映画感想 [1901-2000]
電波を収束するという外向な話題は同時に内向もしていて、事件をナラティヴとして運用するのはむつかしい超ドメスティックな話にあって、キャラを観測可能な実体へと到達させるために、相当な気負いが充溢している。これが臨床的には、若者が皆、自閉症として記述される結果になっている。
中尾彬の起伏ある顔面に彫琢されたピタゴラ装置が、マニアの同好愛を通じて田村高廣と新田章を和解させる好ましさ。童貞が知恵をつけると碌なことにはならないのか。いや知恵があるから童貞なのか。ピタゴラ装置の本質的な愛嬌がすべてを赦していく。
東京の景観への自負を謳ってやまない愛郷心が、燃料税暴動のような反グローバリズムに至るのは自然ではあるのだが、ここまで政治を隠さないのは驚きであるし、しかもこの政治が今回は受け手の社会的現実に帰着できているから、感傷は確実に励起されるのである。しかしだからこそ、ジャンルムービーの芸術実践としてみた場合、砂糖菓子のような偶然の連発がグロテスクな迫力を帯びて可視化されるのである。
文明の再構成を試みるフィクションはどうしてもガジェット物になるから、80年代文明の縦深を統合するのは映画という活動よりも機材なのだが、それがガジェット信仰としてのランボーという物語を再発見している。
偶然撮影された火事場以降、これはドラッグムービーにすり替わっていて、事態は、すべては泉谷しげるの譫妄のような、一種の放心として表出しているのだが、実践としての物語はまた別の擬制を夢見ているために、もはや不可能となった収束の痕跡を巡って当てもなく人々は彷徨して、ホームドラマの滋味が調合される。
スザンナが浜辺で読書をしている。これは文系浪漫という名の唾棄すべき助平であり映画ファンへの迎合である。性欲の強いこの物語にあって、自らが露見すべき場所が見出されたとき、文系浪漫のイヤらしさの発端となった助平心はようやく文系少年を救う。プール周縁の諸ギミックが助平に然るべき時熟を獲得させるのだ。
仕事ができるという目に見ないものをどう叙述するか。どうやって抽象を量感に置き換えることで可視的現前を得るのか。アルカーイダが国でないから敵意の焦点がぼやける話と通底するのだが、物語は抽象を量感に置き換える出来事を陳述するのではなく、肉体の量感そのものの徳に依存し、映画の達成の最たるものがベールの歯磨きに見出されるのだった。
バブルスーツが竹中直人の肉体を内包するのが緊張だとすれば、サスペンスが喜劇に耐えられないような、事をカテゴリーに帰属できない不安に苛まれるのだが、喜劇であり続けることの悲痛という例化によって感傷の構造化が達成されたとき、われわれはバブルの余韻ともいうべき審美の質感に触れるのである。
すべては擬制であっても行為さえすれば一瞬でドラマを抽出する神経生理の手管が食糞という世にも稀なる無為へとエスカレートしたとき、そこから男の求愛ディスプレイの悲愴を引き出すのは、アウトカーストの連帯に絆された女からの労りであった。
この算段の意味のなさは、貧困というよりも福祉の蹂躙に生き甲斐を奪われたドバイ市民の苦悶に近く、非経済に苛立ち量感への奉仕を羨望した夢が醜悪なツリーハウスという恵みに達するのである。
浅野ゆう子の嬉戯的な肢体によって悲劇的量感へと圧搾された三角関係を森田健作の身体能力が明るい旋律で表現し、缶ピースの開封に手間取る池部良の気まずさの醸す恐るべき緊張がアナクロの極致をいく末期的世界像に戦慄を走らせる。
時間によって捕捉された、着想という時間を超越する営みが、回想において現象する仮象として存在の微光へと後退していく。その回想の深度を担保するトビー・ジョーンズのカバ顔の癒し。
線条的な叙法に終始する本木雅弘の身体は初期北野というノンリニアな叙法とクロスオーバーしない。にもかかわらず、なぜ本木と北野という組み合わせなのか。異質な文法は内包しえなかったのではなく、異質なまま温存されることで、錯時法と叙法の混乱に苛む肉の哀願があれほど露骨だったボーイズラヴを最後は詩的実体へと凝縮するのである。
