映画感想 [1601-1700]
関係が終わったことについて責任の所在がない。憎悪は未練を断つための手段だが、彼我ともに関係の途絶に責任がないため、恨みの持って行き場がない。語り手がようやく発見するのは、その憎悪の生まれる場所である。自分が呪縛されていることに気づくことで、女を人生の破壊者に位置付けることができる。ようやく咆哮することができた彼は、失恋の回復プロセスの端緒に至ったように見える。あるいはここから遡及して、問題の場面が恐怖映画として再定義もされてくる。
人が沈着であり続けることと、事態の展開に関連がないのである。非日常に順応してしまった、幾分の諦念を含んだ静寂な空気感は暴動ですら粛々と進行させてしまう。事件のこうした把握の仕方は黒沢清を連想させるものであり、またこの呪術性からもたらされるのは、妻を寝取られたジミー大西の個人的怨念が人類を脅迫する感覚である。マリオン・コティヤールの思考の窺い知れないヌボーッとした理系女顔はかかる世界観に順応しつつ、大西の童貞性に対抗している。こんな修羅場になってもスーツは毎日とり替わってゆくローレンスの着せ替え観察大会もキャッチーだ。
越して来たら隣人がキャリー・マリガンでおまけに好意を醸成するイベントが満載とは、なんたる文系の邪念かと憤慨したのである。ところが話はもっと自虐的というか、よりアクティブで病的な童貞浪漫紀行であった。サイコパスという異邦種族に生まれたことの哀憐と誉れを表現するために、キャリーの愛くるしいタヌキ顔が利用されているのである。
階級間移動のための脱出速度を確保できるのか。その可否の焦点化で緊張を醸成する類の正統派な話である。前提としてあるのは、何をもってすれば特定の階層というものを表現できるかという問題意識であり、誇張や記号化のさじ加減が風刺や嫌味の寸前でとどまっている。あくまで人間に対する同情があるのだ。また話とは別に単独で美術を愛でられるような余裕もある。
世界観がインフレを起こすと、逆に話が矮小となってしまう。記号や形式の誇張を信じるのではなく、逆にそれらを全く信用しない話で、理屈をつけらずにはいられない。メタボがサモハンになって然るべき想定に応じて、エイリアンの強弱が決められてしまい、その強度から逆算して世界観が作られる繊細さである。しかし、サモハンになるのに理屈などあってはならないし、そもそも相手に強度がなければサモハンという現象が認知できない。かかる認知的気持ち悪さが、最後までこの話をどう受け取っていいのか、われわれを戸惑わせる。
オッサンを救う者はいない。オッサンは救う主体であって、救われる対象ではない。誰も彼を救えない。救えるとすればそれはあり得ないものだ。かくして救いは未来の娘という何処にもないものからやってくる。
現代パートの脈絡が弱いのではないか。ジェイソン・シュワルツマンの濃厚な眉目にエマが蕩かされるかのように、老女のツンデレがなし崩しに曖昧になってしまう。彼女はその形を喪失せねばならないのだろう。時空を超えるために。
どんな言動ならば嫌悪感を引き出せるのか。どんな振る舞いならば知性を表現できるか。人物造形の具体的な裏付けを執拗なほど気にしていて、しかもそれに成功している。『(500)日のサマー』の弱さが気になったのではないか。共感が人を魅せる手法にも傾注があって、ポルノ禁止をありえないと意気投合するのもよいが、最もよかったのは母のヒステリーで父と息子が謎の連帯で結ばれる所。父親への好感が出てくる。
自意識を失い動物然としたものを虐待するイーモウのフェチが、忠犬ハチ公に近似する形で露見している。政治的正しさからの解放が、事を異星人との疎通を試みるような技術論に還元するのだが、この面白さはコン・リーの症状に対する語り手の恣意性と紙一重でもある。
精肉屋で解体を待つばかりの老豚は、ミスユニバースの全裸体に怖気をふるう。裏ビデオを見た中学生のおののきのように。その美を感受する器官は失われていた。美を超えるものはおぞましさでしかなかったのだった。
職業人の映画になっていて、特に法医学人の冷然としたたたずまいに惹かれるのだが、彼らは狂気と笑いの源泉たる死体のオカルト性を俗化してしまうため、終わってみると、俺たちの桂樹のオーバーアクトは何だったのか、腑に落ちなくなってしまった。
