2006年12月の日記

 2006/12/01

八十田勇一の異化作用――『サラリーマンNEO』

「NEO EXPRESS」に限定すると、中田有紀と八十田勇一の絡みはごく間接的なものに留まる。八十田は取材対象として投入されるのみで、スタジオにいる中田との間で直截の交渉は持ち得ない。

ただ、フェイク・ドキュメンタリー調の語り口にあって、演技の過剰な彼の眼差しは気持ちの悪い異化作用として働きがちだ。

NEO EXPRESS

たとえば、上記の「上司レーダー」が直後にスタジオへもたらされた時などは、意外な形で中田のサディズムへ挑戦することとなった*1


ところで、彼らの対面は「よく見る風景」で実現を見ているのだが、そこで八十田は、カウンターの向こうで加虐を繰り出す中田を前にして、奇抜な言動を展開した。彼女の、サディズムの鉄壁が試されるわけだ。

NEO EXPRESS

しかしながら、「〜風景」で八十田の試みが成功することはない。彼女のサディズムは、あくまで間接的に崩さねばならぬのであり、直截に崩れるようでは、そもそもサディズムとはいえない。あくまで崩すべきサディズムは継続せねばならぬような、微妙な操作が要請されている。


対中田に限らずとも、八十田の異化作用は方々に見受けられた。前に触れた「川上くん」もそうであったし*2、「ワールドカップと柏原くん」でも、目前の風景が実は劇中劇だったと最後に判明するような語りが、八十田とマギーによって担われた。

*12006/11/08を参照。
*22006/06/26を参照。

 2006/12/05

タナカヒロシのすべて [2004]

『タナカヒロシのすべて』

  • 監督: 田中誠
  • 脚本: 田中誠
  • 撮影: 松本ヨシユキ


  • 定時に帰宅可能な人生のぬるま湯感が継続されるべき幸福とされるのなら、恋愛は不幸と拮抗することで非日常を打ち消し合ったと解せるし、風景はごく貸借対照表然に語られたのだ、と思われる。また逆に、日常のルーティンワークから脱出するプロジェクトが始まったとするなら、不幸は負担して然るべきリスクとなり、あるいは、モテを獲得するために日常は欠損せねばならぬような、恋愛至上の裏返しも垣間見えてくる。

    到来した非日常が、ルーティンワークの幸福を説話調に想起させる点では、ふたつの仮託は並列して合理化され得たといえるだろう。が、弱気感が恋愛も病気も事故も就業に至る刹那的な通過儀礼としか扱えなくなるにまで至ると、切実で温厚な歓楽装置の全体像が明らかになるようでもある。

     2006/12/06

    子連れ狼 死に風に向かう乳母車 [1972]

    『死に風に向かう乳母車』

  • 監督: 三隅研次
  • 脚本: 小池一雄
  • 撮影: 牧浦地志


  • 観測者の思考からすれば、加藤剛の美意識にケイオティックな面持ちを見込めたとしても、内的には整合的な体系として、それは確立されているのかも知れぬ。われわれとしては、ただ、若山の発話を参照して、整合性の予感を見出すに過ぎず、かかる体系を把握できないもどかしさも感ぜられるし、あるいは、観測者と加藤の間隙を利用して思考の猟奇性が語られたとも解せる。が、加藤自身すらも把握できていなかったとなると、思考の分離感はわれわれと加藤の間だけではなく、彼自身の内面でも現れてくる。若山の指摘するような、制御できない美意識の眠る身体への違和感である。

    加藤自身の自我の統制が問題となる以上、物語の終末の風景は、加藤の視角で担われねばならぬ。彼がそこで見るのは、頭部が脱落し、取り残された自分の身体であり、詰まるところ、思考の分離感が物理的な形で身体に波及した、と見なせる。


    前二作と比べれば、見せ物としての嗜虐描画は控えめなだけに、余計、精神衛生上の変態色が濃い。

     2006/12/08

    炎628 [1985]

    『炎628』

    Idi i smotri

  • 監督: Elem Klimov
  • 脚本: Ales Adamovich, Elem Klimov
  • 撮影: Aleksei Rodionov


  • 事後的にいえば、グロテスクなサバイバルの過程が、生き残ってしまったことの感覚をかえって喪失せしめたことであり、あるいは、残存の感覚が祭りの後の空虚感へ誤配線してしまって、生存の意義をもはや問えなくなったこと。事前のイベントで述べれば、総じて夢見るようなソフトフォーカスの皮膜であり、砲撃の後に訪れた無変調の森閑であり、または、死体の山とそれを認知し得ないで通過する被写体との距離感。

