七月 二〇〇二年

 


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2002/7/28


テリー伊藤のバラ色に埋まってしまう世界観について
敗北主義を撲滅せよ

『大学ランキング』という分厚い本がある。「企業からの評価」や「学費が安い」など、大学の各種ランキングが掲載されており、毎年出版されている。

教員のアカデミックな面での質が、この本からではどうにもよくわからんという問題はあるものの、ぼんやり眺めている分には楽しい。

この本の'98年度版、「政治家出身ランキング」の稿はテリー伊藤が担当している。彼は、「普通の、いまどきの等身大の学生の感覚」を持つ政治家が、指導者として相応しいのではないかと記している。

政治家の資質として、「普通の、いまどきの感覚」が妥当なのかどうかは、とりあえず、判断を保留にしておくとして、では、かれの言う「普通」の感覚とはいかなるものか? 読み進めるわれわれの前に立ちはだかるのは、想像を絶する恐るべき文言であった。


「ミッション系の大学に通い、鶴田真由みたいなかわいい女の子とつきあっていて、さらにニューヨークやロンドンに2年ほど留学したことがある――」(強調は引用者)


あわわ…。

 

2002/7/27


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法(最終回)
歩兵が役にたたん

前回、連隊戦闘団の編成に関して、歩兵をその基幹兵科として用いることは出来ないと述べた。理由は、簡潔に言ってしまえば、戦車とぶつかった歩兵があまりにも華々しく散ってしまうからである。この戦車至上主義は『大戦略』の抱えるもっとも大きな病根と言わざるを得ない。

結局、『大戦略』では、歩兵を占領と航空機に対してある程度の抵抗が出来るユニットとして認知されるようになる。それで、鑑賞者は戦車ばかり並べて興がる事になるが、『大戦略』がシミュレーションゲームの名をかたるのなら、これは甚だ間違った事態である。なぜなら、現実の戦場では、戦車を単独で突入させると、恐ろしい結果を招きかねないからである。

戦車は、装甲化の代償として視界が悪いがゆえに、歩兵のアンブッシュに対して脆弱である。だから、戦車は歩兵と一緒に運用するのが基本である。対戦車ミサイルが飛んできたら、すぐに装甲車で随伴している歩兵を降車させて、掃討に当たらせなければならない。ミサイルの発射装置自体は、戦車砲で対処が可能であるが、その近辺に潜んでいる歩兵の掃討は、戦車では無理なのである。

支援攻撃を得られない場で、徒党を組んだ戦車の戦線に対する衝撃力は強大で、その進撃を有効に止められるのは同じ戦車くらいである。しかし、戦車単体と歩兵単体では、戦力としての位相が互いに微妙にズレあっているため[注1]、真っ向から競合できない状況が考えられる。例えば、戦車だけの群は歩兵のこもる塹壕を、犠牲を伴いながらも突破できるだろう。しかし、それは突破と言うよりもすり抜けたというべきものなのだ。

最終的に、塹壕に潜ったり、街に立てこもったりしている歩兵を追い出せるのは歩兵しかいない。この原則を『大戦略』は清々しく無視してしまう。ただ、これは恐らく故意に無視されたと思われる。視界を開けた場所における戦車に必要な歩兵の支援と、市街戦における歩兵の中心的役割と戦車の支援的役割は、『大戦略』においても再現可能なルールであるだろう。しかし、ルールが煩雑になってしまうのだ。だから、結論は以下のようになる。


文句があるならボード・ゲーム[注2]をやれ。


だが、われわれは語らねばならない。ボード・ゲームはひとりでは出来ないのだ[注3]。いや、出来ないこともないが、多分とてもむなしくなってしまうのだ。


おわり。


[注1]
戦闘機と攻撃ヘリなどの関係もそんな感じであるらしい。

[注2]
より限定されたプレイヤーを想定するため、ボード・ゲームの方がシミュレートの緻密化によるルールの煩雑化を許容しやすい。とりあえず、『ハープーン』がほしいですね。

[注3]
これは間違い。
ここ参照。


 

