー・サヴァラスの後味の悪さがロバート・ライアンを寄ってたかって虐使したブロンソン共同体というべき社会資本の負の局面を回顧的に照射してしまうので、ブロンソン大陸最高峰の割にリベラルな暗い余韻が去来してしまう。
仕事ができるという徳性を観察したいのであって、その阻害要因に対する憎悪が左幸子の疫病神のようなたたずまいや三國をいびり殺すことで浮上する、高倉健の属性の底流にある冷たさに強意を置かずにはいられないのである。成功者への恨み節という質の悪い庶民賛歌という意味ではピーター・フォークを連想させる。
サイコであることが仕事ができるという属性を表現するための手段となっているから、終盤でサイコの視点になってしまうと、全編に漂う非進学校の閉塞から解放されたような救いを覚える。偽装の刺し合いに至ってはセクシャリティすらある。これが扮装状態だと物腰だけでサイコを表現せねばならないから、戦力が均衡している感じもあって苦労人な挙動になってしまい、襲撃者に視点が移りそうになる緊張が走りがちである。最後には そうなる話なのだから、視点が移り気になるのは自然だったわけだが。
オッサンの機能集団そのものにたいする好意はいうまでもないが、この集団のレイヤーが最後に広がる、その拡張の運動そのものにも溢れんばかりの躍動がある。レッドフォードの野郎、ヘタレやがったという世代間憎悪もミスリーディングに人を乗せやすい。
われわれが語り手の自意識を試しているようでいて、実のところわれわれの自意識が試されている。主治医の津川は頑張ろうと三國に呼びかける。三國の自意識は励ましを嫌悪する。これが語り手の自意識だろうとわれわれも思ってしまう。ところが後半で三國はこの励ましを肯んずるのである。これは津川と三國が互いの感化によって変貌を遂げるバディムービーなのだ。
記憶喪失という実に通俗極まりない設定をジョイ・ウォンの濃厚ソース顔が担う通俗の調べである。極太の眉が八の時になり、ユンファのオーバーサイズのワイシャツを纏い、寄り目を上目づかいで彼女はわれわれを圧迫する。これを評価する感性に欠けるものだから、正体不明の胸の締め付けに苦しめられる一方、上司の秦沛と巡査の鄭則仕の安定感が至極の安全弁。堂々のウォン・カーウァイ脚本である。
暴力の実践には事欠かない。しかしその憎悪は標徴に欠けている。ガジェットの豊かさが現実感を達成させない現象は冒頭のストリップ小屋から始まっている。舞台に放り込まれる無尽蔵の野菜である。これが後半の殺し合いに至ると、セレブリティの万能感への素朴な憧憬だけが抽出されるように思う。
火事場を放置して消防士が私闘する邪念極まりない状況をヒューモアに連接するのは、防火衣によって低下してしまうキャラクターの頭身である。このモコモコ状のものが斧を振るう様はもはや愛らしい。役者は生身になっても、死に際のスコット・グレンが恍惚顔を繰り出せば、負けじと救急車のカート・ラッセルが痙攣赤目で沸かせる。スコットとともに落下した後の展開はさすがに2Dアクション的邪念を覚える。
ホストの学芸会に事態を落としかねないトヨエツの広漠たる開襟と怒号を上げる岸部一徳の上ずるヴォイスが造形の極性化の限界にわれわれを連れてこうとする。ところがこの不安定極まりない人物たちが互いに向き合って例の蟹問答をやり始めると、楽屋オチに収束するのである。
イタリア系サイコマフィアのあの声が憲法論議の調べを長々とやっているうちにまず声と人格が一致しなくなり、かかる挫折したアテレコの齟齬感が逆流して、演説するジョー・ペシから人格を奪ってしまう。からくり人形を眺めているような事態が招来する。
サハラ以南人をヨーロッパに連れてきて文明批評をさせる自戒は、けっきょくのところ自らの寛容と文明への自惚れでしかない。このシリーズにあるかかる問題点がのび太がモテまくる本作にあってはひときわそそり立ってしまう一方で、語り手のこれもまた自惚れに過ぎない自らの属性に対する精神的自傷癖がのび太に当然の応酬をもたらすとき、その応酬の新奇さもともなって、寛容でありたいという欲望がようやく充足さえたような気がして、安堵してしまうのである。
