映画感想 [501-600]

 日本[1999] 監督:須賀大観


ブリスター!
 伊藤英明の時点で性愛の課題など無きに等しく、実際劇中でもそうなっている。フィギュアと異性という二者択一は性愛の課題がクリアされて後に発生しているから、これだとオスの飽きの問題にすり替えられてしまう。それが現実的かどうかはともかく物語という理念的なメディアでのこの曖昧さは好ましくない。長回し調の対話劇もかかる曖昧さに感化されるように制御が甘くなり、キャラクターの心理の焦点を掴みきれず、会話の内容が上滑りになっている。

 イギリス[1994] 監督:ケビン・ハル


アインシュタインの脳
 天然であることの哀しさと科学史家という自然科学者の中に入ってしまえば異邦人とされてしまう属性は、しかし天然であるゆえに当人には自覚できない。その寂しさは周囲の人物の人生の顛末と共鳴することで形を得ながら、カンザスの酒場のカラオケで自らの存在を絶唱する。

 アメリカ[1973] 監督:ウディ・アレン


スリーパー
 人類は次第に退化するであろうとするシニシズムによって未来人が痴呆であると想定される。これを利用して、痴性ならば好意の見込みがあると邪念が表明され、かえってシニシズムが嫌味にならない。痴性から好意を享受することの問題も、ダイアイン・キートンの痴性が白衣コスプレの目深い帽子を触媒として母性に近似するものへ互換することで、解消されている。

 日本[1997] 監督:黒沢清


復讐 消えない傷痕
 ヤクザのIDクライシスを観察するのはいいとして、その観察者もサイコパスとあっては、両者とも心理の移入可能なキャラクターにはなり得ない。ただ、その静物あるいは景観のような佇まいを活かすように、基地外種族の夢の跡の傍らを女が風のように過ぎてゆく。

 日本[1989] 監督:降旗康男


将軍家光の乱心 激突
 JACを率いて悦びの絶頂に達しても千葉真一は役者としての自意識から免れない。対して、松方弘樹は天然そのものである。自身の身体が戯画的な動きをしているとは思いもしないから、その挙動の一々が強烈な笑いとなる。しかし人馬の死体で築かれた山の上で咲き乱れる松方の怪演の先には、少年が自分の宿命を知る物語の古典的な感動があるのだ。

 アメリカ[1985] 監督:ウディ・アレン


カイロの紫のバラ
 フィクションが人類を馴致するというスティーブン・ピンカー的なマクロな世界観を、特定のフィクションに特定の感情を対処療法的に癒す効果を期待するミクロな世界観で表現しようとする混線がcheek to cheekのミア・ファローの顔芸に出てしまう。『カビリアの夜』の踏襲なのだがミアの病理的な顔が話のオチをつけさせないのである。

 アメリカ[1946] 監督:フランク・キャプラ


素晴らしき哉、人生
 「友ある者は救われる」...友だちいないのだが。

 アメリカ[2001] 監督:ジョン・ムーア


エネミー・ライン
 どこから見ても文系然としたオーウェン・ウィルソンが体育会系的欲求不満を展示する限界事例は、たとえば地雷原を渡るとき、不安定な体幹の織成す現代舞踏のような挙動という形で具現化される。それがまたキュートという徳じみたものを発散させてしまうから、ハックマンのハラハラが解らんでもなくなる。

 イタリア・フランス[1972] 監督:ベルナルド・ベルトルリッチ


ラスト・タンゴ・イン・パリ
 マーロン・ブロンドの重心の失いようが太いネクタイに引きずられている印象を醸し、むしろネクタイが本体であってそれに操縦されて奇態が引き出されているように見える。奇態は当人の意思ではないとすると、宴会芸的な軽躁に落ち着いてしまう。マリア・シュナイダーも異様な頭髪量に引きずられている感がある。

 中国[2000] 監督:チアン・ウェン


鬼が来た!
 結末は『死に風に向う乳母車』の引用。軍楽隊は『血と砂』の引用。歌謡ショーは『動くな、死ね、甦れ!』の感化もあるだろう。思想のなさを模倣の貪欲さという迫力で突破しようとするギラギラと虚無は、香川照之のオーヴァーアクトで空回りもすれば、澤田謙也の機嫌を左右することで緊張を拵えたりもする。

 斬る
 日本[1962] 監督:三隅研次


斬る
 藤村志保と天知茂が刑場で微笑を交わすという宿命的親密さの矯激が再現されるのはよいとして、これが雷蔵と柳永二郎との間で男色に近い形で爆発するので、自在に形を変える病的な精神性の変奏に驚くとともに、その不穏なる関係にうれしい緊張を強いられるのである。柳が娘を貰ってくれとそこで頼むものだから、かえって背徳感が増幅する。

 アメリカ[1998] 監督:ウェス・アンダーソン


天才マックスの世界
 自意識を失って初めて実効的な愛が達せられる課題への到達に際して、その自意識を失うことがオリヴィアの視点によってジェイソン・シュワルツマンが観測されることで表現されている。ジェイソンの内面が見えなくなるのだ。
 一見するとこの結末はつまらない。最愛の人を宿命的に愛せない問題が生じている。自意識の喪失が愛を慣習化するのである。しかし、ジェイソンの内面が見えないからこそ、オリヴィアをスケコマしてしまった彼の男前な顔容は、自意識と愛をめぐるチューリング・テストを受け手に課してしまう。彼の好意の意識は希薄とはいえ存続していてオリヴィアの愛を感知しているのではないか。その潜在性が棄却されないのである。