2002/7/25


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法F
“軍団”=連隊戦闘団

『大戦略X』は、“軍団”という単位を大マップの移動における基本単位としている。この“軍団”は20ユニットから構成される。

前回の議論から、一ユニットは定員割れの一個中隊であることが判明しているので、“軍団”は、複数個師団がまとまって構成されるいわゆる軍団ではあり得ない。

20個中隊とは、どのような規模であろうか? 三単位編成(三個中隊で一個大隊、三個大隊で一個連隊)で考えると、だいたい二個連隊強である。なんか中途半端だ。

結局、現実における編成を参照にすれば、歩兵か戦車一個連隊(9個ユニット)を基幹にして、砲兵一個大隊プラスその他支援部隊(偵察、兵站、高射)で構成される連隊戦闘団が、『大戦略X』における“軍団”の正体であると解釈する事が合理的である。

よって、“軍団”は以下のように構成されなければならない。なお、後述の理由により、『大戦略X』における連隊戦闘団の基幹連隊にあてられる兵科は絶対に戦車であって、歩兵ではない。“軍団”=機甲連隊戦闘団と考えてよい。

一個機甲連隊戦闘団:
一個戦車連隊(9ユニット)
一個歩兵大隊(3ユニット)
一個砲兵大隊(3ユニット)
その他、偵察・防空・兵站ユニットに残り5ユニット

実際に運用されるときは、一個戦車大隊(三ユニット)につき、歩兵中隊、砲兵中隊がそれぞれ一個(一ユニット)ずつ配属される。ただ、『大戦略』では、中隊を小隊に分割することはできないので、仮に一個中隊の防空部隊が連隊戦闘団の指揮下に置かれたとしても、それを小隊に分割して、それぞれの戦車大隊にあてがうという運用は出来ない。

『大戦略X』では、一マップにつき三つまでの連隊戦闘団までしか運用できない。そして、こちらが航空優勢を得られないマップでは、単独でこれらの部隊を運用するのは、極めて危険である。この編成では、防空関係のユニットが極めて少ないのである。

よって、三個“軍団”ユニットのうち、ひとつは対空・砲兵・攻撃ヘリ等だけで編成された支援専用“軍団”にする必要があるだろう。(つづく)

 

2002/7/20


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法E
諸兵科連合と戦闘団に関する妄想

ひどく単純化した議論をしてみよう。

製造業を営む会社組織が「製造」「営業」「経理」という下部組織からなると考えれば、軍隊組織は、「歩兵」「戦車」「砲兵」という基本ユニットから構成されると考えてよい[注1]

規模の小さい会社組織は、経営者と基本ユニットが直につながっている事業形態をとる場合が多い。職能別組織と呼ばれる。

職能別組織の経済性は、「規模の経済」を生かすことにより実現する。分業による特化がもたらす生産性というやつである。

ただし、職能別組織の場合、経営者と下部ユニットが直結しているため、組織の規模が拡大すると、各部門間の調整を一手に担っている経営者の負担が重くなってしまう。だから、職能別組織は、会社組織の拡大に伴い、事業部という意思決定の結節点を導入することになる。これは事業部制組織と呼ばれる。

そこでは、会社組織は複数の事業部によって構成される。そして、それぞれの事業部の内容は、職能別組織と同一である。ちなみに、意思決定の水平的分散によって獲得できる効率性は、「範囲の経済」と呼ばれる。

軍隊組織に話をもってこよう。

乱暴な話をすれば、師団は「歩兵連隊」「戦車連隊」「砲兵連隊」から構成される。師団長と連隊長は直結していると考えてよい。これは職能別組織である。

しかし、実際の戦闘時においては、これらの職能的連隊はバラバラに解体されて運用される。いったんばらされた連隊は、「戦闘団(combat group/kampfgruppe)」という事業部的連隊の指揮下に置かれる[注2]。極端な例を考えれば、連隊戦闘団のもとには、「歩兵」「戦車」「砲兵」大隊がそれぞれ配属されるだろう。

平時では、同一兵科をひとまとめに管理することによって、「規模の経済」が実現されるのだが、有事の際になると、諸兵科の連合・調整に対する負担が重くなってしまう。例えば、平時の職能別な師団状態だと、歩兵が砲兵に支援を要請する場合、気の遠くなるような伝達過程を経なければならないかもしれない。そこで、戦闘時には、「範囲の経済」を生かすために、「戦闘団」が作るられる事になる。

以上の議論をふまえて、『大戦略X』における実際の部隊編成について考えてみたい。(つづく)



[注1]
他にも「段列(兵站)」、「工兵」など欠かせないですね。防空関係とか攻撃ヘリは「砲兵」に含めてもよいかも。

[注2]
「戦闘団」に決められた形などありませんので、状況に応じて配属される部隊・規模は変わって行きます。


 