隆々としたベース顔の頭部に鎮座するモップのような長毛が、不自然な人工毛髪が人に与える不安感を醸成している。その頭髪はキャラクターの属性を不明瞭にしてしまい、ぼやけた男の視線と感情の靄の中にわれわれが見るのはある種の幽玄である。男が被るモップ状の物体は修羅場に応じて自在に変貌し、キャスリーン・クラインの頭部のそれと最後には融合することで宿主の人間の輪郭すらも失わせてしまう。
帰還兵物の様式において、帰還兵は戦場と日常の格差にとまどい、日常を戦地とすることによって自己の平穏を保とうとするものだが、戦場を知らない日常の住民たちとっては迷惑な話でしかない。本作の場合、戦場を誰もがかつて過ごした時代に設定するので、ノスタルジーを通じて帰還兵の心理が共有されやすくなっている。
人が発話を始めると律儀に発声者のバストへ画面を割ってしまう通俗は戦場の混乱をリアリティ番組に見せてしまう。スピルバーグと比較するとこの通俗は語り手の人権感覚の反映だとわかるが、OECD民の命の重さが支援のない軽歩兵の脆弱さを実感させてしまう面もある。
ダグラスのションボリ顔が、画面の隅で点景になるからこそションボリ度を増幅させる悲劇的な力によって、ほぼモノトーンのくすんだ解像度を超克してしまう。この存在の不安はタクシーの後部座席に鎮座しているだけで遥かに国境を越えた感化を波及させベニチオ・デル・トロを朱江(チュウ・コン)顔にしてしまい、ノリノリのラテンパートにすら微不安を見舞わせる。
病み上がりを分水嶺として、というよりもゆで卵のあたりからすでに、お上りさん観光映画がロッキー・バルボア的世界観に突入しているにもかかわらず、ハックマンの不健康的実存が変化の受容をわれわれに許さない。まるで徹夜明けのジョギングのような、精神が受肉に失敗した心地の悪さにわれわれは残置されるのである。
肉体から想定されてしかるべき属性の有り様が欠けるとき、かかる存在論的分裂の表現として、受け入れていいものかどうか戸惑うような賤民の色香が放出される。然るべき属性の復元は他人の模倣という実践を通じて行われるのだが、その逆流においても色香の勢いは止まらず要らないものまで最後に復元してしまうのである。
三船のダイコン狂騒曲に移入できるかと頭を抱えていると浪花千栄子の反応に困る場面がやってきて、三船がわれわれの困惑を代弁するかのように、コレどうするんだという顔をする。つまり三船に移入できるのである。最後の射的大会もそうで、あまりにも当たらないので三船の狂騒に矢が当惑しているとしかいいようがなくなる。ところが、三船の肉体と矢尻が解り合うオチがやってくるのである。
キム・ガプスの悲壮が爆裂するだけ、当事者ではないという邦画のエスピオナージュ物の困難が増幅する。この映画を腐食させる力は現代邦画によって構成された70年代の街頭をヒヤヒヤさせるだけではなく、最後には佐藤浩市の刺客の硬すぎる挙措として定着することで、ポエジーな密度を達成する。
もはや野原一家が不要ということはなくて、階級の流動化が進んで自由恋愛があり得る未来を知ったことで現実を受容できなくなった状況が成立し、それにどう接するかという人々の道徳的属性が、話を現代文明の自慰で終わらせないのである。
ライトセーバーのタカラトミー感から始まってアンソニーの付け髭に至る、すでに冒頭で絶超に達するこの安さは何だったのか。われわれは間もなく、学ランコスのスー・チーという一種の凄艶に直面しておののくのだ。
何が凄いことが展示されているという技術屋の自負に受け手が対応できない。劇伴が画面を煽るのだが、それは技術屋にとって自負に値する画面であっても、受け手には壮大な劇伴に値する絵とは思えない。ムービーに投入された資源が死者の負債となっていて、芝居は、何も無駄にはしないという気迫に満ちた段取り地獄に陥る。結果、その緩やかな時間が、被写体の表情を羊水の中で陶酔するような自惚れに見せてしまう。技術屋の顕示欲の投影である。
すでに人間の心理の進化の過程で利他的行動は前提となっていて、当然そうあるものとして社会は設計されている。それをあたかも前提でないように話が進むから事を現実と受け取れない。事象を現実に定着させようとするジェイ・モーアのパートはそれゆえに牽引力となるのだが、彼が至るのは、困り顔ながら声だけは山田辰夫な、実に評価に困るオスメントの身体なのである。