 日本[2000] 監督:篠崎誠


忘れられぬ人々
 戦争という生存競争の原状況の中で育まれたある種の戦術的反応力を全く関係のない場所で発現させようとする自然の呪いである。それは没歴史的ゆえに人間の属性に関係なく伝播する。その唐突さが時にうれしい。

 香港[2001] 監督:ダンテ・ラム


重装警察
 リアリズムではなくガジェット志向であり、人の振る舞いを活劇として編成する以外に落とし込む方法がない。にもかかわらず、受け手はリアリズムとしてこの手のジャンルを観察しがちであるから奇妙なことになる。ダニエル・ウーやアレックス・トーよりも李耀明の方が物語の持つファナティズムに近しい。

 アメリカ[2001] 監督:テリー・ズウィコフ


ゴーストワールド
 ブシェーミとスカジョの関連が明瞭でないからこそ、本体とは独立した流体生物のような彼女の胸部が精神的かつ遠隔的にブシェーミの顔面の豊饒な凹凸を埋め尽くし、女性の困窮を全く担保しないソーラ・バーチの額の平滑面が出来上がるのだ。

 日本[1984] 監督:伊丹十三


お葬式
 山崎努は当然のことながら、財津一郎の造形に特に顕著であるような業界人の挙動が精妙であるあまり、笠智衆という、業界人の対極にある属性にまでこれが感染して特有の生々しさが現れる。そんな中にあって、天然気味ゆえに業界ズレしない宮本信子の属人的な在り方が突出する。すでにフィルモグラフィの定型が出来上がっている。

 日本[2001] 監督:豊田利晃


青い春
 リリカルな本音を濃密な情報量で隠しておいて、それが最後の一瞬で露見する原作のよろこびが失われている。原作の情報量は、感傷のはけ口を収縮させることで、感傷の流速を実現させていた。この映画の現場は美術をはじめとするかかる情報量を達成しない。代わりに劇伴への依存が見られるのだが、この騒音が物語をあの白い虚無から遠ざける。

 アメリカ[2002] 監督:ジョージ・ルーカス


スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃
 通商連合の扱いからわかるように、このシリーズの通底にある映画人らしい近代への嫌悪には好感が持てない。パルパティーンの近代志向を否定しておきながら啓蒙思想という近代と親和性の高い世界観を支持する理路がわからない。あいるは啓蒙思想を信じておきながら、ジェダイとかフォースの様なオカルトに頼りすぎるから、セキュリティが信じられないことになる。一体影武者を何人殺せば気が済むのか。

 フランス[2001] 監督:ジャン・ピエール・ジュネ


アメリ
 美術映画の不穏な現実感がある。たとえばアメリ部屋の美術を支える彼女の生活実体のわからなさ。彼女の家計であの美術が実現できるのだろうか。しかしながら、遺産を想定すれば現実を踏み外さない気もする。このほのかな可能性の領域が、男の受動を合理化する痴女物にオドレイ・トトゥを投入することのハイパーリアルをわれわれに受容させる。

 アメリカ[2000] 監督:ジョエル・コーエン


オー・ブラザー!
 ジョージ・クルーニーのセクシーヴォイスが響くたびに事象が客体化される。ここまで声とキャラクターの属性が合わないと、声が当人の声帯より発せられているとは思えず、ナレーションのように聞こえる。クルーニーの台詞が入るごとに、記録映画に化ける。それに何となく安心を覚えるのだから余計に不可解なのである。

 日本[1972] 監督:三隅研次


子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる
 崩れつつある貫禄の緊張を醸す加藤嘉のハスキーヴォイスに、貫禄があるのかどうかそれすら確証できない小林昭二の中庸の声量が被さる小物のやせ我慢の饗宴。そこにピープロ級特撮の域に達する伊藤雄之助のコスプレがとどめを刺し、弾の尽きた70年代邦画の疲弊を訴えかける。

 日本[2001] 監督:藤由紀夫


ムルデカ17805
 山田純大の鶏卵のような平滑な顔面の背後に六平直政の鬼瓦が鎮座し不気味な沈黙を保っている。これが小隊の先任か何かだと話は分かるが、ただの通訳であるから混乱も甚だしい。現地を立てるほどに日本人のオナニー以外の何物でもなくなる苦しさが、かかる失見当識に救われているような気もしないでもないが、そのどさくさに隊長がラヴラヴ光線まで発射するのもどうかと思う。

 冷戦
 香港[2001] 監督:ジングル・マ


冷戦
 ラム・シューが好々爺でしかも吹き替えがトー組とは違うセクシーヴォイスという異常なる世界線。この驚愕を余所にイーキンとなぜかムーディーに盃を酌み交わし始めて不穏がとどまるところを知らない。これは何なのか。実はラム・シューこそがこの悲劇の観察者だったというオチが来るのである。トーの『阿郎的故事』を踏襲している話だから、呉孟達役としてのラム・シューの起用はリスペクトなのだろう。

 イギリス・アメリカ[1997] 監督:マイケル・ウィンターボトム


ウェルカム・トゥ・サラエボ
 戦争ものというよりブン屋の業態を叙述する業界物に近い。ブン屋によって観察されがちな古き良き和製特撮映画の本編と特撮が分断した感じを受ける。ただ、特撮映画と違って現場が別れているわけではなく、スクリプターが混乱を来している。同ポジのカットなのに兵士のライフルがカットごとに異なるという信じがたい場面がある。

