2004年10月の日記

 2004/10/29

ある情緒的な教科書の思い出

セラピー文化の醸造とも謂うべき『ハイペリオン』のエピローグは、その文化圏に属しないわたしどもからすれば、怪しげかつ恥じらいの景観である。むさ苦しい中年おやぢどもが過去を語らいあった挙げ句に感極まってしまう様は、いやんと云うほかない。

しかしながら、バラライカに乗って歌唱をするこのおやぢどもは、同時に甘く切ない既視感を煽り立てるようでもある。わたしどもはここで個人的な思い出を語らねばなるまい。五年前、まだうら若き学生であったわたしどものうるわしき心的軽傷、『Tグループによる職場活性化の方法』(片野卓著)である。この書籍は、産業心理学の講義に用いられたものであった。以下、その内容を記す。


W氏は、中小企業S電気の社員である。中卒である。氏は、壮大な劣等感をバネに奉職するも、通風に罹患。二ヶ月の病院送りとなった氏を見舞う同僚は、僅かに二人だけ。それもたった一回。

「オレは世界から見捨てられたのではないか?」

復帰した氏は疎外感に苛まれるばかりである。会社はそんな氏を即座に社員研修へ送り込んだ。場所は、長野県の山奥でメンバーは十名。「メンバーの印象について、話し合ってみましょう〜」などと宣う“先生”を前にして一同は当惑気味であった。しかし、メンバーの生活歴や職場の微妙な人間関係が赤裸々と告白されるにつれて、室内は怪しげな歓喜に包まれてくる。W氏も、ひとり耐えてきた胸中を語り始めた(片野[1985:82-85])。



W「みんなからみれば、オレは昔から暗いイメージがつきまとってきたと思うんです。身体の調子が悪くって。でも、ギリギリまで頑張りとおして、とにかく会社のためにやってきたつもりなのに。具合が悪くて休むと、まわりがすごく冷たい感じなんです。会社に入ったのは十五のときでした。丁稚奉公のようになんでもやらされて、いつも上から抑えられてきた。わかってくれるか。オレは本当にしんどかったんだ」

D「ぼくは、Wさんが、そこまで苦しんでいたなんて、まったく知らなかった。鈍感だった……(泣声)」

T「Wさんは本当にみんなから信頼されていて、自分でもそれがわかっているのに、うまく口でいえなかったんだよね。……(涙声)。Wさん、会社をやめるなんて絶対にいわないでくれよ」

W「オレは、とにかく会社の方針に対して文句をいうつもりはない。だけど……会社のオレに対する思いやりなんか、絶対にないんだ!(怒声、そして涙でつまる)」

T「Wさん……」

W「オレ、T君好きなんだ。みんなも好きだ。だけど、会社には我慢できない。何もいいたくないしね。いったって始まりっこないんだ……」(沈黙)

先生「Wさん、それじゃダメだ。ここにいるみんなの気持ちをわかってくれてない。みんなはあなたを、もっと深くわかろうとしているんだ……」

W「そうなんです。ここへ来てからずっとそう思っていました……ただ、今までの凝りが、果たしてとれるか、すごく不安なんです」

先生「及ばずながら、ぼくも力になるよ。思いっきり吐き出そうじゃないか」

T「Wさん、本当に応援するよ!」

T氏はW氏に歩みより、手を握る。

W「頼むよ、オレ、T君、きみが好きなんだ。みんなも、オレ好きなんだよ」

メンバーたちも、つぎつぎにW氏を囲み、「がんばろう!」「応援するよ!」と声を掛け合っている。

W「ありがとう!!……」(声がつまる)

W氏は泣きながら、メンバー一人ひとりと手を握り合い、ある者は抱き合い、感動の嵐である。



怖ろしいことに、これはまだ序の口で、情動のピークは社長の登場と、W氏に対するその土下座をもって達成される。氏は号泣して社長に抱擁。「みんな、聴いてくれよ。売れ死い(誤変換)んだよオレは! 本当にありがとう。社長、先生、みんなありがとう!!」(片野[1985:91])というW氏の絶叫でセッションは幕を閉じる。


文中の“先生”ことK教授は、穏和な初老男であった。テスト前、教授は「答案に自分の考えを書いて呉れるのは大歓迎ですよ〜」と仰ったので、自分の考えとやらを書いてみた。評価は『D』であった。


