映画感想 [601-700]

 日本[1995] 監督:渡邊孝好

君を忘れない  どうして死ぬかという課題に対して、習慣や形式によって死への不安を緩和するという対処療法のアプローチが持ち出される。なぜ出撃直前で歯磨きするのか、というあの問いである。他方で、少し足りないために死ぬ事への理由を見つけられない松村は、それがゆえに物語を超えるメタな眼差しを獲得する。

アメリカ[1982] 監督:ジョージ・ロイ・ヒル

ガープの世界  ニューシネマ以前なのか以後なのか、画面からは判然としないロイ・ヒル節の正調でロビン・ウィリアムズが出てくる混乱が事をあざとくしない。あるいはあざとすぎて、最後のもっともあざとい伏線を隠蔽する。

 日本[2002] 監督:手塚昌明

ゴジラ×メカゴジラ [2002]  むちゃくちゃである。中尾彬が総理というのもアレだが、六平直政が低温物理学権威なのである。いいぞももっとやれと浮足立つと、文系顔と体育会身体の不気味なかい離と腹に力が入っていない発声で釈由美子が恐怖支配を始める。

 アメリカ[2002] 監督:ハロルド・ライミス

アナライズ・ユー  貫禄はないが三下でもないような、ヤクザそのものとしか言いようのない属人性のないヤクザが、非個性ゆえに民事介入暴力防止啓発ビデオのような生々しさを全編にもたらしている。笑える代物ではない。

 日本[2002] 監督:阪本順治

ぼくんち  『パーマネント野ばら』の吉田大八も阪本順治も、これが観月ありさの、そして管野美穂のアイドル映画になることを発見していて、そこにこそ痛切さがあると確信もしている。しかもこれらはアイドル映画として成功しているのだが、本作の場合、観月のアイドル化に従い一太の悲愴な顛末が消滅してしまい、原作とはまるで別物の感傷に終わっている。悲酸に対する力みも、決して下品とは言えないが、やはり現代邦画標準なのである。

 日本[2002] 監督:森田芳光

模倣犯  コンサルの中居正広が豆腐屋の山崎努がただの豆腐屋ではないことを見ぬき得る度量がうれしい。サイコパスへの同情が父性による連帯を経て庶民賛歌に接続してしまう。大曲芸という他はない。

 アメリカ[2002] 監督:スティーブン・スピルバーグ

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン  英国侵略未満顔というか、どこからみても安心の60年代顔であるハンクスと対比されてしまうと、時代性を超越した造形をしているレオの顔貌はエイリアン状である。居場所を探しを体現するかのように。

 香港[2000] 監督:ロー・チーリョン

ダブルタップ  銃社会の東洋的消化という仮構が見渡す限りを診療所のような構築物で被膜している。その白い地平に漂い亡霊のような微笑をたたえる晩年のレスリー・チャン。

 日本[1964] 監督:須川栄三

君も出世ができる  美術と人間の物量が、人々の低練度を粉飾しようとするときにこみ上げるこの嗚咽は何であろうか。これはモダニズムという文明の断末魔なのだ。

 イギリス・ドイツ・フランス・ポーランド[2002] 監督:ロマン・ポランスキー

戦場のピアニスト  エイドリアン・ブロディがムック状の生命体へ変貌を遂げれば、生態観察の趣にならざるを得ない。社会批評ではなくグルメ番組なのである。都会がカロリーの不毛帯になるもどかしさが文弱と野性の逞しさの兼ね合いをむつかしくしている。毛ものブロディは愛玩も納得の造形ではあるが。

 日本[1962] 監督:黒澤明

椿三十郎  けつの青い若僧への愛欲とおやぢの貫禄を温存したい邪念との狭間で悶える苦しみがヘマを大招来。己の美意識を認知されたくない美意識が空転して騒動するが、平田昭彦には全てがお見通しであった。

 日本[1977] 監督:中島貞夫

日本の仁義  実録物にフランキー堺を投下する異次元キャスティングの上に展開されるのが、フランキーでニューシネマというこれまた異次元である。文太の嫁に手を出し、人質を取って籠城し、挙句に警官隊に射殺。シャブ中の文太も千葉に男色を迫る非常事態にあって、成田三樹夫だけは高笑いで通常運転。鶴田浩二も苦笑いで平常運転。

 アメリカ[2002] 監督:スティーブン・スピルバーグ

マイノリティ・リポート  表情のないトムはバスター・キートン状であるし、ジョン・ウィリアムズのスコアもそうである。なぜこの話をスラップスティックにしようと思ったのか。語り手にニューウェイヴを受容できる器官がない以上、スラップスティックとしてそれを消化している。

 浮草
 日本[1959] 監督:小津安二郎

浮草  何処から見ても増村保造になりそうなところを押しとどめるのは、お馴染みのカット頭に間を置く定型詩である。増村映画のエキサイトに走ろうとするとこの間が抑止して、小津の定型詩が編集点がやって来るごとに露見する。イキそうでイケないこの感覚は、童貞増村には望むべくもない魔性の色気を若尾文子に付加している。これは老練というよりも高齢童貞の誤算であろう。