 アメリカ[1998] 監督:ピーター・チェルソム


マイ・フレンド・メモリー
 精神的支柱が失われてそこに最大の試練がやってくるという煽情的な常套手段が取られない。代わりに、師匠キャラのキーラン・カルキンの小賢しさへの反感が、エルデン・ヘンソンの成長に傾注する方策を好ましくしている。師匠キャラからの自由という解放感すらある。難病物の歪な情感は皆無である。

 日本[1980] 監督:舛田利雄


二百三高地
 男のやせ我慢がこのケースでは不快なのである。だから我慢が崩れ始めるとこちらとしては心地よくなり、幼児退行だと揶揄したくもなる。ところがこれがその極北として三船の前で慟哭する段になると、もはや誰にも依存することができなくなった大人の孤独にドン引きしてしまう。これと並行して沸かせてくれるのが、政治主義へ敗北してしまったという愁嘆がかえって政治主義を文芸に還元するという、あおい輝彦&夏目雅子のアクロバットである。

 アメリカ[1936] 監督:チャールズ・チャップリン


モダン・タイムス
 『拝啓天皇陛下様』を連想してしまって、これにはとうぜん感化はあるのだが、家計をどう構築するかという経営シミュレーションが文明批評というよりも帰還兵物にしてしまうのだ。『独裁者』も同じ話なので、30年代の後半にはいってもなお引きずられるWWIの戦災の影なのだろう。女性的なるものが機械文明や戦場にどう包摂されたか、という問題意識においても両者は共通している。

 アメリカ[2002] 監督:フィル・アルデン・ロビンソン


トータル・フィアーズ
 ジョン・リンドリーの高級な画面をさもするとベンアフの割れ顎がB級感に引き落とそうとする熾烈な緊張の綱引き。この勝負は最後のマイケル・バーンとの対峙にまで持ちこされ意外な余韻を残す。

 切腹
 日本[1962] 監督:小林正樹


切腹
 プライベートを優先する石濱朗のイエに対する法人概念の薄さが時代考証的にも瑕疵となり三國連太郎一派に同情が寄せられかねないところをスプラッタの迫力で押し切られるうちに、われわれは血縁部族制という野蛮の断末魔に直面する。

 香港[2001] 監督:サム・レオン


カラー・オブ・ペイン オオカミ
 可感的でありたいと欲望する気高い動機と実際のB級な行動を連接するには、中毒の自制のなさで事を還俗するしかない。ところが演出家の集中力のなさというべきか、かかる連接が場を何か可感なるもので短直に充溢させる現場主義になってしまい、どんなものにでも固い笑顔で反応してオカズにしてしまう澤田謙也のオナニー劇場が光来する。

 日本[2002] 監督:原田眞人


突入せよ!「あさま山荘」事件
 官僚制の風刺にせよ役所広司の気障演技にせよ、佐々淳行オナニー劇場を自覚的に相対化している。長野県警の依怙地は好ましく見てえしまい、会議室の泥沼で萎え行く陰茎が気の毒にすら思える。逆に世代論としてみれば痴話喧嘩の片手間に若者を制圧するオッサンの有り余る精力が眩くなる。

 日本[1969] 監督:池田宏


空とぶゆうれい船
 隼人の軽い死生観が対比列伝の世界に向かうことなく、単なる脳筋に終始してしまう。 この徳のなさはしかし、ルリ子から天然少女の妖艶を余すことなく引き出しているようにも感ぜられる。

 フランス・台湾[2001] 監督:ツァイ・ミンリャン


ふたつの時、ふたりの時間
 女権の性的側面の同時多発が男の口惜しさではなく、孤立と性を接続してしまう緩さへの批評となってしまう。この緩さを援用して観測者の立場に到達したミャオ・ティエンのダンディズムが今度は、ルー・シャオリンの彼に対する性的感応を納得させることで話を円環の内に封じ込める。

 イギリス[1999] 監督:ジェームズ・ディアデン


マネートレーダー 銀行崩壊
 アンナ・フリエルの田舎のウェイトレス風情にマクレガーの人の好い天然文系を嫌味にしない頼もしさがある。その天然は自分の属性を定位できないゆえに、ストレスに鋭角的に襲われることはない。内奥から湧き上がる鈍痛に耐える気持ちの悪さがただ後を引き、滅んだという確信がないまま物事が終わってしまう。

 アメリカ[2002] 監督:ジョン・ウー


ウィンドトーカーズ
 タイプキャストの笑いがないことはない。ニコラスの善人回路が発動することは確信されているから、最初の三白眼モードが作為見え見えの微笑が広がる。しかし最後はタイプキャストの確信が倫理を損なってしまう。「もう殺さない」と回路が発動するが、それだったら最初から殺すなよという結論になりかねない。この捩じれは、無精ひげに包囲されると赤々と発色する口唇の場違いな主張として時に受肉する。

 アメリカ[1957] 監督:シドニー・ルメット


12人の怒れる男
 フォンダの強迫観念が、当人の性悪なパーソナリティとは合わないキャラクターを演じることに因る作為の硬さというメタな理由以外に裏付けがない。理由がないことの欲求不満は、一応、追いつめられた別の個体においてトラウマが発現することで解消を見るのだが、これがかえってフォンダの裏付けのなさを照射するとともに、リー・J・コッブへの同情を引き立ててしまう。

 アメリカ[1999] 監督:マーティン・スコセッシ


救命士
 青髭と額にかかる前髪が相対して頭部と下顎が分裂を来している。頭部に局限してみても、潜在的薄毛が額で自己を主張する前髪と対立する。ニコラスという属人体にパーツが統合されない以上、現実は構成物からは遠いものとなり、疲弊の標徴だけが縦横に展示される。

