四 遭遇

十四

教壇の方へと傾斜していく教場は、何か人に不吉なイメージを与えて居る様だった。傾斜していく人生と、そのゴールたる部屋容積に不釣り合いなあの小さな黒板。

濃灰色の脳細胞が提供する暗い形象を振り払いつつ、松本は喧噪に沸き返る入り口を抜け、安住の地へたどり着いた。仕合わせげな人生を駆け抜ける、教室後部のひとびとと教壇近くに固まり静かに沸騰するひとびとの深い峡谷である。

非武装地帯――と、かれは呼んだ――では、人々の喧噪は遠い声になり、静寂が訪れる。

空を見上げる事に関して神経症的な執着を抱く松本は、恐慌たるイメージから逃れようと、こそこそせせこましい運動をもってして、窓ぎわの席に近寄って安堵の溜息をついた。

その教場からの眺める空はたいへん心細く、教場によっては、建物の構造から、まったく空を仰ぐことが出来ないときもある。そんなときでも、見えない空を見上げ、首を痛める。

学術研究の拠点としては、目糞ほどの貢献もせかいにたいして果たし得なかったその学校では、倦怠の空気とともに、どの講義も定刻から二十分ほどで担当者が顔を出すのが慣習化されていた。かれは頬杖をついて、足を前方に放り投げ、近視の進んだ目を教壇に向けていた。黒板がぼやけて陽炎のように揺れていた。

教場の後方で屯するひとびとの遠い声が聞こえてくるのが、それが意味ある記号として認識できるほどに、松本の頭脳の解像度は高くなかった。

前方の了解可能な他人たちの背中は頼もしく見えた。硬化サイロから放出された巨大な三段式ロケットが、個別誘導複数目標弾頭をばらまくため大気圏を越えようとする誰も実際に見たことがなさそうな絵が浮かんだ。

松本は鞄から教科書とノートを取りだした。教科書は、講義の担当者が執筆した三百頁ほどの西洋哲学史の解説書であった。講義初日、担当者の一言――「買ってね」――が思い出された。担当者の方頬が微妙に痙攣する無理な笑顔が印象的だったが、かれは校内の傍らにひっそりと佇む出版社との癒着によって産まれたその教科書の私生児的な暗い生い立ちを知るはずもない。

松本はハードカバーの教科書を右手で高い天井に向かって回転を加えて放り投げた。かれはかつて、物体を天井ぎりぎりまで(しかし決してあたらない)放り投げることができる男として、まったくもって価値のない称号の栄誉に服したことがあった。投射の対象によく選ばれたのは鉛筆だった。授業の合間に何もすることがなかったのだ。

時には、落下してきた物体の受容に失敗して、顔面に衝撃を受け、「てへへ」な事態を迎えることもあった。だが、ハードカバーの教科書では、リスクがある。打ち所によっては、かれのか細い人生を大きく揺さぶる事になりかねないだろう。

かれは堕ちてきた教科書を同じ右手で受け止めた。その行為を四回ほど繰り返し、腕に疲労を感じ、後悔した。同時に、背中に冷たい視線が突き刺さったような気がした。

ノートを広げてみると、前学期に渡る松本の几帳面な出席の結果が、物理的な痕跡として目の前に広がった。松本は、小汚いボールペンの文字で埋められた帳面の数々をめくってみて、深い自己満足に襲われた。やがて、文字の書かれた頁が終わり、ノートは真っ新になった。松本は、どことなく寂しい心持ちになり(今日もあいかわらずダメダメですね)と書き付けて、ますます寂しくなった。

一連の行為が終わった後、松本は窓の方を見上げた。窓は、天井近くの壁に、申し訳なさそうにくっついていた。

かれは、ふと、課業の合間になっては廊下に出て、窓から身を乗り出すように空を見つめていた高校時代を思い出した。そして、ここ数年来、いつも同じ様なことばかりやって、同じ様な場所をただぐるぐる回っているだけのような気がした。