襲来する自然という名の死神の執拗さが喜劇に近い。カヴィーゼルのエゴが本来は無為であるはずの自然を汚染して世俗化するのである。デニス・クエイドも頑強すぎて最後の生存実体が亡霊にみえる。
病体を酷使する本来ならば見るに堪えない状況を乗り越えるのは気合なのか。ニーチェ曰く、自分がきちんとした服装をしていると感じている女性は半裸であったとしても風邪をひくことはない。歌劇に割り込み、ふたりの感情からわれわれを離心させるリチャード・ロクスバーグの視点は心的なものの因果的効力の物的記述である。女は第三者の視点によって点景となることで病体に耐久するのである。
政治主義へ回答しようという営みがいったんは卑小の課題によって隠され、受け手は誤誘導される。修行はサッカーに役に立つとされることで、回答は終わったように見える。ところが、かかる誤誘導ゆえに、われわれは最後にそれが人類の福祉に寄与したことを衝撃的な形で知らされる。世界が少しマシな場所へと改変されているのである。
ピーターの挑発がどこまで許容されるかという課題があり、これが馬印のところで簡単に限界が来てしまう。仲代達矢の庇護にあるというオチであるわけだが、馬印の騒動に逆上して仲代が発動した形であるから、このダブルミーニングがピーターの造形を崩さずしてその勇気を彫琢している。また仲代の庇護が庇護でないように解釈できるから、仲代の造形も堕落しない。
ライアン・オニールの冒険に対する好意が何か喜劇的なものによって規定されている。この喜劇とは、ある意味で感傷の過剰な劇伴でありマイケル・ホーダーンのナレーションであって、これらは明らかにオニールのまじめさを客観視しようとする働きであり、したがって彼のプロジェクトの顛末に不吉な予感を絶えず投じるのである。
ビリーではなく階級脱出速度を稼ぎ出すための使い捨てのブースターとして自分を客観視できた父親の物語であって、興味を惹かれるのは、自分が滅びゆくものと知ることが感動を残す不可解である。自分を条件づけたものを知ること自体が自然への報復になるとわれわれは考えているのだろう。
このソン・ガンホはわれわれがよく知るあの巨漢ではない。今から見ればこれが違和感極まりなく、顔と胴体の釣り合いに不安を覚える。更にオーバーサイズのスーツが事態を一層悪化させている。これらの事象はリングの大きさも含めた遠近感だけではなく、キャラクター間のパワーバランスもつかみ難くしている。
エリートが憎い、ソニーが憎い。だからベータを後押しする通産官僚が憎い。ついでに、ソニー勤務の恋人がいるエリート志向の技術者が憎い。泣きわめくオッサンのどUPが二時間の内に達成する論理的跳躍の宴である。
奇抜さを競ってしまえば受け手の共感から離脱しかねない。奇抜さの動作を保ったまま、あるいは突飛でいながら人間を見出す動作が期待される。この追求がいつの間にか脱線して、喜劇の間に対する探求となる。わたしは汗をふく優作に志村けんの金田一コントを想起した。幽霊と直面したとき動作はかえって遅滞してしまうアレを。
現場主義の勇気が記憶を失い自分を他人にすることで獲得される。その一方でかかる人間性の喪失と拮抗するように、記憶を失うことで常に新たな情報に曝される事態が、肩掛けのポラロイドも相まってお上りさんの朴訥な所作をもたらしている。
マコノヒーの頭髪量とサミュエルのモジャヒゲに対抗すべく薄毛を無理に増感させたスペンシーのもののあわれ。とても法職に見えない若僧弁護士コンビに対応して、法廷物がアクション活劇に堕ちる。しかしこれもまたやり過ぎのあまり、要は行政の浸透度の問題だと核心を突くのだから腹が立つのである。
荒野の七人のユル・ブリンナーがそうであるように、ジョン・スタージェスの薄毛への同情と入れ込みがドナルド・プレザンスの演技に甘美な戦慄をもたらしている。サザーランドもアンニュイな毛髪量が幸いしたのか、軟派に走っても寛弘な性格に好意が失われない。
実録『メトロポリス』シナリオ打ち(於りん家別荘・1998年秋)
りん「クライマックスで大爆発させて、I Can't Stop Loving You〜♪とやりながら自分探しな台詞でも吐かせれば、もうばっちりだらう」
大友「もう、ばっちりすよ」
一年後、東京ファンタの壇上で、大友のことをさん付けで呼ぶか君づけで呼ぶか、りんたろうの心理は揺らいでいた。