片野卓 1985 『Tグループによる職場活性化の方法』 商学研究社

 2004/10/26

健忘する娘の外付けストレージ
ダン・ジモンズ『ハイペリオン』

自我の継続が保証されている一方で、物理的な身体の継続性が欠損してしまっている物語のフォーマットがある。翌朝に目が覚めたら、別人になっていたという類のお話で、そこでは身体や生活世界は昨日までのそれと断絶しているが、その差異を認知している点で、自我は継続してしまっている。当事者は、勝手の違う環境へ投じられたことになり、したがってこの手のお話は、不便にまつわる即物的な困惑を語りがちだ。もっとも、不便の質は、同一の身体が如何ほど継続するか否かで、趣を変えてくる。身体の転移が極めて例外的な事象として語られるのなら、前述の如く、環境適応の問題にリソースが割かれるだろう。他方、一週間とか、一ヶ月のスパンで自我が別身体に移動し、転移が慣習化すると、環境適応のスキルが向上し、そのルーティンおよびプログラム化に伴って、物語は、適応を語るべき問題と見なさなくなるだろう。より問題なのは、生活環境が頻繁に変わるが為に、本来の自我に固有のプライベートな空間が確保できなくなってしまうことで、例えば、ギャルゲーの継続的なプレーなど不可能になる。そこで、わたしどもは、身体が異なったとしてもアクセスできる空間にセーブデータを保管せねばならない。変動しつつある環境にあって、比較的に安定した物理的空間を見出さねばならない。グレッグ・イーガンの謂う所の貸金庫であり私書箱である(『貸金庫』)。

自我と身体の継続が乖離するが為に生じる原初的な当惑は、けっきょく継続する自我に見合う安定した物理系を必要とした。それでは、逆のケースに当事者が直面するとなれば、どうなるのであろうか。身体は継続するのに自我が継続しないケースである。白痴退行とか、記憶が段階的に喪失するとか、極端な場合には、前進性健忘の発症がそれにあたるだろう。自我が継続せざる身体の補完を求めたように、今度は身体が継続せざる自我の補完を求めることになる。

『あの素晴らしい をもう一度』と『メメント』については前にも触れた。両者とも、前進性健忘の萌え話で、『あの素晴』だと、発症以降の事象を記憶できない娘の情報量を補完するのは、パートナーである所の主人公の役割になる。『メメント』のガイ・ピアースに至ると、哀しむべきことに友達も何も居ないので、自分が未来の自己へテクストを残さねばならない。切なさの炎上具合としては、後者の方により感度があると思うも、ガイ・ピアースなので余り転がれぬ。ここは、やはり『ビバップ』の「スピーク・ライク・ア・チャイルド」に言及せねばなるまい。『メメント』と同様に、過去の自我から伝送される情報が、もはや自我の統一性の危ぶまれる未来の自己を補完するテンプレートで語られるお話である。『メメント』との違いを作ってるポイントは、そのテンプレートが厳重に隠匿されていて最後に暴発する案外性と、情報内容の異常な情緒性にある。この手のお話が、日常の障害を克服しようとして、マニュアル志向の情報を未来の自分に送りがちなのに比して、中学生という萌え絶頂期に入ったフェイが、記憶を失いやさぐれた未来の彼女自身に送る情報は、「ふれ〜っ、ふれ〜っ、わ〜た〜しっ!!」という想像を絶するもので、わたしどもの愚かなる弟なんぞ、そのショットをDVDメニューに設定する程の有り様であった。


『ハイペリオン』「学者の物語」は、自我と身体が共に過去へ退行するスタイルで、本稿で触れてきたテンプレートから派生する様式と考えられるものの、当初の見た目は、前進性健忘と同じだ。発症した娘は継続した記憶ができないが為に、自身の病を知覚できない。そこで、家族や当人のテクスト情報が、娘の自我を無理矢理に補完してしまう。「学者の物語」は、その結果として錯乱してしまう娘を愛でるお話といえる。ただし、娘の錯乱が情緒の刺戟につながってるかというと心許なく、どうやら自我の継続性が危ぶまれ混乱するスタイルは、ただその混乱を描画するだけでは事足りないようであり、「ふれ〜っ、ふれ〜っ、わ〜た〜しっ!!」な飛躍が要請される所以になってるようだ。このお話が、わたしどもの思考の枠組みを破壊し始めるのは、娘の幼児化が進行し、「れーたー、ありげーたー」となるを待たねばならない。しかし、その段階に至ると、わたしどもの情緒を刺激するものは、自我の継続性云々とはもはや別の要素であるような気がする。


 2004/10/17

リーヴ・マイ・キトゥン・アローン

同僚の会話が、すべからく己の悪口にまつわる言辞のように聞こえ始めたのは、三週間前にさかのぼることである。自分の正気が、もはや目下進行中の病理に抗甚し得ないように思われて来て、Kは心細くなった。ここはひとつ、この現象界から退去してみるのも一興哉。そう意を決したKは、街へ飛び出し、身投げに適した高層建造物を探したが、これがなかなか見つからない。ようやく、屋上に侵入の可能な六階建ての集合住宅を見つけて、階段を上り、鉄柵から身を乗り出してみたものの、果たしてこの高さから降下した所で、致命的な肉体的損壊を被りうるのかどうか、疑問に思われてきてた。やがて、逡巡するKの背後から、如何にも美少女風の声が発せられた。Kの脳内妹である。