 アメリカ[1980] 監督:ジョン・アーヴィン

戦争の犬たち  暗黒大陸の非常識に翻弄されるように筋を運んでいながら翻弄の対象となる人間を担っているのが暗黒文系クリストファー・ウォーケン。つまり、主人公でありながら受け手との一体化を拒む類の造形で翻弄が不可能なのである。情を担保できない間隙に時として生じるフワフワな徳がそこに美事に出現していて、クリストファー・ウォーケンのアイドル映画といううれしい惨状になる。

 日本[1962] 監督:三隅研次

座頭市物語  後年のピタゴラ的大道芸は影をひそめる代わりに天知茂を死に場所に追い込むロジカルさが鮮烈である。勝新のモテだけがその阻害要因でありつつも、勝新のベビーフェイスを悪用したボーイズラヴ全開の終局がその何事かを克服。王道であり、またこれか、である。

 アメリカ[1998] 監督:エリック・ダーネル / ティム・ジョンソン

アンツ  ウディ・アレンのパロディという気の触れた企画があぶり出すのは主人公補正の裏返しとしての残虐さ。単に運がよかったという戦慄である。アレンが大作を撮ったらという架空戦記の悪魔合体の産物だ。

 チェコ・イギリス[2001] 監督:ヤン・スヴィエラーク

ダーク・ブルー  スケコマシ映画であると憤慨するのは全く正確でなくて、むしろダラダラと高齢者の性交のように旋回を競うレシプロ機の挙動に官能を見出す類の趣向である。中年のスケコマシテクに童貞が瞬殺される辺りにも語り手の志向が濃厚だ。

 韓国[2001] 監督:クァク・キョンテク

友へ チング  Vシネを高みの見物しているうちに感極まってしまった堅気の旦那衆を観察せよといわれても当惑である。Vシネの当事者であるやくざ者には、堅気衆だからとある種の保留があって、堅気衆が当事者たることを拒絶する理性があり、そこにうれしはずかしさがあるのだが、堅気衆は勘違いをして片務的爆発を呈す。

 日本[2003] 監督:宮坂武志

人斬り銀次  長期服役ボケに因る幻覚映画である、と解釈せねば合理化できないほどの非日常のインフレであるが、夏八木勲の視点の構築の仕方がそうはなっていないので、Vシネキャストの学芸会という入れ子構造の眩惑に襲われる。

 日本[2002] 監督:OZAWA

龍虎兄弟  哀川翔という存在自体のはにかみ。その生命体を徴用するVシネのジャンル的なげやり。哀川とのダブル主演に釣り合わない小沢仁志のはにかみ。メタな恥辱の応対に尺は取られ、後は映画愛と憧れが走馬灯のようにフィルムを癇走らせる。

 日本[2001] 監督:藤原章 / 大宮イチ

神様の愛い奴  傲岸への報復を敢行する傲岸が、被写体をダシにして映像業界最末端絶望に言及する自叙伝である。

 ブラジル[2002] 監督:フェルナンド・メイレレス

シティ・オブ・ゴッド  目に余る悲酸の顕示欲が事態の詠嘆消化を促進し、アンファンテリブル物になりそうなところを回避している面もある。悪くいえば焦点のボケがちな話であって、主人公の童貞喪失シーケンスの異様な浮き立ち振りで凝集するのか、やはり離散するのか、これまた不明瞭な手ごたえである。

 アメリカ[2002] 監督:マルコム・D・リー

アンダーカバー・ブラザー  明朗であるからこそ失われた文明の喪失感がこれほど切実になるのは、虐げられた民族の哀切とそれがリンクするからだ。『オースティン・パワーズ』の世界観との差は明瞭であろう。

 アメリカ[2002] 監督:スパイク・ジョーンズ

アダプテーション  メリル・ストリープをオカズにするグロテスク狙いが全くそうはならず、メリルがオカズたる合理性を見事に獲得する。語り手が欲望と正しく向かい合っているのだ。これに比べるとニコラスは構築感が甚だしい。

 アメリカ[1996] 監督:マイケル・マン

ヒート  ヤクザと公務員ではリスクのズレがある。この質の差を量で埋めようとするのがそもそものかけ違いで、崩壊する家庭とリスカする娘の板挟みでパチーノにヒスを起こさせても、感心を誘うその超人的な体力と耐えられない精神の物語として、なぜかかけ違いが個人内で再現されてしまう。

 アメリカ[1972] 監督:ウディ・アレン

ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう  シネフィルであることと映画人としてのテクノロジーへの憧憬が表層的に一致にしたのが、最後の What Happens During Ejaculation? であり、この一致が映画の質感として現れたのが Why Do Some Women Have Trouble Reaching an Orgasm? におけるイタリア映画の如何にもな再現度だろう。

