映画感想 [2101-2200]
結論としては人の情熱を嗤うな。本作のエリーティズム非難の文脈に当てはめると、階級脱出の試みを妨害するな。しかし、これがよくわかない。風間君の頑張りには階級の再生産的意味合いが濃厚であるとはいえ、しんのすけらが執拗にかすかべ防衛隊に彼を引きとどめようとすれば、階級脱出の妨害に他ならなくなる。つまり、どの面下げて情熱を嗤うなと訴えるのか。終盤で読めなくなる学園長の挙動は、話の矛盾をメタに反映していると思う。
仕事に支障の及ぶ過眠に際して根性論を持ち出すのはネグレクトだろう。それでもなお根性を貫く意味は何か。受難によって自分を特権視した人間が人を脅し始める。これもまた典型的な症例である。特異なのは菅田将暉のシャーマニズムのような対応の方だ。男は狂女を聖化して趣里は男の徳に圧迫される。女をダメにする男という珍しい話である。
ヒロインの内面が字幕でダダ洩れて、受け手は否応なく神の視点を強いられる。誇張された人物と事件の連なりは、人物と受け手の間に出来る距離感によって筋をブラックコメディそのものにする。にもかかわらず、流れる劇伴は深刻でマンガのような事態が大真面目に捕捉されている。このマンガ的感性は感情の物化に長けている。ヒロインは褞袍とイヤーマフで雪原に放り込まれ不憫の権化となる。
叙述はあくまで男に寄り添う。受け手には、ストーキングに着手した段階で男についていけなくなる。香りには感触がない。一方で場景は物体で溢れかえり、男のいら立ちは募る。課題は、形ないものが物体化する矛盾の探求である。香りに触れたいのである。男自身が場に埋没して形を失うことでこれは解決をみる。この自然に還る過程で男は災害化し、自然への憎悪の形で受け手の感情も足場を得る。
この人にはもともと素質がある。父母と弟の方がよほど人生の課題を抱えている。文明を知るうれしさは、自分の才能に他者が未来を託そうとする貴き外圧へと変わり、有村架純が才能という宝くじを単に引いた話では終わらない。
壁に当たる中盤のフラストレーションでは、ついに才能がなかった父と息子の話に持っていかれる。才能のある有村は何となく乗り越え、壁に当たる場面がかえって宝くじを強調してしまう。
最後は伊藤淳史が有村の人生の一局面を目撃した体裁で終わる。突風のような才能が目前を通過していった。宝くじ(運)が速度へと転義されたのである。
新宗教に依存する妻。信仰に冷淡な夫。息子が妻の熱狂に巻き込まれる。核家族の孤独は遠景と近景の質感を対峙させる。ホームドラマが近景の造形物を風雲たけし城へと矮小化してやまない。それはこの核家族の、血縁社会をとても渡っていけそうもない暗い予感でもある。
男と同化するにはナルシシズムに躊躇がなさすぎる。ロシアン・マフィアの心理に近寄れば、禁足地に踏み込んでしまったようなホラーコメディが始まる。禁足地の記号化に秀でるのである。誰に共感すべきか、移ろいがちな視点も究極的にはコニー・ニールセンの心理に回収されて、話が単線的なナルシシズムから救われる。
終わってみれば、織田側から大野へと人生の課題はリレーされ、社会時評が個人の課題へと収束し得た。わからないのはそこに至るまでの大野智の扱いで、織田側の価値観肯ずる話が大野を好意的に扱うことで、同時に自らの価値観を絶えず脅かすのである。この不安定さが良くも悪くも気持ちの悪いスリラーとなっている。伊賀側のトリックが叙述の構造自体を歪めたのである。
70年代ポップカルチャーの解像度が社会時評を扱いかねる。昭和のラブコメが始まるように、筋が記号に振り回され、その遠心力に耐えきれず内容が脱落する。罪を作らねばならぬほど男には罪の実体がなく、コリントを引用して糾弾されても非難の謂れがわからない。さそりに乗っ取られた男として具体化するような、ノスタルジーによる呪縛の客観視にこそ実体はある。社会小説を超えていくのは作者の自嘲である。
荒唐無稽な虚構と現実との境界は常に明瞭である。喜劇というよりは、安心して享しめるホラーという不思議は、保安官が強すぎる西部劇として、これまたクロスジャンルする。民間人いじめという不穏が喜劇を許容しないのである。
人間解体の徒労感が、頑張りには内容が問われないと主張する。オスの成長という強迫観念にとって、内容や結果が問われないことは救いになるはずだが、一人前になった男が内容のなさに憑依されることで、物語は無内容を非難する。ところが、内容が問われないために、あるいは問われないからこそ、それはダンディズムそのものでかつ楽し気なのだ。
タバコとボトルの山を築き上げ、60年代を不穏に駆け抜けるアン・バンクロフト。変移する風俗を観測可能とするのは、靴磨き、通勤、クリスマス飾りつけ、投票所、戴冠式中継等々、オッサンの永遠の一日。時代の消失点たるオッサンは、女が対面を志したとき、文字通り風のように消失する。
社会小説は物体の作り込みによってその誠意が担保される。30年代中欧の朽ち果てたインフラは総天然色の箱庭へ化粧直しされる。景物の作り込みは行為に影響を及ぼさずにはいられない。人の振る舞いが理念的になり、教条的な母は息子にストレスを厭わなくなり、父性の不在に苦しむ母子家庭がバランスの取れた父性を要求する。
