映画感想 [2501-2600]
成熟を試みる少年がいる。友人は少年の試みに恐怖する。性的少数者の課題を普遍化するにしても、人の足をひっぱる話にその社会小説を組み込む意図がわからない。友人が受け手の憎悪の的になれば、彼は憐憫される権利を失いストーカーめいてくる。話半ばでヴィランが退場したあと、長い消化試合が営むのは死者が生者を追いつめる話であるから、やはりホラーだとしか言いようがない。社会小説をやりたかったとすれば作法を違えている。
景物映画の矜持が、反社がミックの言いなりになるからくりに何ら幻想を挟ませず、あくまで確たる物証を用意する。両者には人生の課題がある。アート系は才能が枯渇し、反社は自分の獣性によって孤立し滅びの危機にある。歌劇がアイロニカルにふたつの課題を合流しえても、景物と物証を呪いを何人も免れず、サイケデリックはフィルムノワールに急転直下する。
矜持で女衒を拒めなかったばかりではなく、その成否には生命もかかっている事情があるから、織田あきらがガチの恋をしてしまえば、父性の吐け口を失った西村晃と父権を乞うあきらが手に入れた束の間の幸福には、余命をかみしめるようなまばゆさがあり、父子に疎外された江波杏子の嘆きは地の果てにふさわしい強度を達成する。見え透いた結末を嗤ううちに、見え透くからこそつらくなるのである。
階級が異なる相手に恋愛感情は芽生えるのだろうか。三角関係や災難等々、記号が人を駆り立てる不思議はあれど、記号はどこまで行っても記号にすぎない。男の酔態には都合のよい幅があり、女の性格は冒険的になる。男は真正の童貞だった。男の現場力はセックスアピールになるはずだが、奉仕の熱意は現場力を童貞アピールへと腐食させ、そのジレンマにこそ階級差のもたらすインポが伏在し、男に諦念の気分をもたらしている。彼には状況の不自然に自覚があり、女の求めには不能をもって応えるしかない。
客人に対する距離感がわからず関係を恋愛として処理するのは職業病である。業績欲しさに老女に向かってシナをつくり不幸に食いつく栗原小巻の職業倫理もどうかしている。大仰な処女喪失の反動で童貞喰いに走る南方幻想は集団慰安へと加速して小沢栄太郎を脳死に至らしめる。三毛猫は香箱を作り劇画人間たちの営みを聴収する。田中絹代の痴女めいた距離感が血縁関係に擬されて腰を落ち着けたとき、辺境にやたらと衣装を持ち込む栗原のコスチュームプレイを愛でる余裕もでてこよう。
番頭のクーデターで自分が神輿にすぎないとオーナー社長は悟る。競合他社のオーナーは後継者の育成に頓挫した。中小企業の騒動に超人が介入し、正義を駆り立てる状況に人々を次々と放り込む。そこには無責任シリーズのような昭和の経営小説の手触りがあるのだが、それにしては投げ出しの結末は暗い。理想を目前にした人々をじらし、そのストレスにのみめり込むあまり、老人たちのつらみに引き込まれたのである。
景物映画の叙体には限度がある。たとえばマーシャルアーツは手に負えない。筋を転がそうとするとたちまちドラマの画角となり叙体は安定せず、デル・トロは作中で感情不足の戸惑いを訴えるように、定型文で小説をやるような苦しさがある。可動域の狭さは筋を進めるにあって偶然に依存せねばならず、叙体による規制はむしろ自助否定の恣意の正当化に手を染める。
粛清と弾圧の日常に終わらない文化祭前夜の疲労と高揚を覚える人々は、挙措を多動化して壮大な骨折りに対応している。粛清を祝祭に読み替えるのは、あらゆるエスピオナージにつきまとう非生産的な印象である。あるいは来るべき終わりに人々の無意識が感応した予祝だったのか。男は、蒸気に満ちた北国の迷宮をさまよう地獄温泉巡りを経て、人々の無意識から社会が構成される現場を目撃する。その見ないものが物化する様は、薄毛症に冒され硬化したオッサンの頭皮がたわむような、一種の猟奇である。
男の栄典好きは、文化資本の劣等感が江戸の文明に傾倒する理路を説明する。リラクゼーションできない人生が自分の創作に他人を巻き込んで生じる悲喜劇は、様々な老醜で誇張された人格群にその傷跡を残し、止まらなくなる田中絹代のDISと江戸の体現物を最後には給油所に埋没させてしまう70年代の風景の強度が、文化資本を欠くといかなる実害を被るか教えてくれる。
仕事人としての男の半生に着目するのなら、彼の映画は早撮りでも一定水準を維持できた見本になるわけであり、才能の欠落をことさら嘆ずる趣向はなく、それがまた徳となり現場に幸福感をもたらす。伝記が試みるのはむしろ、文芸とジャンル志向の間で股割きになった、松林宗恵映画の円谷特撮のような質感の亀裂を統一する試みであり、仮構の上とはいえ統一ができてしまったら題材はもはや尽き、やむを得ず老人の人生俯瞰に傾斜すれば、逆に伝記の方がまとまりを欠いてくる。