 日本[1977] 監督:森谷司郎


八甲田山
 高倉健と北大路欣也が同階級という異次元にもかかわらず、このふたりはタイプキャスト通りに稼働する。基本的にわれわれが想像する通りにキャラクターが動作する中にあって、定型が見出し難いゆえに常に不穏な展性を帯びた三國連太郎に高倉&北大路の異次元の歪みの帳尻が託されるのは自然なのだろう。出来上がったのは三國虐待劇場の極北である。

 日本[2002] 監督:高山文彦


WXIII 機動警察パトレイバー
 劇中の時代設定が懐かしくなってしまったにもかかわらずそこに未来を見出さねばならない消化試合が平服の後藤さんの着せ替えショーとその加齢臭に塗れた色気に結実する謎の理路である。作中にあっては希少な非オリジナルキャラの情報量が祟ってか、歩き方も座り方も生活感のあるオッサンそのものでこの造形解釈に驚くとともに、前作の南雲さんの件でもうキレたのではないかと余計な詮索を促される。

 アメリカ・ニュージーランド[2001] 監督:ピーター・ジャクソン


ロード・オブ・ザ・リング
 人間賛歌あるいは人であることのオナニーが基本にあるのだが、自慰が意識されてはそれが達成されえないために、ホビットの視点で状況を導出して間接的に事を成そうとする。このあくまでオカズの視点というのが特異で、全編を貫くのは文字通り、間接部門の身の置き所のないはにかみである。

 アメリカ[1973] 監督:サム・ペキンパー


ビリー・ザ・キッド 21才の生涯
 コバーンが仕事をせず昼間っから酒浸りで、尺が無くなってくるとさすがに重い腰を上げてクリス退治に出るのだが、やっぱり怠いのでブランコに乗ってぼ〜っとしていると、そこに鴨が葱を背負って来て完。酒精に導かれることの悲酸な有難さである。

 香港[1983] 監督:ツイ・ハーク


蜀山奇傳 天空の剣
 これを万国びっくりショーと認識できてしまうのは、ユン・ピョウに評論家のような視点があるからだ。彼はツイ・ハークの自意識であり、自意識があるというそのアピールでかえって安堵してしまって、変態が加速する面もある。自意識は段取りをどこか理屈っぽくする一方で、段取りが攻勢の対象を失い示威として自己完結すると楽しげなミュージカルになる。

 
 イギリス[2001] 監督:ニック・ハム


穴
 エンベス・デイヴィッツにソフトな形とはいえ父権的な態度を採らせようとするから、最後は『真実の行方』と同じような快哉がある。ソーラ・バーチの恐怖というよりも専門家の父権を打倒した知性を評価したい気になる。かかる知性を担保しているのが、嗚呼!!花の応援団的な、現実とは乖離すると思われる高校生の造形の劇画化なのだろう。これによってスクールカーストの苦難が随分と和らいでいる。

 アメリカ[2001] 監督:スティーヴン・ソダーバーグ


オーシャンズ11
 クルーニーとブラピが並列するつらさ。ブラピはいつもこれだが、クルーニーのセクシィヴォイスがブラピ声色の体幹のなさを露見させて、我に返らせてしまう。ところが微笑がブラピの頬骨をどこまでも広げるとき、ブラピとジョージは融合するのである。広大な頬骨に対応するかのように、ジョージの額が峡谷のような皺で陥没する。物体の迫力が何事かを超克している。

 日本[2001] 監督:岩井俊二


リリィ・シュシュのすべて
 末尾に必ず投稿者を記名してポエムを恥ずかしくしない客観性への配慮がある一方で、ゼロ年代冒頭の懐かしき電気街の景観が急転直下、市川実和子美女軍団を侍らすオヤジの東南アジア買春ツアーライクな過酷すぎる沖縄観へ直結する性欲の正直な露見もある。これがドキュメンタリズムで補足されているのも語り手の自意識の現れだが、そうであるからこそ、よけいに買春ツアーが生々しくなってしまって、邪念がうれしくなる。

 アメリカ[2002] 監督:サム・メンデス


ロード・トゥ・パーディション
 眉間のしわでマフィア顔を繕うのではなく必死こいてマフィア顔を繕う内に眉間が陥没するのである。ポール・ニューマン襲撃の件に至ると、本来の属性に合わない感情に応待すべく顔面制御は限界局面を迎え、眉間のしわと傾斜の激しい八の字眉が併存する溶解した福笑いが演者の苦境を訴える。

 SUPER8
 イタリア・ドイツ[2001] 監督:エミール・クリストリッツア


SUPER8
 オッサンらのライブパフォーマンスの硬さが否定しようもないゆえに、それらは随意的な挙動ではなく体が意思からかい離したような、偶然依存ゆえの硬さにしてしまいたい。かくして彼らは熟れ崩れたメタボ体の展示に勤しむ。かかる露悪趣味が随意であってたまるかという発想を基に。

 日本[2002] 監督:三池崇史


カタクリ家の幸福
 フィクションが補足を得意とするような根源的な課題をこの集団が抱えているわけではない。家族史を観察すような社会科学的な態度が感情の分解解像度を上げるツールとしてのミュージカルを用いて、稽古不能の丹波を追い詰めるのである。この追い込みが何かを俯瞰した実感を明朗に訴える。

 フランス・イタリア・ベルギー・イギリス・スロヴァニア[2001] 監督:ダニス・タノヴィッチ


ノー・マンズ・ランド
 ノワールで終わることが後味の悪い風刺と文明批評をかえって救う。話の趣意からすると、これは救われてはならないものである。ノワールと批評という異質が常に分離の緊張を孕んでいて、常に後背の虫の音を立てる変則的なミキシングとその環境音の均質さが並走するプロットを統合するどころか、絵と音を離断させてしまう。