2002/7/18


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法D
編成と人事管理に関する妄想

もし、『大戦略X』にコーリャン畑を行く96式装輪装甲車を見たければ、われわれは次なる手順を経ねばならないだろう。

一連の議論の冒頭において、われわれは『大戦略X』にける諸問題は、次の二点に還元されると考えた。

@CPU側の通常では想定されない作戦指導
A基本的設定上の問題

@の不満を解消するために、われわれが数度の議論を経てたどり着いたのは、「逆ギレした正規軍にメタ糞にされる統制なき軍閥私兵」という悲しき情景であった。

それで、今度はこの情景が、『大戦略X』において確実に約束されるような状況を形成しなければならない。『大戦略X』が鑑賞者の頭に誘起した妄想によって、逆に鑑賞者が、よりその妄想に沿うような状況を実現するよう行動する関係を、そこに見ることが出来る。

妄想の具象化は、基本的にAに関わることである。では、まず、何をもって問題とせねばならないのか。


◇1ユニット=10両ということ
戦車編成の例で考えよう。第二次大戦の独軍では、完全充足の1個小隊が5両くらいの戦車で編成されている。今日の120mmクラスの戦車を運用する先進国の戦車小隊では、一両減って4両くらいになる。

米軍の場合だと、一個戦車中隊は、三個中隊で編成される。つまり、12両である。それに、中隊長の戦車とその副官の戦車がプラスされるので一個中隊計14両である。中隊幕僚のみなさんはソフト・スキン車両で移動するので、AFVの数には関係しない。

こうしてみると、一ユニット10両というのは、とても中途半端な数字になる。一個小隊と解釈するには数が多すぎるし、一個中隊と解釈するには数が少なすぎる。

この問題の解決を見るには、「定員割れ」という新たな解釈を導入しなければならない。予算と人員の不足のために、恐らく一個小隊に3両ほどしか配属できない状態になっていると考えられる。

そうすると、三個小隊の9両と中隊長車の1両を併せて10両になる。副官には非装甲車両で移動してもらうことになる。これで問題は解決する。一ユニットは定員割れの一個中隊ということになる。

『大戦略X』は、ユニットごとに部隊名をつけることの出来る心憎いゲームである。そこで、陸上部隊に関しては、必ず「中隊」の名を冠しなければならない。また、その部隊長は中隊長(大尉)になる。残念なことに、鑑賞者は部隊長の名前までは付けることは出来ない。それが出来れば、ゲームへの感情移入が大変違ったものになったと思われる。つまり、名前を付けることによって、「人事管理」という側面が、更に強調されるのである。これは、ゲーム内における新たなゲームの派生である。

ただ、鑑賞者の命名が画面のなかで反映されないだけの話なので、鑑賞者が現実世界において勝手に中隊長の名前を決めれば済むことである。つまり、そのへん転がっているノートに中隊名簿を作ったりして、ウハウハするのである。「碇君(←大隊長、というか戦闘団の長。「戦闘団」に関しては後述)とこの葛城一尉はがんばってるかねえ」とか。これは大変厭らしい遊び方ではあるが、わたしは大好きだ。

ちなみに、『大戦略X』では、20個の中隊が集まって「軍団」という理解に苦しむ単位を作るのだが、これに関しては稿をあらためて議論せねばならないだろう。

『大戦略X』で鑑賞者が指揮する部隊が、平和維持活動等で泥沼の大陸に派遣されている先進諸国の正規兵と想定するのなら、兵員の犠牲にはかなり配慮が払わなければならないだろう。これは、兵士が選挙民で構成される軍隊の宿命である。

だから、「人事管理」と併せて考えるのなら、いくらこっちが圧倒的戦力であっても犠牲は付き物なので、これはこれでスリリングになる。「葛城君とこの中隊が、三両(乗員三名×三両=9名戦傷死)やられたよう〜」みたいに。

結果として、犠牲を厭わない作戦がとれなくなるだろう。「俺ルール」の誕生である。


で、以上は陸戦兵器の編成に関するものだが、航空機の編成に関してはすこし意趣が異なってくる。

中隊は英語でcompanyと表記される。つまり、「同じ釜の飯を食う仲間」という意味である。『大戦略』のような戦闘団(後述)レベルでの作戦運用の基幹になるのは中隊であり、それ故に、中隊にはそのような表記があてられていると言ってよいだろう。それで、中隊長は英語で言うとcaptainである。海軍になるとcaptainは大佐(大型艦の艦長)になる。

