2006年5月の日記

 2006/05/04

「アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ラヴ」



ロバアト・アクセルロッドの細君は犯罪的な女だった。三十路に入る年頃にはなったのだが、未だ、中学に通う女学生と誤認され、平日の昼間にスーパーへ出かけては、しばしば補導された。交番から助けを求める彼女の電話が、ロバアトの研究室によく届いたものだった。

夫のロバアトは筋金入りの二次元愛好癖者だった。ついでに、準童女愛好癖者だったりした。この業病によって、生身の成人女性との恋愛は甚だ困難になった。だから、細君がロバアトを一目の内に破壊してしまった当時、彼女の外貌は、それこそ奇蹟のように、ロバアトの現実的嗜好という狭い帯域へ着地したのだと言えた。けれども同時に、彼らの恋愛が狭隘な谷間に育まれたことは、その夫婦生活に絶えざる緊張をもたらした。細君とて人間であり、永遠に美少女としての外貌を保てる訳がない。彼女の容貌が経年効果によってロバアトの嗜好せる帯域を外れたとき、この不幸な夫婦の間に何が起こるのだろうか。

一般家庭において、パートナーの老化は、ロバアトと細君が怖れるような形では問題となりにくい。恋愛による結びつきは精神的なものへ昇華されるだろう、とうっとり考えてみてもよい。また、子どもという社会的な機制が、関係の瓦解を阻害することもあるだろう。

しかし、ロバアトと細君にとって、今ここにある恋愛が、細君の外貌の如何を問わず精神的な階梯へ至るだろうとは、おいそれと考えることができなかった。ロバアトの繊細なプレファランスによって、愛が損なわれない保証はない。確かに、それはいずれの恋愛にも言えることだが、とりわけ、彼の病が、かかる話題に対する夫婦の意識を敏感にした。それに、子を作ることは問題外だった。ロバアトは、呪われた血の途絶えることを望み、それを婚姻の条件にした。細君は養子も考えたが、その提案にもロバアトは血相を変えたのだった。

「日陰者の父を持つことがどんなことか、君にはわからないのか? 父に誇りを持てないことがどんなことか、想像できないのかい? 親のせいで子どもがいじめられるなんて、耐えられないことだ」

けっきょく、細君は子どもを諦めた。このままふたり年老いて、ひっそりと世を去るのも悪いことでは無いような気がしてきた。が、夫の病が思い起こされると、このささやかな望みすらも危ぶまれるような暗い予感に苛まれた。

こうして、細君は三十路の朝を迎えた。




夫を大学に送った後であった。細君は洗面台で自身の顔を子細に観察する羽目に陥った。夫の態度に不審を感じたのだった。

彼らの日常にあって、夫の細君に対する情熱は、以前にも増して高まりを見せていた。しかし、明確に記録をとった訳ではないが、ここ半年間で、夫婦生活の方は心なしか減退を始めたようにも、彼女には思われるのだった。もし、それが事実だとすると、原因は二つ思い至る。単に加齢のため、夫は生理的な欲求のピークを通過したのか。それとも自分の身体が、夫の嗜好せる帯域から離脱しようとしているのかも知れない。

夫の情熱を不自然な演技ではないかと疑い始めた細君は、その朝、如何にも夫好みの清楚な声色で、今日を以て三十路に入ったことをロバアトに向かって発話してみるのだった。それを受けて「ほほお」と発した彼の調子は、三十路のくせに女学生然とした細君の醸し出す倒錯感に昂奮せる色を帯びていたものの、やはり、どこかしら無理な笑いというものも感ぜられた。何よりも、夫が美少女たる自分の誕生日を忘れるはずがないのに、如何にも案外らしく驚きの顔を誇示して見せるのが、堪らなくイヤらしくニクらしい。

不安を覚え、洗面所に駆け込んだ細君は、美少女の容貌が継続するどころか、ますます磨きのかかっている様を確認し、一端は安堵を覚えた。が、その「磨きがかかる」なる肯定的な変容が、夫に否定的な作用を及ぼさないとも限らない、とも考えた。

かかる事態の打開をはかるために、彼女は、密かに最終兵器と呼ぶところの、中学時代の指定学生服を押入の奥から引っ張り出し、夫の帰りを待ち受けたのだった。怖ろしいことに、十数年の時を経た今日にあっても、そのせえらあ服によって、彼女はどこに出しても恥ずかしくない女学生になりおおせてしまった。