 アメリカ[2000] 監督:ペイトン・リード


チアーズ!
 自意識がないということの脳筋の徳はいかにして導出されるか。意識がないにもかかわらず感情は自ずと表出してしまう。つまり、感情が別の感情に憑依することで現出する。ジェシー・ブラッドフォードとの、あの歯磨きである。

 アメリカ[2001] 監督:ロン・ハワード


ビューティフル・マインド
 ラッセル・クロウが文系キャラをやる対位法が、これはラッセルの暴虐的な私生活そのものではないかと客を恐怖のどん底に引き落とす。老齢期に入っても相変わらずのキレであるが、セクシィヴォイスだけは隠匿できず、滲み出るそれによってこれにメグがやられたのかと判然としてしまう様がナッシュ均衡着想の下世話なわびしさと融和している。

 アメリカ[2002] 監督:ランダル・ウォレス


ワンス・アンド・フォーエバー
 自分たちが野蛮人であるという客観視とそこから生じる価値観のカオスは自然主義の態度によって統括される。人体が破壊される美を詠嘆する猟奇趣味である。

 日本[1996] 監督:森田芳光


(ハル)
 バブル残滓の太眉を克服してねっとりと浸透する深津絵里の陰湿な迫力が、天然なるままに内野聖陽の入れ食い場となった映画フォーラムの現実解離を補填する。フォーラムの耐え難い凡庸が報復されるのである。

 日本[2002] 監督:山田洋次


たそがれ清兵衛
 攻撃力を趣味とする多目的人間と生活感への興味が、互いに異質でありながらも、融和しようとする努力を見せる。攻撃の趣味が顕現して解離が始まる場が、薪雑把を非人間的なキレで素振りさせるという挙措でつなぎとめられる。宮沢りえの生活力も攻撃的でこの世界観にあって好ましい位置を占めている。ただ反生活体の田中泯だけは扱いかねているらしく、真田広之とのパワーバランスがわかりづらい。

 アメリカ[1974] 監督:スティーブン・スピルバーグ


続激突! カージャック
 このオスの行動は自然科学的に納得できるのだろうか。メスが息子に拘るのは自然ながらも、オスとしてはまた作ればいいという発想にしかならない。実際、最初はそうなっている。ここでメスが生殖を拒否する方策に出てオスが折れる。オスのこの動機が説得的かどうか、計算すれば解は出ると思うが、直感ではよくわからない。かかる曖昧さが遅れたニューシネマの作為を謳ってしまうのだ。われわれに最後の拠り所として残されるのは、ウィリアム・アザートンの横顔のなめらかな円弧を描く顎の輪郭の醸す、混濁併せ呑むような人徳だけとなる。

 アメリカ[1996] 監督:リー・デビッド・ズロートフ


この森で、天使はバスを降りた
 自然に馴化されていないアリソン・エリオットがちょっとした刺戟で恍惚とするものだから、オスの性欲の強度ゆえに自分の稀少性についてメスが誤認している風に叙述されてしまう。ウィル・パットンの苛立ちが尤もに見えてしまう。森と町の地勢的関係の曖昧さが効いているのだと思う。

 香港・シンガポール[2000] 監督:ゴードン・チャン


電脳警察
 仲代達矢の形態模写で全編を通すフランシス・ンがどう見てもキレキレなのに、部下は平然と対応していて、ますますキレキレに見える。かかる時空の歪みに歪みを以て対応するのがゲーマー、アーロンの香港映画らしい不条理な超人化である。

 アメリカ[1997] 監督:ウェス・クレイヴン


スクリーム2
 ネーブ・キャンベルの肉体をいかなる評価軸で捕捉したいのか方針が定まらない。あるいは、攻撃性を温存しながらも受動的にしたい矛盾した願望なのか。かかる構想を具現化するべく複雑な動作をする肉体に官能美は認められるのだが、もはや恐怖映画ではない。

 日本[2003] 監督:滝田洋二郎


壬生義士伝
 中井貴一の自然体が美意識という人工物の最たるものと相容れない。これが自然体をネガティブに見せてしまう。佐藤浩市に最後のライスボールを食わせてしまう際、自分は食していないことを隠せばいいのに、天然だから言わずにはいられない。家族に仕送りをする生活感と最後の義のために云々も矛盾しているように見えるが、当人はその場の感情の衝動にただ従っているだけである。三宅祐司の困惑はその迷惑を的確に評価している。

 イギリス[1996] 監督:マーク・ハーマン


ブラス!
 タラ・フィッツジェラルドの蠱惑の舌なめずりに感応して微動を重ねるポスルスウェイト。そのアンパンマン状の丸々とした頬は頭部の角張った輪郭と全く調和せず不安げである。前年のコバヤシ弁護士の余波が今なお続いているのだ。

 アメリカ[2002] 監督:ニック・カサヴェテス


ジョンQ
 加速する事態に忠実に対応する人間の極端な決断を心神喪失に見せるほど、筋の偶然が暴力的なありさまを呈している。降って湧くサルベージが、病的な決断を担保していたわずかな正当性すら蹂躙する。

 フランス・オーストリア[2001] 監督:ミヒャエル・ハネケ


ピアニスト
 三白眼が人間を注視する際に発起して、そこに含まれる憐みを包摂した蔑みから、心的状態の叙述を間接的にやりたい願望が憐みを優先的に抽出して、所構わず浸透させる。憐みは外に向かうとともに内向し、男日照りの自覚があるように感じをもたらす。この自覚は慎みと警戒となり、それが熟女の可愛さを、そっち方面の趣味がない人間にも伝えてしまう。