暴走した夢見る乙女回路が男優をみな去勢するという蛮行に走り、ダコタの傍らに横たわる去勢された男に生じる、性欲の痕跡ともいうべき隔靴掻痒が緩慢な病の体感を代替し、受け手の生理を直撃する。
感情を言葉で説明して寄りたいものに寄らずにはいられない具象化の力が、深みを剥奪しながら目論むのは、「時間化」という俗の極限であり、ジャンクフードのような豊穣が茶道という究極の俗物趣味を迎え撃つのである。
差し入れの可能性自体が男から生き甲斐を奪うのは構わない。女の同情が嫉視にならないために男には他の可能性が必要だったのだ。が、配慮の産物たる互いの行為の遠離は、そもそも話から似ているのだが、『南極料理人』のような感情の鮮明さに達することのない無竟に下衰していく。
時代劇を共時的に語る矛盾がエマ・ストーンのIQから文化的背景を脱落させることで、政治の裏付けを欠いた野望が目論見を果たした際、何もやることがなくなるという寓話を達成している。つまり、サイコパスを文化的素養を欠いたIQと定義して、階級間移動の困難を訴えるのである。
たとえば、ママチャリのリングロックの開錠音が奏する貧困の轟きのような、深津絵里の薄幸を図像化する試みが成功しているだけに、満島ひかりという女難の襲来に脅かされるロードムービーが辛抱堪らなくなるのである。しかし、本当の女難は満島ではないのだ。どこまでも浸りたくなるような深津の薄幸こそ、男をしみじみと駄目にするのである。
ロカビリーと80年代バブルの出鱈目な並置が文化的に催吐的だとすれば、然るべくという宿命論がそもそも時制の誤りに他ならぬからだろう。かかる誤りは亡霊たちの交渉を通じてダウニーを損なおうとするが、同一性の破壊から彼を温存してロマンスを回復させるのはゲイムービーの形式的意匠である。
本田翼の場違にも程がある媚態が西島秀俊の英雄劇の一環を構成するどころか西島の操を試すような修辞的暴走となり、社会時評を装う本筋が訴えるのは抗事実的な叙事と主題である。脳が空転させるようなこれらの感情の錯誤は、あたかも中井貴一のコンビニが宇宙の中心に鎮座するような幻想文学へとわれわれを導くが、そこでも深川麻衣が異様な媚びを売ってくるのである。
技術に制約がなければ展開は詰まる。事件は即解決し、そこから事を進めようとすればもはやマッチポンプになってしまう。ゆえに広がりではなく良心が空間を構成していくのだが、地誌を面影で代替しようとするとき付随してくるのは自惚れの高揚である。
マンガのような禍々しい世界観を体現するヴェラ・ファーミガにチャン・ツィイーが掴みかかると、そのキャットファイト興行からマンガであるという物語の自意識が透け見える。フワフワなマンガ的想像力は、怪獣の足下で何が起こってるのか誰も見たことのない場景を演繹しようとする過程で、カジュアルな死生観をカジュアルゆえの忌々しい貪婪へ高める。
場所同士の位置関係の蒙昧さを利用してデ・ニーロの逃避の印象をうやむやにするには当人がスジモン過ぎて、逆にデ・ニーロのむらっ気に応じて地形が変化したように見えてしまう。生の重荷からの逃避という人生の議論は、それを戦闘の展示という技術問題へと変えることで回避が試みもされるが、やはりそこでも地誌の蒙昧が仇となる。
アダム・サンドラーが学習しない。オチがフランク・キャプラだからどん底まで堕ちねばならず、下手に学習してもらっては困る。しかしここまで学習しないと、現実に帰っても感激は一過性に見え教訓を生かせるとは思えず、終始掴みどころがない。この満ち足りた中産階級をこれ以上幸福にして観測に値する筋が引き出せるのか迷いがあるのだ。
美術の集積度が窮乏の豊饒さに至る撞着は人間の鋳型の次元へ翻案され、無能の執拗な定義づけを始める。シニシズムは不幸の圧縮と加速には加担せず、長十郎を翫右衛門と対比させることで、ダメ男が退治されるまたひとつの撞着した浄化へと向かう。