青春の最大瞬間風速がゼロ年代の景物の中に呈示されるノスタルジーの混線。どこにもないこの世界の異様な文化的集積度が筋を郷愁の呪いから解放する。序盤では軽音部の部室として具現したそれは、前座の喜劇のような歌唱力へと飛躍し、体育館は異空間となる。本番ライブが意外と散文的に捕捉されるのは、前座の技術力によるコピーバンドの窮乏を思わせる。
メリルからローラ・ダン、 シアーシャ・ローナンへと世代を経るごとに伸展する馬面。爆縮レンズのように、馬面に四方から圧されたローレンス・ピューの丸顔はその球形を際立たせ、馬面一家の不穏を引き受ける。ルイ・ガレルの尻を追いかけ、蕩けるように垂れ行くシアーシャの馬面の終局面。物体の展性によって時間と感情が表現されるのだ。
愚者ならぬ語り手には愚者の処遇がわからない。社会化する私闘の加速感は、愚者を扱いかねるゆえに頓挫する。勝ち組の後ろめたさが、愚者に対する決定的な行為をためらわせる。愚者はその配慮に負の意味で聖別された自分を見出し高揚する。
二人を失恋させる手際。性格の造形をロケーションで物体化する手管。単体のイベントが多様な効果を引き出す筋の効率性とは事態の同時性である。それは惜別と悲恋の混線させ、一夜の徘徊に空間を分解させず、むしろ事は凝集する。同時性とは空間への固執にほかならない。
文明の崩落を叙述する前提として、まず文明自体を物象化する作業がある。それは診断書や漢文塾、究極にはソウル大になるのだが、かかる文明物を文字通り破壊する物証の迫力は通俗と互換して、手抜き工事がソウル大生を斃すという風俗喜劇としかいいようのないものになる。文明云々というよりも、もはや物象化そのものの迫力である。
配慮と相対化の工学が、異性愛の成立しえない構造に、不憫さを恋と混線させることで、疑似的に愛の切迫をもたらす。良識をめぐる人の相対性が筋として外化すると、半ば犯罪映画のストレスが民俗学的な誤爆として結実するような比喩の戯れとなる。
不条理をどう受け入れるのか。言い換えれば、事を人災ではなく災害として認知する方法とは何か。社会の広がりに組み込まれろと作者は推奨する。人災は点だが災害は広がりである。巨視的な何かで包摂せねば認知できないからだ。
組み込まれ方は器質的である。先輩の黒田大輔は腕を失うことで皇居と連結し、篠原篤は耳を経由してオリンピックと連結する。この論理性が、どん底に落ちても各人の演技から気品を奪わない。
たとえばハムスターに反応するケイト・ウィンスレットである。最初は行為が理念的だった。酒が入ると性格が理念に近づいてくる。ジョディ・フォスターのリベラル言動は、理念化したキャラが個の量感を失うことへのいら立ちと解せるが、理念と行為が分離した現象そのものはジョディという個体の中で地団駄のかたちで表出してしまう。ポランスキーのニヒリズムはそれを可愛く捕捉せずにはいられない。
事態を持て余すコメディ調の通底が時空に裂け目を作り、その狼狽を具体化している。並行宇宙に由来する感傷がこれに対応する。それは、故人の記憶を分有することが癒しになるような、他人が自分の知らぬ故人の側面を知っていたことが慰めになるような、あの好ましい可能性の感覚である。世界の恣意的なルールを感傷の内包する論理性が併呑する。
他人どころか当人すら所作の統制はもはや野放しである。にもかかわらず、メキシコの女性連だけは統制される終わらない性欲。筋は向こうから勝手に飛んできて、老人に実体を詰め込む。自動化した老人の呆然とした表情にはかかる恣意に対するユーモラスな批評精神が刻まれている。愛嬌が後期高齢者風俗を克服し、『十五才 学校IV』は一種の奇譚へと跳躍する。
異なる演技の文法が同一画面で展開されている。セニエは生活感を丸出しにしてエヴァ・グリーンはマンガである。この怪しさに頓着しないセニエの人の好さには作者の徳がもろ出しになっている。生活のやつれは、作家根性が病理を観察する目へと援用され、エヴァのジャイアニズムに報いる感覚や没落を競う迫力が出てくる。マンガ的なものに包括されたというオチも、事が非属人性へと脱臭されたために、してやられた感じはあまりない。
自由と独立を奪われた男は他人のそれを奪うことで喪失を補おうとするが、自由は流通するだけで滞留しない。滞留したら自由ではなくなるからだ。片道通行の自由というこの小さな世界の原罪を引き受けるのは田畑智子。この構造から抽出され、かつ自由を再帰構造へ組み込むのは、作者らしく、母性の不憫な胆力である。
キャスティングがよくわからない。なぜエリザベス・モスなのか。そこまで彼女に執着するこの男の趣味は何なのか。中盤の手前でモス自身、「なぜわたしなのか?」とメタ発言をやってしまうほどである。謂わば後半の修羅場から逆算されたキャスティングで、あの鬼面は然るべき状況に収まっていく。ダンディズムに開眼する話なのだ。男はまだ潜在的なそれを発見していたとすれば、その執着を合理化できるだろう。あるいは、計算高い男は女を宿命に導くためにためにあえて事を起こしたとも取れる。
