映画感想 [1701-1800]

 夜顔 [2006]
 監督:マノエル・ド・オリヴェイラ 製作国:ポルトガル・フランス


夜顔
 接客業の挙動を精密に再現するはたらくおじさん的ドキュメンタリズムが個室に“微笑メタボ”ミシェル・ピコリの身体を囲い込み、台詞を喪失した彼が一個の生命体として抽出される。その際、われわれは緩みきったその下顎部の蠱惑な動きから目が離せなくなる背徳感に襲われる。イヤらしいほどにふざけたあの鶏はこの生命観の究極なのだろう。

 家路 [2001]
 監督:マノエル・ド・オリヴェイラ 製作国:ポルトガル・フランス


家路
 初出では視線を合わせようとしない、やりすぎた文弱演技で沸かせるマルコヴィッチが、現場に入ると寄り目でミシェル・ピコリを追い込んでしまう。その視姦によってメタボ腹の脂質を液状化されたミシェルは軟体化した豚のように寝椅子と融合する。生命の可塑性の迫力によって、男性型脱毛症と肥満に冒された老人のお茶と買い物を観測し続けるこの不条理なアイドル映画は醜悪さを超えたグロテスクの美に到達する。

 監督:セオドア・メルフィ 製作国:アメリカ


ヴィンセントが教えてくれたこと
 介護施設の支払いが滞留したら即退場で自身の借金すら卒中で帳消しになる。多段式ロケットのような捨て身の迫力である。少年がジブリキャラ並に有能で依存や感化を最初から必要としていない。少年視点からすれば単なる巻き込まれに終わっている。星条旗がやたらと画面に入る様に傷病兵を顕彰する向きの話で、こうした教材映画にありがちな筋の偶然への寛容が多段式ロケット老人と少年というこれはこれで詩的な対比を叙述している。

 ミュージアム [2016]
 監督:大友啓史 製作国:日本


ミュージアム
 人間の属性を例化する営みが80年代の香港映画を思わせる。小栗旬の体のキレが良過ぎて単なる感情表出に際しても演武のような振る舞いになりがちである。これは小栗に限らない話で、男子トイレの場面では放尿を終えた人物は滴を振りきる動作を延々とリピートして目のやり場に困らせる。肉体言語のかかる有り様は属性が伝播するモチーフの土壌となり、ラストでは妻夫木聡の肉体を大いに振動させる。

 アフガン零年 [2003]
 監督:セディク・バルマク 製作国:アフガニスタン・日本・アイルランド・イラク・オランダ


アフガン零年
 家計の手段であった筈の男装がタリバン学校以降、本来の目的を失ってしまう。にも関わらず男装が続行されてしまうと、危機が好んで招かれているように見えてしまい、男装のセクシャリティが突出する。タリバンのオッサンたちも下世話な反応を見せる。結末も含め、事物をスケベに収斂しようとする力は話を不幸の押し売りに終わらせない。男装は、それに際した人々から様々な反応を引き出すことで、キャラの書き分けを可能にしている。

 監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 製作国:イタリア


鑑定士と顔のない依頼人
 結末の悲酸が自明であったとしても、ジェフリー・ラッシュへの同情はあって、その悲酸の形態がいかなるものになるか興味が持続してしまう。ところが、実際に事が予想通りの悲酸に達し、嗚呼と嘆じながらカウンターに目をやると、尺が不自然に余っているのである。われわれはそこで、悲酸の自明さこそが誤誘導であったことを知らされるのだ。隠されるべきものは、こちらの予想を超えてしまうジェフリーの悲酸に対する反応であり、失恋に遭遇しても愛は属人性を失った形で分離され男を支配し続けるおなじみの現象に行き着くのである。

 お嬢さん [2016]
 監督:パク・チャヌク 製作国:韓国


お嬢さん
 段階を踏まない性欲の性急さを解答編すら説明しようとせず、むしろ性欲を増強してその質量で一点突破しようと謀るので、感情が形式に引きずられてしまう掴みどころのない浮遊感に悩まされる。要は淡泊なのであるが、男性陣にこの軽さが適用されると、淡泊は諦念の哀れとして昇華もされる。

 監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 製作国:イタリア


題名のない子守唄
 並走する追うことと追われることが互いに緊張を引き立てるのではなく、むしろ足を引っ張り合っている。過去が収束して整理されないと、追及されている情が賞味できないように思われる。しかし、落ち着きのなさは娘の視点にも手を出すことで最後には話の俯瞰に成功している。モリコーネ節のどさくさで行われるこのジャンル転換には半ば唖然とするものがある。

 4デイズ [2010]
 監督:グレゴール・ジョーダン 製作国:アメリカ


4デイズ
 家族に傾注するマイケル・シーンのテロリスト像は娯楽作劇としては都合がよいとしても、社会小説を希求する際には、単身者の婚姻困難がテロの大きな動機になっている現実とズレてしまう。この歪みのとばっちりを食らうが、現実とフィクションの緩衝材として機能するサミュエル・L・ジャクソンである。彼はほとんど一貫した人格を持たずむしろ景物に近く、しかもこの腰の据わらなさが最後には社会小説を密室劇核スリラーとして総括してしまう。現代劇にもかかわらず、デタント前の映画を見ているような、ある種のノスタルジーに話が接続するのである。

 三重スパイ [2003]
 監督:エリック・ロメール 製作国:フランス


三重スパイ
 爛熟期を迎えた人妻の肉体に母性のまなざしを見出せてしまったとき、エスピオナージュの児戯が露呈してしまう。女の肉体の安定しない両義性に男の活動の軽重が振り回されてしまうのだ。事件の切実さが把握されることはなく、重い幕切れへの軽い言及がぶきみである。

 監督:マーティン・スコセッシ 製作国:アメリカ


沈黙 -サイレンス-
 棄教とリンクする必要から曲芸的とならざるを得ない人々の死に様が、サムライコマンダー菅田俊の東映特撮ヴォイスから浅野忠信の安定のサイコパス顔に至るカオスも手伝って、国籍不明のアトラクションになっている。異邦人が、海外向け土産物売り場の物量に翻弄されながらも到達するのは消化試合としての人生。夢破れ、オスとしての自信を喪失し、精神的に去勢されてしまった男がそれでもなお生き長らえねばならないとしたら。その処方が語られ始めるのである。