情実を通用させてはいけない自由賛美のコンテキストで情実を扱おうとすると何が起こるか。情実が実効的となっても問題のないレベルまで自由が矮小化する。つまり、個人の選択が結果を左右しない自由が矮小化された状況で情実を実効化させる。たしかにそうすれば腹立ちはまぎれるのだが、自由の矮小化は物語という教訓的言語体系と相性が悪い。そこで根性を見せるのがオリヴァー・ウッドの撮影技術である。
当事者は所長のオッサンであって、ファン・ジョンミンが悩む権利を模索するうちに、スリルと格調を刹那的に追及するやくざ映画の俗物根性がリベラルの心性を破綻的に内包する。自己を偽るジョンミンが素に帰った時、戻るべき自分を見失うのである。
三重県警の無能に端を発する国家不信は、巨悪たり得る無能の構造化を要請する。それは無能を一種の魔術的な媒質として織り上げ、群れをなす切られ役が吸い付くように次々と武器の錆になる、アクティヴな察しへの没入となる。
何を以てそれは克服されるべきか。自己実現と再配偶では真っ当すぎる。この教訓的物語は、死者の夢の中から遡及される緩さを利用して、物語の達成たり得る些細なズレを作る。配偶は回復される。しかし、相手を巡ってミスリードがある。あるいは、再配偶を必要とする主体が最後にうれしいズレを起こす。
ジェフへの憐憫を全うできたジーナの徳が、もはや退治の可否をめぐる緊張を許さない。その徳は肉体が人格を宿すという男の信仰を包括する。相反する感情から嵩じてくるやさしい心持の揺曳は陰惨なセンチメンタリズムそのものだ。
濱田岳の生活感が瑛太を巡る事件の如何にもな道学臭に至ってしまう諧調のなさを戯れとして消化しようにも、メルヘンは獰猛に受け手の馴致にかかる。これは何か。輪廻への不信は偶然への嫌悪に基づく。偶然を必然化せねば濱田との邂逅は俗謡に終わるが、メルヘンに馴致された結果、われわれは偶然を構造として捕捉してしまう。そこに生じるのは、輪廻という既定性が自助を促してしまう逆説である。
意図された稚拙と解釈するには叙述が深刻であり、意図の不在の脅かしを嗤いで耐えるのは不見識のように思え、感情を帰属させる試みは阻却され続ける。吉田輝雄の爆散はある種の浄化なのだろう。稚拙に相応しい叙述を保ちながら、何か高級な詩心を以て、受け手へ共感的な応答をし得たのだから。
尾美としのり一派のコメディーリリーフが本編を侵食する恐ろしい冗長。藤田弓子が前触れなく焦点となるあまりにもカジュアルな近親相姦。これらの禍々しさが女子高生モードの富田靖子を引き立てるとき、可愛さという痛切が時間と関連することを知らされる。偉大なる天然が天然なるゆえに時間という仮象の薄明を分節している。
この強烈な未来傾斜原理の物語は死後の地上の実感を信仰として捉えている。しかし、無辺際という染谷将太の徳が霊媒となったとき、それは下心をも宰領し、誇示なき自己展示へと発展してまさみを惹いたのではなかったか。
改変の来歴を表現し得てない肉体がそれでもなお喚情的だとすれば、いかなる構造がそこに介在したのか。唯一人感化を免れる会長重松収の、安藤サクラの進捗とは逆行する炭水化物嗜好と肉の起伏を遮蔽するコンビニユニフォームの包括が編成した和声の構造が瞬間の連続を流出として錯視させる。
マッセイとダヴァロスの顛末だけを見れば、無能が滅びたとしか言いようがなくなる。もっとも、マッセイの無能さを薄めるために、レタス冷凍ネタがあるのだが。その彼が最後にやってしまうのが、ディーンの可能性を遮断することで後味が悪い。他方、その商才の抑止は、男の甲斐性にふらつきがちなジュリー・ハリスの尻軽さを軽減してしまう。あくまでアイドル映画たるを全うしようとする下心は、名作らしい業突く張り。
マカヴォイの堺雅人状のサイコパス顔にナイトレイの受け口が咬み合うと、慄くような艶冶になる。これはかみ合わせの映画であって、達観しがちなマカヴォイには憐憫の余地が少なく、切実さは心象ではなく地勢に託され、男はダンケルクの立体的な浜をさまよう。起伏としての哀切は老女の腫瘍として結実するのだった。