十五

講義担当者の未だ実現せぬ到来は、開きっぱなしのノートに外気を晒させるまたとない機会をもたらしたが、心なしかそこのまぶしさを感じて、松本はノートを閉じた。見かけ上、ノートの面積は半減し、それまでノートによって覆われていた机の黄土色の地肌が見えた。机は薄汚れていたため、最初は気がつかなかったが、シャープペンらしき筆跡がうっすらと目に入った。如何なる事が書いているのだろうと顔を近づけると、その端正な筆跡に逆行する意味内容に、松本は仰け反った。

「ぐうおおおっ(途中略)しおり〜〜〜〜〜〜ん!!じゅうはっつつさ〜〜〜〜い(途中略)なのにぺったんこおおおおおお(以下略)」

われわれが、この言葉を理解するには、いくつかの注釈を必要とするだろう。


当初は人権的な発想から制定された児童の性的な戯画表現への規制に関する法律群は、近年、下げ止まらない出生率の低下と若年層の孤独死が社会的にクローズ・アップされるにつれて、より、深刻な意味合いを呈すようになっていた。

そこには、生殖に至る過程だけを抽出して、模擬的なその再現を行う人為的論理空間の構築を可能にした技術的なバックボーンがある。

生殖に至る過程は、一個体の他個体への生殖願望に起因するその個体の変則行為が、願望の対象となった他個体の生殖願望を誘起することによって成立すると言えるだろう。

実世界のなかで一連の過程が発現すると、その帰結として、生殖に至る。しかし、ある日、その一連の過程のみを人為的に取り出して、その快楽を享受することを誰かが思いついた。脳内の生化学的なネットワークがある臨界点を超えたその日、結果の物理的な快楽と過程の精神的快楽の均衡が崩れてしまったのだ。やがて、テクノロジーがアイデアに追いついた。

人為的に再現された結果を伴わない生殖に至る過程は、概念的な“悶え”と呼ばれた。人工的な論理空間でシミュレートされるがゆえに、パラメータは可変であり、その値は個々人の嗜好に応じて調整された。

「われわれは何に悶えるのか?」

産業への可能性が、概念的な“悶え”のアカデミックな研究を支え始めた。夢は叶いつつあるように見えたのだが、同時に、ごく潜在的にではあるが、人類は実人生において性交する動機を失いつつあった。

変化に気がついたのは、職業的な研究者ではなく、その研究成果を引っかき回してネタ探しをやっていた政策立案者たちであった。やがてかれらは、童女愛好者が急増しているという途方もない統計的指標を発見した。

童女愛好という嗜好は、それが実世界においてすら、生殖に繋がらないという意味で、概念的な“悶え”と親和性を有する。その視座から、童女愛好者の統計的に有意な増加を、概念的な“悶え”からのフィードバックに求める解釈も現れた。

しかし、人類種のごく即物的な保存については、たとえ人々が生殖する気力を失ってしまっても、基本的に解決可能な問題と見なされた。原始的な人工授精からはじまり胎外生育の模索までに至りつつあった物理的性交を伴わない繁殖手法に、大きな技術的障害は少なく、あっても時間の問題とされた。むしろ、懸念されたのは、種の人為的な発生が、生来的子宮から切り離されて行くほど、個体がせかいに放り込まれたとき、そのせかいとの調和的な認知を促進し可能にさせるような社会のサブシステム――生来的子宮から産出された個体にとっての家族に相当するもの――を保障しなければならなくなることであった。

何れにせよ、政策需要が高まるのはもう少し先の話だと考えられた。だが、先行的に始められた生殖細胞提供の試験的な制度化は、暗い未来を予感させた。細胞提供者の偏りが解消されず、機能不全遺伝子の高い出現期待値が、劣性遺伝病の蔓延を予想させたのである。

十六

すでに法律としての実効力のあった児童戯画に関する規制は、こうして、人類種の生存をかけた存在になりつつあった。ただ、松本が学生時代であった頃は、表現の侵害に対する兼ね合いから、商業的な流通は不可能になっていたものの、ごく緩い地下流通を経て、ひとびとは童女愛好家の猛烈なる欲求を満たす各種媒体を手に入れることが出来た。童女愛好家が、司法当局の内偵による特定を受け、監視下に置かれ、そして電気街の書店からその種の媒体が消えてしまうには、まだ少しの猶予があった。