空軍では、戦術的な作戦運用の基幹としてどの組織を考えればよいだろうか。これは個人によって見解の相違があるかもしれないが、とりあえず、飛行隊(SQUADRON)を基幹的組織として見なすことにしよう。

飛行隊は20機ほどの機体から編成されると考えればよい。贅沢な米空軍だとだいたい24機くらいか。飛行隊がいくつか集まる(自衛隊だとふたつくらい)と航空団が出来上がる。

『大戦略X』では、一部の例外を除いて航空ユニットも10機で構成される。ゆえに、二ユニットで飛行隊を構成すると考えればよいだろう。

飛行隊は「204飛行隊(百里のF-15ですね)とか301飛行隊(新田原のF-15ですね)」みたいな名前が付けられるので、『大戦略』上では「204SQ@、204SQA」のようにユニット名をつければ、転がれること間違いなしであろう。
(つづく)

 

2002/7/16


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法C
逐次投入に関する幻想、というか弱者全滅戦の快楽

もう『大戦略』なんぞどうでもよくなっていますが、取り敢えず前回の続きです。


小学生の頃はですね、ゲリラというものが好きだったのですよ。「う゛ぇとなむ人民萬歳〜、米帝粉砕」とか[注1]

判官贔屓という奴ですが、正規戦力を無効にするような何か神秘的な強さをゲリラ戦に見出せたことも理由として考えられるでしょう。「けっきょく、みんなで森にもぐればOKぢゃん」なとど愚かなわたしはそう考えたのです。

でも、年を経るにつれてなんとなく解ってきたのですね。正規軍が本気になればゲリラなんぞひとたまりもないことを。ベトナムから米軍が撤退する羽目になったのは、選挙民が血を流すのを嫌い、結局、兵力の逐次投入がずるずる続いてしまったからであり、米国民が脳味噌筋肉化すれば、ほんとうにあそこが「石器時代」になるのは疑いのないことだったのです[注2]

そんなことを思うようになったのは、恐らくわたしがどんどん保守的な人間になってしまったせいなのかもしれません。また、弱者が強者を倒して、強者に成り代わる物語に飽和を覚えてきた感もあるのです。強者が脳天気に弱者を絶滅させる物語の方が、業が深くてよい感じではないか。そんなことを考えるようになったのです。だから『戦争のはらわた』や『スターシップ・トゥルーパーズ』は個人的にとても感銘深い作品になったのでした。

以上は前置きで、以下は空想です。


さて、猛烈なる経済成長とそれに伴う政治制度近代化への要請は、中国分裂・内戦の契機を成しました。軍区ごとに割拠された大陸は、やがて国際社会の介入を招くことになります。それで、武装解除や停戦監視のため、UNマークをつけた96式装輪装甲車がコーリャン畑で警戒してたりするのですが(ああっ、かっこええ)、内紛冷め止まぬかの地では、停戦合意を守らない部隊などが襲いかかってきたりします。

規制の強い交戦規則に束縛された軍隊が、「悲愴感うぎゃ〜」状態になりうることを発見したという意味で、『パトレイバー2』は偉大な作品だと思うのですが、同時にこの作品は、「正規兵が本気を出したらおまえら全滅じゃ」という快楽をもその同じ冒頭に於いて達成し、高校生だったわたしに強い印象を与えました。

『ブラック・ホーク・ダウン』はこの「全滅快楽」を更に増幅して、鑑賞者に提示しました。俗に言う「パキスタン兵萌え」です。装甲化された多量な正規兵に介入されると、民兵は手も足も出せなくなる描写は素敵です[注3]

これらの快楽の根底にあるものは、「忍耐→ぶち切れて反撃→敵対組織全滅」という物語におけるもっとも原初的な(任侠的な)衝動です。少林サッカーの中盤を思い出してください。あんなに気持ちの良いものはありません。


『大戦略X』で、つぎつぎと無力な中国製兵器がぶつかってくる模様を眺めていると、今までだらだらと述べ続けた情景が目に浮かんでくるのですよ。これって分裂後の中国で、停戦合意を守らない軍閥のみなさんが統制もとれず攻撃しているんだなあ、みたいに。軍隊の編成が無茶苦茶で砲兵支援の概念が見られないのが、なんだか軍閥っぽい素人さかげんなのですよ[注4]