 アメリカ[1998] 監督:ピーター・アントニエビッチ

セイヴィア  戦場をうまく構築できない前提で戦場特有の悲惨を再現しようとする努力の解が、恐怖映画のミクロ感であった。しかも『地獄の警備員』のような肉体損壊への直接的な言及で果たされるそれで、ホラーが戦場に回帰したといばそうだが、変化球過ぎて不快極まりない受容となった。

 フランス・イタリア[1974] 監督:フェデリコ・フェリーニ

フェリーニのアマルコルド  ガジェットと美術の量感で攻める博物映画にあって、展示会への堕落を回避すべく、キャラクターの運動量が操的になるも嫌味がない。情報の量感が大仰な人間の挙動を興ざめにしない補完関係がある。図説趣味はまた共同体を離脱する人間を見送る視点の構築という工学に活かされている。

 香港[2002] 監督:コーリー・ユエン

クローサー  警察映画の量産というのは香港の行政浸透の苛烈さの反映かと空想したくなる。警備主任の倉田いぢめ殺しや家電趣味が過剰に高じすぎて、司法当局に監視社会のフリーパスを引き渡すラディカルさを見てしまうと。

 アメリカ[1987] 監督:ジャン・リュック・ゴダール

ゴダールのリア王  英語コンプレックスが極限に至り、自らの英語力をフィクションに組み込む段にあって捻り出された、半記録映画のような、あるいはNHK語学番組のような曲芸的解。

 アメリカ・ドイツ[2001] 監督:ウディ・アレン

スコルピオンの恋まじない  このイヤらしい結末を自分で仕込んでおきながら驚愕の挙動を起こすアレンが苛立ちとはまた別の不可思議な感情を引き起こす。驚愕顔にヘレン・ハントの肉体の迫力に圧されたというダブルミーニングがあるからだろう。

 フランス・イタリア[1960] 監督:フェデリコ・フェリーニ

甘い生活  シルヴィアの件でマストロヤンニを中間管理職的ステイタスに置く違和感の気まずさも、脂汗が自家中毒(誤用)を引き起こして当人を逆侵略かけるような、徹夜明けの気持ちの悪さの体現に協賛していると思う。これらの疲弊がカメラ目線で総括されると、母性が当事者たることを気にしないがゆえに四方に浸透してしまう気まずさに行き着いてしまう。副次効果が文芸を見たというお得感を醸すのである

 ロシア[1989] 監督:ヴィターリー・カネフスキー

動くな、死ね、甦れ!  時代劇であるはずなのに記録映画の文体という、70年代初期の刑事ドラマのような質感の支配下にあって、このふたりが線路を歩くいかにもな青春劇の絵になりそうなところを、広軌の線路がすかさず掣肘を加える。泥レスじゃないかという説もある。

 フランス[1972] 監督:ルイス・ブニュエル

ブルジョワジーの秘かな愉しみ  アリストクラティックな生き方が田園に行き着くことで環境負荷への懸念に代替され、 浪費が正当に報われようとすることが因果があることへの安堵になってしまう。

 フィンランド[1996] 監督:アキ・カウリスマキ

浮き雲  悲酸を感知できない天然がほとんど莫迦の様に襲来してしまった救済に際して初めて、因果のなさの不安を伝えてくる。

 スリ
 フランス[1960] 監督:ロベール・ブレッソン

スリ  過激な才能に倫理がついていけない様がオーバーサイズのスーツからはみ出るように鎮座するマルタン・ラサールのゲジ眉の主体感に裏打ちされている。

 鬼火
 フランス[1963] 監督:ルイ・マル

鬼火  このモーリス・ロネは酒精中毒じゃねえだろう、という活動力が悲酸を同情と好意の源泉にする邪念を肯んじつつ、自裁にも体力が必要という観念を織り込んでくるのである。ただ活動力が緻密な生活感と互換する面もある。

 日本[1981] 監督:井筒和幸

ガキ帝国  怠惰にせよ勤勉にせよ同じ顛末に誘導するこの趣向には宿命の疲弊感への着目があるようだ。

 アメリカ[1998] 監督:ジョーン・チェン

シュウシュウの季節  抽象度が必要とされる難度の高い邪念である。下放してくる都会の娘の保護の必要な属性を利用した教官物をやりたい。この空想を成り立たせるために、娘をあえて極端な性の対象としてオスであることの惨めさを醸しつつも、教官のストイックな属性を高める綱渡りが昂じ過ぎて、過激な忖度という結果になってしまう。

 フランス[1974] 監督:ルイス・ブニュエル

自由の幻想  ふざけるほどに生真面目が浮き彫りになるこの不可思議は何か。認知コードを超えたキャラクターが次々と脱落し代替されていく運動が論理への希求を実証してしまう。