こうした曖昧な時期では、童女愛好文学――その主流媒体となったのはヴィジュアルノベルと呼ばれる端末再生の概念的“悶え”のシミュレーションプログラムである――を地下流通ではなく大々的な商業流通を可能にせしめる手段が、いくつか考案された。ひとつに、例えば十歳児の平均的身体的特徴を備えた人格を十八歳と強引に言い切る歪んだ手法が、一時、大いに流行を極めた。

子どもの法律的な定義は、社会の慣習によって決められるものであり、松本の内属する社会はそれを十八未満としていた。ゆえに、小学生の身体を備える十八歳という奇妙な記号が、この時期のヴィジュアルノベルを特徴づけるファクターとして、後に認知されるようになる。やがて、法律の厳格な適用が進むにつれて、こうした抜け道さえ閉ざされるようになり、あくまで商業流通を目指す抵抗勢力は、より暗喩的な手法に前途を見出すことになる。

われわれは、話を戻さなければならないだろう。

このような社会風俗的な背景が考慮に入れば、机に記されていた端正な文字列の意味することを理解できよう。それは、時代が生んだ奇形的な結末に対する歓喜と絶望のように松本には思われた。

当の松本には童女愛好癖はまるでなかった。そのことは、当時のかれに生態学的な優越感と社会的な安心感を与えていた。自分は生殖不能な童女しか愛せない人間ではなく、人類種の保存に貢献することが出来る社会的に祝福されてしかるべきにんげんであるとかれは考えていたのである。

この思惑に、全くの違和感がなかったといえば、嘘になるであろう。かれは、実際の個体発生に帰結し得るような過程を現人生のなかで未だ経験したことはなかった。一方でかれは、人為的に抽出されたその過程とそれに由来する概念的な“悶え”の立派な愛好家であった。松本をその悶えに駆り立てたのは、かれを終生に渡って苛むことになる孤独感と、その埋め合わせを現人生に求めることの出来ない薄弱さであった。

統計的に認識し得るまで、童女愛好家の個体が増えつつあるといっても、その個数は全体から見れば限りなく少数であり、かつ、多数派の潜在意識に潜む種の生存本能が、かれらを社会的差別の対象にした。

童女愛好家と概念的な“悶え”の愛好家は、表現される媒体の共通性と生殖の不可能性によって、松本には不本意なことだったが、同類項にされた。また、ともに社会的虐待を被る立場として、松本には童女愛好家に親近感を覚える余地もあった。だから、かれは机に書かれたその文面に興味を持った。

松本は、文字列に向かって矢印を引き、その末端から文章を書き付け始めた。かれは、恐ろしいほどの悪筆であり、自らの手で文字を記す機会がある度に、気が病んだ。

十七

机にこの文字列を記したかれ――まさか、女性ではあるまいと松本は思ったし、それは事実であった――にその歓喜の絶叫を絞り出させた「しおりん」の名前には、松本にも覚えはあった。「しおりん」は、事実上の十歳児の双子との陰惨なまでに享楽的な共同生活を描き、かつて、そして今日においても、童女愛好作品の最高峰と詠われた作品の一方のヒロインであった。

特段、平坦な胸部に欲情を覚えることのない松本は、あくまで古典として、そのヴィジュアルノベルと接したのであり、読み下し始める前に、特別な期待があった訳ではなかった。ところが、物語が始まると、性の神話的で未開社会的な放埒さの直截的な表現と肯定にまず驚かされた。事実上の十歳児の目も当てられない淫行に、言葉を失った。同時に、これほどまでに常人の想像を目映く跳躍してしまったせかいを実現させた、童女愛好家たちの心理に強く関心を抱くようになった。

しかし、その時のかれの周りには、童女愛好家と見受けられる人物はいるはずもなかった。ただでさえ、松本を取り囲もうと欲求するにいげんがいるはずもない上に、童女愛好家は日常にあっては、おのれの性向をひた隠しにした。それが判明した途端、かれの社会生活が崩壊してしまうからである。なのに、机に自己の霰もない忌まわしき欲望を叩き付けたこの男は、じぶんが平坦な胸と臀部、その他をこよなく愛好して止まないことを、高らかに宣言しているのである。松本は、興味を引かざるを得なかった。