 監督:ナ・ホンジン 製作国:韓国


哭声/コクソン
 話の通底にある啓蒙の教化力とそれに伴う実証精神がシャーマニズムを喜劇に見せずにはおかない。そんな中にあって悲劇を構成するのが、どこかで致命的な選択をしてしまったという、難病物が追及する感傷に近いものである。しかし、見境なく人物の心理に浸透する啓蒙精神は、物語の視点を担ったキャラクターを黒幕にしてはならない禁忌をも平気で侵して、オカルトを詐欺師の集団のように見立て俗化する。それ以外にオカルトを扱う術がないのだ。

 Q&A [1990]
 監督:シドニー・ルメット 製作国:アメリカ


Q&A
 恋と出世の挫折という男の自信喪失二点セットに、はっきりとした因果関係が設定されない。失恋という初期条件とは別個に仕事の挫折がやってくる。両者は人間関係につながりを介して淡く連結するのだが、その蒙昧な構成が女を魔性という一種の仮象に押し上げると、仕事の挫折感が逆流して恋愛の痛切さに波及しそれを再定義する。同じ女を愛した男たちに生じる連帯や対象を失った恋が体内で低回を続ける失恋男の生理がその過程で言及される。

 アシュラ [2016]
 監督:キム・ソンス  製作国:韓国


アシュラ
 ビッグブラザー並に知らないことはない検察側がキャラのプライバシーを許容しないために、修羅場に直面した人間の機知ではなく、むしろ覚悟と開き直りを観察する、対比列伝のような根性論が志向されている。チョン・ウソンの根性は過剰適応するうちに自律して、状況とは関係なく修羅場を引き寄せてしまい、あの不思議なカーチェイスに至る。そこで窮極的には、無効化された修羅場は安牌かと思われた検察一行の根性を試しにかかる。われわれが目撃するのは野蛮に蹂躙される文明の悲鳴なのだ。

 監督:ギャレス・エドワーズ 製作国:アメリカ


ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー
 70年代の想定したコテコテ未来美術を21世紀が追憶する倒錯の苦悶が、勇気が死生観のジャンル的な軽さにしかならない隔靴掻痒と軌を一にしている。終局に至るとこの軽さは、臨場するベイダーの迫りくる恐怖の現場主義に圧搾され速度へと互換する。納期前のような阿鼻叫喚がモブの生死を痛切にする。

 聲の形 [2016]
 監督:山田尚子 製作国:日本


聲の形
 声を失った人間の内面に言及が少ないのは、台詞に依存してキャラの感情を説明しようとするロジカルな態度の証左なのだろう。女の内面をフォローできないゆえに、告白や自決といった彼女の決断が段取りを踏まず唐突にやってくる。そうなるとサイコパス映画に似た触感になる。動機が補足されないままイベントだけは進行する一方で、感情を明快に定義したい、邪念に近しい演出家の欲望は、理解できないものを理解しようと試みる撞着に陥る。われわれが観察しているものが、呈示されている感情を充足しうる事象なのかどうか、わからなくなるのである。

 監督:デミアン・チャゼル 製作国:アメリカ


ラ・ラ・ランド
 エマ・ストーンが挫折した女優志望者をやる茶番が業界人のオナニーになりそうなところをギリギリでとどまる。何かショックが襲いかかるたびに、天然隈取りのような、肥大化したあの顔貌の諸パーツが福笑いのようにバラバラになりはしないかと、戦慄が走り続けるのである。

 監督:マイク・ファン・ディム 製作国:オランダ・ベルギー・ドイツ・アイルランド


素敵なサプライズ  ブリュッセルの奇妙な代理店
 血縁で地位を得たことの後ろめたさと安堵が混合したフワフワを無為の苦しさとして叙述しようとしながら、最後には親族経営体への加入に安らぎを求めてしまう。多言語社会が舞台だけに、このフワフワがダブルリミテッドの迫力のない文章を思わせる。

 監督:アントワーン・フークア 製作国:アメリカ


マグニフィセント・セブン
 戦線の構築がむつかしい開けた地形が災いしているのか、被写体の位置や攻め手が進行する方向が明瞭さを欠いている。見た目優先でレンズが選択されるから、被写体間の距離もつかめない。事件よりも人物を追う方策が話を業界人の懇親会にしてしまい、どうしてもボーイズ・ラヴの気配が濃厚になってしまう。外敵は脅威ではなく、 むしろヘイリー・ベネットがこのヒゲ面のオッサンらの楽園をクラッシュさせないかという間違った緊張をもたらされる。しかも困ったことに、この認識は正しいのである。

 チェイサー [2008]
 監督:ナ・ホンジン 製作国:韓国


チェイサー
 数ある殺人の中でその事件だけが特権化してしまう。しかも顔貌の好い子どもをダシにするため特権化してしまうことが倫理に悖るように見えてしまう。時間制限が緩和され続ける緊張のなさと徒労に冷静さを強いられて、事件が特権化したと認知できるのである。女の視点があることも緊張緩和に資している。受け手は事件の特権化を劇中人物と共有できないわけだから、男の事件へののめり込みが不可解になる。最後のレスリングに至っては擬斗というよりは競技であり、冷静を強いられるという矛盾した感情と受け手自身が向き合わされるような不思議がある。

 監督:森田芳光 製作国:日本


ときめきに死す
 釣り、パチンコ、クッキング、ケンカ、セックス。独居中年の生活描写が、それ自体を見世物としながらも沢田の悲劇性を社会化する媒体となるように、筋の経済性が話を下品にしない。あるいは、宮本信子旅館のリコーダーが沢田の感傷と重なることで、事をイヤらしくさせない。経済性というものが品位であることを思い出させてくれるのである。

 監督:ギャヴィン・オコナー 製作国:アメリカ


ザ・コンサルタント
 会議室に入ったら、後輩女難のアイコン、アナ・ケンドリックが寝ている。男子の夢と浪漫で充溢したキャンピングトレーラーで永遠の時を過ごしたい身には、こんな恐怖はない。しかしベンアフはたちまち鼻の下を伸ばし、わたしは自分を彼に重ねられなくなる。女難映画という解釈は父親の生き様からしても正しい。だが、 J・K・シモンズの、うれしいながらも不可解なアイドル映画が始まると父権が勃興して女難の相が緩和され、最後にベンアフの相棒の正体が明かされると、女難だの父権だのを超えた向こう側へ連れて行かれる。キャンピングトレーラーをけん引するベンアフ満悦の割れ顎に黄色い悲鳴が上がった。