 アメリカ[1971] 監督:ダルトン・トランボ

ジョニーは戦場へ行った  疎通が可能という受け手の知る情報が劇中の人物には届いていないという落差を利用した、早く伝わってほしいという古典的なスリラーである。これが中盤で充足してしまうと観測対象としての主人公の価値が減じてしまう。代わりに追及されるのが、自殺幇助で苦悩する看護婦の心理になる。

 日本[1952] 監督:小津安二郎

お茶漬けの味  宿命に殉じるという男の感傷に、悔いが天啓の形で取り返されてしまうことで、女は接続できてしまう。宿命と天啓という近似を媒介にして。

 フィンランド[1990] 監督:アキ・カウリスマキ

マッチ工場の少女  嗜虐心をそそるその佇まいが同時に理知性を担保している。課題となるのは、この矛盾する属性を併存させる叙述の在り方である。嗜虐への応対としての報復攻撃的な愛し方に理知性が発現する浄化がその解であった。

 フィンランド・ドイツ・フランス[2002] 監督:アキ・カウリスマキ

過去のない男  天然が心理的装甲ゆえに男を有能にし得ていた。同時に天然ゆえに男に悲愴がない。しかし男が再び暴漢と出会ったとき、その天然が維持されながらも男の悲愴と出会うことができるのである。男のもとに集まってくる人々が当人も気づいていない悲愴を抽出するのである。どれだけ彼が助けを必要としていたかを。

 フランス[1958] 監督:ルイ・マル

死刑台のエレベーター  尽力も無軌道もともに報われないというのは、それはそれで文芸現象なのだろうが、無軌道な若者への憎悪が勝った感もあり、彼らの撲滅のためにはモーリス・ロネの犠牲はやむを得ないかという妥協も覚える。

 アメリカ[1970] 監督:ブライアン・G・ハットン

戦略大作戦  おそらく脚本はニューシネマであるが、それが60年代正調戦争映画で叙述される。この認知の歪みの鬱積の決壊点としての、何か思慮がありそうなイーストウッドが何も考えていなかったというオチ。

 香港[2002] 監督:アンドリュー・ラウ / アラン・マック

インファナル・アフェア  ヤクザになるようなメンタリティが警察社会で出世するかという基底にある疑惑がアンソニー・ウォンの顛末に謳われる、行政の未浸透という近代人にとっての不快に押し切られた感じがある。行政の未浸透がアンディの安牌さへにも波及するのである。

 日本[2003] 監督:北野武

座頭市  人間全般への好意が模倣癖となってガダルカナル・タカに発現する。このしつこさがやがて、血に飢えた殺人マシーンをコントロールするという技術的課題の答えとなる。好意がマシーンを制御しえたのだった。

 アメリカ[1998] 監督:マーク・ペリトン

隣人は静かに笑う  ジェフ・ブリッジスの、体育会系のガタイに搭載された文系の相貌という両義的な身体がまたしても活かされてしまったのだった。非日常的な空想と詮索に、体力と行動力が追いついてしまった悲酸として。

 アメリカ[2003] 監督:クエンティン・タランティーノ

キル・ビル Vol.1  様式美の混乱はオリエンタリズムの荒い解像度がもたらしたのか。あるいはシネフィルとしての資質が標準からズレているのか。それともその両方なのか。ガチに行こうとすれば陽気な劇伴がはぐらかすのである。

 フランス[1966] 監督:クロード・ルルーシュ

男と女  アヌーク・エーメの母子家庭の人妻のやつれと媚び媚びのアニメ声をまあねちっこく微細に追い、こちらもそれに浮かされているうちに気づいてしまうのである。50年代60年代という文明が終わりつつあることを。戦前との断絶が始まっていることを。

 イギリス[1996] 監督:マイケル・ウィンターボトム

日陰のふたり  貧困の及ぼす作用の解りやすさが、演出家に内在する薄幸への猟奇的な嗜好の予感に満ちていて、文芸としてみる場合それはよくないのだが、逆にエンタメへの即物的な関心とみるのならば、それはそれで天晴なのかもしれない。

 HERO
 中国・香港[2002] 監督:チャン・イーモン

HERO  チャン・イーモウの器用振りというか人造臭さが秦王のネゴシエーンションの不自然な巧さに結実している。皆、タイプキャスト丸出しで、トニー・レオンは善人化の一途を辿り、他方で小役人風情に落ち着いてしまうリンチェイによろこびつつも泣く。

 アメリカ[2002] 監督:ポール・トーマス・アンダーソン

パンチドランク・ラブ  身分に相応したリスクしか降りかからない神の試練の問題を人間はそんなに暇でない的な反陰謀論に接続する。シーモアの徳がこのリスクを過大に見せたり矮小化したりで緊迫を操縦している。

 フランス[1998] 監督:ギャスパー・ノエ

カノン  本来的に自律を強いられるオッサンが依存の衝動に襲われたとき、形の上でも自律している必要から、援けを乞うことの衝動が性欲となって現れる、誤算の唖然の迫力である。