「しおりんは良い。失禁を強いられるところが特に良い」

松本が、そのかれに対する意見として、同じ机に記し始めた文字列は、そのような文意で始まっていた。

しおりんには双子の妹がいた。松本は妹の名前を失念してしまったが、強情な姉と違い世情におびえ、欲求を拒むことの出来ない曖昧な表情が、記憶に値する映像的な心象として、かれの内面に残された。

しおりんは、妹とは対照的な気性を持つ人格として、造形されていた。つまり、彼女は勝ち気な事実上の十歳児であった。

そんな好戦的な十歳児が、排泄行為を迫られる模様に、松本は胸のときめきを覚えずに入られなかった。おのれもついにこの境地まで墜ちてしまったのか知らん、と非道く動揺した心持ちになり、また、その動揺は禁忌を侵す快楽にも感じられた。だが、今日に至るまで、しおりん以外の童女にかような衝動を覚えることは、結局、皆無であった。

文末において、勝ち気な童女が辱められることに対する欲情の喚起とその不思議に関して問いを投げかけたところで、講義担当者が奇妙に高い教壇をよじ登る姿が見受けられた。松本は再びノートを開き、ボールペンのボタンを連打して、がちがちと云う悲鳴を上げさせしめた。人間の精神の歪み着く果てを予言した机上の文字列は、筆記の快楽を今かと待望するノートの歓喜によって打ち消された。

講義は、退屈というほど生易しいものではなく、むしろ、人々の神経を逆撫でるほど、冗長を極めたものであった。松本には、時々、芸術ではないかと感ぜられた。

講義の効用は、情報伝達の圧縮効果による伝播の効率性にあると松本は考えていた。一定の知識の到達点は、単独でもなし得るものであるが、講義はその道程を全うする時間的コストを、数分の一程に圧縮するようであった。

圧縮率は、事物のマニュアル化に関する講義者の技量にかかっていると云えた。この才は、物事を理解する能力とは別種のものらしく、効率なる情報の媒介が、途方もなく神秘的で得難い力に委ねられているような触感は、かれを絶望的な気分にした。

松本は、圧縮するどころか巨大な膨張を誘引しているように思われる講義を今ここで行っている担当者の略歴を、学内ネットの一隅を構成しているデータベースをもって調べたことがある。かれは、その分野の研究者を育成して然るべきと考えられている学校を出ていた。つぎに、松本はかれの学術的な業績を見たいと欲し、頁を進めた。

図書館の黄ばんだモニターに映ったぎっしりと並んでいた文字列は、年を追う毎に疎らになって行き、やがて白い背景に申し訳ないように記された、二、三行の文字列に変わった。松本は、モニターを前にして、かの担当者が何時から人生を捨ててしまったのか、暫く思惑したものだった。

十八

「…かくして、われわれは、全人生に渡って身体を通り抜けて行く排泄物の総量を持ってして、徹頭徹尾汚されて行くのです」

松本は、まったくもって、講義者の話に聴覚の注意を向けていなかったので、かの口から如何様な文脈でそんな言葉が出てきたのが理解できなかったが、それをもって、その日最後の講義は終焉を迎えた。夕食の貧弱な献立を考えながら、帰宅の途に着くことをささやかな喜びとしていた松本は、食欲を減退させるかのような講義者の台詞に、深い憂慮の念を感じずに入られなかった。しかし、ものの二分とたたず、その不快な記憶も二度と醒まされない忘却の倉庫へしまわれ、かれは「冷凍茄子、牛乳、百円」と呟き、思考世界の粒子を目に見える形で周縁に散布しながら、大教室の傾斜した通路を登っていった。そんな調子であったから、机の落書きのことは、その時にはもう、忘れていた。

一週間が経った。松本は前回と同じ様な時間に、例の大教室に辿り着き、入り口を追い被さるようにして群生する明るい人々の間を、這々の体で通り抜け、また、いつもの席に腰を下ろした。茫洋として空間を見つめていると、この机にはかつて虐げられた男の絶望の声が記されていたことよ、という記憶が遠い過去の出来事で有るかのように蘇ってきた。机の落書きなど、勤勉な清掃人の手によってすぐに消去され、誰の目にも留まることは無いだろうとという松本の思いが、恐らく一方的だったとは云え、あの男との熱気蒸す一瞬の魂の交流を美しく遥かな記憶にしていたのである。ところが、視線を当の机に下ろしてみると、其処には目も覆いたくなるような薄汚い現実が広がっていた。落書きはしぶとく生存をはかっており、それどころか、松本の手によって拡張されたその文字列は、更なる拡大を遂げていた。かれの問いかけに、返答が寄せられていたのである。