その日、夫ロバアトが帰宅の途上で同僚のテッドに捕まり、メイド喫茶に連れ込まれたことは、結果的に、この夫妻にとってはたいへんな不幸になった。

玄関先で正座して、なかなか帰ってこない夫を待ち伏せている内に、細君は義憤を持て余し始めた。それでも、一杯かげんでロバアトが玄関を開けたときには気を取り直し、夫の脳髄を破壊せんと、限度一杯の美少女面をして次なる台詞を放った。

「お兄ちゃん☆」

余りのことに取り乱したロバアトは、普段は口に出さぬよう細心の注意を払っていた呪いの言葉を、思わず力の限り喚いてしまったのだった。

みさき先輩っっっっっ☆」

夫婦は修羅場を迎えた。




「やっぱりそうなんだわ! 貴男はわたしを見ていない。わたしにあの女を見てたんだわ。わたしがたまたま美少女だったから……、だから一緒になったんでしょう! 貴男が愛したのは美少女で、わたしなんかじゃなかったのだわ!」

「待て、待て、少しは落ち着きなさい、おぢょうさん☆」

「何が『おぢょうさん☆』よっ! わたしは三十路になりたての、立派な大人の女性ですぅ! 貴男がそんな風にしか見てくれないことが、どんなにわたしにとっての屈辱か、どうしてわかって呉れないの? 酷いわ、あんまりだわ」

ヒステリィの発作のおもむくままに、細君は三時間に渡り夫を暴行し続け、挙げ句に彼の口から涙ながらの告白を引き出すのに成功したのだった。

「すまない、もう駄目なんだ。もうすぐ僕は君を抱けなくなってしまうだろう。君を嫌いになってしまうだろう。準童女を愛してしまうとか、そんなことは些細な問題だったんだよ。病はね、欲望と愛情を切り離せないことにあったんだ。欲求のないところに愛の生まれない病気だったんだよ。……僕はね、人間が嫌いなんだ。きっと、君のことも嫌いになる。だから、今の内に謝罪をしたい。すまない」


翌日から、細君は静かに壊れ始めた。彼女は、台所の隅ですすり泣きながら、自分をこんな目に遭わせた夫を呪った。だから、自分の身に不幸が訪れ、そのことが善良な夫を狼狽えさせたとき、ざまあみろとでも言うような感慨にも浸った。

しかし一方で、細君の前でオロオロするしかない夫が、如何にもかわいらしく、いとおしくも思われ、この小動物のように繊弱な生きものを怯えさせたことに引け目も感ぜられた。だが、かかる自責の念もまた、自分の不幸が思い出されると解放され、身を以て夫に贖えることの喜びすらも沸き上がってきて、ついには、ある奇妙な空想に彼女は導かれた。

『いつまでも年老いそうもないわたしは、このまま二次元の美少女にでもなるのかしら……』

もはや、自分と夫を救う方法はひとつしかないと、細君には思われるのだった。




ミシガン大学の研究練が官警当局の手入れを受けた。おびただしい数の非合法同人雑誌が押収され、キャンパスに蔓延した精神汚染の実態が明るみに出た。ロバアトは同僚のテッド共々検挙され、留置場に放り込まれたのだった。