ナルシストというヤクザの一類型を形態模写する舘ひろしの声から気品が抜けず、挙措がヤクザというよりホストに準じるために、平成編の彼は、オリヴェイラ映画のマルコヴィッチのように画面に佇むだけで爆笑を誘う稀有な事態をもたらす。豊原功補のハスキーヴォイスに序盤から菅田俊がお家芸の威嚇の声を披露するなど、演技が声色に依存しているのだ。
令和編に入れば舘のホスト演技が病魔に侵された老人の類型にはまり込む。北村有起哉のヤクザも配役的にどうかと思ったのだが、これもまた零落ヤクザの類型に尻が座り、八の字眉のオッサン群衆劇に華を添える。
まともな映画の質感がこの時期の邦画としては珍しく、むしろその質感で小林聡美が延々と調理している様を活写するだけでいいと、貧乏性を煽られた途端、シナモンロールに客が引っかかる。こういうメタな応答性の良さがある。
和食至上の土俗根性と北欧モダンを包括するのはもたいまさこのインダストリアル・ダンディズムである。つまり物語の核心であるから、彼女が働きだすと食堂は満席になり、最後はキノコの再帰構造に至る。
遠近感を狂わせるアダム・ドライバーの怪相はたちどころに時代感を克服し、80年代を知覚させない。ツーブリッジの広漠なフレームがかろうじてアダムの顔面をまとめ上げるが、メガネ一本で80年代を捕捉する綱渡りに、山崎豊子ドラマのような筋を望むべくもなく、矯正された遠近感はガガを丸顔に磨き立て、アダムを突然浪費家にし、ジャレッド・レトのIQを乱高下させ、事件は狂愛の捻じれとして解釈される。これは決して後味が悪いわけではなく、また美術と衣装だけで元は取れるだろう。
ミュージカルではなくフリークショーである。見世物小屋に付随する郷愁に幻惑されるというより、フリークショーを興行するべく、懐メロのノスタルジーが求められミュージカルが展開される因果関係であり、筋とミュージカルはあまり関連を持たない。ウルルン滞在記が青春の挫折と奇妙にも結びつく結末は、その郷愁の副反応だろう。
叙法に違和感はある。同居人だけの会話場面が少なからず挿入される。彼らは下世話な佇まいの割に金に綺麗なため、全てのキャラの感情が宙に浮く。金の絡みが感情に信憑性を与えるからだ。誰に身を委ねればいいのかわからない、そのフワフワになってしまえば、ランカスターのオタ話や回想が光彩を放ち、事がすべて彼の独り相撲として処理される。これは事実上、同居人への報復となるだろう。人々のフワフワした感情を捕捉しようと試みるやや多動な視点は、受け手を室内観覧に導く。美術で元が取れる話である。
話がでかくなると序盤のタタキの精度を維持できなくなり、半グレの三下の情態を細密に叙述する演出家の資質は、階層を上るにつれて人物の細部を取りこぼすようになり、マクロスケールの敵を見失う。が...
牛丼屋の店先を往来する市井の人々で幕は下りる。この社会主義リアリズムが喩えようもなく不穏なのだ。通行人が皆、三人を抹殺せんとする仮装した半グレの残党に見えてしまう。人々の歩速や密度が一様すぎる等、モブのディレクションに不備があるのだが、「敵」を見失ってしまったこの物語は、あくまで無意識ではあるものの、ようやくあの往来に敵の構造を捕捉したのだ。
現代劇にベタな探偵を導入し、よりによってダニエル・グレイグをそれに配役する現実準拠の薄さに謂れがないわけではない。アナ・デ・アルマスの無意識によって仮構化された事件は、内容のない罪に苛まれる気持ちの悪さで彼女を圧するのだ。しかも、無意識の自殺教唆になっているとおそらく語り手が気づいてないことが、メタな不穏を全編に浸透させている。
佐々木が芸の肥やしにされた。この印象は視点整理の失敗に起因すると思う。佐々木が独りだけの場面が方々にあり、彼の内面が暴露している。これは話の趣意からすれば叙述エラーだろう。被害者面の競い合いになりかねないからだ。
萩原みのりの兇悪なアニメ声にThe文系殺しとしかいいようのない小西桜子。邪念の照れのなさには生理的琴線があり、それは赤ん坊を使って、被害者になる競争において藤原季節を佐々木に肉薄させ、佐々木を芸に吸収させる。彼を永遠にしたという晴れやかさに藤原は昂揚する。
金子が長考する不思議な間が受け手を彼の内面から引き?がしてしまう。ただでさえ後世の類型からずれる、苦悩する金子の造形は把握しがたい。曖昧な人間像は、だからこそ、西村と飲んで白木マリと寝て浜村純を襲う夜の工程をこなし、精力が狭い直江津の地誌と化す。
西村晃もわからない。モジモジしても声の気品が威厳を取り戻す。金子に対する態度にはセクシャリティがありすぎる。西村の生来的な女性性が行き場を求めている。最後の車上でふたりは諦念の後に宿命を共にした夫婦となるのだ。
ジョンミンがジョンジェを発動させたのは本来の仕事の外部効果にすぎない。しかも本筋たる誘拐パートと冒頭も関連がない。怪獣映画の劇伴をバックに襲来するジョンジェを乗せた匿名のトゥクトゥク運転手の度胸たるや、あれは何事か。伏流の欠如は野性の浪費として現象し、男たちは盲目的な機構性を享受する。祝祭に巻き込まれた女の抱く野性への呆れは母性へと転義される。