多動性障害が、コメディリリーフという属性的には不可能な客観視の営みを仮構する際に呈される気まずい挙措に硬さに、わたしは『乱』のピーターを想起していた。アレはこの気まずさをむしろうまく利用したのではないかと。
都会からやってきたという文明の威光によって辺境民にモテるという邪念極まりない文系幻想をどうしてイケメンのチャン・イーモウが弄する必要があるのか。チャン・ツィイーを御するためのあれほどの助平の周到さなのか。それとも『幸福時光』のような、あるいは『あの子を探して』のようなサディズムであって、このような文系幻想に屈せしめることでチャン・ツィイーに屈辱をもたらしたいのか。
ボーイズラヴとして事を消費したくなるのは下ネタの躍動が激しいからである。ノートン先生の肛門の裂傷からこれはマンガじゃないかと訝りたくなるのだが、ラモントの下ネタで彼が完落ちするとなっては、単に信条が流動的なだけではないかと見えてしまう。この感受性にはラモント自身に何となく腰が引けるような所があって、そういう町人的感性の布置が懲罰的な結末を導出しているとも考えられる。
三部作を経てもはや万策が尽きたのである。にもかかわらず、二作目の逃亡者がシリーズの色調から跳躍しすぎたあまり、万策が尽きたという実感がない。つまり、万策が尽きたという感じがないまま万策が尽きるという燃え残りの唖然とした様が汎アジア主義を仮装大賞的ローカリズムへ落とし込むラストに重なるのである。
一挙手一投足が、ダンディズムのわざとらしさが女性的な物腰として出てしまうことへの揶揄になっていて、かつ、かかる不自然によって、見え見えに展示された裏のある態度が劇中では通用してしまう喜劇が生まれている。
宿命を知るという構成がただでさえ観想的であるのに加えて、本来の属性をブルースに認知させようとするサミュエルの動機が輪をかけて観念的なために、発見されたその属性すらも、それが確実に受肉しているという明晰さに至れず、不可知を評価できないゆえに笑いが催されるというお馴染みの現象が生じる。
ダイヤの循環の輪から外れてしまうブラピは蛇足的で、ステイサムの救済のタメ以外に大した役割がない。それどころか、文系ステイサムの受難の反動でブラピが憎すぎるので、ステイサムが救済されたよろこびがブラピが懲罰されなかった悔しさに打ち消され最後は中庸の感情しか残らない。そもそも文系ステイサムというのが撞着語法である。
クラーク・ゲーブルの迷惑な話で終わってしまうから、病床のゲーブルの模様を戦闘中に頻繁に挿入される顕示的な構成がロートル批判になるどころか、戦闘を題材にして手淫を謀っているかのような文芸に至るのである。
教科書通りに人生の動機と非日常を用意しているが、不思議なことに、非日常によって人生の動機が触発されるのではなく、進行しつつある非日常とは関係なしに、勝手に人生の動機が発現してしまう。
ジェームズ・ウッズが仕組んだとあれば、レオーニ節に応えるべき情念の裏打ちが霧散してしまい、文法と物語との分裂は、老化しないデボラや大道芸のようなマックスの顛末といった内破的な叙述を至らしめている。動機の行き場を失くしたヌードルスについても、必死こいてアヘンを吸引するような、生活感のあるストレスに事が還元されてしまう。最後の顔芸はさすがに沸いたが、その一発芸だけなのである。
キャラを玩弄物にし得た乾いた視点が顛末のわからなさという緊張を醸す一方で、外部効果として鮫のモーションと顔貌を愛らしくしてしまう。これもヒューモアとして消費可能であろうが、海水映画だから仕方ないとはいえサフロン・バロウズの毛髪量の方が危なげである。
高倉の略奪婚によって朝鮮半島の血縁部族社会に引き起こされるであろう生理的嫌悪感の兆候が、受け手の心理的均衡感をこの上なくおびやかすと同時に、海を越えて波及する戦争のトラウマの気まずさを、毒を以て制す形で中和し、事を文芸的に消費可能な射程に収めている。
ディナー場面は示すように、メルギブには情感的な突破力があって、ホアキンとしてはそういう情感をしめやかに享受したい。ところが、メルギブの情感に無理やり巻き込まれてしまう。その巻き込みは喜劇でありながら、ホアキンの徳を損なわない。メルギブ親子の邂逅をしめやかに享受している巻き込み直前の様子がホアキンの造形に豊穣をもたらす。