「世界を愛そうと努力したんだがなあ、難しかったよ」

ロバアトは長い溜息をついた。

「気にするな」とテッドは彼らしい楽天的な、しかし、あまり意味もない励ましを言った。「そのうち良いことでもあるだろう」

ロバアトは曖昧にうなずいたのだが、内心、目下の懸念に苦悶していたのだった。

「テッド、君はあの化学療法を受けるのか? 堅気になって社会復帰する積もりはあるのか?」

「莫迦を言え、自分で自分を殺せる訳ないだろう。でも君は受けた方が良い。細君のことを考えるんだな」

「いや、それが違うんだよ。君も僕の家内を知ってるだろう。もし、治療されすぎて、かえって準童女を全く愛せなくなったらどうなるんだ。けっきょく、同じじゃないか」

堪らずに、ロバアトは涙を浮かべ始めるのだった。

「僕はねえ、テッド、ただ理解して欲しかっただけなんだ」

「誰も理解しようとせずにか? まあ、くよくよするな、誰かに理解されるなんて、考えただけでもぞっとするわい」

テッドは寂しげに笑った。


翌々日、細君が面会にやってきた。夫の姿を見るや、彼女は叫び声をあげた。

「貴男を売ったのは、わたしなの! 許して……、でもこうするしかなかったの!」

ロバアトは治療の決意などを伝えるのだが、細君はなおも喚き続けた。

「わたし、わたしとても不仕合わせなの。貴男の幸福を奪ってしまったの。貴男を仕合わせにできなかったの」

「君と出会えて僕は十分に仕合わせだ。もう泣きやめなさい、係りの人が困ってる」

「わたしね――」

彼女はしゃくり上げながら、やっとの事で言った。

「赤ちゃんが出来たの」




留置場を出たロバアトは、細君と離縁をした。過酷な化学療法によって、生活の悦びはことごとく奪われた。膨大な蔵書も、フィギュアの類もすべて処分した。毎晩、空っぽになった部屋に帰宅した彼は、ビイルを片手に七時のNHKニュースを観た。ヴァラエティを眺め「あはは」と笑った。同僚のテッドはまんまと自決に成功し、この世からおさらばしていた。

二十年が経った。

ロバアトは喪服を着た少女の訪問を受けた。

「初めまして、お父さん」

彼は、別れた細君の生き写しに驚愕し、また、彼女の死を知らされて、悔恨やら後ろめたさやらで昏迷したのだが、少女の方は、かつて父を破壊したあの夢見る眼差しで、ロバアトをジリジリと照射するのだった。

「お母さんの言ってた通りだわ。お父さんのこと、あんな天使のような人またとないって、いつもいつも言ってたんだからね。お父さん、おぼえてる? お母さんと初めて出会ったときのこと」

「忘れるはずないだろう!」と最近めっきり涙腺に支障を来していた彼は、またも嗚咽を始めるのだった。

「ミシガン大学の、中央図書館の地下書庫で……、僕は目を疑ったよ。なんでこんなところに、こんな少女がいるのかと」

「お母さんはね、閲覧室でお父さんを見つけたとき、腰を抜かしそうになったのよ。こんなところで天使が座って、本を読んでるなんて、この図書館は何なのかしらって」

そして少女は、咽び泣くロバアトをヨシヨシして、言ったのだった。

「あらためまして、こんにちわ。わたしの天使さん」




また二十年が経った。ロバアトはようやく、いまわの際に達し、彼の大脳辺縁系はロバアトに不思議な夢を見せた。

ロバアトは西武池袋線のホームに立っていた。電車が到着し、扉が開くと、そこに懐かしい人影を認めたのだった。

「テッド! テッドじゃないか! どうしてこんなところに?」

「決まってるじゃないか、相棒。君を迎えに来たんだよ。永遠の夕焼けに染まる、あの学校の屋上へさ。君の細君がみさき先輩でいられるような、あのまたとない屋上だよ」

「テッド、僕は本当に、本当に、あの屋上に行けるのか? 本当に、彼女とまた会えるのかい!」

「野暮なことを言うなよ」とテッドは楽天的な微笑みを返した。

「君の天使だぞ、君を待ってない訳ないじゃないか!」

 2006/05/05

レイアウトとルックの初歩的な話題

現行の邦画にありがちなのだが、セット撮影になった途端にレイアウト/フレーミングが貧困に感ぜられる、といった場合、それが単に被写体の配置に因るものとするのなら、理解はしやすい。セットの制約でフレーミングが制限されたと想像はできる。しかし、ルックのしょぼさ、つまり照明設計の質が、フレーミングの善し悪しを左右したとも考えられる。コントラストも一種のレイアウトだからである。

ルックの質は、商業アニメで言う、塗り分けの品質管理と似ている。影を塗り分ける奥行きとその輪郭の精密さをどこまで許容するか、という話題である。これが実写だと、被写体の光学的な情報量を上げるためには、より多くの照明をコントロールしなければならない。そして、照明機材の物理的な問題に思い至るとき、セットがフレームを限定する事と貧困なルックが同じ根っこでつながる。場所がなければ、機材を置けない。けっきょく予算の問題になる。