「しおりんの失禁は、ぼくらの大脳周縁系の奥底に眠る太古の魂への呼びかけなんだよ♪」

薄気味悪い文頭の語尾を薄気味悪く装飾する八分音符の記号に、松本は冷気を一瞬感じ取らずに入られなかったが、筆記者への興味がそれに勝り、文列の続きを追い始めた。男は、その精神の有り様を、近所に住まう優しい年上の幼なじみが、夕日の土手に座ってしみじみ語るような口調に乗せて、松本の耳に囁きかけてきた。文語調に直せば、松本の理解した範囲でのことだが、次の様な事であった。

今、何かがここにあるという事は、然るべき理由があってのことである。同一の目的を達成しうる代替的手法が数多くある中で、一個の手法が幾たびと選択され、やがて慣習とされることは、その手法の優越あってのことである。

慣習の体系たる生物は、移住地の既定条件の違いから、また異なる慣習の体系とならざるを得なかった生物との選択肢に放り込まれ、より大局的な慣習の比較選考が行われる。その過程は具現的には、どの慣習を有する個体群が、その個体のより大きな増加を達成することが出来たのか、と云う言葉で表現し得るだろう。よりお子様を増やせたら勝ちなのだ。

「つまりね、ポイントは発情だと思うんだ♪」

斯様にしてわれわれの習性となった発情の様式には、他の様式にも増して、個体間の心身に渡る接触に利するところがあったはずである。それで、実際の所、われわれはどんなものに発情しやすい傾向にあるのだろうか。その回答は分かりやすく、発情自体が他なる発情の呼び水になっているのだ。

発情が片道通行だと、生殖には至らない。しかし、発情が発情を呼び起こすのであれば、生殖は容易になるだろう。発情者の発情たる源泉となった個体は、必ずしもその発情者に発情しているとは限らないが、発情者の痴態が発情を呼ぶとすれば、生殖は促進されるはずだ。発情を感知する受容器が鋭敏であればある程良いだろう。いや、良かったはずだった。

発情は特異な状態である。ゆえに、それに伴う痴態は、普段の感情とは別個のものである。ただ、基調たる感情から逸脱するそれが、すべて発情に伴う痴態ではない。しかし、淘汰の過程で過剰な進化を遂げた発情感知に関わる認知機構は、必ずしも発情に関わらない逸脱した感情にまで、反応するようになったのである。

「強気なしおりんが、辱められて失禁するって、普段は見られない感情だよね。それにこころ惹かれるのは、とっても自然なことだったんだよ。でもね…」

数行と思われる空白がつづき、文章はある言葉を持って閉じられていた。

「しおりんは、子どもを産めないんだよね」

十九

そうして、また、一週間が経ってしまった。

些細なイレギュラーすら起こりうる余地のない松本が心から望んだはずの精密的に平穏な日常は、しかしながら、爽涼の空に立ちすくむかれを深憂させることもあった。時の悠久たる流れに、人生が削り取られていく様な心地がしたし、また時には、大河の流れの向こう側には、千尋の滝がお目通りを待っているのかもしれない予感もした。

俺は蜜柑箱に乗せられて漂流する麗しいノルウェージアン・フォレスト・キャットであると、松本は溢れんばかりの自己愛を発動させてみた。血統書のついて然るべき種族の猫が、どうして川に流されたのか? その疑問は取りあえず黙殺された。

で、斯様に人びとに身悶えをもたらすような松本を運ぶ蜜柑箱の向かう先には、かれの人生の劇的な終着点となる滝壺が待ち構えるのだが、後百年ほど生きて畳の上で死にたいと心から願うかれには、滝に飲まれる蜜柑箱という想像は酷であった。水死は“痛い”という知識が、ますますかれを恐怖で満たした。