劇中劇と目されるものが当時の表現とは解離している。殺陣はまだしも、特撮物がとてもライブアクションとは思えない。土蔵の壁に残された似顔絵の質感の気味の悪さはその最たるもので、画家が残したのはポンチ絵だったという倒錯が生じかねない。表現の水準が空気を読まないのは語り手の邪念である。それはまた山寺宏一に自己投影しておきながら、性欲が強すぎることを臆して、立花というトリックスターに自己を分裂させて、余計に事をイヤらしくさせてしまう。
縁故主義根絶の強迫観念とその挫折を循環する中国諸王朝の興亡をヴィッキー・チャオが獰猛な上目使いひとつで体現してしまう不穏極まりない宮廷ホームコメディである。
西海岸リベラルがヒッピー宇宙人と邂逅する如何ともしがたい事態が事に驚愕する軍人官僚によって観察される。まさにキャメロン節の女々しいマチスモのうれし恥ずかしい撞着である。アバターのスティーヴン・ラングの前兆であろうか。
重心の高さがアマチュアリズムの切迫を超えて宿命に従属することの閑雅さに至る。男たちがその廃的な恬淡に浸るほどに、三坂知絵子の野卑にちかい生命の強靭さが影を落とす。仮装大会が三坂を手にかけることで映画になった瞬間がそこで感懐されるのである。
ファッションとしてのミスティシズムを否定したがために、性欲の顕在化によるヒューモアが挿入される。しかしそれは、道学者的訓話の窮極が至るような、たとえば名人伝のような白痴的ヒューモアの牧歌的愛らしさとその好ましさとは似て非なるものだ。この手の訓話が実のところ現世的な発想に依っていて、だからこそ嫌味にならないことを見落としているのである。
すでに自分が何者か知っているために、ヒロインの心理が焦点化できない。自分の出自を知るという劇作の定型が発動せず、他者の造形的発動の波及を山崎まさよしが利用できない。したがって、才能の再確認するだけの業界人の自慰にとどまってしまう。
ソン・ガンホと伊武雅刀が同フレームに入る恐るべき場面がある。伊武は強面の将校で、この目前でガンホが道化芝居をやる。他者の会話中に地球儀を回すだけなのだが、伊武がどんな反応を示すのか緊張を強いられるのである。ところが伊武はガンホの行動を冷ややかに眺めるだけで、笑いの間が生じる。伊武の喜劇役者の属性がガンホや彼自身の徳を引き出してしまうのである。
美術が構造的にも高度に凝縮され背景から自律すると、時間が凍結される副次的な効果がもたらされる。この感触は聴覚的には昭和歌謡ショーとして現れる。時間の凍結ゆえに過去の自分と今の自分が別人格にならず罪が持続する。ベン・スティラーのBB弾である。
戦力組成のアンバランスが女性に対する吸引力のムラと対応している。日常の挙動の困難が戦闘になると消失する。基本的に勝新モテモテ旅にもかかわらず叶わなかった恋がある。どちらも自意識との間合いを課題としている。
「挨拶をしろ」「礼を言え」「ノックしろ」「返事しろ」など生活の技術論がやがて「粗大ゴミを川に捨てるな」や「エコばばあの自然回帰」、「ゴールドラッシュでインフレ」とエスカレーションすると、基本的な生存を促進する倫理だけではどうにもならない不安な感性が現れてくる。
最大の不安はジーン・ハックマンが牧師であることで、これを信用できるかというメタな信仰問題となってしまう。この不安は造形の流動性の証でもあって、水中でハックマンがドジを踏むことでシェリー・ウィンタースの造形が跳躍する。その総決算としてわれわれを感激させるのが「あんた警官だろ」というボーグナインへの叱咤である。
感動中編二作目の『のび太の結婚前夜』情報量に比べると、こちらはテレビシーズとのかい離が少ない。だからだろうか、次第に時間の流れが映画的となり感傷の掘り下げがなされるようになると、ジャンルムービーの役者が文芸映画にでるような違和感が出てくる。
官僚制の不条理劇であるから、官房長官の佐藤慶と内調の夏八木勲を筆頭として連隊長はかくあるべし防衛官僚はかくあるべし等々、立場が造形を彫琢してゆく気持ちのいいほどのステレオタイプにも関わらず、風刺に堕ちない。不条理の陰陽の循環がやがてジャンル物の軛を超えるのであって、戦力のエスカレーションが一撃の内に事を始末してしまう高揚と徒労感が文芸的なのである。