ボンドとボンドガールへの共感がなければアクションが緊張を醸しえない。ではかかる共感はいかにして獲得されるか。課題を抱えたボンドガールに対する人生相談という奉仕がそれにほかならない。ところが、この話のボンドガールはボンドの人生相談の踏み台にしかなっておらず、さらにボンドですらクリストフ・ヴァルツの人生相談の踏み台なのである。あろうことか、この話はクリストフの視点で話が終わってしまう。ボンドとボンドガールを見送る無念の顔容が彼の童貞性を暴露するのだ。
事をある種の治安戦として解釈していて、その一方的な虐殺を好ましく見せるべく、天津敏の忍者軍団へわれわれの憎悪を仕向ける工夫に実効性がある。やたらと偉そうなのに、近衛十四郎軍団にどんどん退治される天津一派。態度と実力の非相関が受け手に憎悪をもたらすのである。
英語コンプレックスが、無能や醜形といった軽蔑の具体的要因を集約していてわかりやすく、また劣等感に対する語り手の自覚も看取できて、そこに好感を覚える。どんなに格好をつけてもキモさが増幅されるばかりだから苛立ちが少ないのである。おかげで空間的表象に没入することができて目の保養となった。ジョルジュ・ドルリューの劇伴も深刻だからこそ笑いになっている。
風俗に対する博物や図解の精神や音響だけで初空襲を描画するようなリアリズムの対象が静物にとどまらず人間についても発揮され、水谷豊の気味の悪いほど出来過ぎた造形として帰結すると、Eテレの小学生社会科番組の再現ドラマのようなテイストにどうしても近くなってしまう。
技術によって表現の制約からの解放されたのならば、静物であれ動物であれ、ほんらい省略すべき運動の過程を押さえたいとする貪欲さが、作品の生真面目な調子から浮いているように見える。抜け忍という造形的受動性から話の運動の担体とは成り難く、背景に沈みがちな松山ケンイチの不幸を彫琢するために、佐藤浩市と伊藤英明が血管を浮かせる。そうなるとこの二人を観察している方が楽しくなり、どうしてここまで抜け忍ひとりに熱量が投入されるのかという作品本来の不可解が隠せなくなる。不幸を利用した自己顕示に話が見えてくるのだ。
男の人生において病歴をどう位置づけるか、確定できないのは現実的だとしても、実際の話として提示されるのは、いかに症状が進んでも仕事には支障がないという不条理である。個性が強烈になればなるほど、組織は非属人的となり物事がまともになり、伝記性は失われる。美術だけで満足できる博物館的映画なのだが、この博覧精神が人にまで及ぶと見世物小屋になってしまう。
画面が暗闇に溶け始めると「今回の清はノリノリだあ」と微笑が浮かぶ。不穏と緊張を煽る幽霊譚により恐怖映画の画面構成が躍動し、場面はさながら技のデパートと化す。癒し系にしては浅野忠信がサイコパスの顔をしていて不穏極まりないのだが、情緒的な劇伴で粉飾されているだけで、実際、死神浅野と使い魔の深津絵里が人のトラウマをほじくり返して回る不穏な話であった。最後に疲弊した浅野がセックスに力を得て回復するも、翌日には更に弊を来す投げやりな構成もまた90年代のビデオ作品を偲ばせて、清の健在ぶりがうれしくなる。
才能も金も女もある門閥貴族の二代目襲名披露そのものを、興行に耐えうる物語に仕立てるのはむつかしいだろう。その才能も金もアドニスの責任の範疇にはないからだ。責任がなければ共感を誘うような課題が生じがたい。アドニスのかかる真空を埋めるように周辺の人々に課題を迫るような不幸が次々と発現してしまう。そもそも責任があるのはアドニスを世に残そうと決断したアポロにあるのだ。だから、この話に最も感動を覚える点は、アドニスがアポロの人生を逆照射するところである。アポロとバルボアの人生には意味があったのだと。
距離を置くと、絶妙な髭面があの顔をまるで陥没しているかのように見せてしまう。顔と肉体のアンバランスは目前で展開される仕事の実践を信じられなくする。画面はヤケクソとしか思えない気合で顔に近接して髭を解像する。然るべきものが然るべく見えると今度は美が欠如する。それは、オッサンのアイドル映画という矛盾を克服すべく、最適な距離感を模索する旅のようなものだ。このマンガが現実として受け入れられる場所がどこかにあるはずなのだ。やがて髭顔の向こうに髭顔が据えられる。それらの髭顔は涙を湛え魂の交歓が始まる。誰がこんなものを喜ぶのだ。
エミリーの少し淫乱な造形が禍根を残したのではないか。それが容易に手に入ってしまうものだから、本作のエンタメの肝のひとつたる、せっかく手に入れたものが失われる悲壮が薄められ、奇人たちが離散してただ騒いでいるような統合を欠いた印象を受ける。