 日本[1935] 監督:山中貞雄


丹下左膳餘話 百萬両の壺
 殺人マシンを制御することで間接的に自分を動作させる。選択を先送りにするという選択が撞着であるからだ。ここにおいて、殺人マシンを統御しえた徳をいかに叙述するかという問題意識が出てくるが、それは北野版の座頭市に引き継がれることになる。

 降霊
 日本[2001] 監督:黒沢清


降霊
 悲劇に異様な前向き加減で立ち向かって泣きを誘う役所広司も、風吹ジュンからすれば技術者の天然であって耐え切れない。過ぎゆく人生を傍観するしかない根元的な恐怖の閉塞はしかし、天然の階梯を設定することで世界観の広がりを得ようとする。神主コスプレをした哀川翔という天然の最たるものに恐怖が俯瞰され総括され、あの夏という感慨が出てくる。

 アメリカ[2000] 監督:キャメロン・クロウ


あの頃ペニーレインと
 未熟練者に教育の投資がつぎ込まれることで、集団の求心となってしまうはにかみがあり、だからこそ事態に対する慎みがないこともない。他方で、それが求心点になってしまったからこそ、かかる集団の知性の水準を決めてしまうという益体のなさもある。自慰に対する距離の取り方を掴みかねている。

 アメリカ[2001] 監督:ジェシー・ネルソン


アイ・アム・サム
 障碍者の性を婉曲ではあるものの社会的に扱おうとはしている。その婉曲が婉曲ゆえにまた罪深い地雷臭を醸すのだが、やはりフィクションらしく、障碍者の内面に興味は向かい、知性と身体が解離する不思議がベースにあるように思える。それが禍々しく具現化したのがショーン・ペンという恐怖キャスティングなのだろう。

 アメリカ[2001] 監督:ジョエル・コーエン


バーバー
 技術職の非当事者性に付帯する不安なハードボイルドが、ビリー・ボブ・ソーントンの硬直した顔芸によって消化され、決断はできなくとも観察はできるという趣向に移行する。この観察欲の案外な少年らしさが、意気地をハードボイルドの閾値を超えない程度に抑制している。

 日本[2000] 監督:青山真治


ユリイカ
 宇宙放射線病に侵されたような、マンガ的症状を呈す役所広司と力のないアニメ声をカルデラ盆地に轟かせる宮アあおいの不協和音が良くも悪くも大衆娯楽雑誌のような迫力で時空を曲げ、東京都内に相当する面積でしかない領域を北海道をさまようかのように拡張する。

 日本[2003] 監督:黒沢清


アカルイミライ
 世代間憎悪を回避したがために、それぞれの世代に事情を作ってしまう啓蒙精神が、一方ではサイコパス浅野忠信の恩寵にはにかむオダギリジョーというフォトジェニックなボーイズラヴの昂奮をもたらし、他方では、笹野高史と藤竜也にボーイズラヴに対するオスのくやしさを滲ませ、愛憎が性愛でしか捕捉されないうれしはずかしいフワフワをあふれさすのである。

 日本[2002] 監督:曽利文彦


ピンポン
 中村獅童の硬質な形姿の突撃にあたって、毛髪と着衣の揺れ動きが窪塚洋介の躁性の挙動を流体化する。曽利文彦の中性愛志向がドロドロの潤滑剤プレイに至るのだ。

 アリ
 アメリカ[2001] 監督:マイケル・マン


アリ
 70年代の景物に押しとどめようとするマイケル・マンの記録映画文体からウィル・スミスの素が零れ落ち、勝ち組人生のトレスだと高らかに宣言してしまう不穏である。

 日本[2002] 監督:神山健治


ミニパト
 人形劇でカット割る異化作用の極限を冒頭早々に諸行無常飛行船の大写しをやってしまう下世話極まりない堂々の神山健治演出。これが業界人の腐臭と四つに組んだとき、激昂してはいけないという抑制を喚起するような生真面目を帯び始める。

 アメリカ[1990] 監督:ジョエル・コーエン イーサン・コーエン


ミラーズクロッシング
 語り手の啓蒙思想が20年代を把握できないあまり、喜劇の間合いで叙述するほかない。殊に、実証の弱さゆえに、ガンアクションが極端なバーレスクになってしまうのだが、そのFPSのような、あるいは香港映画のような動作にジャンル物のお約束の普遍性を見いだせたとき、ガブリエル・バーンの文弱暴力団映画という特殊業態に一瞬の生々しさが芽生える。

 アメリカ[1989] 監督:ウディ・アレン


ウディ・アレンの重罪と軽罪
 IDクライシスの叙述もさることながら、その発現のタイミングが発端ではなく終端なのが工夫なのである。劇中劇の人物だったレビー教授を劇外に導出することで、個人的なID危機が神の創造への疑念と意味のない世界でどう生きるかという文明批評へ一気呵成に兌換してしまう。そのハッタリにはスペクトルの変異が醸すような浮遊感がある。

 アメリカ[2003] 監督:アンディ・ジョーンズ 前田真宏 渡辺信一郎 川尻義昭 小池健 森本晃司 ピーター・チョン


アニマトリックス
 アメコミにしたくない、つまり、コスチューム・プレイに興じる変人団体に言及したくない欲望が日本人演出家にあって、彼らは作品世界の全容を発見する過程に執着しようとする。対して、ピーター・チョンのみが如何ともし難いコスチューム・プレイへまともに立ち向かい、しかも善戦している。本シリーズの通底にあるものはSFのように見えて実のところアメコミに他ならず、後者の文法を持ち得ない日本語圏演出家には手に余るの代物なのである。