TAXi2と同じフランスの自文明に対する歪んだ自負というか、アメリカへの憧憬と文明の自負心を並走させようとする邪念が、ジェーン・フォンダの視点を借りることによって、例の超級市場のところで炸裂している。ジェーンも何事かを感知しているのか、爆発する頭髪量の横溢が、後景に彼女を埋没させないでいながら朴訥な観察者の佇まいを崩さず、ゴダールのプライドを脅かさない。
中小企業経営者のような通俗的センスとして表象されるグローバリゼーションが、これに染まった地球とはいかなるものかという恐怖をもたらす。しかもその通俗の担体たるトラボルタがあの朴訥なアンちゃんの残滓の微光をいまだ放っているのが事態を複雑にする。キレた外貌とのギャップが当人のタイプキャストである70年代挫折造形との断絶を否応なく意識させ、中小企業通俗の世界侵略にへそ茶的疾走感をもたらすのである。
語り手の希薄な文化記憶の反映である、これはどうかと思われる説明過剰を、受け手のリテラシーへの不信に基づく父権的態度と混同したい願望がある。にもかかわらず、父権というには野暮すぎるそれは自ずと同胞愛に近くなる。
香港人にとっては把握し難い空間ゆえに関東平野という広漠な地勢の物語になっている。この空間に際したジングル・マは何を定着させればよいか動揺を来していて、ライブアクション特撮を画面に定着させようとする円谷編集のようなしつこいカット割りが連続する。かかる宙に浮いた感じは、冒頭の傘アクションから顕著なように文字通りトニーの身体を浮揚させ、何ともキャワイイことに結実してしまう謎深さもある。
コリン・ファレルが古参という異次元には功績もある。あの極太八の時眉が当人を記録映画体の雑多の質感のなかに決して埋もれさせない。眉は異生物として自律することでかえってスタンダードサイズと調和する。記録映画体を安さの言い訳にしていないのである。
老人の儘ならさが肉体の酷使によって痛々しいほど顕現するつらさが、世代間憎悪に落とし込まれる結末をむしろ開放的にする。やっと何か有能なるものに継承が行われた感が出てしまう。
たとえば、あえて落語を聴くという差異化の営みがどうして身も気もよだつほど野暮ったく見えるのか。愛が属性を超えるロマンティシズムを称揚するにもかかわらず、落語を聞くという文化的背景は属性そのものである。さらに窪塚の属性設定から落語というものが演繹できない。課題となる出自の問題が、属性の恣意的な付加を可能とすることにより軽いものになってしまい、差異化の営みに堕ちてしまうのである。
最後に架空戦記になる、つまり現実では破綻した恋愛が劇中内の戯曲では成就するもう一つの未来が言及されることで、情実が一気に操作可能になる。回想が今ではもうどこにもいないアニーという人格の理念系を抽出して、それを後日談の現実の、そしてかつてのアニーではないものと比較対照し、その過程で語り手の徳が形成される。ふたりが立ち去ると後にはニューヨークという空間が残置される。街が一部始終を目撃していたという感傷が生じる。
お上りさん映画が成立しないのである。キレ過ぎる体が過剰順応して、時に身体が思惑とは独立した自動機械の違和感を呈する。たとえば、CM出演の廻りすぎる呂律は偉人の器用貧乏の範疇をはるかに超えて不気味ですらある。
人体が破壊され自意識の統制を失い、集団で寝落ちする人体群が打ち込まれる弾薬の力でおそろしい舞踏を行う。香港映画的躍動が記録映画体に転移されたとき、なぜかそれはJホラーの挙動に近似する。
姉妹作というべきミミ・レダー『ディープ・インパクト』の諦念という狂気との対比が今作の地に着いた女々しさを浮き彫りにするのである。もうここにはいたくないと心から叫ぶピーター・ストーメア。片足を引きずるビリー・ボブ・ソーントンの微笑。宇宙と生活感が出会ううれしさがある。
『グッド・ウィル・ハンティング』のベン・アフレックや『リトル・ダンサー』のゲイリー・ルイスのように、阿部サダヲの生き様が回答になっている。孤独という対人感覚を喪失しやすい境遇にあってすら寛容を失わなかった人物を語ることで、孤独を救済し得るものとはぜず、そこにあってわたしどもはどう生きるのか、という問いかけが代わりになされている。