エミリーは淫乱化し、いつものようにハンニバルがムッツリ助平となり、レイフ・ファインズが童貞キャラへ。怪人たちが世俗化する一方で、常識人と思われたノートンがゾンビ化して逆に怪人性を露わにする。おまけにハンニバルのムッツリ助平性を暴露するのが本作ではもっとも凡人とされるアンソニー・ヒールド。これは庶民賛歌なのだ。
この奇妙な物語の全編に陰影を与えているのは状況の私小説らしさではあるが、キャラ設定自体は私小説の根源的な不幸さから乖離していて、そこに不自然な接ぎ木を眺めるような眩惑を覚える。話はこの夫婦の幸福の絶頂を以て終わり、過剰な至福が回顧性をともなってしまう哀しさ(あんなに幸福だった!)に至ってしまう。そこでようやく、これがイーサンの私小説であることが腑に落ちてしまうのである。
この話が志向する人間一般に対する愛情は、ある種の人格障害へ好意的に接近せずにはいられず、それがゆえにテレンス・ヒルの人格障害性をかえって際立たせてしまう。このことは彼に対するわれわれの憎悪を煽る一方で、フォンダの足抜を切実なものにしている。
アダム・ドライバーのキモさが、人間の重厚さや状況の切迫感を犠牲にして、童貞二人が鞘当をやる少女マンガ的女権ハーレムの構造と中学生日記的青春群像性というシリーズの本質を存分に露曝させている。演出家の資質が活かされたのではないか。
危急に見舞われた現場で人間がいかに挙動するか。それがいかに美しいか。最後の場面でリングの上から煽られる市井の人々のよろこびと絶望の描画に至ると、嘲笑と共感が分別を失う。インテリが庶民の偏見を揶揄して楽しむような内輪性は克服されたと思う。
この堂々とした航空パニック物は堂々とそれをやるほど海保と関係のない話になってしまう。また、奉職概念に対する感傷的なアプローチは本作をきわめてドメスティックなものにしている。ただ、公務員の集団に対して呈された感傷のほかに、内輪向けの話に収束せざるを得ない海保の話と前半のパニック物をつなぐものはないだろう。
莫迦殿の人生の物語に帰着した三池版に比して、こちらは西村晃の人生の物語になってしまう。基本的に誰も変わらない話で、変わらないことの美徳の最たるものを体現するのが尾張藩の陣屋詰の月形龍之介だ。そんな中、ただひとり変わってしまうのが西村晃である。西村晃がかっこいいというのがとにかく衝撃で、この時代の晃はかような扱いだったか?...と認知の混乱を覚えながら話を追っているとあの顛末が来て、笑いながら安心してしまった。菅貫太郎にまるで格調がなく徒労しか残らないのも素晴らしい。
無能なブラッドリー・クーパーという悪の極限に話が依存しがちで、作中であれ語り手のレベルであれ、人間の機転が意味をなさない点で、災害を観察する気象学のような冷酷さが感ぜられる。クーパーの文化的背景の貧困さを考えれば、彼こそ文芸的救済の対象であろうが、他方で、ジェニファーに花を持たせる懐の深さもある。救済ではなく悪や無能を多様に分割する営為によって、それらの意味づけを行っているように見える。
シナリオが要求しているジャンル物としての世界解釈に役者の文芸的感性が対応できず、宴会芸のような気まずさが話の莫迦莫迦しさを強調する。演者が血管を浮かせるべき映画だが、尽力ではなく相手の手加減によって展開する類の話なために、浮かせようがないのだ。逆に、手を抜くべきところで血管を浮かせるのが例によって長谷川博己で、その怪演がシナリオの世界観とようやく一致を見ることで、話が地上に定着する。ハセヒロのアイドル映画という地平へと。これはむろん何かの間違いである。
オッサン向けハーレクインである。展開される現象に意味がないのだ。趣味の合う異性が都合よく降ってきて、酒臭いメタボのオッサンに口説かれると紅潮する。断酒は一瞬で成功し、曲は作った傍から大ヒット。これを物語として編成する意味はあるのか。しかしながら、意味がないゆえに、マギーのオッサン殺油地獄なシナの作り様は尋常でない迫力でわれわれを圧倒する。意外とハスキーな吐瀉音をとどろかせるジェフもかわいいでないか。
成長と事件の進展がループによって可視化されることのよろこびがよく出ている。しかし後半でループしなくなると、この楽しさの反動が来て停滞の感を免れない。事件に対する緊張の表現にも問題があって、何度も繰り返せるトムよりも、人生が一回しかないエミリーの方に緊張が生じて然るべきなのだが、彼女はトムのループに引きずられるように、あたかも自分のループできるように振る舞ってしまう。つまり勇気があり過ぎるのだが、この勇気をわれわれに認知させる気がない。このループに平然とする態度は、前半と後半の亀裂も相まって、ループの設定的必然性に対する疑問を生じさせる。