 燃える戦場 [1970]
 監督:ロバート・アルドリッチ 製作国:アメリカ・イギリス


燃える戦場
 声の映画である。セクスィヴォイスがマイケル・ケインを只者にはしておかず、海軍の語学屋である彼を密林の戦場に順応させ、拡声器の声の歪みが、高倉健の本性と思われる官僚的な冷たさを露曝せずにはいられない。オフィサーを多用途的人間として描写する一方で、兵卒を全く信用しないアルドリッチの人間観もよく出ている。

 監督:グザヴィエ・ドラン 製作国:カナダ・フランス


たかが世界の終り
 これはポルノに近いのではないか。対峙する人間の激情に対応して膨張と収縮を繰り返す、内燃機関のようなギャスパー・ウリエルの顎の接写ばかりに力が入り、人々の確執の内容はあまり問われず、対話はポルノやミュージック・ビデオの日常芝居に類似してしまう。

 ダンケルク [2017]
 監督:クリストファー・ノーラン 製作国:イギリス・アメリカ・フランス・オランダ


ダンケルク
 浜辺の静寂が意味のない現象としての災難の徒労を訴えるのである。魚雷の夜襲だけなら刹那的な海猿で済むものを、訓練と称して謎次元から小銃弾まで撃ちこまれると、堂々たる佐藤純彌のパニック大作の風格に。ただ、ヒューモアのない純彌なのである。劇場版 世界ネコ歩き予告編の昂奮の域に達せず。

 監督:ジャン=ピエール・ダルデン&ヌリュック・ダルデンヌ 製作国:ベルギー・フランス

午後8時の訪問者  発端となったイベントが、素人捜査に駆り立てるほどの罪悪感をもたらし得るものだったのかどうか。その心もとなさが、出来の悪い火サスのような行動の飛躍をもたらしかねない。人々の告解も罪悪感の裏打ちのなさゆえに、あるいは素人探偵劇の外部効果もあって、次々と病魔に襲われる形でそのきっかけを得てくる。生活感あふれる疲弊顔が女医のサディズムへと変貌するのである。

 監督:ケン・ローチ 製作国:イギリス・フランス・ベルギー

わたしは、ダニエル・ブレイク  心臓に爆弾を抱えた老人を酷使して醸成するスリラーにあって技術的な課題となるのは、老体を稼働に追い込む状況の構築であり、官僚制の不条理が今回は利用されている。しかし、話の啓発的な側面が筋のストレートな運びを許容するがために、劇化へのいささか非倫理的ともいえる貪欲さが、不幸を予想と寸分たがわない場所へ的中させる。トイレに行って、ああまずいと思ったら、その通りのことが起こっているのだ。ただ、かかる貪欲さがフードバンクの衝動食いという貧困の迫力と代替すると、社会批評が肉体的な恐怖を獲得する。

 監督:チャールズ・ウォルターズ 製作国:アメリカ

イースター・パレード  潜在的な恋が舞台上の営みを通す以外に露見の術を持たないから、このミュージカルは切実になる。アステアとジュディの不穏な年齢差も、成功者であり彼女に対して優位にあるはずのアステアに視覚上のみじめさをもたらし、彼を緊張と同情の源泉にしている。

 あ、春 [1998]
 監督:相米慎二 製作国:日本

あ、春  藤村志保と富司純子の、ドッペルゲンガーのような互換性に当惑していると、山崎努が母系家族に強姦され代替的な自分を孕んでしまう。二人の女の相似は一種の再帰性の現れなのである。

 メッセージ [2016]
 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 製作国:アメリカ

メッセージ  母性であることのストレスという先生おなじみの主題が、タコ型宇宙人の通俗を互いに異質であるがゆえに際立たせ、タコ部屋でエイミーが明瞭な解像を得てしまうと、そのストレス顔がタコを圧殺にかかる。母性の迫力は母娘関係を不自然なほど稠密に叙述してしまうが、そこに活を入れるのがジェレミー・レナー迫真のスケコマシ。

 監督:ジェームズ・マンゴールド 製作国:アメリカ

LOGAN / ローガン  子の逞しさが父性の目覚めの障害となる。子どもはすでに自律していて、父親を必要としていない。老人に必要とされても詮方なく、しかも二重遭難になってしまう。問題の根底にあるのは、ミュータントと堅気の不明瞭な戦力比だろう。戦力の均衡がなければ緊張が生じない。しかし均衡すると、ミュータントの商品価値がなくなる。俯瞰すれば、子どもミュータント団のモチベーションに事態が左右されているように見える。

 監督:ヴィンセント・ミネリ 製作国:アメリカ

バンド・ワゴン  アステアの外貌の本質的なみじめさに言及する序盤の自虐芸が効きすぎで、若い女に恋をした中年男のつらさが切迫する。眼鏡のシドを前にして饒舌になってしまうアステアは痛々しいが、そこですかさずジェームズ・ミッチェル宛の手紙を挿入する悪魔的な構成。直後、結婚というタームに動揺して、平静を装うべくまたしても饒舌になるのも生々しい。

 監督:エイドリアン・ライン 製作国:アメリカ

ジェイコブス・ラダー  インテリが下流社会でモテるという邪念と疎外感が軋轢を起こす、イヤらしい存在論的亀裂を救っているのは、ティム・ロビンス眼鏡の無意思的性格である。密閉空間であれほどの乱闘を行っても傷一つつかないアレを鑑みるに、おそらく眼鏡が本体ではなかろうか。そういう印象が残った。