「お兄さま。下らないことやってないで、お家に帰りましょう」

「僕にはもう帰るところなんかないんだ。君は、僕の神経生理学的産物の癖に、今さら説諭なんかするなよ」

「わけのわからないことを謂ってはダメですわ。私はお兄さまの妄想ではありません。ちゃんと此処にいるのですわ」

Kは振り返った。Kの嗜好にことごとく適う造形をした少女(設定年齢13歳)が、はかなげに立っていた。

「君は――、君はついに僕の視覚野まで侵し始めたのか?」

「お兄さま。もし、私がお兄さまの生体情報処理活動の一環だとしても、なおさら、私と帰宅して頂かないと困りますわ。お兄さまの生理活動が止まったら、私もいなくなってしまいます」

「ををっ、それはイカン」

女性に優しいのが、Kの唯一なる欠点であった。


 2004/10/16

保護属性の起源

フョードル・カラマーゾフさんの後妻、ソフィヤは、その存在そのものがわたしどもに莫大なる夢と浪漫を語ってくれているように思う(『カラマーゾフの兄弟』)。彼女は17歳の美しい少女である。孤児である。養育者に虐待されて自殺未遂したこともある。つまり、薄幸な娘であり、わたしどもが保護したいと思う娘の要件をことごとく備えている。

彼女が、フョードルさんと駆け落ちをしたのは、それがいずれも最低の選択肢にあって、ましな方だったからに他ならない。首を吊るよりは、飲んだくれの男と逃亡する方が、高い期待値を予感させたのであった。そして、ここにこそ、わたしどもの幻想的希望があるように思われる。すなわち、他者の好意を被りそうもない惨めなわたしどもでも、不幸な生活環境下におかれた娘のらぶらぶ光線ならば、享受できるかも知れない。娘は、わたしどもを愛さなければ、生存の危機に脅かされるからである。虐待に耐えかね家出をして、近所の空き地で野外生活を行う不幸な娘に愛されたって仕方がなかったのだ。彼女には選択の余地がなかったのである。

薄幸な娘に身悶える人類一般の性向は、この因果を反転した所に発すると思われる。薄幸な娘ならばダメダメなわたしどもを愛してくれるかも知れないような気がしないでもないからこそ、わたしどもは薄幸な娘に欲情してしまう(ヘタレもてもて状況)。


さて、この薄幸な娘という属性は、娘を虐待したり、記憶喪失にして身寄りを喪失せしめたりして造形されるにとどまることはない。より先天的な機能にそれを求めることもできる。わたしどもは、三年程前にわたしどもの思考の枠組みを完全に破壊し尽くしたあの汎用メイドロボに、言及せねばならないだろう。

汎用メイドロボに関しては、わたしどもダメダメな人間へも好意を抱けるようなデザインが人為的に可能なメカという身体に、愛情の普遍性が求められたのであった。しかし、薄幸にともなう選択肢の欠如というパースペクティヴから、メイドロボを語ることもできる。彼女はメカであるがゆえに、人権が保障されず、わたしどもを愛するより他にないのである。彼女は、人権がないことを良いことにしばしばパシリに使われ、混雑する学食で途方に暮れねばならない。わたしどもは、そんな娘を見ると、保護したくて気が狂いそうになる。彼女だったら、わたしどもを愛してくれるかも知れないから。

海辺の町で出会った白痴の女子高校生も、同様の文脈で語れるだろう。彼女は友達を欲求するが、持病の癇癪がそれを許さない。ダメダメなわたしども友達にするしか選択の余地はなかったのである。


 2004/10/10

視角を客体化する犬属性

情報量が不足しているが為に恋愛に確証が得られないと、人々はらぶらぶ光線の実体性をめぐって錯乱を開始する。端から見れば嬉し恥ずかしい物語を語りがちなこの景観は、恋愛の当事者にとって見ればたいへんなストレスなのである。

恋愛の不確実性から被らねばならぬ疲弊は、恐らくは他我問題より派生している現象と思われる。他者の心的経験を、わたしどもは言及し得ない。「夕焼けきれい?」と問いかけを行うみさき先輩の心的経験を、わたしどもは経験することはできない。なぜなら、わたしどもはみさき先輩ではないからだ。

わたしどもがわたしどもである限り、みさき先輩から発せられるらぶらぶ光線は、根本的にその確実性を保証され得ない。前に言及した如く、それは世界に対する自己の意義を失うことにつながりかねないだろう。しかし、わたしどもはここで思い起こさねばなるまい。主人公がその存在を失った後、みさき先輩の内語で物語が語られ始めたことを。彼女の想いがわたしどもの思考の枠組みを呆気なく爆破炎上せしめたことを。わたしどもの視角で限定された世界に、わたしどもがらぶらぶ光線の確証を獲得することはできない。よって、他人である娘の眺める世界にわたしどもを配置しようとする実にイヤらしい戦略が生まれるのである。