爆心下の有様を定常的に観測することで無批評性という洗練の極限に達した精神が、最後には正視に耐えられない悪趣味なまでに絢爛とした画面を構成してしまう。さまざまな文法がただ混濁するだけではなく性質の振れ幅も巨大で戸惑うのである。吉永小百合の聖化が彼女の尽力を実感させないため、キャラクターの能天気な感情と最後の悪趣味としか言いようがない凄まじい情緒がかみ合わず、何が発起したのか理解できなかった。『男はつらいよ』の冒頭夢が全編に侵食したかのような気味の悪さがただ残った。
造形聖化の見地からゲオルク・エルザーの来歴を洗おうにも手掛かりが見当たらず、語られるのは瑣末な生活史になってしまう。更に悪いのは、かかる瑣末さがナルシシズムに見えてしまうことだろう。これでは事件に対する責任能力が問い難くなってしまう。
エマ・ストーンのオッサン殺しが板についている。恋愛一般がそうであるように本音が見えない点が狂おしくさせる反面、あまりにもそれが見えないために、最後に本音が出てもそれを本音だとは信用できない。本音が解りにくいのはコリン・ファースも同様で、対話に乗じて唐突に本音が引き出されることでその真実味の担保が図られるが、このときの対話の相手であるアイリーン・アトキンスの意図もこれまたわからない。告白を促す対話の流れは、彼女が事態を把握した上での謀略なのか。単に生起する現象に彼女は反応しているだけなのか。その区別を曖昧にするようにカットが割られている。老化した語り手の集中力や粘りのなさを逆用した何かである。
陰性な解釈を受けがちなジミー大西の造形的宿命というべき来歴性のなさが、ここでは欲望の豪気な無定形さとして評価されることで、存在の本質的な明るさをもたらしている。明るさという徳が求心力となり、大西という輪郭がカオスからサルベージされる。
ボールドウィンがアンソニーの人間性を殊更に批判する。成長の端緒となるようなキャラクターの瑕疵を見つけることで、作劇の標準的な手順を彼は律儀に踏もうとする。ところが、われわれはハンニバル・レクターのMAN vs. WILDしか期待していない。当人もそのつもりでノリノリである。ハンニバルの人間性を批判してもらちが明かないのは当然で、アレックの説教とハンニバルの超人性は交わることなく並走して、物語は自らがはまるべきジャンルを見失っている。アレックに対する猜疑心がハンニバルに起こるにしても、そもそもがかかる感情を知覚する器官の発達がないから、猜疑が起こったところで挙動に変貌がない。動揺があるとすれば、この新たな感情についての戸惑いが見られないこともないが、仕事にはまるで影響がない。アレックに対する一貫性のない対応によく現れているように、フッ素加工とも言うべき人間の質感が正気を保ったまま分裂する精神を描写している。
喜劇と悲劇の物理法則は互いに相容れないものだが、このジャンルの宿命というべき立体機動への執着が法則の整理を曖昧にしてしまい、受け手の感情に混乱をもたらしかねない。被写体とカメラの距離感がぎこちなく見えるのもその余波かと思われる。主人公の課題を台詞で説明しすぎなのも、ジャンル的な妥協ではないか。
マンフレディに対するご婦人のシナの作り様からマリーナの顛末に至るまで攻撃的な母性が充溢するのだが、攻撃性と母性がかみ合わないように、その充溢には不斉がある。物語を動かすのはゲシュタポであり、イタリア側の話は神父のお使いでピークアウトしている。しかし観察の対象はあくまでレジスタンス側である。ロケとセットの質感と文法の亀裂もいうまでもない。ただ、パッチワークが継ぎ接ぎのまま昂揚する異様さもあって、たとえば結末の峻烈さにはまるで野掛けをやるような閑雅さがある。
終盤で文太のキャラクター造形が一貫性を失っている。受け手を惹きつける彼の独立自営業者としての才智と気概を以てすれば、あの結末は回避できるように見える。田中邦衛がブレそうでいて決してブレないだけに、文太が手を抜いたという印象が残る。
個々のキャラクターの役割には必然性があり、彼らが物語の構成を担おうとするとき、好意ある特性がそこに見出される。主役2人の邂逅においても、共通項となるガジェットの数々が念入りに設定されている。ウォルデンバーグ兄妹すらジョン・ヘダーとケイティの邂逅に意図せず貢献してしまう。喜劇であることに甘えていないのだ。