 日本[2003] 監督:今敏

東京ゴッドファーザーズ  ミニシアター系にするか深夜アニメにするか。かくクールであってほしいという自意識とそこから天然に滲みでる自己愛が奇跡のハードルを降下させる。キャスティングの映画演劇アニメの混交は、後年の新海アニメを思わせるような、アフレコ現場の気まずさ空想させる。むろん空想だが。

 アメリカ[2002] 監督:カート・ウィマー

リベリオン  管理社会にしては隙が多すぎるから、管理社会を運営する困難への同情がこんな社会つぶれて当然という憤激へと変わる心の移ろい。

 アメリカ[1990] 監督:ジョン・エアマン

ステラ  エスタブリッシュメントへの参入障壁を突破しようと爆走する暑苦しさが、かえってプロジェクトを崩壊の危機に追いやる。娘を熱海に連れて行くのは良い方策だが、そこで忘我して娘の夢を破壊する。奇特だ。

 イタリア・フランス[1958] 監督:ジャック・タチ

ぼくの伯父さん  注意欠陥多動性障害者への同情というリベラルの装いにエンタメが消化不良しかねないところを、最後はこれをダシにして健常者の感傷を叙述する方向へ舵が切られ、やはりそうなるよなという如何ともしがたい感想が残る。

 アメリカ[1979] 監督:フランコ・ゼフィレッリ

チャンプ  無理なタフガイ声でわれわれの微笑を絶えず誘発するヴォイトとゴールデングローブ賞、リッキー・シュローダーが対比されると、自滅を以てしか果たし得ぬ階級間移動の困難というよりも、すべては対面を維持したまま事を成したリッキーの策謀ではないかと思われてくる。

 ベルギー[1992] 監督:レミー・ベルボー / アンドレ・ボンゼル / ブノワ・ポールブールド

ありふれた事件  フェイク・ドキュメンタリーがカメラを意識した演技を要請し、公衆に晒されている空間ではとうてい想定できない行動や感情の表出を制限するがゆえに、物語な非日常を語り始めると、事件のインフレにキャラクターの感情が対応できなくなる。かくて、ポールブールドの苦悶する佇まいとなる。

 アメリカ・ニュージーランド・日本[2003] 監督:エドワード・ズウィック

ラスト・サムライ  プレモダンへのこのロマンティシズムがよくわからない。文系然とした鎮台兵を虐待する体育会系賛歌という近代人の受け手にはまるで届かない仕様であって、男たちの感傷が自慰を出でず、したがってボーイズ・ラヴとして消費する他はなくなる。しかしそう解釈すると、男どもが絶え果てたニュージーランドのコミューンへ帰還したトムのエロ顔がわからなくなる。

 日本[1973] 監督:山下耕作

山口組三代目  啓発本の訓育の世界だが、これをただの啓発本にしないのは丹波哲朗の間の抜けた叫声という牧歌の極み。では、啓発本にならなくて何になるかと問われると困るが、ポカポカと脳が茹であがるのは間違いがない。

 日本[2003] 監督:高坂希太郎

茄子 アンダルシアの夏  東洋人が構築したイタリア社会の意図せぬパロディが変な緊張を持続させる。ナレーションが常時入り、何となく望遠で撮った風のレース画面にいかにもアニメなトラックアップが入る文体の混交がパロディであることを強調するのである。

 昼顔
 フランス[1967] 監督:ルイス・ブニュエル

昼顔  オーヘンリーと枕中記SFがミックスしたような、強烈な訓話らしさはジャン・ソレルの徳の産物のようでいて、しかしドヌーヴのぬぼ〜っとした三白眼の徳がかなり効いているとわたしは考えている。

 日本[1957] 監督:小津安二郎

東京暮色  中絶をした有馬稲子が原節子の二歳児娘に迫られるあたりで、この話の、演出家にとっての冒険的趣向が理解され、稲子の虐待に被さる斉藤高順の明るいスコアに乗れるようになったと思えば、笠智衆の背中を手前になめた東京の街並みといういつもの近代化論に最後は集約されるから座り所が悪い。

 イタリア[1983] 監督:アンドレイ・タルコフスキー

ノスタルジア  エウジェニアがいるうちは湯煙温泉世界街歩き紀行で済んでいたものを、常識人たる彼女があきれて退去するものだから、オッサンが水辺で戯れる前人未到のイメージヴィデオへと、いやまたこのパターンなのである。

 香港[2001] 監督:ジョニー・トゥ / ワイ・カーファイ

フルタイム・キラー  サイモン・ヤムの英語力が話の世界線(誤用)になるという、本来的に破たんしている構造が綱渡りの末に自己顕示欲のある殺し屋というアンディの矛盾した属性を止揚し得たのは、香港人の明朗な英語コップレックス(これはこれで矛盾だが)という広漠な社会に広がりの賜物だろう。