菅田俊の不安定なアイドル映画でないか。定型サイコの浅野忠信よりも、この苦難を消化する菅田俊の方がよほどアレではないかと。彼が受け手の常識を担うほどに益々、常識から外れていく。この認知の不協和はたとえば、電話口での不明瞭な口舌として露見する。かかる不協和を解すべく、彼を退治しようとする際に現れる塚本晋也は不協和な肉塊を纏うのである。
震災のトラウマが土建屋への卑賤視をもたらした。しかし、サトエリの肢体以外に筋を牽引するものがない話だが、津田寛治が性欲のお化けとして表象されるように、その賤々しさがサトエリの肢体の痛切さと関連しているのではないか。森山未來と彼女の別れに痛切な勿体なさをもたしたのではないか。
トニ・コレットの被害妄想と思わせるから、降霊会以降、とつぜんオカルトが始まると格調が消失し、コリン・ステットソンの劇伴の物々しさも手伝い面白家族逆噴射というべき滑稽劇へ。母性嫌悪を志向すればコレットの視点は消失するはずだが、格調への未練からフラフラして、たまにコレットが正気に返り、場面の前後で造形が一致しない。母性嫌悪から導出される、『CURE』を踏襲したダンディズムと解放の結末では、中途なオカルト化が逆に効を削ぐ。この結末なら真っ当にオカルトを経由した方が格調高いと思うのだ。
基本は業界人の自慰であり役所広司はオカズに過ぎない。しかし、自慰の道具ゆえの惹かれ方の極端さが無骨の徳を謳う。その度量は婦人会の竹槍の件になると復辟する。演出家に対する助監や技術職の叫びが轟くのである。おまえの夢の踏み台になってやる。だからそれに値する素材を持って来いと。
技術職というパーソナリティを極限にさらす実験は恐怖をなぜかフェティシズムすらをも内包した粘性の官能として叙述してしまう。官能の重さに耐えかねた技術職は地上に落下して人類不信を成就させる。重喜劇である。
国籍という属性の対比になれば共感は誘い難いから、対比は捻じれ、ホワイトトラッシュとインテリの階級闘争に置き換わる。問われるのは自分の甲斐性であり、たとえガジェットの組み合わせが恣意的にすぎないとしても、階級を越えようとする尽力が没入の助けとなる。結末の悔しさもひとしおである。
驚くべきほど正調の70年代型パニック映画に際した岡本喜八のリアリズムは水得た魚のようであるが、70年代に展開されて然るべき事柄が80年代後半の風俗を借りて描写されると、時代の吟味に気を取られる。70年代を80年代に屈服させ、風俗を文法に嵌入させるのは、緒形拳の肩に蕩けるように被さる嶋田久作の長大な顎である。
熟女の性欲と女の甲斐性。パラメーターの複雑さがペイジの造形を曖昧にしてサイコ化する筋が、イーストウッドの性欲の在処までも乱調させて不明瞭にする。彼の視点に受け手が定着できず、その被る恐怖が見えてこない。
岡田准一のナルシシズムが西島秀俊の年季の入ったそれに包摂され無毒化され、ふたりのナル合戦に巻き込まれた奥田瑛二と池松壮亮の渋面を享しむゆとりが出てくる。池松は流石に器用というべきか、オッサンらの自慰ウェーヴに自らも参入し、渡辺大の下ネタのオチを導く。俗謡調の叙述が然るべきところへ到達した感がある。
“清和会”的センスを嫌悪するキムタクの書斎が何よりも悪趣味な設えなのである。正義の相互嵌入的な営みに言及する筋であるから一見して納得できる意図だが、参禅を始めとするキムタクの悪趣味について、作者が果たして自覚的なのかどうか。この危うい留保を受肉したのが、はち切れんばかりの幼児体型とアニメ声という吉高由里子の怪異な肢体である。草食系の邪念とは言わせない肉の迫力が、便利屋過ぎる松重豊の饒舌で抵抗を失った構成の平面を滑り、二宮を襲う。
鬱積と浄化のサイクルを精緻に構築する審美感は、人間が互いに暴力を振るい合おうと試みて生に身を投じようとする際には、忖度の応酬となる。因果への固執は偶然への嫌悪に基づいていて、能力は捕捉されるという確信に充溢している。ところが、能力がそもそも欠いてたら、という受け手にとって本当に切実な話題には応えられない。底流する審美感に成功者の罪悪感が透ける。