 監督:メル・ギブソン 製作国:アメリカ・オーストラリア

ハクソー・リッジ  痴性を聖化する営みが保守的な政治観と連携している。フォレスト・ガンプ的であり、その聖化がスコケマシに派生するように、具体的な状況設定にも共通するものがある。悲酸を自惚れまじりに消化することで状況に積極的に関与できない苛立ちを埋め合わせようとする傾向も、かかる軟派さの一種なのだろう。他方で、これもガンプのベトナム場面と同じ構図になるが、戦場の混迷がチョップリフターのような救出2Dアクションゲーム状に整理されてくると、機械的な生き方しかできない小動物の哀れらしきものが抽出されてくる。法廷でアンドリュー・ガーフィールドをバックライトで浮かしてしまうような図解志向が、戦場の整理で活かされたのである。

 監督:マーク・サンドリッチ 製作国:アメリカ

トップ・ハット  ミュージカルの不自然はすでに超越していて、問題となるのは、それは果たして人間に可能な挙動なのかというアステアの変態機動の生理的不条理である。生理の不自然は異常であるという自意識を否応なく周囲に共有させる。ジンジャーの、こんな代物に惚れてはたまるかという意気地ラブコメの地盤がかくて造成されるのである。

 スノーデン [2016]
 監督:オリバー・ストーン 製作国:アメリカ

スノーデン  家計への控えめな言及と、当人の如何にもそっち系の外貌を忠実にトレスしたジョセフの作り込みが、中学生のような夢と浪漫に母性の寛容がどこまで耐えられるか、というシャイリーン・ウッドリーの試練の話にしてしまう。男に強いられ続ける人間疎外が最後の逃避行にならないと具体的な形にならないのである。

 有頂天時代 [1936]
 監督:ジョージ・スティーヴンス 製作国:アメリカ

有頂天時代  障害物設定の重奏でこれでもかとため込まれる、あの変態機動を速く見せろという欲求不満の強度が受け手の関心をアステア当人の身体に凝集させる。この苦難にあってあの下顎前突のゆるみがどこまで維持できるかという興味になり、それが更に嵩じて、ジンジャーが下顎前突にまんまんと抱合され、メロメロになる顛末へと至る。有機体が可塑性が神秘化されるのである。

 バラキ [1972]
 監督:テレンス・ヤング 製作国:イタリア・フランス

バラキ  ブロンソンの恒常的造形が、出世のない技術職の生暖かい境遇の叙述に援用されている。この恒常性は独房の生活感の醸す不思議な不感症へと転義され、更に生活感が不健康な業界からブロンソンを救い延命を謀ることで、謎の達成感をもたらす。

 狙撃 [1968]
 監督:堀川弘通 製作国:日本

狙撃  技術職のストイックさが加山雄三への好意の源泉となるから、女難映画化を予想させる浅丘ルリ子の投入は当初、緊張をもたらす。ところが、ルリ子も相当な奇人であり、貫録の夫婦善哉となって人をムカつかせない。この女傑映画に岸田森とのボーイズ・ラヴを両立させ、それをロベール・アンリコ節の完コピでまとめあげる技術力が謎高い。

 監督:ジョン・ウェルズ 製作国:アメリカ

8月の家族たち  冒頭が投射されたサム・シェパードの視点がすぐに脱落して彼こそが謎の求心点になる引っかけが、長い潜伏を経て、終盤で残置されるメリルへと波及して爆発する。心象がつかみ難いゆえに狂人であって、メリルの視点は避けられがちで、彼女はあくまで観察の対象であり続けた。これが最後に観察者を失い残置されると、いままで観察者というバッファを介してメリルと接していたわれわれが今度は彼女と二人っきりで対面せねばならなくなる。ライオンの檻が壊れたような生理的不快とともに、狂人の視点が狂人のままむき出しになったという認知的不快に襲われる。

 踊らん哉 [1937]
 監督:マーク・サンドリッチ 製作国:アメリカ

踊らん哉  ジンジャーの挑発に対するわれわれの焦燥と憎悪が、例によってアステアの変態機動に巻き込まれ同じ職人としての連帯が彼女に芽生える様を観察しているうちに、心からの好意へと変わってしまう。これがうれしい。自分奥底にある善性を発見できたからである。しかし物語はそこにとどまらず、むしろあの変態起動する下半身が本体であって、それに乗せられ明朗さを強いられる職人根性の悲哀にまで到達しようとする。

 気儘時代 [1938]
 監督:マーク・サンドリッチ 製作国:アメリカ

気儘時代  無意識が題材だけに懸想がそれとして認識され辛く、恋愛の障害物競走がなかなか切実にならない。ジンジャーの方がアステアに入れ込むイレギュラーな趣向に輪をかけて、恋愛の障害と目されたキャラクターが最後にクピドだと曝露されるお約束も反故にされ、クピドを担う叔母のルエラ・ギアが最初からそれとして機能している。したがって彼女の魅力が全編にわたって牽引力のひとつになるのだが、特にアステアがルエラと踊り、彼女に話しかける体裁でジンジャーに施術を試みる場面が好きだ。ルエラは二人の仲が進展することへの満足のほかに、アステアの口説き文句自体にウットリするようなダブルミーニングの表情を浮かべ、無意識という不明瞭な題材を活かすのである。

 イノセント [1976]
 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 製作国:イタリア・フランス

イノセント  ジャンニーニが被っていたストレスを見誤らせる方策が結末の唐突さを導出している。あの顔芸がテストステロン分泌の単なる記号だと思い込まされてしまうのだ。しかし、内面開示は拒まれていて、受け手が観察しているつもりであったそれは眩惑だった。この齟齬が男の顔にヒューモアを見立てさせようとする。使用人の挙動が克明なのもジャンニーニのロボ性と関連があるように思う。

 踊る結婚式 [1941]
 監督:シドニー・ランフィールド 製作国:アメリカ

踊る結婚式  リタが単なる高慢にならないように気が使われている。アステア視点に憑依してしまえば憤りしかないところを、リタの方にも言い分が設定されていて、そこに目が行くような誘導がある。浮気勘違いラブコメにしても第1段階ではリタはそれに騙されない。かかるイレギュラーが女を高慢に貶めないのである。

 監督:マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ 製作国:イタリア

フォンターナ広場 イタリアの陰謀  間の皺を寄せまくるスーツのオッサンらが愛らしいフィアット500や600から出てくる脱力。あるいは、超ドメスティックな題材がテーブルランプとデスクライトしか光源のない劇画調で叙述される質感と格調の錯誤。この局地性がさらに絞られ、ある家族史の点描に至ってようやく文明の崩れる様が陳述される。