野外のロケーションでも基本的な構図は変わらない。適切な自然光が訪れるまで待機せねばならないのに、スケジュールが、ひいてはお金がない。だから無理やり撮ってしまう。


この問題では、セルの商業アニメが実写に優越していそうで、やはり、同類の困難を抱えている。

アニメのルックというと、コンポジットで扱うパラ、フレア、フィルター類が想起されるのだが、これはむしろ、事後的なカラコレと性質は同じだと思う。だから、カラコレでどれほどルックを救えるか、という文脈で見るべきだろう。アニメだと、光学の品質としてのルックは、前述したように、何よりもまず作画で表現される。したがって、貧困なルックと作画崩れがリンクする。

ただ、キャラだけではなく背景の光学制御を含めて考えると、アニメの方がコントロールはしやすそうだ。

たとえば、テレビドラマだと窓の外が白くぶっ飛びがちだが、ハリウッド映画になると、室内と屋外の被写体を同時に視認できたりする。これは、いわゆるフラッシュを焚けという状況で、屋外と室内の光学上の差異を縮小するため、照明が必要になる。

ところがアニメだと、こういった意味では光学上の制限から解放されている。むしろ、空間を出すために、わざと白く飛ばさねばならなくなる。

 2006/05/10

反自然だった風景 : かがみふみを『ちまちま』

なにをするにも要領が悪い背の低い女の子・千村さん。そんな彼女をなにかと気にかけてるけど、自分もやっぱり要領が悪い背の高い男の子・黒川くん。とってもとっても不器用でとってもとっても控えめな2人のじれったいほどゆっくりな、でもでもきちんとまっすぐな、ちっちゃなちっちゃなラブストーリー。
(出版社/著者からの内容紹介)

しね、という感じだが、すでに上の引用で「要領が悪い」とか「不器用」と強調されるように、行動戦略上の気まずさ、違和感らしきものが、作中でもなかなかにイヤイヤな風情で現れているようだ。

#1だと、真由は購買部での競合に敗れ、ヤクルトミルミルを一端は買い逃している。これだけなら、ごく標準的な物語の風景に留まり得ただろう。しかし、この後、黒川の助力で獲得されたミルミルは、通りがかった友人によってにこやかに強奪される。ごく個人的な適正の問題が、友人のジャイアニズムを経由して、社会派の扉を叩こうとする。

ただ、これでは収拾がつかないとされたのか、最後のカットになると、ミルミルは友人の謝罪とともに、真由に返還されている。けれども、この安全弁は、執拗な贖いの感覚を同時に謳っていて、やがて最終話の主題と連結してしまう。


この最終話に至っては、真由と黒川の交際は三年目を迎えているのだが、二人の間には未だ肉体関係が欠けている。ファミレスでは足の接触だけでドキドキしちゃったりして、黒川が同僚のKに酷似してることも手伝い、腹立たしいこと極まりない。

まじめに考えれば、これは性的の不能を暗示していると思う。また、何げに真由を短大生へ仕立てるあたりに、本作らしい残酷さがある。けっきょく彼女は、自身の適正のままに社会的な敗北を喫したのだった。

もっとも、初回で社会派の扉が巧妙に回避されたように、最終話で明かされる本作の主題も、そんなところにあるのではない。

電車で真由は、友人の告白を聞く。

真由が黒川君とつきあい始めてからこっち…
あたしは三人とつきあったけど結局今は一人だもんなあ
(かがみ[2006:169])

つまり「要領が悪い」とか「不器用」が、長いスパンで見ると、器用だとされた友人の行動戦略を何らかの点で凌駕している。確かにこれはこれで、ごく古典的な物語の風景であるが、同時に、この風景はミルミルを巡る友人の蛮行を容赦なく復讐している。


かがみふみを, 2006, 『ちまちま』, 双葉社

 2006/05/13

昨日の『ブラックラグーン』

レヴィねえさんが、うっかり不幸な身の上話をしちゃって辛抱たまらんのだった。わたくしと結婚してしかるべきだ。

 2006/05/22

不味い飯という距離感の装置

『ナポレオン・ダイナマイト』('04)のオープニング・クレジットは、毒々しいジャンクフードで天こ盛りになる。

わたしどもが、これらのジャンクフードを禍々しく把握したとき、たとえば雁屋哲っぽいイデオローグの貢献があるのだが、では、語り手はどう考えているのかというと、冒頭のジャンクフードは、校内のカフェテリアで如何にも不味そうに喰われていたりする。『エレファント』('03)で学食を眺めるガス・ヴァン・サントの眼差しと似ているし、あるいは、『マッチスティック・メン』('03)のニコラス・ケイジを想起してよい。ピザとアイスしか喰わないアリソン・ローマンに対する、あの苛立ちである。映画の語るアメリカの学食ライフは概して凄惨であり、かつ明らかに、語り手もそれを自覚している。