時代を構築するガジェットに不足しない都会からルイジアナに下り淀む時間。ミッキー・ロークの没価値的属性がエキゾチシズムの非時間に滞留し、目前の物体が思い込みで見えなくなる自閉症のような症状を追体験する。
浅野忠信の徳操が我修院との関係を通じて高く引き上げられる。ギークとヤクザのマッチングをめぐる作者の羞恥が均斉の妙に達すれば、緩い連帯が何かの予兆となる。文系の意欲に負けてさじ加減を誤ると、便利すぎる我修院が関係者の尽力を台無しにする。
妻の偽悪が恋愛至上への留保だと思い込みたい。これは欺かれたのではなく、逆に恋愛体質の過信が偽悪という好意の発露をもたらしていたのだった。作者の恋愛観の大仰な中身よりも、結末でその全貌が明らかになる仕組みの方に驚きがある。
名古屋での復帰でお徳が女難化している。お徳への未練が菊之助の復帰を拒むトレードオフになってしまう。名古屋が事実上の結末であって、以降は消化試合になりかねないところを、お徳が邪魔をせぬかどうか、その女難化がサスペンス感をかえって高揚させている。他方で、邦画黄金期の物量が貧困を抹消する上に、最後の菊五郎の理解も手伝って、お徳を不憫に見せない。その技術力と豊穣には呆れるばかりである。
『ジョーカー』という評なのだが、自己犠牲の詰将棋という意味で『グラン・トリノ』に近いと思う。自己犠牲を合理化するために滅びが既定路線となっているアレである。ただ、この話は煮え切れないというか、詰めが甘い。自己犠牲に失敗してもリカヴァーが入って、そもそも犠牲をやる必要がない展開になる。劇中の行為をただなぞるだけの井ノ原のナレーションも冗長極まりなく、受け手のリテラシーに信用がない。つまり、受け手の水準を甘く見積もるから構成が緩くなる。
ナルシシズムを異性との不自然な間合いの中で捕捉しようとする実証精神が、市井の人々との偶然の連帯の中に、観念的自由が具体化する瞬間を目撃する。自由をめぐる社会時評がナルシシズムに隷属することで無毒化されて抵抗なく受容できてしまうのである。露悪的なナルシシズムにドギマギするロザムンド・パイクの人の好さも徳高い。
成功したギークには撞着語法の罪悪感が常に付きまとう。作者のかかる邪念は海洋恐怖として報われるが、その解消に性急なあまり、フリークスの扱いが蔑視に接近する。ゆえに、ギークがフリークスに心を寄せる結末は安らぎに満ちる。
通例、カット割りで表現するしかない速度の体感をベールは凸凹の骨格で体現する。フェラーリとベールでは負け犬同士の潰し合いにしかならないところへ、スピードとは程遠いジミー大西の骨相がラテン人に軽侮を加えてくる残虐劇にあって、フォード2世、トレイシー・レッツの泣き躍る厚い顔が縁故主義のつらさを訴求してくる。かわゆすぎるカトリーナ・バルフがかわいいだけなのも割り切りすぎですごい。
男は性欲を美化したいのだがやはり拘泥はある。男の去勢されたマチスモに女が惹かれるのも無理がある。その曰く言い難さに苛立つ自警団の不条理な迫力が喜劇じみてくる一方、無茶な恋が無茶だからこそ到達できる感傷もある。失恋したという感じが本当のところ失恋ではなかったゆえに、かえって勃興するのである。
テクノクラシー賛歌と思わせながらソロバンが状況を動かすことはない。彼らはただ悲酸と無能を計数化することで、無能が無能ゆえに追い込まれる様を簡潔に表現するのみである。決算として出てくるのは性格が一貫しない堤真一のサイコ加減。逆に濱田岳が劇中でもっとも有能と思わせるあたりに、フィクションらしい文芸への信頼が窺える。
この手のジャンルは彼我ともに何でも出来るゆえにスリラーの均斉が保ち難い。作者にはサイタマノラッパー3で顕著なように人の挙措で遠近感を制御しようとする癖があって、本作では演技にムラのない大沢がスリラーの均斉を温蔵しようとする自らの硬直性に引きずられ超人化してしまう再帰が見られる。嶋政宏が全編おもしろすぎるのもこの再帰の誤爆だろう。
割れ顎、メタボ、男性型脱毛症。B級映画の吹き溜まりのような面々の叫喚が地球の危機を密室劇へと矮小化するセンス・オブ・ワンダー。しかし、この不条理による筋の視界不良によって、宿命という不条理の根源が導かれるのである。