人生が煮詰まっているのは相棒のゲイリー・ビジーや黒幕のパトリック・スウェイジの方である。何者でもないキアヌにはアンダーカバーは天職でロリ・ペティをスケこます手管も円滑であるのだが、あくまで媒質にすぎないから彼の役割は生き様観察にとどまる。それは彼のもつ本来の素質とも調和しているのだろう。困るのはスウェイジで、感化を受けつけないキアヌにたいして精神ではなく物理的脅迫でもって行動変容を迫る。キアヌがIDクライシスに陥らないとすれば課題は低次元にとどまり、強盗後には話が迷走を余儀なくされる。ふたりは相いれないながらそれぞれの虚無哲学でもって作品を蹂躙し、オーストラリアの現地警察に迷惑を及ぼす。
人の移動に依存する叙体は物象の魔窟にあって身動きが取れず、目的の見えないその場しのぎの多動に終始する。行き場のなくなった西岡慶子の性欲は暴走し、フランキーは善意の多動に悩まされている。性格の弱さを熟知する彼はサイコによるつけこまれに敏感であり、だからこそ、小沢昭一をはじめとするサイコパスの造形が躍動する。フランキーの遁走は乙羽信子周りから派生してくるかすかな失恋の傷心を付帯し、その気分は下宿住人の四散する感じにまで後を引く。それは解放感と別れが混合する春の気分。丘の上から陽炎のように見える通天閣である。
仕事のできる掃除婦とは矛盾ではなかろうか。早々に態度を翻す彼女は長期的利益を考えていない。この短絡が能力に見合わない境遇の原因だったのか。無人島で無能力になるセレブリティも戯画めいている。順応力があるから彼らはヨットの客になれたはずである。これらのモヤモヤは自然における男性性の復権とつながってくる。船上の男たちは美女を前にして委縮するしかなかった。無邪気で徳高いオッサンたちは浜で部活の感性をよみがえらせ、掃除婦の政権を脅かし、彼女の不安定な立場が恋を切実にする。ふたりの女は危機にあってガチの恋に目覚めたのか。ほんらいガチであった恋が発見されただけなのか。その区別は恋の持続性を問う上で重要だが、島の力関係の曖昧さのようにすべては不明瞭であり、ただこのわからなさこそ恋の信ぴょう性を担保している。
ある種の記憶をめぐる話が営まれている。復活をとげた廃人の女は代わりに記憶を飛ばず。青年の妄想癖が性欲をブースターにして先鋭化したとき、夢に現実は侵され淑女は淫乱となって襲いかかってくる。いささか高踏な骨組みにとって老人のつらみは憎悪にしかならず、ハナ肇の肉厚の甲斐性は女たちと息子を惹きつける。父子に疎外される母には同情がなくもないが、宿直室を燃やすような現状維持の力は子離れできない母の邪悪を認知させる。いまや田舎脱出が切実な課題となったがゆえに、原田芳雄との遭遇がたまらないストレスとなり、その真意の露見に価値が出てくる。
青年たちが共通のマドンナを失った質感を夏バイトの肉体労働で物化して成熟の観測をやる肉感主義が、ねじれながらエスカレーションするのである。着流しの中村敦夫にいたわれるヤクザ憧憬が、浅野真弓の不倫相手にどこから見ても反社の中尾彬をあてがうキャスティングとして誤展伸する感じといえばいいのか。浅野も彬に捨てられ行き場を失った傷心は、競輪志望の江藤潤が受肉し、またしても筋肉で精神を封鎖したと思えば、青春を終焉させる儀式にもその先があり、曲芸的な時間差で構築されたより戯画的な円環が待ち受けるのである。
プリトリアスはネクロフィリアを持て余したのではないか。彼にわかるのは、ネクロフィリアが圧縮されると試験官に玩具的生命が生成される謎深き自然である。骨格から生命が創造される理路は飛躍に違いない。それを埋める過程で観測されるのはプリトリアスの徳目である。盲人との絡みが怪物に特別支援の含みを持たせば、彼に偏見のないプリトリアスに徳目が認められるだろう。この啓蒙は技術信奉へと拡大し、ヘンリーは技術者のノリにあらがえなくなる。得られる成果は墓荒らしから技官に至る職人たちの描き分けであり、集団作業の発見である。大立ち回りが精神を物質化する飛躍を埋めると信じたいのである。もちろんこれは思考を放棄した清算主義の一種であるから、技術信奉は思春期のこじれとして総括され罰せられる。
少女の曲芸と悩めるオッサンたちの格調体には戸惑うような亀裂がある。この溝は段取りを踏まない時間への態度を構造に強い、課題を認識して消化する間もなく老母の病は手際よく進行する。男たちには絶望を検討する時間が必要であり、少女を滞空させるオカルトの緩やかな時間観が困憊したオッサンたちに悩める時間を与え、緊迫して信仰が試されるほど尺は潤沢になっていく。だとすれば、信仰を全うする現場は瞬時の決定を強いられるような一寸の出来事に違いないのである。
男は酒精に依存して時流を歪め、病態に対して遅滞機動をおこなっている。そのねっとりとした死臭は憐憫を乞う悪魔的外貌で村人たちを道連れにしていく。領主や司教の意見はあくまで適切だ。男には彼らの諫言は霧のような疲労にフィルタリングされ、憐憫の甘い温床にますます誘うような遠い響きでしかない。男が安らぐのは一瞬である。肉体統制の困難はモーターサイクルの風に揚力を得てひとときの解放を賞味する。