伊豆キャンの帰路である。何かが終わろうとするその旅情は確かに何らかの格調に飛躍していた。うまく主題化できない感情にコミットさせるのは、なでしこにとっての姉の視点でありリンにとっての祖父の視点だ。映画ではこの他者の視点が消失し、格調は訓話へと形骸化している。これは核家族の物語であり、今やそれは解体し他者の視点を失った。伊豆キャンの帰路や保護者たちの視点は終わろうとする家族への哀惜だとわかるだ。
ドライバーが車を経て5万円に化けるような計数感覚が日常の秩序に埋没する即自的性格を扱うと、川地民夫は牛乳、新聞、玉子の生活感の体系に現象する。日常の孔にはめ込まれた多動性の往復運動が郷^治と長門裕之の筋を転がしていく。この物体感覚の両端にあるのがエアコンのない世界の叙景と川地のアヒル口である。
献身されると自由を奪われる。堅気になった草gを拒絶してしまうのは、これを知るからである。ダンディズムが自由と独立を希求している。しかし自由の性質を知るからこそ泣訴を活用して人の自由を奪いにかかる。海辺で窮乏をネタに人を怖がらせる草gの、泣訴の味を知った没落したダンディズム。その曰く言い難い表象を曲芸的な自裁で現実化する上野鈴華。
ナトリウム灯のモノクローム映画に彩色をもたらすのは抽出された臓腑。ロングで人体を破損していく距離感を刷り込まれると、遠景が緊張を強いるようになる。かくして老眼になったメルギブの倒錯した遠近感は実体化する。尾行は旅情を帯び、強盗のテープレコーダーに知性が宿る。
無能を実証すべく客が来てしまう。客が来たら仕事にならないからだ。したがって捜査から遠ざかるほど真相に近づいてしまう。それは民話のような痴性の聖化であり、制御される無意識という矛盾を叙述する公案の寓話である。痴性とは無意識の別称なのだ。
アンチホラーではない。内実はオッサン観察記としての杜映画に近く、メタな眼差しは違う方角を向いている。ニコラスに台詞はない。にもかかわらず主観はある。この複雑な自意識はナルシシズムを茶化さずにはいられない。複雑な自意識こそオッサンが掃除するだけで映画が成立する怪奇を担保するのである。
エナジードリンクがカラータイマーとなる時制感覚は確信犯である。最後の着ぐるみと対峙する横一の広角の絵が怪獣映画の分節を露わにする。しかしながら、怪獣映画のレイアウトにもかかわらず事はあくまで屋内である。ニコラスの自意識が遠近法を犯し始める。
あんこの体型的矛盾が不安を呼ぶのか、動くたびにドンソクの周囲には物理的違和感が生じ、鉄片がその肉にめり込んでもまことに手ごたえがない。筋と質感は肉壁の霧ないし牢獄の柔らかさに埋没してつかみどころを失い、筋は滑るように進む。それは機敏なあんこというサモハン的徳の孕みである。他方で、疎外される手負いの獣の哀れが徳の横暴を牽制する。両者のIQを賦活させる職人的な作話が造形を多様にする。
致富の代償が明確には知られてはならない。それを知ることがオチになるからだ。筋のこの前提はゲームのルールを無茶苦茶にする。喪失したとされる力は、イベントに応じて加減を繰り返す。願いはある程度行けば排他的になるだろう。そこを曖昧にするためにもルールは弛緩する。
失恋の自棄食い衝動の突き上げで上昇する女は、中空で解放感に襲われ、感情はだらしのない筋の起伏に翻弄される。感情でルールの信ぴょう性を担保するかのように。他方でルールの緩みは、排他しない願いの矛盾にこぶしの行き所を用意する。愛する男の自律した肉体に。
リアリズム文法で捕捉された後背の雑踏と芦田伸介の芦田らしいナルシシズム演技がかみ合わず、油断すると口端が持ち上がりそうになる。すでに60年代から年齢不詳な大滝秀治が、地面や机を這う身体能力を活かし、コメディリリーフとしてこの不始末を吸収しようとするも、雑踏のモブとは異次元の可愛すぎる笹森礼子は誰の手にも負えず、笹森の色香に童貞どもが振り回された印象に終始し、素朴な筋立てが普遍的哀感に達する。
本編が本当に本編として機能してるというか、大映ガチ時代劇の強度が特撮を包摂して、円谷とはまるで違うリアリズムに達している。その割に魔人が初心で高田美和にいいようにされてしまう。
ガチ時代劇パートを引っ張るのは遠藤辰雄の機能美だが、声音はあの愛嬌だからやはり印象は複雑である。ガチ時代劇で硬化した芝居に内包される辰雄性とガチガチの鎧で身を固めた童貞という魔人のパラレルが何らかの作家性を予感させる。
長門裕之の顔パーツはその中心に吸い寄せられるように配置され、自らが自らに陥没する勢いがある。渡辺美佐子はこれを嫌がり、顔を見るとつらいという。長門が事件を放り出し美佐子の尻を追うと伊藤孝雄が勝手にやってくる。陥没が陥没を引き寄せるように。これが許されるのは、伊藤がやってきたら皆が不幸になるからだ。熱海の北林谷栄のように、焦らし方やすれ違いの作り込みが成功していて、美佐子との痴話という公私混同が選択を迫る状況を設定する。長門の集中線のような顔容も放心すると母性の吸収源となり、美佐子の未練に納得がいくのである。
たとえば、生計の手段が絶えず疑義に晒されるような生活感のなさが、生活の物証を追及するゆえに、景物の質感は高い解像で捕捉される。これがモノクロと齟齬を起こしてますます作りごとめいてくる。
筋についても少年は絶えず天恵に晒され、大人たちはNPCのごとく造形にバリエーションがなく地勢にも差異がない。生活の物証への強迫観念も仇となり、この構築感はオープンワールドゲーム的というより、太秦的アトラクションへ収束している。