色ボケの無能のせいで殺し合う事態にどう移入すればいいのか。オーランド・ブルームの尻を拭うエリック・バナには苦労人の徳があり、これがブラピと緩い連帯を結ぶ筋となれば、ブルームの無能が有能という現象の引き立て役になる。しかしこのブルームがブラピをダークサイドに落としてしまう有様で、かくして男どもは全滅。無能の糾弾という政治的不味さを女難化で誤魔化すオチであった。
同情を寄せざるを得ないベン・キングズレーの顛末が見え透いてしまうと、開き直って、オッサンの克己心を試すジェニファーらがどこまで狂えるか、そちらに慰めを見出したくなるのである。結末には不幸に不幸が勝ったという充溢がないわけでもないが、事件が奇禍すぎるというか、それこそアクシデントであってオッサンの人生の課題とはあまりリンクしないために、悲痛さには迫力があるばかりで感銘がない。
ここにある懐かしさは経時の産物というより、アングラ劇にどうしても伴ってしまうノスタルジーの効果だと思う。文法は新日本紀行とか、そちら系の方に近くなり懐古が怪奇を安らぎにしてしまう。作者の意図をもっとも前景化して不安にさせてくれるのは、むしろ佐野和宏の生え際だろう。
児戯のような爆弾処理に南米人の自嘲は含まれるのだろうが、最後はラテンのノリがこちらの思惑を凌駕して現実を散文化する。何よりも丸々とした時限爆弾の愛嬌ある居住まいに審美感を狂わされるのである。
作者が満島ひかりに凡人讃美をやらせる。作者も満島も凡人ではないから、これは厚顔であり話に取り付く島がない。偉いのは遠藤雅で、彼を通して厚顔が無感覚ゆえの哀れみに翻案されるのである。
おそらく映像の文法と脚本にズレがある。台詞と挙措の長さがリンクしない。会話が終わっても挙措が完了せず無意味な間が出来かねない。間を持たせるために、つまり台詞と身振りを逢着させるべく、役者はキートン的スタントに没入する。それがイヤらしくならないのは、今から見れば子役の酷使が児童相談所案件だからだ。演出家のエゴイズムの迫力に圧されたのである。
群衆統制としての戦争映画創作の営みが運動会に堕してこそ、意気地という男性性のセンチメンタルな発作が捕捉できてしまう。『狂い咲きサンダーロード』が筋を通して活写した男性性の悲酸な原情動が台詞に頼らず現れたわけで、一定の格調には至っているように見える。
ニコルソンに普通のオッサンをやらせるキャスティングに当惑するところは確実にあって、単なる変化球にしては、老人ホームを訪ねるとミッキー・ロークがいるというようなタイプキャストの明晰さがあるから混乱が増す。配役のかかる目くらましは、普通でなくなる具体的様態に鮮度を与える効果があったようだ。
事が進むという充足をもたらしつづけるガンホ一家の有能さが社会時評を無効にしている。あまりにも有能であるから、彼らの窮乏は一時的なミスマッチであって、遠からず旧態に復すると思わせる。事実、劇中ではそうなってしまう。そこに社会時評を持ち込むのは邪念であって、洪水や景石を使って無理やり筋をつなげるしかなくなる。チョ・ヨジョンのフワフワした徳操が傑出してしまうことに本当の時評があると思う。
美の自覚に没入してしまう感じが没意識に体ごと帰滅するオカルトに至るのは面白いが、理性の人である校長のオカルトの把捉は空転して貧困への憎しみへと誤配線してしまう。耽美が校長を乗っ取り苦界の成敗にかかるのである。
コスチューム劇はその粉飾ゆえに窮乏の精妙さと相性が悪い。二階堂は人が好いから序盤ではこれが問題とならない。人の好さと精妙は対立概念だからだ。しかし中尾彬と対峙した彼女がコスチュームによって奪われた感情の露見性を顔に頼って引き出そうとすると、その面相は硬直し空無となるほかない。
長門裕之の性欲にはコミカルなムラがある。病気にかこつけてセクハラをするあたりには、林光の劇伴と喜劇に対応する体の切れがないために分かりにくいのだけど、森繁喜劇とはまた趣の異なるファースが感ぜられる。話が進み、自分の頽廃がなぜか茉莉子を引き寄せてしまう不可解に自ら唖然とする長門からはほわほわした徳が分泌している。1.5倍速にするとウディ・アレンになりそうだ。