 フランス[2002] 監督:ブライアン・デ・パルマ

ファム・ファタール  あり得た未来を訓話として利用するにも、ブニュエルの『昼顔』はSF色に傾斜して訓話への直截な言及を避ける照れがあるのに比して、デ・パルマは迷いがなく、例によって善の衝動が甲走るのだが、今回はこの野暮が活かされた。女性同士の同情が、それが成り立ちがたいがゆえにその一瞬の通交が切実になるという、文芸現象が目撃される。

 日本[1997] 監督:今村昌平

うなぎ  新秩序形成エンタメの溢れんばかりの意欲の現前としての、邦画キャスト究極の安全牌、佐藤允が隣人という益体のなさ。その初来店佐藤が外に目を遣ると清水美砂が店先を横切る畳み掛け。通俗の偶然の美学である。

 アメリカ[1996] 監督:マイケル・ベイ

ザ・ロック  そもそもニコラスが成長可能な生命体かという疑惑があるが、ブラッカイマー節の水準の高さは、ニコラスがコネリーを通じて社会的な連環に織り込まれていく様が、最後のマイクロフィルムの件に現れるように、粋かつ幸福に叙述されるところにあるのだろう。

 フランス[1999] 監督:ジャン・ベッケル

クリクリのいた夏  尋常ではない数のイベントで構成されながら、あるいはだからこそ、これらの事象が共通して示唆する決定的な事態が訪れない。沼地を回遊する混沌に目眩を覚えるばかりである。季節的な変動という循環的な時間と共同体と人格の変動という不可逆な時間の区別に明快さを欠いている。

 [Focus]
 日本[1996] 監督:井坂聡

[Focus]  タイムスパンを長くとり難い記録映画の文体を逆手にとって、系統進化の如く一日の内に、抑圧→キレる→諦念という生涯の軌跡を展開され、これがかえって一夜の冒険をした感覚を構成する。あるいは、関東ヤクザがなぜか関西弁を使っている下世話な図解志向が若者の系統進化を当人を客観化する装置として用い、何かを観察したという余韻を残す。

 日本[1981] 監督:鈴木清順

陽炎座  人間をマトリックスに閉じこめておくには膨大な資金と時間が必要であって、中村嘉葎雄程度の資力では、せいぜい一時的なそれを構成して、優作ひとりを神経衰弱にするのが関の山なはずである。ところが、この一時的にしか成立しない空間というものが厄介なもので、まともなマトリックスならば、それを脱し別の系に移行した時、その把握が容易かも知れないが、中村嘉葎雄のそれは貧弱であるが故に境界が曖昧で、原田芳雄の援助で中村の魔の手から脱したとしても、それが本当にリアルな空間なのか却って判別が難しいのである。

 フランス・イタリア・スペイン[1995] 監督:ジル・シモーニ

アパートメント  当初においては、誰に恋をするかという選択を道徳価値で比較して、男の行動は正統化されたはずである。ボーランジェよりもモニカ・ベルッチの方が、物語の価値観において優先権があると判断され、その判断が受け手の情緒移入を促してきた。ところが、ボーランジェが執拗にいぢめられ、その妙に嗜虐心のそそられる泣き顔に欲求の罪深い充足を覚えるようになると、結局、問題は顔面造形の問題に帰してしまうような気もしてくる。われわれの価値判断が、倫理的準拠ではなく、単に顔の好悪でなされていたような気がしてくるのだ。こうなると、男の行動へ情緒を移入する契機となってきた倫理的基盤が危うくなる。

 アメリカ[1997] 監督:サイモン・ウエスト

コン・エアー  ブシェーミを語り手がどう考えているのか。この語り手の価値基準が不明にされるものだから、とにかくブシェーミに移入しがちな一部好事家は、途中下車したブシェーミのママゴトに作中最大の緊張を強いられるのだが、これがあの幸福なラストのタメだったのである。

 アメリカ[1994] 監督:ジョエル・コーエン

未来は今  ティム・ロビンス視点に寄り添うとハードルが欠落している不穏に苛まされる。不安がないのはティムが課題となってないからで、不安の欠落に視点構成のトリックがある。本当に問題とされるのは、ポール・ニューマンの視点の方であり、凡才が天才に出会った時の気持ちの悪い恐怖に言及が始まるのである。

 アメリカ[1950] 監督:ビリー・ワイルダー

サンセット大通り  ウィリアム・ホールデンへの倫理的討伐感情、つまりモテへの苛立ちと醜悪なヒモ生活を破却したい願望が同時に充足するのはよいとして、しかしそれではグロリアを罰しすぎたのではないか。これらの後ろめたさを総括して救済するのがシュトロハイムの職人根性が訴える、技術は人格を裏切らないという映画人とテクノロジーの親近性である。

 西ドイツ・ポルトガル・アメリカ[1982] 監督:ヴィム・ヴェンダース

ことの次第  ヴェンダースだから観光映画に決まっている所をガジェット志向が外部効果としてこれを80年代文明観察映画に誤認させる。地域観光か時代観察か。この視差のふらつきが野暮を認識したくない願望を叶えたり叶えなかったりで、緊張を持続させる。