 監督:マーク・サンドリッチ 製作国:アメリカ

スイング・ホテル  受け手をクロスビーに共感させることでアステアの略奪愛に緊張を煽らせても、クロスビーがマージョリー・レイノルズの貞操観念を信用しない証左になってしまい、彼への移入が打ち消される。アステアに対するダンス妨害も変態機動を観察したい受け手の欲求を妨げることでやはりクロスビーの男を下げてしまう。唐突に挿入される戦時映画の教条性も混乱の種となり、マージョリーの女性心理を除いて、キャラクターに適切な類型を獲得させてくれない。

 ウォール街 [1987]
 監督:オリバー・ストーン 製作国:アメリカ

ウォール街  思想の対立項にもかかわらずマイケル・ダグラスとマーティン・シーンが表象においては概して類似の挙動を来してしまう。ハル・ホルブルックにして然りで、描き分けが金融オッサンという共通属性を超えられない。マシュマロのように顔容が乏しく、何を考えているのかわからないチャーリー・シーンが真空ポンプとなり、オッサンらの個別性を吸収し尽くすような恐怖がある。

 野火 [2015]
 監督:塚本晋也 製作国:日本

野火  肺病、飢餓、捕食の危機が出来の悪いリアリティショーのような偶然によって悉く無効にされる。飢餓で昏倒していたその傍から出奔するように。娯楽小説のような偶然の作用は、リリー・フランキー討伐という勧善懲悪へと集約され、むしろそこで浄化に成功する。原作者の俗謡トーンが好ましく抽出されたのである。

 監督:堀川弘通 製作国:日本

激動の昭和史 軍閥  加山雄三の面の皮の厚さが北村和夫らに受容されてしまう若大将の現実充実の浸潤力が 小林桂樹を青大将化するにとどまらずその心理劇に傾斜させ、桂樹はストレスを糧にして鬼神化する。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』や『首』の事実上の姉妹編である。

 監督:フェデリコ・フェリーニ 製作国:イタリア

フェリーニのローマ  群衆統制の芸術としての映画に自ずと含まれてしまうバタ臭い風刺が、高度の凝縮された対象を前にしてそれを受容すべく統制が苛烈になった時、映画を可能にしている技術的基盤に引きずられるように薄められ、何か無垢なものが抽出される。

 監督:ジーン・ネグレスコ 製作国:アメリカ

足ながおじさん  中盤のダンスパーティーが、抑圧されてきた変態機動を高慢な恋敵の目前で開陳させることで途方もない浄化をもたらせば、後半のレスリー・キャロンの妄想癖が、締め木のようにすれ違いストレスを搾り出す。浄化の溜めとなる抑圧の形成に配慮がある。

 絹の靴下 [1957]
 監督:ルーベン・マムーリアン 製作国:アメリカ

絹の靴下  アステアのステップを冷ややかに眺めるシドの半目がミュージカルを恥ずかしくする。ツンツンしながらもアステアのダンスに応対してしまう恥辱プレイへと恥が逆流することで、ミュージカルの根源的な恥ずかしさが正当性を得るのである。転向して嬉々とした挙動が開始されても、恥の余韻は消え去らない。

 悪魔を見た [2010]
 監督:キム・ジウン 製作国:韓国

悪魔を見た  キャラクターの力関係に応じて彼らの内面を開閉させる方策にここまで頓着しない作風も珍しい。結果、人々は常人とサイコパスの境界を激しく往来し、一貫した性格を失う。恩讐を超えるという課題が人格の脱落とセットで考えられているからだ。そして、何か属人的なものを失った個体に見出されるのが、エレジアと呼ぶべき気分である。たとえば、咥え煙草で投降するチェ・ミンシクの、厚顔ともヤケクソとも付かぬ佇まいのような。

 監督:平川雄一朗 製作国:日本

僕だけがいない街  配役が黒幕をおのずと曝露してしまう事実上の倒叙ミステリでありながら、話はあくまで叙述法で進行する。この齟齬が、どこから見ても真っ黒なミッチーにヒューモアある佇まいを与えつつ、確たる理屈の裏付けのないタイムリープの設定に実感をもたらしている。結局は架純ナンパ失敗に帰する結末はわびしいが、時空の往来がミッチーの犯罪にスケール感をもたらすうれしい誤算もある。

 監督:スコット・クーパー 製作国:アメリカ

ファーナス / 訣別の朝  ウディ・ハレルソンにケイシー・アフレックをぶつけてやろうという実験精神らしきものが、その交流を通じて憎悪を誘ってやまない二人を理解の射程に収める。クリスチャン・ベールのハレルソン狩りも報復というより手負いの獣を観察する風情になり、個体から獣性を分離する。獣性の共有を通じて、ハレルソンとベールがやはり結び付けられてしまう。

 監督:エドガー・ライト 製作国:アメリカ

ベイビー・ドライバー  そのままでは直視できそうもない文系の自己肥大むき出しの陳述を消費可能なロマンスにするのはアヴァンチュールに身を任せるかのような女性心理である。というより、文系浪漫の増幅に対応するうちにリリー・ジェームズが変人じみて見えてくると、事態はハーレクインロマンスに近くなる。

 監督:スティーブン・ソダーバーグ 製作国:アメリカ・スペイン・フランス

チェ 28歳の革命  そもそもが、どこから見てもデル・トロにしかならない代物を史劇の枠にはめ込もうという憤飯なのであり、ラテン気質との邂逅に際してデル・トロに世話焼き女房をやらせる違和感が持続する。かかる緊張は、ロケット砲の号砲を端緒として破られ、事が一気に素朴アクション文学へと流れ込む。デル・トロがあるべきところに落ち着く。

 監督:スティーブン・ソダーバーグ 製作国:アメリカ・スペイン・フランス

チェ 39歳 別れの手紙  群生する体毛の中心にデル・トロの顔が合成され鎮座している。われわれは、デル・トロという内面を展開しない顔貌の究極体であるこの不気味の谷との対峙を迫られながら、最後には内面不明な人物の視点に内包されてしまう不快な美的体験を被る。