 アメリカ[1997] 監督:ウディ・アレン


地球は女で回っている
 これをトリュフォーパロで終わらせないのは、『カメレオンマン』で顕著のように、サイエンスフィクションをB級に貶めたくないような強烈な技術志向だと思う。何しろロビン・ウィリアムズが黒沢清の幽霊のようになってしまうのだ。薄毛の後頭を屹立させてカースティ・アレイの躍動する肉塊に謎の華を添える体の張り方もアクションスターさながらである。

 アメリカ[2000] 監督:ウディ・アレン


おいしい生活
 演者の資質とは微妙に異なるように思われる階層のキャラクターの中庸性が、脈絡がないからこそ迫力が出てしまう事件の社会化の不条理と連なっている。殊に、前衛演劇の嘔吐音に反応して現れてしまう、驚愕とも嫌悪ともつかない硬直した疲労が、階級脱出者とセレブを嘲笑することなくして、それらを人間の営みそのものとして評価しようとしている。

 アメリカ[1986] 監督:ウディ・アレン


ハンナとその姉妹
 21世紀からキャスティングを回顧すると、アレンの変わらなさがマイケル・ケインの外貌の変貌を際立ててしまう。80年代印の広漠なるメガネを装着したケインにたとえばノーラン組のそれを見出すのは困難である一方で、声だけは全く変わらないから、時間への不信というか非来歴であることの居心地の悪さに襲われる。しかし時間の交雑した感じが、不具の身体により未来傾斜に希望を見出せないアレンの課題に対する遠隔的な答えにもなっているように思える。

 日本[1978] 監督:佐藤純弥


野性の証明
 実録路線から切り離され、80年代に対応できない不器用俳優・松方弘樹のひとりぼっちの戦争。成田、梅宮が嬉々として状況に対応しているだけあって、その孤立が痛々しい。高所恐怖症と戦いながら機上から高倉健を射殺そうと咆哮する彼の形相が物語のピークである。

 アメリカ[1992] 監督:ウディ・アレン


夫たち、妻たち
 ミア・ファローの少年らしさが、ジュディ・デイヴィスのセクシーヴォイスによって場違いなアニメ声に貶められている。これがリーアム・ニーソンに寝取られるのはくやしさもあるが、然るべき階層に格納された風でもある。感情を定位できないもどかしさという意味で、結論で吐露される当惑に感じ入るものはある。

 
 フランス[1960] 監督:ジャック・ベッケル


穴
 この密度でほのぼのとした親善が成り立つのを眺めるのは不可解な映像体験である。ジャン・ケロディの甲虫のような頭部が示唆するのは、これは昆虫観察映画であって、オッサンの親善が昆虫の鈍さと互換しているという理屈である。穴掘りも昆虫らしいというばそうか。しかしそれはそれで、こんなぬるま湯を脱獄しようとする意気地の源泉をどこに求めればいいのか、わからなくなる。

 日本[2002] 監督:黒沢清


ドッペルゲンガー
 恐怖と喜劇は紙一重。『降霊』や『回路』の幽霊には触れ得ないと思っていたものに触れてしまえた驚きがあった。本作では物化の驚愕が精神的成長を即物的に表現する形で踏襲されている。とうぜんそれは笑いなのである。

 アメリカ[1985] 監督:シドニー・ポラック


愛と哀しみの果て
 太陽系が最後の日を迎えても動じそうもないメリルの、造形的違和感をともなう安定感が、彼女の泰然に対抗するように唸られる、レッドフォードの無理やりセクシィヴォイスが煽る嚥下障害の危惧へと発展解消する150分の調べ。

 日本[2000] 監督:片渕須直


アリーテ姫
 声と造形の錯視地獄である。アフロ状の頭部と眉目の野太さで、この少女がヒッピーのオッサンに見えそうで見えない苦悶が生じる。これと重奏して、われわれはそのヒッピーのオッサン顔が祝日の弁当屋で典型的に見出されるような鬱病のオッサンのそれと重なるのではないかとやはり苦悶する。最悪なことにこのオッサンが桑島法子声を出すのである。

 日本[1960] 監督:小津安二郎


秋日和
 原を魔性化した反動で、殊に岡田茉莉子のツンツン攻撃に曝されると、オスの惨めさが引き立つ。しかしその茉莉子の店で北竜二が赤貝を発注するという最悪の下ネタに走ると、性衝動の迫力がオスの哀しさを笑いで救ってくれる。演出家が自分を仮託するところの不在のオス親も、原母娘の感傷を煽ることでやはり魔性原のカウンターバランスになっている。

 アメリカ[1983] 監督:ジェームズ・L・ブルックス


愛と追憶の日々
 80年代映画の典型的なリアリズム水準というべきか。フラットな照明で捕捉された高齢者のロマンスと病床物の陰惨な湿度が白く澄明な大気に阻まれている。殊にシャーリー・マクレーンの容貌を眺めていると、巨大な有人宇宙機の中に舞台が完結してしまっているような心地に陥る。ジャックが宇宙飛行士というのは正しいのである。

 日本[2001] 監督:佐々木浩久


血を吸う宇宙
 全編楽屋ネタであるが、上田耕一が然るべき役をやっている安心感に顕著であるように、邦画のタイプキャストの文脈からの参照がかろうじて筋の外観を保たせているような悲愴な安定志向がある。黒沢清と中田秀夫の登用から始まって諏訪太郎のアレに至る変化球はキャスティングの磁場の強さの余波だろう。前作の三輪ひとみの悩ましさはスーツスカートの中村愛美と、阿部寛との対比で小動物の愛らしさを発揮するルーシーに引き継がれている。