 アメリカ[1953] 監督:ウィリアム・ワイラー

ローマの休日  グレゴリー・ペックとの対比で露曝するヘプバーンの華奢さが原因なのか、宿命を知った瞬間、階級が固定してしまうという現象の叙述に当たって、その人身御供として側面に着目が行くよう誘導が行われている。

 ロシア[1986] 監督:ゲルオギ−・ダネリア

不思議惑星キン・ザ・ザ  明快な問題解決行動を放棄してまで、利己的なプリュク星人に投げかけられる愛の在り方の不自然に至ると、これが社会批評という構築物であることの興ざめを覚えるとともに、利他愛を解せないこちらの倫理感が世間のそれとズレているのかと不安を覚える。最後の邂逅によろこびがあるのは、かかる課題の解決が迂遠かつ粋なやりかたで実現を見ているからだろう。

 アメリカ[1983] 監督:ウディ・アレン

カメレオンマン  記録映画文体の極北というフィルタリングが一瞬で暴くのは、ミア・ファローの天然が天然なるがままに攻撃的な母性と接続する様である。アンチ・フォトジェニックであるがゆえの、衝撃的な庶民感が恋に如何ともしがたい切迫を付加する。

 日本[1986] 監督:芝山努

ドラえもん のび太と鉄人兵団  ドラえもんのメカとしてのアイデンティティが、腫れ物に触れるが如くな扱いになってる。メカであることでIDクライシスに陥った機械の集団とコンタクトしたドラえもんは、笑いながら「ロボ警報装置」なるものを仕掛ける。
 のび太をはじめをするヒューマン連中が、メカとしてのドラえもんを何も問題としないように、メカ娘どもも彼がロボであることを意識すらしていない。メカ娘が、真っ先にせねばならなかったのは、ドラえもんに対する思想工作だったはずだ。
 のび太が全般に信頼し、メカ娘が最初から諦めねばならなかったドラえもんの強固な自信。これが示唆するところは、彼の思考を表現するアルゴリズムの完成度とそれを実現した22世紀という広大な社会の基盤だろう。その層の厚さは、物語の終盤、メカ娘の家内工業的な生い立ちが明らかにされるに及んで、鮮やかな対比を成す。

 フランス[1937] 監督:ジャン・ノワール

大いなる幻影  ギャバンとシュトロハイムのボーイズ・ラヴというよりも、殊更にシュトロハイムの異形を強調して外貌に美麗の差をつけるから、後者のぎこちない片思いになりがちであり、シュトロハイムの惨めさに関心が行く。このオッサンらを尻目に脱獄した若造どもが男日照りの人妻に手を出す件になると、ボーイズ・ラヴを犠牲にして何たることかと憤激に耐えないが、しかし、ここでたしかに、その怒りを通じて遡及的にボーイズ・ラヴが成立したことを知るのである。

 アメリカ[1987] 監督:ウディ・アレン

ラジオ・デイズ  発声法で人格を変貌させてしまったかのように見えるミア・ファローが不安の源泉で、発声というきわめて表層の変貌に人格への判断が依存しているのではないか、という疑惑が出る。それは例えば、國府田マリ子と飯塚雅弓を比較する際の当惑みたいなものであって、つまりマリ姉が辛抱たまらなくて飯塚が白痴なのは、人格の差ではなく、単に演技に関するスキルの差に起因するものだとしたら、人を価値判断する際の人格傾斜主義はそこで崩落することになる。われわれは、仕方がなく、鍛錬が人格の成長を促進したというような、別なる解釈をせねばならなくなる。

 アメリカ[1989] 監督:サム・ライミ

ダークマン  障害者に生き甲斐を与えることに関する訓話であり、脇の甘さがハンディキャップに相当する装置と見なされる。他方で、ファイナルマッチの相手がただの高層建築フリークという『グラディエーター』ふうの結末は、ハンデを分配することの困難についての訓話となる。

 アメリカ[1941] 監督:ジョン・フォード

わが谷は緑なりき  文明の威光を担ったインテリに田舎娘が参ってしまう。この異性に対する迂遠なアプローチは、迂遠だからこそ文系の夢があり、しかしながらそうだからこそ限界もある。経済力という試練の投入によって闘争が多元化するのである。

 アメリカ[1993] 監督:クリント・イーストウッド

パーフェクト・ワールド  コスナーの性善の叙述と事件の進行の歯車が噛み合わなくなったとき、キャンピングカーが破壊されるのは不条理の物理表現としてまだ譲歩できるのかもしれないが、川辺で焼肉パーティーを始めるのは前衛。このあたりからコスナーの性欲も解放されてきて、ますます本筋に組み込めなくなる。結果、自助努力ではなく、終局が勝手に飛んできた具合になっている。