 監督:ゲラ・バブルアニ 製作国:フランス

13 / ザメッティ  プロのオッサンらとの対比が、アマチュアの若者を貶めるのではなく、彼らの手練れが場に屠殺場のような機械的特性を与えることで、若者に当事者であることの誉れがもたらされる。結末のニューシネマのような暗さにもかかわらず、若者への同情に成功したことによる清涼感が残る。

 監督:ガブリエーレ・マイネッティ 製作国:イタリア

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ  フィクションが感化を与えてほしいとする業界人の強迫観念は、フィクションの効用を期待できない不信の裏返しである。劇中劇に内実がなければないほど、そこに内実があると思わせるべく、感化だけは強大になっていく。フィクションが信頼できないゆえに、主題に引きずられて登場人物の知性水準が自在に改変される。

 監督:イングマール・ベルイマン 製作国:スウェーデン・フランス・西ドイツ

ファニーとアレクサンデル  初出のハスラー演技から始まって、人前で権威を損なわれる事態に当たって体面を繕おうとする悲痛な努力に至るまで、主教ヤン・マルムシェーが笑いを絶やさない。その性格の様式性の突出が絶えず筋を喜劇のような歩調にしようとする。喜劇が社会的融和と関連することの証左であろう。

 Dr.Tと女たち [2000]
 監督:ロバート・アルトマン 製作国:アメリカ・ドイツ

Dr.Tと女たち  顔貌が性欲の表象でしかないことで、性欲では対応できない事態がリチャード・ギアを不穏の源とする。その助平顔が助平顔でありながら仕事ができる然るべき場所に到達するところで、宿命を見失ったファラ・フォーセットの不安と男の不穏がリンクする。その際、物語を常に自意識に目覚めさせようとするエロ顔は、筋に介在する天変地異を円滑に受容させてくれる。

 Mの物語 [2003]
 監督:ジャック・リヴェット 製作国:フランス・イタリア

Mの物語  ベアールがアレにしては彼女の視点に没入できるイレギュラーである。アレであること事が現世化して専業主婦の孤独と混線してしまう。だがこの混同は、夫婦はお茶漬けの味的な倦怠期の克服という結末を導出することで、本気印になるのである。

 監督:デヴィッド・リーチ 製作国:アメリカ

アトミック・ブロンド  肉弾戦のパワーバランスがあくまで女権を損なわない範囲で追及されるリアリズムの微細さに、巨大な体躯の女という両性具有なあり方の困難が分泌してくる。しかしより克明なのは、それに相対せねばならくなった男たちの困惑なのだ。

 監督:フィリップ・グレーニング 製作国:フランス・スイス・ドイツ

大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院  古典芸能のようなモンタージュを想定していない代物を、放映するにあたってカットで割ってしまう。わたしはこれが苦手で、カットを割り振る演出家の恣意に苛立つのである。解釈を押しつけられた心地がしてしまう。
 これは、景物の全景でどこまでも尺が持ってしまう類の話である。にもかかわらず、全景を抑えたらもう我慢できなくて被写体の接写に向かい、その心理の解釈にかかる。被写体の心理なんぞ全景で佇ませるだけでいくらでも拾えるものを寄らずにはいられないこの邪念と下品。しかし、かかるねちっこい欲望が終いには晩課の詠唱を男妾の喘ぎのように見せてしまい、これはこれで困った核心に到達するのである。

 パターソン [2016]
 監督:ジム・ジャームッシュ 製作国:アメリカ・ドイツ・フランス

パターソン  アダム・ドライバーの如何にも暗黒面なタイプキャストの不穏で盛り上げるイヤらしさをファラハニが救っている。彼女の痛ましい天然さがカップケーキという生活力に拡張され、好ましさに変わることで。もっともカップケーキバカ売れイベントこそ、詩的世界崩壊の序章になるのだが。

 監督:アンディ・ムスキエティ 製作国:アメリカ

IT / イット “それ”が見えたら、終わり。  事が恐怖への叛逆となることで、初期条件としてあった社会的な不正への憤りと不可解への憎悪を包摂するような普遍の感情が表れる。スクールカーストも怪奇も同根であり、ソフィア・リリスの垢抜けのなさがこの手の社会的抗議の果敢な担体という類型を盛り上げる。他方で、事が殲滅戦の様相になることで、シンプルな人間理性賛歌への保留が図られている。

 監督:ジャウム・コレット=セラ 製作国:アメリカ・フランス

フライト・ゲーム  孤立が解消され、ネタが割れて通俗化しても、人の評価が変わったといううれしさは残り続ける。人間の変貌は、黒幕の豹変から軟着陸時に大顔芸を繰り広げるコパイロットへとエスカレートすると文系の脱構築というモチーフに結実し、堂々たる文系賛歌となる。

 関ヶ原 [2017]
 監督:原田眞人 製作国:日本

関ヶ原  共感の足掛かりとなるには三成の動機が具体性を欠いている。小早川秀秋の、義理立てができなかった後ろめたさの方がよほど実感が籠っていて、生物としての不甲斐なさの訴えるその生々しい感情が究極的には三成の動機に波及して形を与えることになる。

 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 製作国:アメリカ

ブレードランナー 2049  80年代コテコテ美術を景物映画の高雅な文体で模倣しようとする気の狂った開き直りである。あるべき漆器の質感を求める彷徨は記憶をめぐるそれと重なり、悲劇的な気分を高める。質感のこの危うい諧調を絶えず脅かすのがアナ・デ・アルマスの文系殺しのタヌキ顔であり、レイチェルの広漠な肩パットがとどめの一撃に。

 監督:ブランドン・クローネンバーグ 製作国:カナダ・アメリカ

アンチヴァイラル  SFミステリーという屋下に屋を架すような虚構の重層が、症状を都合によって自在に可変させる。設定の地盤の緩さがための混線か、あるいは野放図な想像力に触知化する努力なのか、症状が二日酔いのゼスチャそのものに成り果てると、格調が笑いへと変奏される。

 裸足の季節 [2015]
 監督:デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン 製作国:フランス・トルコ・ドイツ

裸足の季節  虐待の機制が語り手の中でも内面化されていて、ジュニアアイドルビデオの出で立ちで顕現してしまう。性を抑圧して同時に奔放にするエキゾチシズムへの甘えが、社会批評を見世物劇の言い訳にしている。