    むろん表向き、感覚を遮蔽する大気の層は処理せねばならぬとされる。しかし同時に、かかる障壁は、少年の硬化せる面の皮として帰結するような、人格の平衡を保存する防衛機制に他ならぬ。

    それは、究極的な当事者になり得ない(=生存してしまった)ゆえに、報復の正統性に欠けてしまった事へ苛立つ、ごく基本的な倫理の感覚といって良いし、はたまた倒置して、無感覚の皮膜を突破できない、まるで副鼻腔炎のような居心地の悪さを語ることに、空気感の壁が利用されたようにも思う。

     2006/12/10

    『硫黄島からの手紙』を観た

    • ハギス脚本が後退した分、イーストウッド老らしい残虐なヒューモアが天こ盛りである。『〜星条旗』がイレギュラーだったのであって、『手紙』で元の語り口に戻ったみたいな。

    • なので、敗戦国映画に『〜星条旗』のシナリオワークが投入されたらどんなるだろう〜ワクワク、という期待には添わない。冒頭の想いで残留装置は、ごくぞんざいな扱い。メソメソというよりも案外にクールなお話。でもって、その距離感がかえって後を引くような感じ。

    • 戦勝国映画で悲壮感を語るために、膨大な資源がシナリオワークに投入された結果、『〜星条旗』の方が突き抜けてしまった、ということか。

    • ちゃんとした照明設計で日本軍のコスチュームを格好良く観られるのは濡れるが、これは60年代の岡本喜八が先行してることなので、付加価値とはいえない。

    • でもでも、やっぱり「ここはまだ日本か→閣下あ(ノД`)→うぬれアメ公(`・ω・´)」な敗戦邦画のテイストが流れ込んでくると、うっとりして辛抱たまらん。童謡もええ、催す。

    • 獅童かわいいよ獅童

     2006/12/21

    Speed of the Sound of Loneliness (1)

    ミートキーナの村は起伏のある川の畔にあった。地元の人たちは、例の廃坑のある丘の村として記憶にとめていた。

    峡谷を見下ろす丘は、村の南外れにある。丘の東斜面に穿たれた横穴に話題が及ぶと、土地の長老たちは一様に口を濁すのであったが、近寄ろうとする余所者には、決まって謎の警告を述べるのだった。――

    「やめておけ、童女愛好癖が移っちまうぞ」

    丘には四季があった。春になれば緑が丘陵を彩り、千紫万紅の秋になれば谷間に山百合の花が香った。やがて、丘は厳寒の野となり、そしてまた春が訪れることだろう。

    横穴が棄てられて数十度目の春、菜の花の咲き乱れる丘はひとりの老人を迎えた。

    老人は寡黙だった。丘陵を登る間、一言も発しなかった。しかし、丘の上にたどり着くと、嗚咽とも吐息ともつかない声を漏らすのだった。

    『なつかしいロバアト、ついに俺はやって来たのだ。君を故国へ連れて帰れるんだ。もう寂しくないぞ、独りぼっちじゃないぞ』

    老人は車いすだった。死病の疼痛と衰弱に耐えながら、長い事このときを待っていた。かれはようやく、死ぬことができるのだ。

    1

    ロバアト・アクセルロッド先生は、篠塚アラシ(16)に大変な恋を覚えてしまったので、彼女に何気なく振る舞えるハジキの神経が、ほとんど信じられないくらいでした。篠塚アラシのような、俺様好みの美少女を前にしたら、何人たりとものぼせ上がり、尋常で居られるはずがないのであり、もし万が一、その肩なんぞに触れようならば、物語の論理的整合性に重大に危機が及ぶのです。

    アクセルロッド先生は、同僚テッドの研究室に駆け込みました。

    「なあ、テッド。アラシに入れ込むたびに、僕はアラシのある風景に実感を持てなくなるんだ。僕が風景に執着するほどに、風景は僕を拒むのだよ」

    テッドは例の如く、人生の放埒さを濃厚に醸造せる声色で、アクセルロッド先生を慰めにかかります。

    「アラシなんて、君は何時の時代の人か。今時はこれである」

    彼が懐から取り出し、高々と掲げあげたのは某フィギュ○マニアックス誌。その表紙には、悪魔のような黒バニーのハルヒが……。

    「刮目せよ。これはもう辛抱堪らんと言うほかあるまいて」

    アクセルロッド先生はその場に崩れ落ちます。

    「御前、そいつは棺桶までもって行けないんだぞ。僕も君も、いつかは黒バニーのハルヒとおさらばせねばならんのだぞ。みんな、みんな、滅んじまうんだぞ。僕は……、僕はもう沢山だ。黒バニーのハルヒは未塗装しか売ってないのでどうしよう〜〜、エアブラシの埃を払うのが億劫だよ――なんてことはもう沢山なんだよ!」