ただ、特に『ナポレオン・ダイナマイト』で顕著になるのだが、単純な健康志向のイデオローグなのかというと、事はジャンクフードにだけに止まらなくなって、大げさに言えば文明の閉塞感に至ると思う。ナポレオン一行が時給百円で養鶏場のバイトをしたとき、昼食に供されたのはジャンクフードではなく、健康志向に叶いそうなもの(ゆで卵、謎の卵汁)だった。しかし彼らは、あるいは健康志向だからこそ、それらをものすごく辛そうに摂食する。いずれにせよ、不味いのである。

語られているのは、摂食が快楽にならない生き方である。しかも、それが自覚されてしまった、ということ。そして、より問題とされるのは、摂食が快楽にならない生き方自体よりも、産まれたときからかかる文化に育まれた個体がそこに違和感を覚えるまでの経緯になるはずだ。ドイツ人の語学教師が納豆を食いながら放った言葉を、私は思い出すのである。

「ドイツ人は世界中の朝食を美味しく頂けます☆」

ここに表明されているのは、所属していた文化圏からの距離感である。それは、物語の基本的な主題として、しばしば活用される現象でもある。物語の眼差しが世間から離反するために、語り手は距離感を描けるような装置を用いねばならない。学食という舞台は、そういう場所のひとつだったのだろう。

 2006/05/30

不幸の予見と実効的な幸福 : 「がんばれ川上くん」『サラリーマンNEO』

がんばれ川上くん第七回

第七回「なじみの店」

沢村一樹は、場の空気を決して受容できないわけではない。むしろ、過剰に順応してしまうことで、彼の適応障害は発症してしまう。

今回の沢村は大株主の宝田明と会食している。沢村に移入している視聴者にとってみれば、粗相の許容されない場で、彼の障害がいかなる不幸な顛末をもたらすか、ドキドキして見守ることになる。つまり、ここではスリラーのフォーマットが使用されている。

がんばれ川上くん第七回

第一の難関は、メニューを検討する際に起動するのだが、以外にも、沢村は困難を切り抜けてしまう。彼の奇抜な言動が、宝田の好意的な評価を引き出すのだ。和やかな大人の雰囲気がこれ見よがしなイヤらしさで立ち上がり、なぜか劇伴でホテル・カリフォルニアが使われてしまう。良い意味で最悪である。

がんばれ川上くん第七回

もっとも、最悪なのはそればかりでなく、同時に、スリラーという歓楽の難しさと悦びが、そこで物語の観測者の心理を多次元に撹乱しているようにも思う。私どもはここで、沢村と宝田の談笑が持続し、そのままクレジットに入ってくれることを願うのだが、しかし、本当に何事もなく終わってしまったとしたら、そこから実際に物語の歓楽は生まれるのだろうか? 物語の技術的な見地に立てば、もちろん生まれない。物語の不幸も幸福も、境涯から境涯への格差や運動を以てしか、語れないからである*1。だから、沢村の幸福を願う心理は、おそらく欺瞞なのだろう。『がんばれ川上くん』のテンプレを知っている観測者には、沢村と宝田の物語が悲劇として帰結することは明かである。

けれども、かかる欺瞞は、きわめて合理的な現象でもある。幸福が充足された時点で幸福を願うことに意味はない。私どもが彼の幸福を期待できるようになる為に、彼は不幸にならねばならない。沢村と宝田のケースにおいては、不幸という与件が、予想される確実な未来の悲劇によって先取りされて機能している。


全てが破局した後、沢村は自身の適応障害を恨むあまり叫喚し、この劣悪なタイミングで「ええねん - ウルフルズ」が被りエンド・クレジットが始まっている。

がんばれ川上くん第七回

美しい風景である。

*12002/12/12を参照。


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