ニック・ノルティが流石弁護士というか、浮気がバレてもジェシカ・ラングを丸め込めてしまうし、ジュリエット・ルイスが一旦はデ・ニーロのマンガのような手管に籠絡されても、修羅場では知恵と根性を揮う。この家族の気位の好ましさが元凶のノルティへの嫌悪を克服するとともに、デ・ニーロの末路を獣の哀れにする。
同棲が終わっただけでは失恋にならない。裏切りから抽出された哀感が流用されて失恋の強烈な愁訴をもたらすのである。裏切りを自覚させるのはモグラたたきという意図せぬ糾弾である。女たちからすれば、性愛の営みに対応できなかった男のたちの未成熟をモグラたたきが糾弾してしまう。
タイトルから連想される、現代人が高度成長期に託しがちな夢ある緩さや明るいニヒリズムは微塵もない。内容はむしろジブリ映画に近く、植木等は化け物のような有能社員で猛烈に働き、重山規子との顛末からわかるように責任感の塊で、谷啓をはじめとする周りの皆を幸せにする。面白くないわけがないのだが、60年代の丸の内や銀座の景観がファンタジーなだけに、この話の業績主義はつらく否応なく現実に引き戻される。
この手の飛躍した一発芸の結末は作者の意図という必然に対する反感を産むわけで、不条理に屈したくないこちらとしては、サディズムに憩いを見出すべく、ヒロインが主人公をナニするのを究極の愛情表現と解するよう誘導される。理性の叛乱が恐怖と玩弄をでたらめに交換するのである。
面貌に釣り合わない麻生久美子のアニメ声が喉に違和感を覚えることで臨床的実体となり、つぐみによる具象できなものの探求譚が始まる。それは永瀬正敏の巨大で夢見るような頭部を経由して、最後に彼女を焼き場の骨と対面させる。物語は解剖学に到達することで意匠を充足させる。
顔に寄ることで割られるカットは、映画を感情によって地形が起伏する幻想文学にする。起伏の恣意性は究極のサバイバルアタック的な障害物レースに男を投げ込み、幻想と障害物のその組み合わせから供給されるのは、遊園地のようなノスタルジーのエートスだ。
南方の幻想視は魚類と鳥類の間抜け面を通じて自らを構成する。それは憩いではなく無能への憎悪である。終盤は情緒が両極化して忙しい。一方では取り返しのつかないことをやってしまった催吐的な後悔がある。対して犠牲者は諦念という倒錯したロマンに至る。南方憎悪の最たるサメは開腹され事件は趣味の悪い客体化を受ける。
邪念に満ちたアングラを耐えさせてくれるのは、性欲を隠さない正直さと技術力だと思う。サッカー部の昭和精吾の温情主義が、技術の裏付けのある性欲が徳に近いと教えてくれるのである。
人に対する解釈が好ましく変わるのは、ヒロインが状況を征服していないという無力の反映である。この気持ちの悪さは上司(仲田育史)の造形によく出ていて、渡辺大知と同様にこの人からも後半に好ましい一面が発見されるのだが、冒頭ではゲイ差別に近い揶揄を受けていて古風な感じがする。
薄弱者を憐れむ後ろめたさに苛まれる門脇には、それが知的優越感になっている自覚もある。この厭さを隠すためにムギムギが性欲の対象になって当事者性を獲得させる件は唐突で、結果としてラスボス浅野の価値観を超えるものを提示できず、リリシズムで胡麻化した形になっている。
役者に個性を展示させるという目を覆いたくなる演出の営みが語り手の度重なる転変を経て造形の放過に至れば、場が人格の隙間を埋めていく。
ある種の疾患を見世物にしてはまずい。負け犬の連帯へ至るのは回答として正しい。しかしそこからの展開が謎めている。あくまで政治的に正しい見世物に拘りたい助平根性が結末をハッピーなのかホラーなのか不明瞭することで、感情の定位から解放されるくすぐったさをもたらしている。政治的に正しい見世物という矛盾が成立したのである。