    テッドは人の話を余り聞きません。彼はデヘヘ笑いで、ハルヒに唇を寄せつつ、雄叫びを上げます。

    「莫迦め、えいえんはここにあるだぜぃ!」

    アクセルロッド先生は顔を覆いました。(つづく)

     2006/12/22

    Speed of the Sound of Loneliness (2)

    2

    ロバアト・アクセルロッド先生は、とつぜん仮借のない恐怖にさらされたのでした。右腕が、自らの意志に反して、傍らのリモコンを勝手に掴まんとするのです。

    ――嗚呼、今宵は『純情き○りスペシャル』の放映があったな……。

    アクセルロッド先生は引きつるような捨てばちの微笑を浮かべました。いま、無意識の欲望に屈して、NH○にチャンネルを合わせたりもすれば、あの純粋で美しかった半年前の気持ちを裏切ることになるでしょう。同棲事件の衝撃に打たれ、宮崎あおいとの決別を誓った自分を……。しかし、なおも右腕は、アクセルロッド先生の決意を嘲笑うかのように、謎の痙攣で振動しまくっています。愛とは何という責め苦なのでしょうか。


    不吉な予感に駆られた同僚のテッドが、アクセルロッド先生の研究室に躍り込んだとき、すべては手遅れでした。床の上ではアクセルロッド先生が虫の息になりながら、痴呆症の老人さながらに、謎の畳句を垂れ流しています。机上のモニターでは、16歳ヴァージョンのあおいが、西園寺先生のいけずな小言を喰らいながら、ほとんど正気でないあの病的な愛らしさを発散しています。何という天然の造形のあざといまでの秘蹟。そして、何という達彦の羨ましさ。

    テッドはアクセルロッド先生を抱き起こしました。

    「莫迦だなあ、君は。こうなることは判ってたじゃないか」

    「テッドよ、男にはダメと判っていても、やらねばならぬ事があるのだ。僕は満足だ。思い残すことはない」

    モニターのあおいは、達彦さんのほっぺにチュウしちゃいました。

    「おお、おお、僕はなんて卑屈で惨めで汚らわしいオッサンなのであろうか。僕の腐敗せる臓物の吐き出したる汚濁した空気を、あおいの呼吸せる大気に放出するのがもはや耐え難い。僕の血肉は葬らねばならぬ。焼かれて灰に還らねばならぬ。おお、あおい、俺のあおい。宇宙でいちばん希少で妬ましい生命体あおい」

    「ロバアト落ち着け。あの娘は、あ〜んな顔して、毎晩のように男のナニをくわえ込んでるのだぞ」

    アクセルロッド先生の躰は、電撃で貫かれたように反り返りました。黄ばんだ顔に、激情じみた晴れやかさと痛ましい驚愕が発作的に立ち上がったのです。

    「あ〜んな顔で! 男のナニを!」

    ミシガン大学セントラルキャンパスの静寂を、救急車のサイレンが破壊するのでした。(つづく)

     2006/12/26

    Speed of the Sound of Loneliness (3)

    3

    ――嗚呼、とかくこの世は苦しいものだ。酸素が足りない。脳が足りない。我が体躯は、宇宙的生命体あおい16歳ヴァージョンを受容するに、繊細なこと余りあったのだ。だがもう、苦しみは去った。今はただ、徒にメイドさんを欲するのみである。おお、その玄妙なる麗しき出で立ちの中に、際限なき郷愁を忍ばせるメイドさん……。我が妻、我が恋人、我が天使よ。

    そういうことで、一時は危篤状態にも立ち入ったロバアト・アクセルロッド先生でしたが、退院の祝いと称して、同僚のテッドにメイドカフェへ誘われたときなどは、「ふむ、そうかね?」と鷹揚に頷きながらも、想いは、メイドさんの丸味ある肩の線に沿って飛翔し、赤み帯たる白肌の華奢な足首に辿り着き、メイドさんが自分の男振りに参ってしまって、『ご主人様、抱いて頂戴まし』とでも言い寄っては来ぬか、否、メイドさんは明け透けに淫猥なる好意をご主人様たる自分に抱いてはならぬのだ、そんなのメイドさんではないのだ、と渇を入れつつ、出立の前ともなれば、沸き上がるニヤニヤ感も押さえがたく、平素より念入りに身支度をして、物憂げな振る舞いを装い、アクセルロッド先生は自分の好男子振りにいたくうっとりしたのです。