松本には、奇妙な確信みたいなものがある。こんなにも愛くるしい己であるから、滝に飲まれる前に救い出されるに違いない、と。

この空想は、一日一日の日常という水準ではなくて、より人生を俯瞰した際に妥当するものであったが、平穏を期待する日々の暮らしの中で、かれが何らかの逸れ道を深層において期待していたことも、そんな空想の土壌となっていた。だから、机の落書きへの気紛れな返答に、さらなる返答が異様な表現形態を伴う文字列として出現したことは、内容の居たたまれ無さにもかかわらず、嬉しい誤算であることには、違いなかったのだ。

爆弾のキャッチボールが如く返されてきた文字列を読み終わった後、かれは講義が始まるまでの間、考え込んでしまった。そして、講義の最中に、文字で埋めつくされた机の一表面を、消しゴムで擦り空白を作って、また何事かを記してみた。講義が終わり、教室を立ち去る際に、かれは振り返って、多数の文字が踊る机を見下ろした。文字が薄いとはいえ、かれの主観では周縁から豪壮に浮き上がっているように思われるこの落書きが、どうして清掃人の目を逃れたのか少し不思議な感じがしたが、一週間後にはまた落書きが拡大しているかもという薄い期待が、前回とは異なって、この落書きへの関心をして松本の脳内の片隅を微妙な支配の色で染め続けせしめたのであった。

時流に関わる主観的実感として、多忙と日々を消化する速度の正なる相関が語られるが、松本は、おのれの穏やかな日常が恐ろしい勢いで、時流を消費していく有様を経験する度に、むしろ世間に流布されている常識は逆ではないかと考えることもある。つまり、何事もなければ、一週と云う期間など、瞬く間に潰されて、また新たな一週が潰されにやって来るのである。松本の生活には、何もなかった。だから、一週間は晴れやかな笑顔で飛んでいって、生ぬるい体温ですぐに戻ってきた。

教室に入り、長机の海を左右に分断する傾斜した通路を下って行き、例の机がはっきりと区別しうる視界の射程にさしかかろうとするとき、まず「落書き残っているかな〜」という想いがあった。机に記号の群が生存しているのを見受けると、今度は、追加的な書き込みへの期待が沸いた。果たして、それはあった。近所に住まう年上の幼なじみの浮き世離れした口調の様な文体で。

継続した交友関係を学内で作り得ないまに悶々と過ぎていった松本の日常に、こうして、唯一の交流が奇妙な形で開けたのであった。週に一回、机上で進行される会話は、常に、一方の男の「だよだよ♪」と云う口調が、薄気味悪い印象を松本に与え続けたのだが、やがてそれに慣れ始めると、松本はまるで近所に住む年上の優しい幼なじみと、話をしているような幻想に陥り始めた。この文字の向こう側には、童女好きの見るも無惨な男が居ると云う真実に間違いない事を、時としては、無理矢理に脳味噌に認知を迫り、踏み越えると帰還が困難になる一線を、踏みとどまろうとするのであるが、三週、四週と逢瀬を重ねる内に、松本はもう考えることを止めてしまった。優しいおねいさんと会話のできるその講義の日が、たいへんな楽しみになり、かれの学生生活は、ここに来て初めて、人生におけるもっとも仕合わせな期間たるを謳歌しようとするのであった。

松本は机上のおねいさんに甘えを始めた。

「陽光当たる公園の芝生でひざまくらしてほしいでちゅう〜〜〜〜♪ 入射光がまぶしいでちゅ〜〜〜」

一週間後。

「ほらほら、しかたがないなあ、まさよし君は♪」

恥を知らない年頃であった。

冬の押し迫ったある日、講義の始まる前に、週一回の習慣となったことを荒い息で遂行していた松本は、背後に不吉な影を感じた。そのまま固まっていると、芝居がかった声が聞こえた。

「ふふ〜ん、キミだったのかね」

松本は恐る恐る振り返った。寒冷の季節が目前に控えていることを忘却せしめるように、その男は薄汚れたTシャツで、転がれば何時までも転がっていけそうな巨体を包んでいた。視線を上げれば、悽愴な笑顔が宙に浮かんでいた。松本は、ただ、小さく「嗚呼、嗚呼」としか発声できなかった。

松本と鈴木が初めて出会った時のことであった。

つづく


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