女の幸福を願いたくなるのは、薄幸が正しく実効しているからだ。相思相愛の破綻は偶然に委ねられ、男の未練を温存させるように。人生の敗残と失恋が相互に傷心を参照し合っていく。かかる筋の効率性の究極形が、やさぐれるほどに純愛が実証されるジレンマである。
紙媒体になぜこだわったのか。同人サイトを経由するのが普通だろう。雑誌がイベントの起点になるから前提の弱さが以降の尤もらしさを損なう。またヒロインには才能も度胸もあり最初から完成されている。自分の中には課題がないから自分探しは外へ向かう。
オチも凡人には嫌味がある。どんな障害があっても才能は露見せずにはいられない。だが起点の現実感のなさは回収されるだろう。どんなルートを選んでも行き先は同じなのだ。そして、宿命に導かれる人に感化を受ける周縁にこそ、物語は課題の最たるものを置くのである。それは受け手自身に他ならない。
地面の形状に沿って各々の知性と根性が定義できる映画的事態が、組織内力学の叙述に行かされる一方で、形状に左右されない痴愚者は超地上的な視点に至り事態を包括する。それは、90年代にありながら、すでにそれを懐かしむような態度である。終焉を迎えようとする集団にノスタルジーというには生々しい90年代の懐かしさが仮託されたのだ。
60年代の時代感覚はむしろ失調するべきなのだ。稽古量とカット数と蒼井優の言語センスが鉱山という箱庭を作り込み、時代感覚の閾を跨がせ架空の日本を構想する。松雪泰子が、炭鉱夫たちが、時代感覚の失調の最たるハワイアンセンターになだれ込んでいくのである。
ミュージカルの叙法に反して、皆、望遠で歌って感情を発散させず、むしろ内面に没頭し、これらの寄りがゲームCGの遠景と交わることなく相対する。歌劇の形式主義はむしろ表情筋を規制し、画面を髭面の八の字眉で埋めていく。オッサンの泣喚が、アマンダ・サイフリッドの小池栄子顔が、相互に脈略を欠いた、ダイジェストでしかない筋に映画という統一の場を与える。
2010年代がわからない。近すぎるゆえに20年代からはうまく捕捉できない。現代邦画としては破格のミュージカルとそれに対応する森山未來の身体能力が、そのぼんやりを超克する。歌劇が麻生久美子のアニメ声を違和感なく組み込む。麻生という森山以外の視点が導入され、これを経由して長澤の内面にたどり着ける。段取りがうまいのである。段取りがうますぎるゆえに、わからないものが不明瞭のまま話がすすむことができる。長澤の内面が開示したところで、彼女のわからなさは変わらない。むしろ性格の一貫性が危殆に瀕するばかりで、これ対する森山の執着すらわからなくなる。確実に終わったのだが評価の定まらない2010年代という文明を象徴するように。
政治小説が筋を妥協させ、妥協した筋が政治の信憑性を侵してしまう再帰構造。その無風の中間地帯でキレのない身体と戯れるマーゴット・ロビーは次第に存在を埋没させ、他者の感情の媒介そのものになり、唯一作り物ではないユアン・マクレガーとクリス・メッシーナの感情の生々しさを外化させる。
ケイトのヒラメ顔が紗のかかった画面を大型魚類そのものの緩慢さで遊泳する。貞操を狙われるルーニーは水族館の隅で怯える小動物である。時代劇の構築感を覆うべく発生した質感の霞が、水槽のようなその質感が、生命のない構築物の中でケイトのヒラメ顔という生体の生々しさを誕生させる。彼女の様態は人類が魚類に抱く根源的な嗜虐心を誘うが、時代劇の構築感が生体の横溢を憎むのである。
キャワイイという存在するだけで価値がある事は、それに際した観測者にとっては感情の強制であり暴力である。その強制力が有標化するキュンキュンな傷みを思春期・卒業・ゼロ年代のノスタルジーと取り違えてほしい欲望がある。感情の混線は山なのか海なのか、田舎なのか街なのか、無医村のわりに祭りは混雑するような、把握しがたい空間的表象を構成し、その究極として雨月物語的時間倒錯に至る。そこに顔を出した別の夏帆の不穏さは冒頭の幽霊騒ぎと連結する。美の暴力は当人にも及ぶのである。
梶芽衣子の超時代的アイドル顔が白石加代子の情熱的なニューシネマを朗誦劇として再構成してしまう。それはフェミニズムと対峙した昭和のモラルの混乱でもある。秩序は渡辺文雄のインテリジェンスに救いを求めるも、文雄がこの劇画をあまりにも気持ちよく演じるために、むしろ男性性の重荷からのオスが解放されたような、去勢のよろこびという倒錯に至っている。
文明と呼ばれる状態に達したのなら、異なる時代にあってもそれぞれの文物は互換しうる。おそらく盛唐と18世紀欧州の詩人は容易く疎通できるだろう。文明互換のこのうれしさは技術屋の連帯として知覚されるのだが、文明が時空を超えるこの事態こそ凶事を招いているわけで、因果は転倒している。ジミヘンとサッチモの邂逅があんなにうれしいのに、最後のライブは盛り上がらない。因果の転倒を整理できないのである。
大竹しのぶの天然と自意識の狭間で低徊する90年代前半文明というニッチ。室田日出男の悲劇を呼び込む力と優男のダメさが、ちあきなおみの協賛を経て、大竹の魔性というその息苦しき90年代文明を圧していく。天変地異とともに、時代の牢獄から放たれた俗事が至るのはキレキレの不思議空間。