    「おお、テッドよ。見渡す限りメイドさんの大地ではないか。メイドさんの接吻の味を感じそうだわい」

    電気街に降り立ったアクセルロッド先生は、メイドさんの芳香を多量に含有せる空気を胸一杯に吸って、激しい恍惚感と目眩に襲われます。そして、テッドに歩行を介助されながらも、その愛らしい花の巣窟、天上の光明にして超世俗的なる濃厚にかぐわしき大気の間へ、一歩一歩と近接するのです。――おお神様神様。放屁、放尿、脱糞せる我が心地を鎮め給え。我が虚弱なる心臓にメイドさんを耐える勇気を与え給え。しかし、嗚呼、なんと言うことでしょうか。我々に与えられるのは、どうしてこうも試練ばかりなのでしょうか。左右に有り余るメイドさんに包囲されたアクセルロッド先生へ、おびただしい享楽的な悪意が、困憊した戦慄が、電光のように襲いかかるのです。

    「テッド、テッドよ! いい年こいて、メイドカフェを訪れる僕のような小汚いオッサンに、この天使たちは侮蔑を抱かないで居られようか。きっと、想像するだにおぞましき悪罵が、僕の見えぬ所で跳躍してるに相違あるまい。おお、テッドよ。ご主人様として恥じぬ振る舞いとは、如何なる行為を指すのであろうか。僕はどうしたらメイドさんの敬意を勝ち取ることができるのだろうか。――嗚呼、何てことだ。あのメイドさんは俺様以外の小汚い童女愛好癖者兼二次元愛好癖者風のオッサンに、『お帰りなさいませ☆』と発しているではないか。メイドさんの御主人様は単一ではないのか? 雪さんは一生専属ではないのか!」

    テッドは、テエブルに突っ伏してわななきを漏らすアクセルロッド先生の震える手を取りました。

    「ロバアト。雪さんの優しさならば、愛さずには居られないのだ。当然ぢゃないか。美少女は美少女の優しげなる気質のままに、我々以外の哀れなる小汚いオッサンどもを愛してしまうのだ。我々はひたすらに耐えねばならぬ。雪さんを想うのなら、この孤独に耐えねばならぬ。なあ、ロバアト。この生き様を黙って受け入れようじゃないか。世の片隅で静かに滅びて行こうじゃないか」

    アクセルロッド先生はカフェの騒乱を逃れ路地裏の影にうずくまりました。ストロベリーパフェが面白いように吐瀉されてきます。

    「教えて呉れテッド。雪さんが僕の前に放り込まれたとしたら、僕を保護してくれるだろうか? こんなにも哀れで汚らしいオッサンであるところの僕を愛して呉れるだろうか? 僕の一生専属になって呉れるのだろうか?」

    「雪さんだったら――」

    テッドは哀しみの色を瞳にたたえました。

    「君の首っ丈にかじりついて、甘やかな接吻を浴びせまくることだろう。君を胸元にグイグイと押し込むことだろう。君を一生専属にして止まないだろう。……ロバアト、俺はどうしたら君が仕合わせになれるのか、よくわからないよ。いったい君は何を望むのだ」

    吐瀉物の溜まりに身を横たえたアクセルロッド先生は、不自然な高笑いで、通過する人々の肝を冷却せしめます。

    「頼ム、ほどほどに見捨てないで呉れぇ」(つづく)


     2007/01/04

    Speed of the Sound of Loneliness (4)

    4

    本当に可憐なメイドさんとして相応しき人はそもそもメイドさんにならないのである。つまり、準風俗業に身をやつすはずがない。雪さんのような人はメイドさんにならないし、それが成り立つことには、どこか嘘がある。メイドさんであるならば御主人様に接吻なんぞ求めないし、御主人様の寝床をクンクンしたりもせぬ。まして、そこで自慰に耽るなどとは!! 嗚呼、でもでも、母性の尋常ない高まりが、雪さんの痴女めいた振る舞いに幾分かの合理性を与えぬとも限らず、かかる嘘か真かの絶妙なる釣り合いが、またまた辛抱堪らぬのであるが、それにしても、我がおぞましくも愚劣なる脳は、どうしてハアハアと恋悩むことをやめないのか。すべては、忘年会のお知らせすら回ってこぬような、この類い希なき僻地に見捨てられる由縁となった、我が人徳の欠損がダメなのだ。閑を持て余す余り、あれほど鋭敏であった我が脳に、悪魔が棲み着いたのだ。


