2006年1月の日記

 2006/01/06

「デイジィ・ア・デイ」



ロバアト・アクセルロッドがミシガン大に在籍していた頃、学生からこう問われたことがある。

「なぜ貴男はこの学問を志したのか?」

ロバアトの答えは、科学をやりたかったという簡潔なものであったが、その意図するところをもう少し掘り下げてみると、明快な解答なるものへの憧憬を彼の中に指摘できそうだ。この件について、或るアクセルロッド研究者は次のように述べている。――ロバアト・アクセルロッドは人格の属性に依存しない社会現象を愛したものだった。プレイヤーの誠意が疑われようとなかろうと、行動と結果の信頼性は揺らぎ得ない。かかる期待を保証する空間や与件に彼は魅せられ続けたのだった。

ロバアトの欲望は、人間に対する悲観的な見解の裏返しである。ただ、通常のペシミズムとはちょっと趣が違って、彼自身にそんな意識は全くなかったらしい。たとえば、大学を放逐された直後、自由意志をめぐる宗教論争に巻き込まれ研究が糾弾されたときも、彼はただ目を丸くするばかりだったと伝えられている。いわばロバアトのペシミズムは、無意識の制御せる身体の軌跡によって、後世の我々へ知れ渡った訳だ。



多くの研究者の間で一致を見てるように、ロバアトの意識せざるペシミズムは幼年期の体験に遡ることだろう。そもそもロバアトは自分の過去をあまり語らない人で、残された書簡類も数少ない。以下の興味深いエピソードは、ほんの何気ない会話によって判明したものであり、彼の幼年を知る上で希少な手がかりである。

その日、ロバアトは朝から電算室で作業を続けていた。その模様を眺めていた或る学生は、ロバアトの奇妙な振る舞いに気がついた。誰かが後ろを通るたびに、ロバアトは決まって挙動不審気味に後ろを振り返るのだ。当時、ロバアトの呪わしき性癖はすでにキャンパス中に知れ渡っていたので、その学生も、てっきりロバアトがそっち方面の怪しげな作業に勤しんでるとばかり思っていた。ところが実際にロバアトのモニターを窺ってみると、そこに猟奇的な雰囲気は認められない。この学生の疑問にロバアトの与えた答えは、手短に述べれば次のようなものだった。自分は、人が後ろを通るたびに、頭を殴られるのではないかと脅えるのだ。

この発作的な衝動は、どうやら初等科時代の担任教諭に源流を発するらしい。たとえば、この教諭がロバアトの落としたノオトを拾ったとする。ロバアトの方は自分がノオトをなくしたことに気がついていない。そこで、彼女はロバアトの背後に忍び寄り、ノオトの端でロバアトの頭部に打撃を加えたものだった。一事が万事こんな調子で、おそらく親愛を示す表現のつもりだったと推測されるのだが、当のロバアトの方はというと、これらの体験を経て、暴力の予見不可能性、あるいは予見できないものが暴力であるとする認識へ知らぬ内に至った。そのように思われるのである。

学生との対話の終わりで、ロバアトはこんなことを述べている。

「殴られた瞬間、視界全体が4frほど乳白色になるんだ。その色を見て、ああ僕は殴られたんだと解るんだ」



童女保護に関する一連のミシガン州法が成立したのは、ロバアトがミシガン大に赴任して十年目のことだ。そこからペドフィルに対する公職追放運動が吹き荒れて、彼が大学を去るのは二年後。十二年間のキャンパス生活を終えて地下に潜った彼が、我々の前に再び現れるのは、それから三年後のことだ。

ロバアトの発行した非合法同人雑誌は、確認されているだけで39号に及んでいる。最初の五号までは謄写刷りで、発行部数も百部ほどであった。これが活版印刷に切り替わり、十号を超えるあたりになると、早くも一万部を突破する。ミシガン州の迫害されたペドフィルたちに、いかに熱狂を以て受け入れられたか、この数値を見るだけで明らかだろう。そして、彼らの沸騰は、もちろんコンテンツそのものに向けられたのではあったが、また同時に、毎号の巻頭言で巧みに州当局を挑発し、ペドフィルや二次元愛好癖者の生を高らかに歌い上げるロバアトのトリックスター振りも大いに喝采を浴びたものだった。

しかしながら、順調に部数が延び、ロバアトの煽動によって州警察の追求が激しくなるほど、雑誌の発行は困難を極めた。最盛期、印刷所は工程ごとに分散し、頻繁に移動した。州警察とイタチごっこを繰り返したのである。