「わたしを倒して(推薦状を)手に入れろ」 ヤンキー映画を老人がやることで互いに関連を失った肉体と精神は、老いてなお弟子たちの前でオス性を試されるつらみと、老人の育児の痛々しさの中で苦悶する。老成できないオッサンたちは喧嘩の種を撒き続け事態は発散し、いつしかそこは脳筋世界ともいうべき苦渋顔の詩的ファンタジーと化す。小龍俳優チャン・クォックワンとケント・チェンだけが然るべきにいる人間の相好をしている。
キュレーターの独演会が尺の多くを占めるために不毛な説明台詞の映画に落ちかねないところを、楽太郎(修復家のラリィ)が研修の女子大生を前にして台詞を3度噛み、負けじと隣のオッサンが蘊蓄を垂れ始め、辛みで話を引き締める。ピークは絵の由来を聞かれたオッサンが延々とマニア話の沼に沈み込んでいくところ。
知性信奉が、正義の侵害自体を云々するよりも侵害に感づいた瞬間を捕捉しようとする。それは知性の捕捉に他ならないからだ。たとえば、ミランダ警告に際したハウザーの反応や最初にFBIに電話した際のロックウェルの不審顔。その反動として無能力への憎悪が止まらなくなり、FBIとブンヤが水戸黄門の悪代官のような類型化の迫力を帯びてくる。
職人賛歌の割に政治的体面を気にしてしまう。職人の癖に職人に徹しきれないのだが、中産階級の坊ちゃんたちの徳が時に厚顔へと転換し、かかるサイコ性の方に職人のダンディズムがある。
岡田准一の生来の軽さも演出家の性癖ともいうべき草食系の恋愛観と迎合する。検察側の罪人の吉高由里子の再来ともいうべき柴咲コウに言い寄られると、一寸、鼻の下を伸ばすラヴコメ。職人と政治の兼ね合いを尾上右近の文弱の意気地が達成すると、年末時代劇スペシャルを見たような懐かしさが淡白な結末に妙な郷愁を走らせる。
小松菜奈の軽量級の芝居は、オッサン学芸会にとって屈辱になるのか優越になるのか。被虐のその繊細なバランスが女衒退治の通俗のうれしさに飲み込まれていく。オッサンの自卑でありながら自尊心を温存したい邪念が後ろめたくなれば、叙法はいよいよ大仰になり、オッサン学芸会に喰らいついていく橋本愛がいよいよかわゆい。
アンチ自然たる自分たちの本当の敵とは、妻ではなく子どもの自責や柴犬の媚態といった生存戦略そのものである。これに気づいた藤原季節の自然に対する自爆的抗議。堀部圭亮のマンガ性に感情を煽らせる手口もさることながら、自責で大人を操る外村紗玖良がやり手の置屋の女将のような貫禄になってしまい、この典型的佳作に陰翳をもたらす。
このままでは、移民がスプリングスティーンにはまったという文化侵略の話になりかねない。これ避けるべく、父の未成熟へと問題のすり替えが行われる。何よりも青年には才能が保証済みという安堵がある。しかしそれは誤誘導である。父を未成熟と認知した自分のほうに成熟がなかった。この意識の深堀が、記号でしかなかった才能を具体化して受け手の目前で展開させる。
消尽したテストステロンはもはやカーチェイスの力学に耐えきれず、車は次々と勝手に自爆する。ヒゲ面の男たちの集団的更年期障害が希求するのは、それぞれの不安を包摂する生ぬるい連帯。その結実としてのリモート手術。ドゥニ・ヴィルヌーヴ節がエメリッヒ的な去勢不安を捕捉するその重さ。
現代編の仕込みが鬼のような郷愁の苦悶を送り込み、青春の絶頂が凪のような失意の感情の質感に沈む。その耐え難い静けさ。事態の記号と化したコックス(清水真実)は絶叫して郷愁の苦悶を運動の苦悶へ誘導を試みる。結論は出ず、この苦しさは受け手に向かって放擲される。
北越戦争しか扱わないのはひとつの見識だが、小説とは違いこの人物の行動原理を碌に知らないまま修羅場に放り込まれる結果、オッサンのキャバクラ説教を2時間にわたり上映する狂人劇になっている。狂人を観測し感化を受ける永山絢斗の人の好さが救いで、3-4X10月や硫黄島からの手紙に類する従卒映画にも近い。
アラナ・ハイムの表情筋は馬面にしては特異な挙動をする。上下に平面的に伸びるのではなく前後立体的に起伏する。葉っぱで田中裕子状に歪むと陥没が求心となりオムニバスドラマを統べる。時代劇の必然性を担保する最後の社会小説が傷心者の連帯につながる。
芝居のうまさが祟って高嶋政宏はゴッドファーザーでいうところのソニーにならない。解離する岩下志麻のストレスを追求しようにも息子の没入を厭いながらも母の血は騒いでしまい、収まるところに収まってしまう。本田博太郎は物語進行の押韻であるがそのナイト振りが変態的になると母と息子の予定調和は破れ、ある一家の崩壊劇が滅尽の美となる。
堕ちる加速感を担保するのは幼児の成長であるが、変貌の有様はメタモルフォーゼに近い。頓挫した時間経過の構成が容姿を非連続化し彼は時間の指標となる。傍観性への陶酔に達した虐待の後遺症が幼児を生体としてしか捕捉できず、あるいは母を素材として見なす。
成田三樹夫以外、みなおかしい。世良公則との絡みで顕著なように成田が蛮人の迷惑を被るのは類型であって、物語はカテゴリーに帰属している。しかしその常識の重しが脱落すると、バブル直前の絢爛たる風俗から時代感覚が剥離して、かたせ梨乃は五社英雄ゴシックの怪奇に放心する。むろんカテゴリーエラーである。常識が外れるタイミングが異様なのだ。