 日本[1959] 監督:小津安二郎


お早よう
 構築趣味の極限である。長屋の間に望まれる土手の上に悠然と佇む漆黒の学生服はほとんどホラー映画。笠智衆と三宅邦子の組み合わせも気味が悪い。三宅にどうしても原が投影されてしまって、近親相姦が間接的に行われるのである。ラジオ体操のキレの良さも意図が分からないだけにぶきみである。

 アメリカ[1989] 監督:ピーター・ウィアー


いまを生きる
 ロビン・ウィリアムズの教育観は実証的に誤っている。受験勉強とリベラルアーツが正相関にあると考えるからだ。では、受け入れる余地がないのかといえば、最後に話の奥行きが残酷な形で広がる。着席を続けざるを得ない生徒たちの猫背の俯いた背中に、自分を見出せるのである。

 イギリス[1995] 監督:クリストファー・マンガー


ウェールズの山
 タラ・フィッツジェラルドの野趣あふれる上顎前突にまたしても玉無し文系が食われるのである。不況の炭鉱町からグレートウォー後の集団玉無しとなったウェールズへと、蠱惑な上顎前突が去勢の島の時空を駆けめぐる。

 アメリカ[1993] 監督:ルイス・ロッサ

山猫は眠らない  ビリー・ゼインのアイドル映画である。あの南欧顔が密林から突出せずにはいられない。とうぜん狙撃手には向かなすぎるので、トム・ベレンジャーの抑止は不可欠になるが、彼は彼で肉弾戦を指向したがる。リアリズムの水準が可変して、どういう気構えで見ればよいのか混乱の一途である。

香港[1986] 監督:ラウ・カーリョン

阿羅漢  干承恵のなぶり殺しが、被虐心を煽るというか妙に官能的なのである。李連杰の挙動はクネクネしていて、干承恵の顎鬚を喜色満面にもぎ取る。このなぶり殺しの過程でヘチマが切断されまくるのも露骨で、最後にツンツン娘の黄秋燕に斬首されるに至っては射精のような間尺なのであった。

 アメリカ[1992] 監督:ティム・バートン

バットマン・リターンズ  文系しか造形できないのであれば文系の内紛にしかならず、実際そうなっている。この前提で紛争が行われ得る差異化を作り出すために、階級差とか文化資本が交際の妨げになるような感じになっている。下層の表現はキャットウーマンの肉体的頑強さに還元されている。ところが下層というものをこれまた描画しえない。結果、彼女の抗弾性が痛々しくてたまらない。

 カナダ・アメリカ[2002] 監督:マイケル・ムーア

ボウリング・フォー・コロンバイン  全米ライフル協会を痛快なほどに低コンテクスト集団として定義しようとする編集が、リベラルに負けるものかという意気地をも彼らから抽出してしまい、演出が隠している政府からの自立への気概を間接的に表現しえている。ただ、最後にチャールトン・ヘストンを体の弱い老人にしてしまうのは、作者のイデオロギーに資するのかどうか、評価がむつかしい。

 日本[2003] 監督:篠田正浩

スパイ・ゾルゲ  もう失うものがないドラマ質感のパンフォーカスが、一種のウェス・アンダーソンのような美術鑑賞体験をもたらしている。戦前という文明の豊潤さが油断すると映画を見ているような錯視で引き込むのである。和光前の拡張現実もその極限と解せないこともない。この危ういバランスをヒデキのコスプレをした竹中直人が一カットで崩落させるのだからたまらないのだが、その割に、あるいは混沌のどさくさなのか、イアン・グレンの人生を俯瞰したという感傷が後に残るのである。

 謀議
 アメリカ・イギリス[2001] 監督:フランク・ピアソン

謀議  人権的な配慮が技術ベースの障害として代替的に表現せざるを得ない関係から、技術者の意気地が目立つというか、総合職ケネス・ブラナーへの技術屋の反発という普遍的な変奏が行われ、社会小説としての機能が失われている。わたしはそれを好ましいと思うのだが。

 アメリカ[1993] 監督:ウディ・アレン

マンハッタン殺人ミステリー  ミア・ファローとはなんだったのか、と思わせる熟年夫婦振り。ダイアンの前髪の薄さが動揺を誘うが、そこはすかさずカルロ・ディ・パルマのカメラがアレンの後頭部に回り込んでフォロー。緊縛もある。

 日本[1995] 監督:近藤喜文

耳をすませば  宮崎駿の図解趣味が現代日本をどう把握しているのか。現れ出でるのはアニメとしては破格の交通量なのである。大人にはどうしてもシニカルにならざるを得ない、現実解離しがちな十代の自己実現願望の叙述は、十代の主要死因たる交通事故死の不穏な予感を全編に充たすという物理的なアプローチで、定着が図られている。かかる不穏は同じく現代文明論である『ポニョ』で大爆発することになる。

 香港[1987] 監督:パトリック・タム

最後勝利  ツイ・ハークが芝居をやると貫目のなさを引き換えにして目のやりどころに困る色気が噴出する。この色気にエリック・ツァンが腫れものを触るように対応する。つまり、このツイ・ハークはからっ風野郎の三島に近い。白いスーツで浜辺に屹立する姿に至っては幽霊のようだ。エリックはエリックでダニー・リーと互換するような顔貌になってしまう。今からでは想像できないことが起こりまくる。