おねえさんの視角で物語を語る太宰治を想起してみよう。おねえさんは病院の待合室でわたしどもを見出し、『不快げに眉をひそめて小さな辞書のペエジをあちこち繰ってしらべて居られる』わたしどもの様態に一目惚れしてしまうのだ(『灯籠』)。

これは凄まじく夢と浪漫にあふれる景観である。同時に、そうまでして己が恋愛の対象であることの確実性を希求するのかという感慨が、哀しくもイヤらしい。自己を嫌わないで欲しいという犬属性は、おねえさんの心理操作を目指して、視角を客体化するのである。


 2004/10/03

自我の変容と他我の変容

キャサリン・マクレインの『接触汚染』('50)は、人々が体育会系へ変容してゆく様を語るお話で、たいへんなホラーである。ただ、変容は身体的なものにとどまり、自我の継続性はとりあえず維持されので、手短な強迫感は薄い。身体がマッチョになった彼は、やがて心も筋肉になってゆくのか知らんという感慨が、情緒高揚の決め手になっているようだ。

時代が下り、『洗脳』('98)まで至ると、お話のメンタリティは随分とわたしどもに親近してくるように思う。ここでは、もはや自我の継続性はありえない。人々は否応なく体育会系な価値観を強制され、洗礼を受けた陰鬱な文系は爽やかな笑顔で学園を闊歩することになる。人格は変容の前後で完全に断絶している。そこに『接触汚染』の生ぬるい情緒を見ることはできない。シナリオは『コン・エアー』でスティーブ・ブシェーミを浮かせるだけ浮かせたスコット・ローゼンバーグ。流石というべきか、わかりやすいというべきか、判断に困る所である。

体育会系への変容を描画するこれらのお話は、失われる人格をめぐる騒動と言うことで、難病物のヴァリエーションと解釈することもできるだろう。自我の消失は、罹患とか記憶喪失とか世界の終末の他に、人格の変容という様式で構築できることを教えてくれている。


ところで、自我の変容は、他者の視角からすれば他我の変容になる。つまり、誰かを失う物語になり、変容の意味合いが微妙に異なってくる。前に取り上げた『あなたの魂に安らぎあれ』で考えてみよう。

このお話では、近い将来における自我の喪失は予定されていて、それをめぐって両親を失った中学出たての家事手伝いメカ娘があどけなく錯乱したりする。しかしながら、喪失の詳細は未定で、それがかえってサスペンスとして機能している。やがて機能を停止した娘は小猫に変容し、情緒ある景観の構成に成功する。ここで、娘は自分の変容を予期し得ないし、また物語は変容を経た娘の内語を語らない。視角は、娘ではなく他者である所のわたしどもに設置されていて、自我ではなく他我の変容が語られている。

娘ともども、まさか彼女が変容するとは思っていないわたしどもは、娘が機能を停止した時、二度と彼女と会えることはないと考える。ところが、案外な形態で、娘は復旧してしまうのである。変容という様式が、自我喪失のもたらす錯乱ではなく、失われた娘を比喩的な空間に見出す際の情緒を語っているのだ。


『あなたの魂に安らぎあれ』の変容の扱われ方は、非常に直截的で理解が容易だが、今日のギャルゲーシナリオは、もう少し込み入った形で他我の変容による情緒を語りがちである。例えば、『Kanon』の真琴は、獣が人間に変容する古典的な類型である。しかし、わたしどもが出会う彼女は、変容後の形態であり、わたしどもは彼女の変容を実際には知らない。それを知るのは、幼少期に狐を拾った記憶の回復を持ってであり、いわば主人公の思惟のなかで変容が再現され、情緒が爆破炎上する。

後に、『Kanon』の真琴プロットは『SNOW』の旭へ発展し、ストーリー工学の重奏が鑑賞者の目眩を招くことになる(重奏する経年効果)。むかし愛玩した動物が人間に変容し、その変容が記憶のなかで再演されるモチーフは、真琴プロットと同じである。旭のケースが特異で執拗な印象をも受けるのは、例によって原因不明の奇病に罹患して彼女を失った後、今度は彼女が動物へ逆変容してしまうしつこい有り様にある。

こういうしつこさというものは、少なくとギャルゲーという様式で物語を語る際には大切であるらしく、四捨五入をすれば三十にもならんとする大人どもがゴロゴロ転がる余り美しいとはいえない景観を、方々で展開せしめる惨状となる。



目次へ戻る
トップページへ戻る