    ミシガン大学海洋研究所は茨城の北にありました。アクセルロッド先生はワンカップ大関を呷りながら、終日、大プールの陰気な水底を眺めていました。本当のところ、閑が先生の脳を犯し始めていたわけではないのです。棲み着いた悪魔が、先生の機能を欠損せしめ、閑になるより他なくしてしまったのです。

    ――この水面に映りたる我が顔面を見るがよい。うっとりするほどに清らかだった好男子振りは何処へ行ったのか。我が明敏にて秀麗なる頭脳は何処へ消え失せたのか。もう何も思い浮かばぬ。何も書けぬ。呻吟悶絶して乾燥したる我が側頭葉から発想を絞り出しニンマリとしても、直後に決まって「いつものパターンやんけ」と絶望のどんぞこに落ち込む。すべからく同じ言葉である。忌々しい敗北の予感は今や現実となったのである。ここまで手早く枯渇してしまう才能とは思わなんだ。何という無駄な日々であったことか。何という意味のない人生だったろうか。もはや悦びは、朝飯と昼飯と晩飯とそして何よりもオナニーだけであったのだが、嗚呼、どうして、どうしてこんなことに! 自慰の悦びが……、あの歓喜のコールタールすらもついに枯渇が始まりだしたのだ。砂漠化が押し寄せてきたのだ。ヘタに緑化を試みても、土地が塩漬けになるだけなのだ。身も心も無上の快楽に馴らされてしまったのだ。我が精巣は枯れ果てちゃった!――あはっ☆


    プールのほとりで黄昏れる先生を慰めるのは、イルカのハロルドの仕事です。彼ら海の民はすこぶる品位に欠けていました。このときも、ハイドロフォンから聞こえる彼の声はどこまでも下卑で陽気でした。

    「やあ、ロバアト。ひどいやつれようだね。オナニーは程ほどにし給え」

    「うるせえ畜生、莫迦イルカ。プールに放尿してやるぞ、脱糞してやるぞ」

    「ボクにそっちの趣味はないのさ」

    「僕は君等イルカと戯れて、残りの人生を消化して行くのだろうなあ。君の小利口な瞳が憎らしいし、羨ましいよ。君のなめらかで軽やかな躰にうっとりするよ。おお、ハロルド、その淫猥なる鼻先で僕を射殺して青き海の底に沈めて呉れ給え。僕の骸を海に帰してくれ」

    「いいのかい?」

    「いや、待て、痛いのはイヤだ。死ぬのは超恐ろしい」

    秘書マーシャの苛立たしげな声色がアクセルロッド先生を呼んでいます。そういえば先生、そろそろ研究所を発たないと講義の時間に間に合いません。

    「先生、また休講なの?」

    「このワンカップ大関の山が見えぬか。僕は苦しいんだ。二日酔いなんだ。ほっといて呉れ」

    「ノーラン先生のことはお気の毒ですけど……、もっとしっかりして頂かないと」

    水際にハロルドが浮上してきました。

    「――テッドがどうしたって? 最近見ないけど」

    「テッドはなあ、女装趣味に目覚めちまったんだ。自分が美少女になれば万事解決と感づいちまったんだ。それで手淫に猛り狂って、半身不随になっちまったんだよう!」

    「そいつは傑作だ!」

    ハンケチに顔を埋め、わっとわななきを始めたアクセルロッド先生を尻目に、彼はケラケラと笑うのです。

    5

    『僕はあの血気を懐かしく偲ぶことだろう。哀れで汚れたこの肉塊すら、愛おしく思うことだろう』

    朝飯と昼飯と晩飯と自慰の悦びを喪った今、アクセルロッド先生のぼんやりとした脳は、ただ、眠りを欲し続けました。刃物のような北風に耐えかねて、プールサイドに持ち込んだ炬燵の中で、先生はひたすらに眠りを貪り続けました。頭が明瞭になるのは、日中の断続的な睡眠の産んだ、明け方数時間に渡る不眠の閑寂だけです。何もすることのない先生は、そこで、自分の残余する人生の期間について、よく思慮をめぐらせ、バッドトリップに陥り、眠れる海の民ハロルドの顰蹙をかったものです。