しかしながら、今日は暑いですねえ。(つづく)



[注1]
そんなことを云う小学生はいないのです。

[注2]
ただ、総脳味噌筋肉化はあまり考えられない事態なので、この仮定に意味はないかも。

[注3]
イデオロギーな視点で眺めれば、悪質ということになるのでしょう。

[注4]
偏見ですけどね。


 

2002/7/12


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法B
軍閥化を巡る妄想

もう何がなんだか解らなくなってきたのですが、前回からの続きです。


いきなり中国の話から始めましょう。かの国は軍事行政的な区分として七つくらいの「軍区」に分かれています。「北京軍区」とか「済南軍区」みたいに。

恐ろしいお話なのですが、これらの軍区は未だに地方の有力者の軍閥みたいなもので、中央の統制が効かないと言われております[注1]。極東有事を扱ったとあるPC用シミュレーション・ゲームでは、中国はその参戦時において、軍区ごとに「西側」「東側」と色分けされてしまいます。

解放軍を巡る共産党内の政治ゲームは、その複雑さのために、戦前の日本における権力構造と同じくらい興味のそそられる(そして、当事者にとっては頭の痛い)問題と思われます。

未だに軍閥という前近代的な色彩を解放軍が持たなければならない事情には、そもそも現在の中国自体が近代国家としてはかなり変則的な姿をしていることに還元されるでしょう。

近代国家ってのは、「国民国家」という言葉と代替関係にあります。乱暴に言ってしまえば、近代国家は「自分がその国の国民と信じて疑わない国民によって構成されている」国家のことを指すと考えてください。近代国家の住民としては、この概念は当たり前すぎてパッとしないのですが、例えば、江戸期の一般的町人は自分のことを「日本人」だとは考えたりしません。「日本人」という概念が存在しなかったからです。

それは極端な例にしても、法律上は中国人であるチベット人のお兄さんは、「米国人が自分のことを米国人と考える」様には自分のことを中国人とは考えられないかもしれません。そうであれば、中国は近代国家の概念からずれることになります。

近代化論者の社会学者は、あらゆる国家は、終わらない近代化の過程を経て、最終的に近代国家へ到達すると考えるそうです。近代国家は、政治的な側面から見れば「議会制民主主義」、経済的な側面から見れば「市場経済」、社会的な側面から見れば「核家族」というタームによって表現されます[注2]

今日、近代化を達成した国々が、アメリカを除いていずれも中世に封建制を経験した地域であったことは興味深いことです。一説には、封建制と「市場経済」「議会制民主主義」が互いに親和性の高い制度であったからとされています。両者ともコア・ユニットからの統制ではなくサブ・ユニット同士の相互作用によって全体を成立させるシステムであったわけです。

近代化の過程は、政治的な側面が進歩を見せればそれに伴い経済の近代化が進展する。あるいは、逆も然りとされます。経済だけ突出してバランスが崩れると一時的に「ファシズム」という奇態が誕生する事もありますが、いずれにせよ政治的な近代化が経済の進展に追いついて、近代化が達成されることになります。余談ですが、「ファシズム」を経験した国々(ドイツ・イタリア・日本)は、イギリスやフランスに比べると後進の国々あたります。経済的なキャッチアップへの無理な努力がたたったのだと考えることもできるでしょう。

それで、経済が発展してしまうと、政治的な近代化が否応なく達成され、やがて近代国家になり果ててしまう事になります。このことは、楽しげな事に中国の指導者にとってひとつのジレンマを与えます。高度な経済成長が続くと、前近代的な制度である共産党の一党独裁が崩壊の危機に瀕してしまうのです。言葉を返せば、高度な経済成長をこれからも続けるつもりであれば、あの政治制度をどうにかしないと行き詰まりが見え始める事になります。

更に楽しげな事に、近代国家は国民国家のことなので、近代化の暁には中国はしかるべき規模に縮減(明朝期くらいでしょうか)する事になります。旧ソ連のことを思い出してください。

そこでやっと冒頭の議論に戻ります。分裂の過程において、地方軍閥のみなさんはどんなことになってしまうのでしょうか。火の粉の臭いがぷんぷん致します。そして、実は『大戦略X』は、「分裂→軍閥割拠→内紛泥沼」で荒廃した中国大陸を巡る「平和維持活動逆ギレ殲滅戦」の悲しき物語だったのです。
(つづく)



[注1]
ソースを忘れました。本当なのでしょうか?