 監督:黒沢清 製作国:日本

予兆 散歩する侵略者  サイキックバトルが選ばれたという英雄の意匠で陳述され、『回路』から『CURE』へ、そして哀川翔Vシネへと時代を反芻する。90年代ノスタルジィに誘われるままに、突然の栄光という笑いは何時しか催涙反応となる。稀少なる自分という認知がヒロイズムを媒介にして介護ものに至り、愛を具現させる。

 監督:イエジー・スコリモフスキ 製作国:ポーランド・アイルランド

イレブン・ミニッツ  ドミノ倒しのようでいて、その体を成していない。むしろ、薄毛髭オッサンらの肉壁で成形されたピンボールである。筋の離断で宙に浮いた関心が装置自体への興味へ向かう。筋のない辛さが何か醜いものを見たいという倒錯を誘う。ここに社会を風刺したいという邪念が介在すると装置への関心がインフラの脆弱という結論を導出する。

 永い言い訳 [2016]
 監督:西川美和 製作国:日本

永い言い訳  モックンの、造形の全体像を把握させてくれない実体のなさを放任するのは勇気なのか。彼が酒乱だから変化するのではなく、錯乱した様を可能にするために酒乱が設定される。兄妹には美麗な個体を何の躊躇もなくキャスティングして、竹原ピストルを嬉々として遭難させる。芝居のような偶然をまるで恐れない強欲は、映像業界人の生態の臨場感として、いささか本筋とは関係のないところで、結実している。

 監督:クァク・チギュン 製作国:韓国

プライベートレッスン 青い体験  圧搾を加えるだけだった母性がどこかへ跳んで行ってしまう男に残置されることで、母性に観察者性が付与される。ペ・ドゥナの寛容に男女の成熟差の均衡が見込まれる。

 監督:北野武 製作国:日本

アウトレイジ 最終章  マレビトであることがハニカミになればピエール瀧の造形となり、選ばれたことの後ろめたさとなれば老人たちの若い衆への配慮となり、引いては自殺願望になる。そのお馴染みの願望は肉体の老化が精神に追いつくことでもはや自然死のような様相を呈している。ナルシシズムは脱臭され男の人生が総括される。

 空中庭園 [2005]
 監督:豊田利晃 製作国:日本

空中庭園  表現への乾いたプライオリティが板尾創路の徳を発見できても小泉今日子に悲嘆の実体を見出せない。かかる洒脱はむしろ記憶改変という様式への興味を取っ掛かりにして女の情緒に近接を試みる。

 監督:ライアン・ジョンソン 製作国:アメリカ

スター・ウォーズ / 最後のジェダイ  男の疲弊に哀憐を寄せる眼差しは、単身オッサンの孤島ライフを記録映画調の豊穣さで捕捉するが、シリーズの基底にある武断肉体主義とは相性が悪い。無茶苦茶になった個々人の戦闘力の位階を破綻の手前で押しとどめるのはデイジー・リドリーの鼻息。

 仁義 [1970]
 監督:ジャン=ピエール・メルヴィル 製作国:フランス・イタリア

仁義  フランソワ・ペリエのネコ愛玩にイヴ・モンタンのおもしろ科学工作。オッサンの行き詰まる単身生活がロボ化した女たちによって重奏される。隙あらばスキンシップに励むアラン・ドロンらのボーイズ・ラヴとの間に、刹那の親和力を生じさせながら。

 監督:イーサン・コーエン ジョエル・コーエン 製作国:アメリカ

バーン・アフター・リーディング  女の厚顔が厚顔でありながら恐怖を受容する不可解な現象が、勝ち逃げわらしべ長者の寓話から風刺の無責任を抽出させない。女の才幹を発現させた厚顔ゆえの勇気が官僚制と難解なかみ合い方をすることで、組織の魅惑的な縦深を描画する。女が手に入れるのは、厚顔が恐怖を受肉する解法としての全身整形。

 帝一の國 [2017]
 監督:永井聡 製作国:日本

帝一の國  竹内涼真が菅田将暉を相対化した際、その竹内を千葉雄大が更に相対化することで、菅田の価値観はとりあえず崩れない。菅田と千葉の間には価値観の高踏さで差がつけられるが、菅田には犬属性が見出されることで、自尊心と犬たる性質の並立が見込まれる。この体たらくでは、志尊淳や永野芽郁が他の男に気をやるのは自然なはずであり、それこそ菅田の真の課題となり得るだろう。しかし原作はともかく映画はそこを追求せず、中盤以降、菅田は傍流に置かれる。他方で、あくまで物語の収束に気をやる閉塞感は、この室内劇の美術の集積度と演者の統制に貢献もしている。

 この国の空 [2015]
 監督:荒井晴彦 製作国:日本

この国の空  招集の恐怖に揺れ動く繊細な長谷川のエロ顔に素直クールというエキセンな女の生き様をいかに結合させるか。ロマンスの難解な衝動が社会変動と同調している意匠なのだが、戦中戦後を相対化する謎のてよだわ言葉はむしろ宇宙を逆侵略し始める。

 恋愛適齢期 [2003]
 監督:ナンシー・マイヤーズ 製作国:アメリカ

恋愛適齢期  老女が70年代ダイアン・キートンそのままの挙動を来す様には、オッサンがモーションキャプチャーを介して3D造形物の美少女に憑依したかのような蠱惑がある。キアヌを熟女趣味だと責めるわけにもいかなくなる。かかる錯視は、悲嘆の最中でも自分を客観視せずにはいられない創作という営みの不思議と最終的に同期する。

 監督:アンドレイ・タルコフスキー 製作国:スウェーデン・イギリス・フランス

サクリファイス  停電の夜のもたらした時制の喪失が積極的に誤認されたのか、災害による性欲増進が更年期のオッサンを行き詰まらせ、夜這いの試みを過剰粉飾する。更年期障害から自律して猛る性欲。その徴表としての慣れ合う運動会。そして時制の喪失は救急車と措置入院という魔法のような短絡を用意する。

 監督:モルテン・ティルドゥム 製作国:アメリカ

イミテーション・ゲーム  オッサンが単身生活の破綻させて人類の原罪を引き受けるこの発達障害啓蒙映画でマーク・ストロングが『裏切りのサーカス』の復讐戦を敢行したのは明らかだが、その手管はあまりにも前衛的だ。ボーイズラヴの痕跡を電脳化して全宇宙の家庭にあまねく波及させるのである。