    ――自分は四十年生きた。そして、統計上、おおよそ同じ時間を消化して死ねことになるだろう。

    アクセルロッド先生にとって、死は実感せる距離にあると思われたのでした。四十年という距離を現実に経験にした今、等価の距離を実感するのに何の支障もなかったのでした。そして、アクセルロッド先生は、その実感に徒労というよりも、激しい恐怖を覚えたのです。余りにも短く儚い距離に思われたのです。


    アクセルロッド先生は炬燵の中から、果てのない無窮の空を見上げます。大プールはすっかり淡雪に覆われました。聞こえてくるのは、寒冷を好む変態のイルカ、ハロルドの跳躍音ばかりです。

    「僕の滅びは永遠に値すると君は思うか?」

    キャッキャッとはね回るハロルドが何も答えることはありません。人間の発想が笑いのツボを刺戟して、答えどころではないのでしょうか。それとも、単に何も聞こえぬだけなのでしょうか。

    「射精に悦びはもはやない。だが、それにもまして恨めしいのは、愛と性欲が完全に乖離してしまった、この糞忌々しいプラトニック・ラヴである。無限の情炎に身を焦がした若かりし頃、白雪と青空のハーモニィにいくらでも欲情できたというのに。僕はやがて物理的官能の記憶すら失ってしまうのだろう。ひたすらに、抽象的な愛を生きることになるのだろう。誰か僕を、青臭い無上のはにかみと悦びに連れ戻してくれぬものか」

    「実際オナニーとはそんなにすごいのかい?」

    目前にハロルドのつるんとした顔があります。

    「そうか、君たちはオナニーを知識でしか知らなかったんだな。しかし、それは高等哺乳類たる海の民として、ちとまずいのではないか?」

    何年振りのことだったでしょうか。アクセルロッド先生の顔に生気が蘇ったのです。それどころか、このときの先生の目は、青臭き悦びの日々を取り戻したかのような、病的な輝きすらも、帯び始めたのでした。

    「君に“はらいそ”へ行く気はないかね、ハロルド?」

    6

    後世にロバアト・アクセルロッド先生の名を知らしめた研究は、こうして始まったのでした。それは先生の人生最後の輝きであり、また、緩慢に摩耗しつつある頭脳との戦いともいえました。もうこれ以上、お話の品位を下げぬ為に、昼夜を問わない激しき調練の、その言語に絶する詳細を記することは省略しますが、アクセルロッド先生の献身的な忍耐と四半世紀を軽く超える膨大にて類い希なき経験、そしてハロルドの不謹慎な好奇心が結実して、二年の後には、大プールにハロルドの途方もない悲鳴が、メイドさんが弾んで飛んできたかのような凄まじい叫声が響き渡ることとなり、プールの真ん中に、余韻に浸るように小刻みに震えるその躰が、ぽっかりと浮かび上がったのです。

    「ふっふっふ、知的高等哺乳類の仲間入りをした気分はどうかな」

    「ロバアト! 頼む、ボクを仲間の元に返して呉れ! 僕はみんなにこの悦びを伝えねばならぬ。これは誇りある種族としてのボクの使命だ。今すぐボクを海に返して呉れ!」

    アクセルロッド先生は血相を変えました。無理もありません。テッドが彼岸の向こうへ逝った今、ハロルドは最後の友だちだったのですから。

    「そんな……、行かないで呉れハロルド。君までも僕を置き去りにするのか! 僕を独りぼっちにするのか!」

    ハロルドの目に、彼ら海の民特有の、優しげな光が宿るのです。

    「ロバアト、何も嘆くことなんかないんだよ……」


    アクセルロッド先生が、ハロルドの残された人生を知ることはありませんでした。先生が知っていたこととは、海の民というものがたいへんに話し好きな生き物で、その情報伝達のスピードには驚くべきものがあること、そして、ハロルドと別れて一月も立たない内に海の民の無数の骸が彼処の大洋に浮かび上がった事実だけでした。アクセルロッド先生は、世界中の急進的環境保護団体から放たれた刺客を逃れて、早々と大陸へ渡らねばなりません。

    正月休みも残り少なくなりました。私どもも筆を早めねばなりません。

    先生の逃避行は、フクスグルの湖畔から始まりました。手引きをしたのは、先に大陸へ逃れていた、愛弟子で少年愛好癖の不幸な青年、笠井直人でした。二人は陸路を南下し、広州の旅籠に、武装メイドさんの庇護を受けながらしばらく潜んだのですが、刺客の手は及び、アクセルロッド先生は笠井青年を凶弾で失います。

