2005年2月の日記

 2005/02/01

美空ひばりの『柔』は、敗北主義の正当化や、満足水準を下げて意思決定問題の解を容易にしようとする後ろ向きな心理をかなりノリノリに歌っていて、キレ過ぎだと思う。


 2005/02/10

ソルティ・ドッグ・ブルーズ

年明け早々、ミシガン大学のアクセルロッド研究室を訪れたテッドを迎えたのは、モニターを前にしてむせび泣くアクセルロッドさんの姿でした。テッドはヤレヤレと呆れます。

「今度はどんな娘が君のハートを破壊したのかい、ロバート?」

「たいへんだよ、テッド! みさき先輩が――、僕のみさき先輩が本田透の嫁になっちまったんだよおおおお!!」

アクセルロッドさんは、某ライターがみさき先輩を脳内妻にめとったことへいたく動揺し、不様な姿をさらしていたのでした。

ところが、数日後、テッドがふたたび研究室を訪ねると、アクセルロッドさんは一転して気味の悪い微笑みを浮かべています。

「莫迦に機嫌良さそうじゃないか、ロバート。いったいどうしたって言うんだい?」

「いやあ、本田の嫁がみさき先輩ぢゃないって、わかったんだ。あれはいい年こいてるのに語尾が『だよだよ』な、ただの不憫な女性だよ」

恋愛の対象としての女性にはふたつの類型がある、とアクセルロッドさんは語ります。すなわち、おねえさんと娘。彼女に保護されたいのか、あるいは彼女を保護したいのか、という問題です。

わたしどもによく知られているように、時系列に沿って、娘はしばしばおねえさんになり、おねえさんはしばしば娘へ変貌します。人格のかような動態は、わたしどもの感情高揚と密接な連関があるとされますが、みさき先輩を考える上で重要なのは、時系列上の変化だけではなく、そもそも先輩の人格設定それ自体に、ある種の両義性が認められることです。つまり、みさき先輩は先輩という称号を冠する以上、わたしども永遠の後輩を保護する宿命にあります。にもかかわらず、みさき先輩は視覚障害一級。社会的軋轢を恐れない言い方をすれば、保護の純然たる対象者なのです。そして、光を失ってもなお、みさき先輩がわたしどもを保護しようと試みるとき、わたしどもの情緒は臨界に達してしまうのです。

「――そういう訳で、みさき先輩は、誰かの嫁になった瞬間に、みさき先輩ではなくなるんだよ。先輩という属性が外された結果、みさき先輩をみさき先輩たらしめてた両義性が失われてしまうんだ。嫁としてのみさき先輩は、僕らの思考を超えた現象で、だから、けっきょく、誰もみさき先輩と結婚できない。僕はもう安堵の絶頂だよ」

「ということは、君も結婚できないことになるな」

「嗚呼、しまったあああ! 何てことを言うんだ、テッド! 君はそうやっていつも人の議論を陰湿にほじくり返すから、嫁のカレンには逃げられるんだよ」

カレンのことは言うな! カレンは関係ないだろっ!」

テッドはわななきながら、遁走して行くのでした。


 2005/02/20

流転とタイミング
チェーホフ 『犬を連れた奥さん』 『イオーヌィチ』

アリー・マクベルの言及する、まだ見ぬ恋人としての「わたしの王子様」は、プラトニズムにおけるかつて失われた魂の片割れみたいなもので、つまり、この地球上には、情愛の熱狂をまたとなく誘発せしめるような異性がただひとつ存在するに違いあるまい、とする想定である。

『アリーmy Love』で語られたこの仮定は、主に恋愛のサーチ・アンド・デストロイを描画するために用いられたが、チェーホフにあっては、それはタイミングの問題として扱われている。『犬を連れた奥さん』はタイトルからすでに理解されるように、中年に至る頃になってようやく発見された魂の片割れは既婚者であり、おまけに自分も妻帯者である。発見のタイミングが完全に時機を逸している。