 監督:ケビン・コスナー 製作国:アメリカ

ワイルド・レンジ 最後の銃撃  ロバート・デュバルの美事な頭部と比較参照させることで、おのれの薄毛の相対増幅を試みる姑息な助平心はまた、美術とガンファイトを精緻にせずにはいられない苛烈な自己認識の産物でもある。スクリーンプロセスの様な紛い物に見えるほど出来すぎた青空が表象するこの歪んだ現実感覚は、正義の完遂なのかアネットの尻を追いかけたいのか決断がつかぬままに男に町の往来を彷徨させる。

 葛城事件 [2016]
 監督:赤堀雅秋 製作国:日本

葛城事件  三浦友和以外になり得ないあの呪わしき定常が死すらも克服して彼を再び日常へ組み込むとき、相貌も込みで現れるのは一種のベニチオ・デル・トロ映画のような無常のダンディズムである。

 監督:トラヴィス・ナイト 製作国:アメリカ

KUBO / クボ 二本の弦の秘密  感傷に溺れエキゾチシズムに甘え停滞する冒険と抽象的な抗争に活を入れるのはマシュー・マコノヒーの陽性の造形。しかしその到達点にあるものは、フィクションの効用にたいする強迫観念という業界人の自意識、つまり空虚の最たるものである。エンドロールに挿入されるメイキングはその証左なのだろう。

 監督:ピーター・ヘッジズ 製作国:アメリカ

エイプリルの七面鳥  道学臭に巻かれているうちに、障害物のベタな投入が許せてくる。バーンズ一家の模範造形も模範過ぎるがゆえに、アリソン・ピルの魚雷の弾頭のような平滑なる額が生物の迫力で以て道徳教材の枠を打ち破り始める。

 監督:マーティン・マクドナー 製作国:アメリカ・イギリス

スリー・ビルボード  社会の写実にこだわらないジャンル物の緩い慣習に事件は支配されている。にもかかわらず、われわれはそれをそれとして受け取れない。フランシス・マクドーマンドが歯医者に恐怖するのは正しい。絶えず円形に収縮する頑なな唇が格調を不自然に担保し、それが微笑で緩んだとき、知的ボーダーの男と老女の犯罪映画という定義づけができる。だが、これをニューシネマだと知覚するや否や、物語は更なる越境を遂げるのだ。

 監督:アレハンドロ・アメナーバル 製作国:スペイン

アレクサンドリア  『タイタニック』で例えれば、レオが闇落ちしてビリー・ゼインが良識を保つのである。公平を期そうという強迫観念で緊張が絶えず生じていて、修羅場に際して試された人間性は悉く敗北する筋にもかかわらず、人が不遜にはならなかったという爽快な後味がある。技官化する奴隷オッサンやローマ兵の平常心を悲酸が彫琢するのである。

 監督:フェデ・アルバレス 製作国:アメリカ

ドント・ブリーズ  スティーヴン・ラングという悪乗りも甚だしいキャスティングからわかるように明らかに普通の活劇を狙っていない。幸薄い老人に若者が襲撃となっては、若者の生死よりもラングの幸福が切望されるほかはなくなり、恐怖映画の様式が受け手に別種の緊張を強いる。ラングは退治されてしまうのではないか?...またしても。だが、このストレスとかかる予感が当たり超人ラングも性欲に負けたという失意こそ浄化のタメ動作なのである。到来するのは人間の強靭さを称揚する生命賛歌だ。

 監督:フランソワ・デュペイロン 製作国:フランス

イブラヒムおじさんとコーランの花たち  何年経っても懐メロが流れているような錯覚を抱かせる過去への荒い解像度が、少年にシャリフが転生されたかのようなSF感覚をもたらし、感化を与えた少年にやがて陥落させられる少年愛の典型的過程に付加価値が生じる。

 父の秘密 [2012]
 監督:ミシェル・フランコ 製作国:メキシコ

父の秘密  虐使を被った人間の振る舞いが動物然となり、ストレスが過眠を貪らせる。人間を一個の生体に還元するかかかる生命観が社会という感じを希薄にしている。それは、あの虐使のつらさが消化できるという恩寵をもたらすのだが、最後は事をお伽噺にもしてしまう。

 黒い家 [1999]
 監督:森田芳光 製作国:日本

黒い家  人格障害を勇敢さと読み替えてしまう語り手の配慮は劇中人物への同一化という未熟を忌避する。大竹しのぶにメロドラマのような人物像が投影される一方で、内野聖陽が同一化の対象から脱落する。

 監督:山下敦弘 製作国:日本

リアリズムの宿  語り手のエゴが自らの課題を原作に接ぎ木している。リアリズムの宿に包摂されてしまうと前後の断絶のあまり、冬の日本海が時空を曲げたような文芸的な効果があらわれるのだが、もはや『リアリズムの宿』である必要はない。

 監督:クリント・イーストウッド 製作国:アメリカ

15時17分、パリ行き  仕事ができないという属性が受容されるモチーフを童貞トリオの珍道中が古典落語のような人情噺に容赦なく落とし込む。キマイラのように怪異なかかる構築物は、人物対比を狂わせることで恒例のドキュメンタリーパートを混乱させるフランソワ・オランドの短躰を以て絶頂に達する。

 監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作国:カナダ・アメリカ

ヒストリー・オブ・バイオレンス  父子の紐帯が母を疎外するにしても女の心理は放置されない。ヤクザのギラギラした魅力に惹かれてしまう自分を背徳だと思いながらも、背徳ゆえに盛り上がってしまう堅気の女の受難劇である。

 監督:クリストファー・ボー 製作国:デンマーク

恋に落ちる確率  ふたりがすれ違いの状況に追い込まれると、間男を罰したいそれまでの感情と事が成就してほしい願望がせめぎ合い、混乱を覚えるとともに語り手の目論見が成功したと気づかされる。他方で、男女の性愛における男の劣位は彼の自己実現によって補填されるとする標準解が恋愛の苦悶を緩和することで、間男への懲罰が再び享受できるようにもなる。