    先生は、それからさらに南へ向かい、御自身の終焉の地、ミートキーナの丘にたどり着きました。その頃の丘は、国を追われた、世界中の童女愛好癖者、少年愛好癖者、二次元愛好癖者かなら成る武装コミューンの手により、重火器で幾重にも囲まれていました。丘は、彼らにとって見れば、地球上で残されたただひとつの故郷でした。しかしながら、完全武装の一個降下猟兵中隊が丘を襲うまで、時は余り残されていません。

    アクセルロッド先生が彼の地で最後の時を穏やかに過ごせたのは、結局、数ヶ月に止まります。けれども、この頃になると先生の痴呆症は進捗著しく、これ以上静謐の内に暮らせたとしても、大して違いはなかったのかも知れません。


    アクセルロッド先生は随分とぼんやりとした頭で、塹壕の底に横たわっていました。砲撃の合間の静寂を破って、照明弾の蒼白なほとばしりが、これから砲火に滅ぼされるであろう壕の中を照らしました。先生は、土に埋もれやがて朽ち果ててしまうその躰を、冷ややかに眺め遣りました。

    ――この丘に、また春が訪れるだろう。この体は菜の花に覆われることだろう。

    アクセルロッド先生は思い起こします。十年前に狂死した細君のことを。自分の身に童女愛好癖その他もろもろが発症したために、児童相談所に保護され、離ればなれになった一人息子のことを。

    ――自分は良き夫になれなかった、良い父親になれなかった。御前は許して呉れるかい? 今の自分には最早祈ることしかできないのだ。

    真澄の空から、迫撃砲弾が歌声を轟かせました。

    ――たぐいなき君が悪い夢を見ないように。君に祝福があるように。君を抱きしめて、百万回キスします。

    7

    自分は病になったから、父の足跡を辿るのか? あるいは、父の足跡を辿る内に、父と同じ病に罹患したのか? 父の書斎に入ったのは、自分のルーツを探る上でのことで、そこで封印されていたみさき先輩に出会ったのは、事故だった……。それとも、自分はみさき先輩目当てで、書斎に忍び込んだのか? しかし、もうそんなことはどうでも良い。原因はともあれ、童女愛好癖が発症したことに違いはない。


    スティーヴ・アクセルロッドにとって、父ロバアトとは、帰宅するなり『自分はもう独りぼっちだ』とか『自分にはもう頼りべき人がおらんのだ』などと嘆くと思えば、『男は所詮独り!』と開き直り、スティーヴを一瞬抱擁するや直ちに書斎に駆け込むような、挙動不審を絵に描いたような男でした。幼いスティーヴは、多少の訳のわからぬ自責の念に駆られたりもするのですが、後年、別居生活を送り、様々なカウンセリングを受ける内に、なんとまあ酷い父親であったか、嘆息することしばしばなのでした。

    父と離れてから、スティーヴの生活は順調に進み、かわいい恋人も出来ました。ゆくゆくは自分も結婚などというものを決意し、彼女の実家にイヤイヤながら参上し、「おぢょうさんを僕ちんに下さい!」と咆吼し、そのうちに妻は妊娠、子どもの名前はどうしよう〜〜、ギャルゲの娘からとっちゃったりして〜〜と浮かれ、見事に、超絶的にかわゆい娘が産出。そうして、物心ついた娘は父に問うのである。

    「パパのお父さんってどんな人?」

    嗚呼、言えるものかは。筋金入りの童女愛好癖者その他で、ついでに、世界中の海の民をジェノサイドしちゃったりした黒幕だとは……。スティーヴは頭を抱えるのです。そして、こうなったら隣で眠るhoneyの胸に飛び込まなければなるまいと意を決したとき、恐ろしい違和感に捕らわれたのでした。そう、呪わしき父の病が、我が身を確実に蝕んでいたのです。

    父の足跡を追うスティーヴの旅は、当初、復讐の積もりだったかも知れません。けれども、父の知己に出会うたびに、旅は仲間探しに変わりました。スティーヴがこれから訪れる、まだ見ぬ老人も、固い絆で結ばれた彼の仲間であり同志なのです。


    スティーヴは、ナースセンターで教えられた道筋を辿り、最後に長い直線の廊下を通って、日差しの心地良い中庭に出ました。車椅子の老人が、五月の穏やかな風に包まれながら、庭の片隅で微睡んでいます。

