映画感想 [2401-2500]
再興と討ち入りをトレードオフにするような狂人の発想を話の理路に押し込むのは美術の構造体に他ならないが、構造物に依存する叙体は諸所の不条理をそれとして認識させてしまう。琴の爪が未練に負けてしまったしくじりと見えてしまえば、しくじりの過程は邪欲との戦いとして新たな光を得よう。
ゾンビを人間性の喪失ではなく解放だと解釈するヌーディズムのような世界観では、ゾンビになればたちまち言語は明瞭になり体が動くようになる。人々は同じ人格に収斂しながらも自分が失われることはなく感染した方が利得大なために恐怖は皆無であり、もっぱら肉体損壊の迫力と政治喜劇に終始している。
ノイジーな音響意匠が記録映画の叙体を要求する一方で、暮らしの細部に審美を見出す趣向は生活のディティールを捕捉するために静物画を要求する。釣り合わない情報量によってミキシングの不始末を思わせるほど充満した潮騒のようなざわめきは、絶えず今ある生活の破局を予示して中産階級の暮らしをかけがえなくする。物資自体が伝達してくる好ましさを打ち消すために花壇の後背で銃声を放てばかえって画面から政治は消えてしまい、玄関先でもみ消され放置される吸い殻の方がよほど気になる倒錯がはじまる。
自助否定の世界で変化をもたらすのは気づきである。演者の課題はリミッターの外し方であり、ゴリラで問題となったのは教授法のまずさ。ゾウは恋によって本来の演技力に達する。自助を厭う貴族的美徳はオオカミ社長の令嬢にもっとも体現されるので、彼女に配役を奪われたとき作中で唯一といっていい人生的な課題にブタは襲われ、才能は気分によって左右されるので課題は後を引かない。外乱に即応していれば構造が訪れると信仰する現場主義は社長を殺人鬼にする。貴族主義的世界観においてゾウはバイトに欲情できるのか。これも引っかかる。
油脂とヤニにまみれた徹夜明けのオッサンの皮膚感覚が叙体の質感からこぼれちている。スコットは徳論のアプローチで質感に迫り、人間性は精神の物証を求め肉体の破損をその端緒とする。成長は内面の不可視で表現されるから、しだいにスコットの視点が言及されるようになる。パイパー・ローリーは彼にとっては女難にすぎなかったのだが、その解釈こそ徳論の終着点である。
偶然とオカルトでバラバラとなった現場を視界不良と劇伴が癒着させ、その要約のテンポが自助を概念化する営みと対立している。女たちは家父長を誕生させかねない移動を禁じ、男は子宮の檻の中を巡回する。自助の実感は夢の無時間性に委託され、枕中記が要約のリズムと和解する。
少年に記憶がなければ然るべき筋に相談する案件に過ぎなくなる。児相のマンパワーを問う技術的課題をフィクションに値する題材にするために、野趣深い法令遵守意識を前提として創話が営まれている。記憶論への固執が動機の不備を明らかにするつらみから介護や痴呆症が美化され、動機の不備を繕うはずの過去は少年を慰めの玩具し、早熟を強いられた子どものダンディズムがタガの外れた母権を〆る。
運に左右される境遇は見せかけであり、不条理に試され敗北した淡島千景が少年を階級再生産のループに束縛しているのだが、上京できるのなら奉公人のつらみが回した教養小説は無効となる。むしろ女の徳論が子の踏み台になれるかどうか母を試し、頑張る男の子に向けられるメス顔の晴れ晴れしさに最後は逢着する。
ミドルクラスへの憎悪は画面をニュー新橋ビル変えてしまう全斗煥の魔術的外貌にいら立つあまり、理念的な裏付けを見失っている。憤りが生理的要件にリンクするために根性論が幅を利かし、肝を練る見せ場を設定すべく精緻化される手続き論は、根性論を普遍化するはずの政治的理念を不活性化する。不幸は無差別に解き放たれ万人が根性が試される。
時を遡行したい課題に童女形態と夜行バスで添い寝するアイデアが対応した時点で目的は達せられている。あとは文系の邪念濃厚な窪田正孝の特殊キャバクラに過ぎなくなる。不憫抽出に力むあまり文脈が失われイメクラ化したのか。人間の嗜好に対応して分裂した人格を観察しているだけなのか。状況をイメクラにしてしまう窪田の徳性は昼間から釣りをしていられる経済力とかかわりがある。奈緒はそれを善人のもたらすプレッシャーとして先約的に言語化する。
大人たちの頼もしさには留保がある。三橋達也の勇気は根拠のない経験則に基づき、銃後の家族が佐藤允の情緒を乱している。達也は途中退場で肝試しを免れ、允の情緒の乱れは彼の攻撃力を脅かさない。ソ連側も気をやるように、允はただ湧き上がる不可解な意気地に直面して困惑する。彼は去勢による精神的な死を予感し、人間の景物化は自分たちがモブキャラではないと信じた達也を反証する。景物化に過程がないのは彼らがはまったステイルメイトの反映である。生きてるように見えてすでに死に体だったのだ。
虚業者の自嘲に動機づけられた啓蒙はその知性主義を文系邪念として具体化させ、長尺を持たせるマデリーン・カーンの技術力は男の器質に屈し、殺人マシンらとの邂逅に邪念と啓蒙の落としどころが見出される。境界知性の群衆を揶揄して成り立つ啓蒙は自壊の危機にさらされているが、与太郎の生理を瞬間を生きる営みとして評価すれば、その解釈は虚業の在り方にまで及ぶだろう。