[注2]
このへんは富永健一ですね。『近代化の社会理論』とか。この先生は業績ある人ですが、自慢話がぷんぷんです。


 

2002/7/10


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法A
稼働率を巡る妄想

前回からの続き

◇男気あふれる空軍に如何なる解釈を?
ある一定のターンに達すると、航空戦力が燃料切れ続出で全滅するため、CPU側の航空機は使い捨て覚悟で運用される。ひよっこ搭乗員の操縦するレシプロ戦闘機ならまだしも、ロシア製戦闘機とはいえぷろぺらのついていない機体がそんな使われ方をされるのは忍びない。もっとも、事は鑑賞者の貧乏性を刺激するだけにはとどまらない。問題なのは、燃料切れで墜ちていく航空機の群がもたらす幻想性である。鑑賞者は興醒めしてしまうのである。

だから、鑑賞者は興醒めを避けるために、そこに『大戦略』では想定されていないひとつの概念を導入する。「稼働率」である。

恐らくCPU空軍は、劣悪な環境下に置かれていて、メタメタなのである。一回出撃したら再度出撃しうる稼働状態に出来る基盤がもはや存在しないのである。だから、あの燃料切れで墜落していく航空機の塊は断じて幻と言わねばならないだろう。本当は無事基地に帰還して、エプロンに置き晒しで朽ち果てているはずなのである。

次に、航空機をこんな環境下に置かざる得なかったCPU軍の内情を考えてみよう。その議論は、次回の「逐次投入される陸戦兵力」の解釈につながることになる。

 

2002/7/06


『大戦略X』を腹を立てずに遊ぶ方法@
ぜんぶ愚痴

前回からの続き――かもしれない


ここでの議論が『大戦略X』に限定されるわけではない。これは、恐らくそれ以外の『大戦略』全般にもかかわると思われる。ただ、『X』が俎上に載るのは、われわれがいちばん遊んだ『大戦略』がそれであるがゆえにである。

『X』に関する不満は、対戦者を演じるCPU側の不可解な行為と破天荒な基本設定のふたつに集約される。では具体的に何がダメダメなのか?

CPU側の問題:

◇燃料切れで全滅する空軍
兵站概念に欠ける大胆な運用は、『大戦略』が誇る数多くの豪気な側面のひとつである。陸上兵器ならば、燃料切れで立ち往生する醜態を晒すことになるのだが、航空機だと即墜落してしまう。往々にしてCPU側は戦場となったマップのロジスティック基盤を無視した数の航空機を投入してくる。支援攻撃に従事する航空機の基本的運用は「戦闘→基地に帰還→戦闘」の繰り返しであり、CPUも航空機を一応はそのように運用しようとする。しかし、航空機の数に対して、基地の数があまりにも足りないため、基地の周りは着陸待ちの飛行機で渋滞する。

空港の周りで航空機が渋滞を起こす現象は、鑑賞者側が航空機を運用するときにおいても経験しうることである。鑑賞者はそこで航空管制官な気分を体験できてわくわくする。ただ、渋滞するといっても燃料切れの機が続出するほどを自軍の航空機を戦場に投入[注1]するわけではない。

立ち往生しているCPU航空機の運命は過酷だと言わねばならない。敵の航空攻撃を耐えしのぎ、15ターン[注2]も越えようとするとき、鑑賞者は驚くべき事態に遭遇する。敵空軍が燃料切れ機続出で勝手に自滅してしまうのだ。

◇兵力の逐次投入
鑑賞者が築いているガチガチの戦線に、前もって砲撃でボロボロにされたCPU戦車が前線に到着次第、一台、一台とぶつかっていく情景は悲惨である。CPUは後続する部隊を待って突入という行為をなし得ない。マリアナ沖の七面鳥狩りみたいなものか。


航空機による第一撃を耐え凌げばあとはCPU側が勝手に自滅するため、中盤以降の『大戦略X』では、残敵を追って進軍する味方の兵站を考えるという管理工学的な色彩が強くなる。結局、このゲームのテーマは「弱小な敵の絶滅戦」と「電撃戦における兵站管理者の労苦」を追体験することにある。そう考えるべきであろう。ただ、「弱者の全滅戦」を鑑賞するにはサドスティックな快楽をそそられてたいへん気持がよいのだが、「兵站管理者の労苦」はただただ「ドイツ軍って大変だったんだなあ」とか「湾岸戦争の兵站管理は既知外じみてたんだろうなあ」とか「キャゼルヌ中将すげえ」などと思うだけで、そんなに楽しくはない。兵站管理に関するこの不満は、本来ならば「戦闘」の娯楽側面を強調するゲーム構造上の問題であり、ゲームの作り方によっては「兵站管理」も楽しいものとなりうるかも知れない。ただ、それは本稿の論旨から少し外れる議論である。