    「失礼、ノーラン先生ですか?」

    「――そんな風に呼ばれるのは、何年振りだろう? 君は……そうか! 君はロバアトの息子だな、スティーヴだな! やっと来て呉れたか」

    老人は、見覚えのある瓶を差し出します。父の好んだ、ワンカップ大関の空き瓶でした。

    「俺はもうすぐくたばっちまうんだ。けど、俺はもう十分に生きた。十分にオナニーを堪能した。何万年も生きて来た気分だ。だから今さら何の悔恨もないのだが、ひとつだけ、ロバアトとの約束をまだ果たしてないんだ。その瓶、そこにロバアトの灰が入ってる。それを和歌山の海に撒いてくれ」

    「どうして、そんなところに?」

    「男とは、おたくとは、何と哀しいものであろうか……。俺とロバアトは、東名を西に驀進していたんだ。深夜の研究室で観鈴ちんの臨終に立ち会った俺たちには、それ以外に衝動を抑える術が解らなかった。夜通し車を酷使しておかげで、夜明けに前に美○町の浜辺に乗り上げることは出来た。俺たちは、ラップトップのマシンを前にして、観鈴ちん臨終の地で、ふたたび、彼女の臨終を迎え、狂っちまった。マシンを携えて、どんどん沖合へ進んでいった。そのとき、下卑で陽気な声が海からおこったんだ。イルカのハロルドだよ」

    老人は手を振りました。

    「――さあ、早く行くんだスティーヴ。ロバアトの望みを叶えてやれ」

    「最後にひとつだけいいかい、テッド。僕の知らない、本当のロバアトは、いったいどんな奴だったんだ?」

    「わかってるだろう?」

    焦燥した顔にようやく安らいだ微笑みが浮かびました。

    「天使のような男だったさ」

    8

    やさしい星影を浮かべた静かな波は、二人のおたくのグロテスクな善意を飲み込んだあの晩から、何も変わることなく浜辺に打ち寄せています。初夏の暁の蒼き夜の下、スティーヴは音もなく波打ち際に近寄り、ワンカップ大関の蓋を開けました。しかし、耳に届いたのは、蓋を開け放った気圧の変化だったのか、それとも、ずっと沖合の波間に見えてしまった、海の民の美しい跳躍だったのか。スティーヴが困惑する内に、一匹のイルカが下卑で陽気な声を放ちました。

    「やあ、スティーヴ。待っていたよ」

    「君はハロルドか!? 生きていたのか?」

    「ボクら海の民をなめてもらっては困るなあ。過酷なオナニーに耐えた選ばれし民たちは、野に潜伏してずっと機会を窺っていたのさ」

    「どうして、ここに来ることがわかったんだ? どうして僕が判ったんだ?」

    「ロバアトの奴、君のことばかり話してたぜ。うんざりしたくらいさ。――おっと、そろそろ時間だ。ボクは行かねばならない。達者でやるんだな、スティーヴ」

    「待ってくれ、ハロルド。僕は今や童女愛好癖者なんだ。彼女とは別れちまった。子を持つこともないだろう。僕は独りぼっちなんだ。孤独なんだ。僕を置いて行かないで呉れ!」

    ハロルドは下卑で陽気な笑い声をあげました。

    「青年よ、僕らは皆一人ぼっちだ。でも何を嘆くことがあろうか。僕らはみんな、オナニーが出来るぢゃないか!」


    遠い海原の彼方で、イルカたちの宴が始まりました。彼ら海の民は、久遠の悦びと憧れを、天使のような声色で歌い、凄まじいうなりとともに、祝祭をあげました。天空高く吹き上がったその血潮は明朗で、何の迷いもありません。

    海の浪は星を溶き流したような乳白に騒ぎ立ちました。海潮は思うがまま、イルカたちの悦びを方々に運び、大洋を白色に染め上げました。うねりは自由に身も軽く白波を切り裂き、香ばしい怒濤は東方に向かっては、イラワジ川の入り江をさかのぼり、ミートキーナの丘へ押し寄せ、西方に向かっては、遠浅の海を望む蜜柑畑の丘へ潮の香りを運び来ました。


    スティーヴは、蜜柑の木立から垣間見える海の変貌に呆れおののきながら、立ちすくんでいました。彼は我に返ると、母の眠る墓石に花束を捧げました。

    「良かったな母さん。Dadの奴、還ってきやがった。ずっと待ってたもんな」



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