工藤遥は個人主義のイデオローグであり、周囲が感化を受けて奮起するのは機序が少々怪しい。工藤自身は自分が頑張っているとは思わないから、終盤のユースは盛り上がらない。前段階たる卓球とネイルや工藤の個人主義を翻案する部活の先輩らに喚起の力がある。
懲役で牙を奪われた稔侍。遭難のトラウマで挙動がおかしくなる中尾彬。行く先々で死体の山を築き、女難の化身となる石田ゆり子。酒精依存の志麻がトロンとしている間に、かたせ梨乃が騒動を引き起こし嵐にように去っていく。津川雅彦が展望するのは事件というより人間絵巻である。
音楽的な演説を始めるソンギュンも”閣下”の一座も挙措は歌劇に準ずる。殊に室長チョ・ウジンのヌルっとした軟体感。話の底流にある実務家蔑視はミュージカルの話法に特有の内容のなさへの自己嫌悪でもあるのだが、ソンギュンにも中身がないとすれば、どちらにせよ徒労であるから野望の挫折が悲劇にならなくなる。
ストリップバーを巡回する年齢不詳の幼児体型という肉体の批評性が物体や時間の焦点化を頓挫させる。男女共々、資産と外貌のリンクを失い、社会と個人の好況は同期しない。にもかかわらず、好況への追憶は社会化している。この乱視はヒロイン当人の境遇に回帰し、横柄と不安の混在した寄寓者のフワフワとなる。
川谷拓三一座に厚徳があり、中井貴一の自己顕示欲に苦悶する彼らが忍びなくなる結果、安井昌二版と違って信仰へのフリーライドが胆力となってしまって、85年版が揶揄の対象になる所以となる。三角山から文太が出現してきたイヤさから何かが歪み始める。
子どもをあの境遇においても自動的な反応しか期待できない。そこには自由意志がなく話は世界ネコ歩き程度の表層にとどまってしまう。基本的にスターリング・K・ブラウンがしくじった話であり、彼の試練こそ文芸に値する。だからこそ、その父権が報われる懲悪の含みが、余計に息子から受け手の気持ちを逸らしてしまい、ぼんやりとしたホラーになってしまう。物語は選択の自由に意識的であり、他に未来があったと妹は父に告白する。その一場面だけでオス性を損なった親父が恢復してしまうのは何なのか。DV父と一瞬で和解できる機序はどうしたことか。教材に堕ちかねない筋だからこそ演出が力む。
大人になれなかった物語。問われるのは管理職から逃れてきた技術職の成熟。学級崩壊は必然といえるが、この課題に正面から取り組み解決したID4に比して、こちらはビーチで戯れて有耶無耶になる手軽さである。むしろグレン・パウエルの成長ないし度量の発見が本筋を凌駕している。彼の余裕の振れ具合が事態の切迫の指標となる程に。
台詞と劇伴が雄弁になるほど、死体がオブジェ化するジャーナリズムの作用。耐えられないのは状況なのか、動画配信者の機能的心性なのか。後者の背徳を感知する無意識が人を状況の説明に走らせる。前近代社会を遊離するインテリが包囲下の祝祭的戦場に見出したのは精神的故郷である。
どこから見ても不審者にみなが嬉々として心を許していく。阿部サダヲがこの無防備に憤るくらいだから語り手には瑕疵の自覚がある。サダヲを招いた被害者の心のスキマこそ問われるべきとされるが、サイコの運動が目指すのは人々の属性の漂白である。死体の山に埋もれ個々人は匿名化し過去は希薄となる。他方で、脱落した内容からは相対的に絵面が屹立してくる。たとえば台所ビールの、その喜劇のような緊張の意味のなさ。
就職の心配がなかった点は幸福だったと三島は戦時中を回想している。主夫家庭の不安が安寧を求め、震災というその戦時経済を引き寄せ、事態を社会化するのである。自衛隊は戦時のシンボルと化し、救助そっちのけでひたすら焼野原を行軍する。
作家志望者の挫折が商業主義の批判にとどまらなくなる。挫折の辛みの強度が主犯の動機すらも凌駕し、それを才能の持て余しという贅沢病にすぎなくする。作家主義が商業主義批判になる理路は切断され、それどころかその批判が無能力への糾弾へと逆流する。この円環の中で主犯の執着は意味を失う。
人が動機を欠くのであれば筋で追い込むしかない。弁当が欲望と背徳を仕込み、行動を発展させていく。状況に刹那に対応するしいかないその行動主義にあるのは瞬間のみ。歴史は欠落し、行為の完成は形式を強いられているうちにとつぜん発見される。彼女たちは人間に目覚めたのであり、眠りには時間が欠落するからプロセスがない。
組織内事情への内向が抵抗の理由を不明瞭にする。人でない方がかえって幸福に見える。行政案件に政治が対応した類型であり、社内恋愛の拗れが業務を滞留させる。怪人組織がこのロマン主義に苛立つと、各集団の要を得ない目的が理念レベルで浮上する。
色気の演出とは対話中にあらぬ部位へとズレる視線である。自主映画の演技とストリップバーで混線する欲望である。男に覚える色気はステージで踊る女たちの感化なのか。色気は質感を求めズレ続け同性愛を成熟一般の課題へ逸らす。期限にやきもきする恋が色気の実体を担保するが、それは未成熟の特権に他ならない。同性愛と成熟の間で課題がふらつく内に残り30分が消化されていく。