美術のラブホ的想像力にすべてが服属する趣味の悪さが醇化として把握されることで、トランクに生体のぬめりをもたらす。後部座席を蹴れば事が済む技術問題に過ぎない密室劇に人を繋曳するのである。
台詞を言えば喜劇になるハスキー・ヴォイスの調べに肉体が運ばれていく。当人はかかる離人を当然のように受容し自分の不条理な力に流されていく。持てる力があれば行使せずにはいられない。事件は起きずにはいられない。物語は野獣の交歓を超え、必然を徳とする力の働きに言及する。
病魔に侵される奇人というのは不思議な感じがする。病は人を奇人にするが、もともと奇人の彼は変わりようがない。ただ変わりようがないことに当惑があばかりである。この話の主題、奇人が奇人を識るふわふわとした論理エラーがクライマックスを迎えたのである。
第一の難関、アジの開きでゆるふわなゴアという芸術が達成されている以上、あとは行動を通じた事態の再演と点検に過ぎないから、そういう曖昧な時の経過に身をゆだねるフローレンス・ピューの幼児体型のフワフワには抗しがたい蠱惑と嗜虐を誘われるものの、行くところまで行くと壊れるタイミングを間違えたように見えてしまう。
マクロ的な挫折に自尊心を奪われた痛ましい自意識が従容として残骸を受け止めようとしていて、沃野への食傷がこの憂患と哀矜の感情を実効化している。
話を脱線させるモーガンのスリリングな酒癖が異性間の友情を叙述するスリルと困難のアレゴリーとなりつつ、アシュレイの人の良さを勇気として把握させる営みに帰結している。
知恵がない状態の叙述を表情がないまま肉体が動く自動性に託した結果、肉体から解放された無能が集合無意識として拡散する自棄が出てくる。ただ、これは社会時評には至らず簡単に収束してしまう。
先鋭化する状況依存が自分を語ってしまう逆説。状況が自分を語ってくれるから考える必要がなくなり、あまりにも物的になった筋の運びが省略された社会時評に否応なく回帰する。社会時評に人が乗っ取られることの、あの形容しがたい迫力をともないながら
ゴミ浚いにモリコーネのような大仰な劇伴をかけてしまうかけ違いには、愁訴が内省に対する反発として現れるような野蛮が感ぜられる。事件のわからなさが、予測しがたい人の行動と展開のスペクタクルに接続してしまうように。
散文的な現実と闘争しない嫋々しさが、やがて香り高い憩いと互換する。人を嫋々しさに駆り立てる諸事件のリアリズムが、妥協と創造の兼ね合いをあくまで好意的に吟誦するのである。
不可解なパーキンスの熟女趣味もバーグマンが地雷に引っ掛かったと解釈されれば彼女のナルシシズムが母性に変貌する。イヴ・モンタンにとってみればその母性は不倫の仮構となり、性欲を牽引されてしまう。
幸福に耐えられない貧乏性がある。跳躍への没入だけがスポ恨を模倣する意匠に邪念と貧乏性の苦しい兼ね合いが見えてくる。栄達という邪念。そこに過程がないという後ろめたさ。その極限としての肉体の対消滅。
神が完全ならなぜ悪魔が、という悪魔の曖昧な存在論に手加減や八百長の合理化が託される。その肝試しの運動感覚の懐古な感じが悪魔に人柄を与える。
いや、時折画面の端に見えるデイトレードのチャートの方が余程怖い。ヒロインの友人が可愛い方がよほど緊張する。そもそもケイティが老け顔で... そのものの叙述を避ける付帯的で高次な語りがホラーの様式を以て達成するのは、ナニ化したケイティをダンディズムで輝かす倒錯した成長譚である。
昼ドラの引力が怪奇の実体化の匙加減となっても、筋が滞留する外部効果は否めない。怪奇の全振りは恐れたとおりに喜劇じみたものになるが、昼ドラの滞留から解放されたうれしさもある。つまり悲劇と浄化を取り違えている可能性がある。
ヒロインの混迷を深堀するには明晰さに満ち過ぎる文体が素朴な田舎者の素性を戦闘民族と解するアクロバットに走る。屈折する男たちの北米観に翻弄されながらも戦闘民族の誉にのめり込む嬉恥ずかしさ。
犯罪者のパーソナリティにしては違和感のある男の軽さは文系の邪念に収斂し、全ては然るべくなったはずなのになぜ寂しいのか。改変された記憶は文系という負い目からの束の間の解放だったのだ。