タイミングのズレを悲嘆する様式は、その性質上、時間的な要素との関わり合いで語られるものだろう。『イオーヌィチ』は、そのズレに流転という時間的な情緒要素を導入することで、概念を拡張している。恋愛のタイミング問題へ経年効果がネガティヴに介入し、やがて何もかも台無しにしてしまう。

まずそこで語られるのは、恋愛の主導権が逆転してしまう景観である。娘に恋をしたのはよいが、彼女の方に興味の欠落があって、関係は成立しない。数年後、今度は娘の方がわたしどもに熱を上げ始めるが、すでに彼女はかつてわたしどもを引きつけた娘という要素を成長の中で失っている。ここで、恋愛のタイミング問題は、主導権の逆転という形で語られている。

ところで、主導権のこうした変動をもたらしたものは何か? 恐らくは人格の成長・発見の概念がその基盤にあると思われるし、そうなると、これはスケコマシ問題のカテゴリーに入る話題であるようにも思われてくる。ところが、この人格の成長が、やたらと否定的な意味合いで用いられていて、成長と言うよりもむしろ人格は埋没していってしまい、その過程で物語は同化への恐怖を語る。嫌悪すべき世間へ知らぬ内に同化してしまう、あの埋没への恐怖である。


恋愛のタイミング、主導権の逆転、人格の変動、埋没への恐怖。これらの情緒高揚装置を同じ景観の中で語り得た『イオーヌィチ』は、ストーリー工学の効率というものを考える上で貴重なサンプルであるように思う。そして、それらの装置から連想されてくるのが、流転という時間に対するおなじみの情緒であったといえるだろう。


 2005/02/25

戦場再現モデルとしての『少林サッカー』

『ワイルド・ギース』感想の関連事。

戦地と銃後を往来して疲弊する心理を語る帰還兵という物語カテゴリーは、戦地を非日常、銃後を日常、と言い換えて、より普遍化することもできる。別に戦場に送る必要すらもない。非日常の形は様々である。

この非日常および日常なる空間に対しては、その把握に関して異なるルールが適用されることは、『ワイルド・ギース』で言及した如くである。戦場は身体の移動によって空間が実感され、日常では停止した身体がパースペクティヴを見出す形で空間が構成される。帰還兵の心的混乱は、ルールの誤用から始まっていて、彼は空間を運動によって構成する術しか知らないが為に、停止した空間把握を前提に設計されている日常と齟齬をきたしてしまう。

例えば、『少林サッカー』のリン・ヅーソォンは跳べない身体の悲哀を語る。彼のその跳躍を妨害するのは重力であり、なおかつスーパーに陳列されている商品の山である。つまり、その空間は、人が飛び跳ね回ることを想定していない。それは、ヅーソォンひとりの問題ではなく、少林寺という身体的な空間把握に特化した場で修養したメンバーにすべからく課せられた困難であり、彼らはおのれの認識ルールを帰還した日常に適用できず、敗残する。その解決はふたつしかない。戦場に帰還するか、日常を戦場にするか。

後者の方策、日常に戦場を再現して認識ルールを変えてしまう戦略が、たいへんに迷惑なお話であることはいうまでもない。ヘルバウンドで放縦できた根津甚八は楽しげだが、東京都民にしてみればたまったものではなく(『パトレイバー2』)、その意味で、戦場再現モデルは人格への移入に関して倫理的な障害を抱えているといわざるを得ない。


お話を『少林サッカー』に戻してみると、その劇終で日常を行くと思われるチャウ・シンチーのフル・ショットがロングになるにつれて、わたしどもは、日常が全く異なるルールで改変されてしまってる様を目の当たりにしてしまう。つまり、戦場再現モデルが達成されている。ところが、その景観において、前述のような倫理的問題は全くクリアされてしまっており、むしろわたしどもはその非日常の点景に高揚してしまう。戦場再現モデルをポジティヴな文脈で語れることが、そこで発見されてしまったのである。



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