小林薫父子の和解に焦らされる、恋のようなすれ違いのスリルが伊藤健太郎が悪の勧誘に試される形で変奏される。そこに至るまでに、永山絢斗が付け入る心の隙間を熟成する気の長さがある。眞木蔵人親子のキレぶりにはクロスオーバーの笑いがあるが、やたらと戦闘力の高い市民たちが伊藤を追い込むことで、通俗は本筋へと組み込まれる。それが意外と円滑に見えてしまうのは、船上で活動する高齢者という存在そのもののリスクと余貴美子の疲弊せる年増の色気が筋を治安の悪さに馴致した成果であろう。
ドメスティックな題材が矮小さゆえに感情の信憑性に到達することがある。脆弱な外交リソースが路頭を彷徨わせるくやしさ。しかしドメスティックさゆえにアフリカ憎悪には容赦がなくなる副反応がある。立場や利害を超えるのは外交官同士の公安関係者同士の職業的連帯である。しかし終幕の浪曲調は連帯を担保したプロらしさを損ないかねない。
西田尚美の非日常的な四肢が闊歩すれば、島は民俗村のように生活感を失い、歌劇を筋へ食い込ませる。脱俗の効用はダメ男たちの生態を抽出し課題を普遍化するが、ダメ男が哀しくなるほど、自由恋愛を否定する封建的遺制の利点が再確認されてしまう。この整理のなさは、西田に鼻の下を伸ばすうちに忘れるというより、これに引っ掛かるから西田のアイドル映画を全力で享しめない。棄てられた登川誠仁の内面に土足で踏み込まないのは格調だろう。
筋を駆動させる案内人の便利さは能力と徳をリンクさせる。報復を待つまでもなく無能者は全編にわたり懲罰され、歩く災害の迫力と化す。有能な男は迷惑な女を放置できない。力があるのなら行使せずにはいられない義務感が故郷喪失の感覚へと男を導く。能力とは生来的に孤独を伴ってしまう。便利すぎる男に自助を奪われた女は、森で譫妄するタヌキという困難な形容に身を任せる。
サノスを襲うとか石を云々とか動機付けを台詞に依存する朗読劇であり、紙芝居に質感を与えるべくヒゲ面たちが泣き顔の堀を深めていく。要は顔貌の起伏で時空を連関させる類の映画だが、根拠なき接続は無差別と同義であり、無差別は自助の実感を失わせる。いかにすればこの類のジャンルを5W1Hで叙述できるのか。ヒゲ面の中で孤立するクリス・エヴァンスの時代錯誤な容儀が作中で違和感を醸し続ける。時代疎外的な佇まいは50年代を境に文明が分断されている証左であり、クリスの人生にその境界を跨がせることで時空は最終的に定着を見る。
男が教え子と遭遇する出来過ぎた偶然は、良き教師像としての男を提示して女の気を惹く創作上の機能が明らかになると許せてしまう。妹の動画を褒めさせて男の好意を受け手に惹きつけた直後、些事のつまずきで空いてしまう失恋の穴。帰宅しても忌まわしいウイッグを律儀に外さない女と媚態を崩せないチャット相手の女の緩やかな天然。そして宮アあおいから萩本欽一へと顔合成のように一定しないルーシー・チャンの多義的な顔容。
オカルトという仇を見つけた。叛乱するチンプにトラウマがある。これら動物という自然への憎しみを多重のアイロニーが媒介する。オカルトを退治するのは被害者自身とその係累ではない。男を擬したバルーンがオカルト退治というアンチ自然を達成し、叛乱するチンプという自然への憎しみを充足させる。オカルトによって台無しになった格調はアイロニーという陳述の格調に姿を変える。この論理性が筋を通俗に向かわせる。
発作によって緩急を管理するディザスタームービーの書式が症候を容赦なく記述していく。そのリアリズムは災厄に際した人間の根性を試しつつも、人をモノとして把握するために必要以上に人のドロドロに踏み込めず、かえって前向きな人間観と共振してしまう。本作の場合、それは救いだろう。
敗戦のトラウマを利用して男を動機づける起業映画としての体裁が、拘置所の大回想が始まると独房に木霊する喘ぎ声に挫かれる。教義は倫理的な応報機構からの解放を求めるが、宗教の近代化は宗教を無用にする意味で論理エラーである。丹波哲郎とそれ以外のキャストが異なる演技の秩序に準則し、奇人に稲葉義男らが大真面目に際する絵としてその歪みは現れる。しかしそれはヒューモアでもある。
あおい輝彦の色気が男を捕捉した。折伏はナンパ術となり、美青年を唆す古典劇に丹波演説は放縦する。教義の核心へ男を近接させるのは渡哲也の色気。その窮極にある仲代達矢のシェイブドヘッド。今や人間の生理に根拠を得た演説は朗々と昂じ始めSF化する。
ジャック・タチ的な、疎外された叔父たちの不穏を範例として、恋人や家族の喪失が次々と派生し明るい筋が陰翳を孕み続ける。その因果の感覚はMJとのすれ違いコントの哀感となり、コスプレ趣味のオッサンが衣装のまま路上で頓死する醜態を晒すほどその人間類型は重い。
無意識の効用に依存する肉体言語観は、古川琴音をして形象豊かに鼻腔を広げさせる一方で、筋の構成的な運びを忌避する。萩原聖人は本筋と交錯しない。男の顛末は三角関係がドロドロにならなかった安堵をもたらすばかりである。類型に則るのならヒロインの瑕疵はダミーであるはずだ。男が救われるべきであり、実際に男の方により重大な瑕疵があるのだが、設定だけで類型は終わる。ベタではなく、むしろお約束が履行できていない。