ミシガン州アンダーグラウンド界の首領として君臨するようになったロバアトが、ペドフィルたちの決起を促したことは確かだろう。しかし彼が、やがて叛乱によって恒星間植民船“ミシガン州”が機能麻痺に陥ることや、植民計画そのものが頓挫する事を予見し、それを望んだかどうかは解らない。

“ミシガン州”から発せられた最後の通信を姉妹船“インディアナ州”が傍受したのは、ロバアトが同人を始めておよそ十年後、“ミシガン州”が母星を旅立って一億年後のことだ。その文面は短く謎めいていた。

『――何てことだ、空がみさき先輩で一杯だ』



現存する最後の号に、ロバアト・アクセルロッドは次のような言葉を寄せている。

『我々は衰亡の道を邁進している。平穏を渇望するものは自らの抑圧によって朽ち果て、欲望に忠実たらんとすれば、もはやこの世の人でない。みさき先輩は何処にもいなかったのだ。しかしだからこそ、力の限り叫ぼうではないか――』

僕はここにいる。そして、貴女のことを愛してます。

 2006/01/15

分岐感の隠蔽 : ジョージ・アレック・エフィンジャー 『シュレーディンガーの子猫』

一般にギャルゲーの娘どもが物語を分岐させるとき、それぞれのタイムラインは互いにパラレルなものとして扱われる*1。オーディエンスは神岸あかりを骨抜きにした後、ドジなメイドロボによって破壊されたわけではない。物語の自意識にあって、娘どもには前後関係が存在しておらず、オーディエンスが神岸あかりを墜としたことは、彼がメイドロボに破壊されたことへ影響を与えない。したがって、意図せざる分岐にシリアルな整合性は要求されないはずだ。

しかしながら、たとえ二つのイベントがパラレルであると仮託されても、実際のところ、モニターやテクストは直列的にしか事件を描画できない。ドジなメイドロボの物語は、必ず神岸あかりの前か後ろにおいてオーディエンスの視角に入るのであり、少なくとも見た目はラインに配置される。そして、イベント間に因果関係が否定されてはいても、かかるシリアルな配置自体に、オーディエンスは何らかの影響関係を見ないわけにはいかない。けっきょく人の認知構造に限界がある以上、世界の並行性に実感を与えるのは困難なのである*2

もともとパラレルだったイベントがシリアルなフォーマットで表現された場合、それは繰り返しというギャルゲーに特有の事象を産むことになる。だから、物語の自意識がかかる循環に向けられたとき、それは直列表現における並行性問題の一つの合理化になるだろう。しかし、これとはもっと別のやり方もある。今回扱う『シュレーディンガーの子猫』('88)では、分岐を合理化するというよりも、シリアル下でパラレル感を出す工夫の方に資源が配分されている。

『シュレーディンガー』は、メインのタイムラインを明確に確保していて、構造上、分岐して行く世界と区別される。そこは、いったん分岐したとしたとしても、まだ戻ってくる場所として語られる。また、メインのタイムラインは、過去/未来と二つに分割されていて、リアルタイムの状景と未来の物語の往来で基本的な物語が運営されている。そこだけを見れば、あまり分岐ものという感じはしない。

分岐の産まれる場所は、物語の視角が未来からリアルタイムに戻る間隙にある。オーディエンスとしてはてっきり元のラインに戻った積もりでいるのだが、実は別のラインが分岐してしまっている。メインのラインと分岐されたラインの類似性が、分岐感の隠蔽するため意図的に採用されている。分岐を語るために、それはいったん隠さねばならないとも言えそうだ。


機軸ラインへの回帰をめぐる幻視感の表現自体は、ディックを挙げるまでもなく、よく見受けられる物語の装置だろう。『シュレーディンガー』のユニークなところは、それを分岐文学の文脈へ適用したことにあると思う。



 2006/01/23


「アクセルロッド」でググって来られた方へ――、ごめんなさい

 2006/01/28

Army to Investigate Gay Porn Allegations

RALEIGH, N.C. - Army officials are investigating allegations that members of the celebrated 82nd Airborne Division appear on a gay pornography Web site, a spokeswoman said Friday.


第82空挺師団の兵士がゲイのポルノサイトに出てるってことで、捜査が始まったという話。よく自衛隊板で、第一空挺全員ホモと罵倒されてた事を思い出した。スパルタ以来の伝統みたいなものか。


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