 日本[1974] 監督:山下耕作

山口組外伝 九州侵攻作戦  意図が不明で無秩序な行動が解釈される過程を通じてエンタメが誕生している。逃亡先の大阪で乱脈する文太はまだ理解の範疇に辛うじて収まるが、帰郷後の周囲を泣かせ放題な行動に至っては、もはやその意図を計ることができない。そこで語り手は、文太の周辺に梅宮、津川、渡辺文雄という大人を演じられる俳優たちを配置し、文太の心理が彼らによって解体されるように仕組んでいる。理性キャラとしての梅宮が的確に把握されている。

 アメリカ[1998] 監督:ジョージ・ミラー

ベイブ 都会へ行く  可動域の広さに因る、他者の運動によって実感される空間の媒質感の幸福が劇の時間リソースを浪費する。円滑に進まねば語り尽くせぬがために、豚が他者の好意をどう猛に当てにするよう迫られている。

 韓国[2003] 監督:ポン・ジュノ

殺人の追憶  ソン・ガンホというトリック・スターの天然視点が成長して抽象的な次元から事件を眺め始めるとき、代償として野生の勘が喪失する。この視差の表現が粋である。冒頭の彼は排水溝をのぞき込み、そして田園を眺める。彼はラストでそれを繰り返す。景観は数年前のそれとほとんど変わっていないはずなのに、明確な落差が感知されてしまうのである。

 日本・イギリス・ニュージーランド[1983] 監督:大島渚

戦場のメリークリスマス  坂本×ボウイ組のようにパッションに走るか、北野×ローレンス組のように大人の愛をじっくり育むか。階級分断劇にもかかわらず、この多元性に中学生の合宿を眺めるかのような視点を持ち込んだ語り手の同情がうれしいのである。

 アメリカ[1996] 監督:グレゴリー・ホブリット

真実の行方  リチャード・ギアのニヤケ顔がどこまで事態に耐久するか、という趣向になると、顔の破綻する・しないの二択にしかならず、どちらにせよ予想ができてしまうから、途中で、ノートンという爆弾をたらい回すゲームにすり替わる。爆弾はリチャードの手から元カノの手に放られ、そこで爆発。結果、失意で弱気になった元カノは、リチャードに口説き落とされる顛末である。だがしかし、これこそ、実はニヤケ顔耐久レースが密かに続行していたことを隠すデコイだったのだ。

 アメリカ[1980] 監督:ウディ・アレン

スターダスト・メモリー  臨終のウディ・アレンが語らねばならない情報は、最初はテクストに近い形で、つまり当人のナレーションで語られ、次にサッチモにバトンタッチされ、最後はシャーロット・ランプリングの蠱惑的な上目遣いに到達する。情報媒体が抽象化し、伝達内容が普遍化するのである。

 日本[2004] 監督:押井守

イノセンス  見世物を見世物として明確に展示する観光映画が時折、誤配をやる。見世物ではないだろうというものまで語り手にとっては見世物だったりするから、そこにポエジーが誤想される。これはヴィム・ヴェンダースに近い。

 アメリカ[1996] 監督:スチュウアート・ベアード

エグゼクティブ・デシジョン  機体の内部空間が矮小さゆえに選択肢を狭めスリラーを排外しかねない。よってセガールのほとんどコント然とした途中退場は納得できるが、しかし機体が拘束具となって、文系軍団の元締めがカート・ラッセルという間違いを微細に制御している感もある。

 アメリカ[2003] 監督:ジョナサン・モストウ

ターミネーター3  コナー家の私的なプロジェクトは公の救済を受けねばならないはずだが、それが目論まれるとコナー家のために公が半壊する。振れ幅が大きいというか、人類の不器用を総括する趣向になっている。

 アメリカ[1962] 監督:ロバート・アルドリッチ

何がジェーンに起こったか?  自分で自分を制御できない事情があるから、他人を操作することで、間接的に自分をうごかさねばならない。この古典的な構図に本作が与えた付加価値があるとすれば、それが相互依存の形で叙述され、何かが循環していたイメージを残すことにあるだろう。

 韓国[2002] 監督:イ・シミョン

ロスト・メモリーズ  妄念が妄念だからこそ、そのために人が次々と命を投げ出す事態が、信仰の叙述にかえって成功してしまう。共同体という抽象物が、個人的な負い目のなかに実体を得て広がって行く。

 デンマーク[1996] 監督:ラース・フォン・トリアー

奇跡の海  ステラン・スカルスガルドの悪人面がエミリー・ワトソンに対する感情配分の有り様を通じて、好意的に解釈されていくエンタメが逆行して、エミリーという不条理を理解する人間が受け手にとって理解できなくなるというという不条理の伝染の犠牲になる。これは論理が円滑に通り過ぎるといえばよいか。エミリーを追い込む理屈が喜劇然としたあり得なさでいながら整然としている。算数の教科書の例示のように。