議論をもとに戻そう。

CPU側の不可解な行動に関して、鑑賞者の中に起こってくる苛立ちと不安は解消されなければならない。どうするのか? 「燃料切れで絶滅する空軍」と「逐次投入される兵力」にもっともな理由・背景づけ(合理化)を与えなければならないだろう。それは、物語の強制的な抽出に他ならない。

というわけで、本稿の議論は前回にやっとつながるのである(つづく)。




[注1]
心配性な人だと、一空港につき3ユニットくらいでしょうか。

[注2]
もっと早かったかも知れないし、遅かったかも知れません。もう一年くらいやっていないもので。


 

2002/7/04


俺ルールと物語の誕生
或いは物語の強制抽出

前回からの続き

せかいの限度におのれの夢を託す鑑賞者が、曖昧な選択肢しか提示されないような漠然とした物語の媒体(ゲーム)に出会ったら、当人には如何なる行為がとりうるのだろうか。明確な選択肢をゲームが提示しえないのなら、鑑賞者の方から明確な選択肢をゲームへ投影することが、ひとつの解決案となるだろう。鑑賞者の産み出すそうした選択肢は、実際には俺ルール[注1]を規定することによって実現されると考えられる。

俺ルールは、対戦者のパターン解析による選択肢の消失とゲームのルーティンワーク化の対応策とされている[注2]。失われた選択肢の再構築である。ただ、そこでの俺ルールが、ルーティンワークの状況を変更させることを主眼がおかれるのなら、われわれの考える俺ルールは、ルーティンワーク状況を変えることをそんなに問題にはしない。むしろ、そのヘタレた状況のなかにいかにして物語を見出すのか。そのことを問題にする。一方的に物語を導入することによって、先の見えない漠然としたせかいを、われわれの有視界に収まるよう矮小化するのである。物語無きゲームに物語を見出す[注3]ために適用される俺ルールのことを、われわれは「消極的な俺ルール」と呼ぶことにしよう。

では、「消極的な俺ルール」とは具体的にどんなものになるのか? 次回では、へっぽこSLG『大戦略X』に消極的俺ルールを適用し、物語の強制的な抽出を試みたいと思う。




[注1] 「指輪世界」における自分ルールのこと。
[注2] 同じく
ここ参照。
[注3] 「ゲーム→物語」の基本的な議論に関しては
ここ参照。ここも参照。


 

2002/7/02


世界への探索願望と主観的時間の流れ具合
選択肢のある物語におけるその拮抗(試論)

明確な選択肢のあるヴィジュアル・ノベルという物語様式は、選択肢を潰してさえゆけばその物語の全容を知ることが出来る。世界には明確な限界があるというその保障があるゆえに、たとえ全ての選択肢を潰す気力と時間が鑑賞者になくとも、「これだけやったのだから、残りはこんな感じだろう」という実感を彼にもたらし得るだろう。つまり、安心感がある。

鑑賞者が、明確な選択肢で成立する物語を選び取る誘引には、本人の「世界を知りたいという願望」の高さが関係しているのではないか。また、明確な選択肢のない物語(ゲーム)にしても、鑑賞者が人生の残余時間を多めに見積もっているのなら、当人にそうした物語をおこなう誘引が起こり得るだろう。明確な選択肢のない物語は、選択肢のある物語よりも世界の探索に手間がかかるが、時間さえあれば、その探索願望も充足しうると考えられるからである。

鑑賞者の探索願望が更に高まり、或いは主観的残余時間が更に低く見積もられるのなら、その鑑賞者は、選択肢のない物語(強制鑑賞システム、つまり映画など)を選択することになるだろう。

ただし、そうした探索願望が高く主観的残余時間が少ない鑑賞者が、不透明な選択肢しか提示されない物語を迫られたとき、彼はいかにして願望充足がえられないことによる不安感を克服すべきなのだろうか。この問題については、別稿で議論することになるだろう。