アンチモラルの笑いを追求して作品宇宙の体系化に邁進すれば、背徳は宇宙のお約束に堕する。人の好意を誘う手管は、好意を惹く生理には一定の形があるために女たちの個性を失わせる。そもそも描き分けができないために彼女たちは誇張された性格から出発せざるを得なくなり、その類型は各々が抱える人生の課題を希薄にする一方で、大人たちはただ佇むだけで人間を提示できてしまう。しかしそれもモラル否定から始まった設定がモラルに収斂した結果なのである。
真崎丹波と杉山仲代の組み合わせで沖縄決戦の意趣返しをやるネタ配役に根津とモッくんが90年代の風を運べば時代感はノスタルジーに巻かれて混迷を極める。専ら大人たちの肝を試すはずの政治スリラーを略し青年心理に向かうのなら早々に手持ち無沙汰となる。竹中だけ回想を入れない正直な審美感は青年たちがぶち当たった、有権者の軍隊を私用に感応させる困難の究明には興味を持たず、敗北に耐える閑雅な時間は絵力を性欲に転換するばかりで、その恐るべき集団色ボケは良くも悪くも五社らしい悪趣味を達成する。
物量であふれかえる郷土博物館テーマパークのような時空とそこを駆ける人間の運動量の中で貧窮は見失われ、沼崎勲の失意は浮浪児の早熟やキャバレーの誤解とすれ違い次々と空回りする。失意が不正への憤りを裏付けにできたとき音楽堂の空振りが空回りに照応し、中北千枝子が不感症からよみがえる。
脱聖して図らずも啓蒙化した王権と法律家の対比は今となっては対立軸が見えにくく、抗争は生理化に根拠を見出し自尊心は男たちの性愛のこじれへ流れ込んでいく。その際、法律家の生理化した属性は監獄で老妻を口説き落とし、能力を伸展させる。
現在とのつながりを欠いた小宇宙を構成するべく人に内向して景物を省く叙体が課題を現在から分離する悪循環にはまり、器質的嫌悪感の迫力に依存する冒涜の感性に身を売る中で災厄の中に胎児の喜劇のような生命力を発見する。その子宮の悪魔は人々の甲斐性を可視化する工程において期待と失意の往復運動に女をたたき込む。誤誘導の最たるはアンナ・ムグラリスのうさんくさいセクスィヴォイス。
口語体と景物の饒舌な情報量を整理して文化を実装する過程で人間の内面が密かに脱落している。フィクションにふさわしい風致に達した景物の満たす悲恋の社会的要件は、男たちの荒涼とした前髪が父権の記号と化する柔和な政治学でなければ捕捉できない程その構造は微細であり、だからこそ女の内面が見えてなかったと気づかされる詐術を奏功させている。
都会者が属性の招来する好意によって田舎でモテる邪念をオフセットできるのは器質の叛乱である。報復を受ける権利を得るために男が事件を度外視して日常に固執した結果、器物は生体を拘束できる物量に達し、ピカデリーサーカスの円環構造に人を固着させるような、あるいは動物に還る工程でそれとはかけ離れた全裸の幼体が動物園を疾駆するような、遠心力となる。
精神病理による矮小化に反感を抱かせるような流れは、凡人が色ボケによって儚い超人化を遂げる主旨を危うくしている。色ボケ24時なのかガンギマリなのか方針が定まらないのだが、色ボケとジョーカーは性質的に両立できず、曖昧なままにすれば法廷で凡人に戻った時にはその感じが伝わってこない。凡人に戻るリスクは失恋である。これも女の聖化の手続きを怠り、ミュージカルの詩で事後説明するばかりでは、ガガはやめておけとしか言いようのない距離感を克服できず、失意の効果が出てこない。すべてを失って初めて人格とかみ合った状況がその境遇における処世法を泣訴するも、それは追及されないまま終わる。
音は形をもたないために楽曲の評価はF・マーリー・エイブラハムの眉間に浮かぶシワのように肉体で評価される。精神と肉体を媒介するのはキジトラの流体筋肉であり、死者の作り出した小宇宙に監禁された男は、波のように遁走する猫に導かれ当て所もなく灰色の景色を徘徊する。車中では猫の視点は人と同期をはじめ、逃亡するペットと居眠り運転の二大スリラが激突する雪中行軍に至る。手に入るのは挫折を刻印するための肉体疲労である。
反生産行為者を次々と懲罰する家政学の悪意は、合戦の物量に魅せられ社会小説を裏切ろうとする。観念の恐るべき感染力は、あくまでマイクロな家政に執着する高峰をだからこそ、当人を意識させぬままフェイタリズムの奔流に合流させる。
怪獣が出ないゴジラ映画であり、殊に景物のディテールと熊井のレイアウトに北米コンプレックスが絡めばシンゴジの前兆が方々で観測される。専ら事件解明に奔走する二谷英明と鈴木瑞穂の傍らで困り顔を晒すばかりの宇野重吉が関係する女子を次々と遭難させる死神と化しむしろ事件を延焼させるに及んで、不在だったゴジラの正体が露わになる。芦川いづみはオキシジェンデストロイヤーである。
地主の搾取に由来する限界状況が歳時記を家畜の健康に人生が左右されるスリラーにして、事態を合理化すべく人々の宗教観は神の規範意識を先鋭化させる。その荒ぶる神は長期展望を推奨しながら自らそれを潰す不条理に走り、時に詐欺まがいの托卵で出産制限を無効化し、階級の再生産から逃れようとする試みを砕くのである。