この物語のやさしさは性愛の試練に重きを置かず、そこに切実さを求めない。問題は先送りにされ続け最初は苛立ちが募るのだが、大人になることを一種の喪失と解釈する語り手の意図が判明すると、先の見えない酒乱ロードムービーが、『冬の猿』を連想させるような、何かが束の間であることへの哀切を醸成する。
事態の進行も物語の教条性もキツネにより多くのものが付託されていて、ウサギが当事者だとは言い難い。にもかかわらずウサギの視点で語られるから、キツネの段取りが万能すぎて物事が円滑に進み過ぎるように見えてしまう。警官と反社会的勢力との結託を是とする価値観が物語の教条性と両立するのもわからない。
架空の舞台の構築に社会科学的なこだわりがない上で風刺を行おうとすると文体がマンガになりかねない。マンガであることは老人のサヴァイヴ能力を魅惑的に見せてくれるが、この老人が魅力的になるほど、苛政を行う人物像と矛盾を来してしまう。しかしこの矛盾を文芸的な課題として活かそうとする話でもない。
オカルト体質でありながらそれを全く認知しない体質は、認知できないものを説明する営為を目指しながらも啓蒙主義的となり、表層にとどまろうとする世俗化のいじらしさを訴え始める。ただ、不穏の説明を拒絶するこの精神は、一連の事件をサザーランドの自家中毒にしてしまう。
被写体となったオッサンらが心なしかノリノリになってしまう。あれがいい。静物画の遠近法で生活感のない点景となった人物がかえって徳を構成していて、点景であるがゆえに葛藤が形成されないことが語り手の好意に見える。静物画の文体がヒューモアや牧歌性との並立を以てしか語られないのである。
自分が希少であることに由来する矜持が社会環境とリンクするために、社会や政治の表層をただ撫でるようなカジュアルさが個人的な倫理観の追求に遠心性をもたらしている。何が問題となっているのかよくわからないのである。戦力組成の違いからブルースとクラークの併存も筋が悪く、特に後半はバットマンがいなくとも成立するように思うが、彼が役に立たなくなるほど、ヘンリー・フォンダのような汚らしい青髭から目が離せなくなる。ベン・アフレックの人徳であろう。
ミュージカルの厚顔さというべき当事者感覚の欠落で掻き立てられる冒頭のパメラ・フローレスに対する苛立ちが、課題を設定し解決するサイクルに彼女が放り込まれると解消してしまう。人間に好意を獲得させる技法が随所で奏効しているのだ。被写体をフォローするドキュメンタリズムの文体も、美術の色彩感覚と寓話性とは相いれないように冒頭では見えた。しかし、オッサンのロードムービーが始まるとその文体の意味が解ってくる。寓話性のイヤらしさがオッサンの彷徨の必然性のなさに救われるのである。ただそうなると、冒頭の寓話性の必要性がわからなくなる。
災厄の起原がレオの技量不足にあると見なしてしまえば、恨みの持って行きどころがなくなる。技術的な関心に終始するとなると、一定しないレオの造形がノイズとなってしまう。冒頭のガイドとしての彼と、中盤の逃走者としての彼と、終盤のハンターとしての彼が別人に見える。トム・ハーディの確固たる造形に比して、レオの技術力が安定しないのである。彼の役者として素質は、毛皮でミノムシのようにモコモコしたり馬の腹を寝袋にしたりと、かぶりものが似合ってしまうあたりに発揮されている。
風刺に終始しては庶民の無学をあげつらうことになりかねない。妻リンダの造形には女性嫌悪の含みすらある。しかしオスカー・ウェルナーの船越英二然とした天然が無神経の迫力で事態を推し進めるとリンダに対する同情が生じる。他者の排撃を止めた物語が至るのは、他人の言葉というテンプレートに身を委ねることで自分を表現することの尊さとよろこびである。
破壊の予感で脅え楽しませるような依存症映画の王道をゆく構成しても、劇中人物の人種構成のイヤらしさにしても、事物を作り事に見せてしまうような客観性や冷静さがアン・ハサウェイを突き放すように作用している。最後のレイチェル視点への転換が訴える感動は、アンに対する同情のなさの裏返しのように見える。
非当事者という職業の特性がキャラクターを没我の危機に曝している。造形が空間の構成に沿って彫琢される一方で、その流動性に抗すべく造形の記号化は進み、物語はオッサンらの魅惑的な着せ替えショーと化す。話は棚ボタである。
アイドルを無能と解釈する作品観が、鼻の下の伸長を禁じえないケイト・ツイのアイドル映画をレオン・カーフェイの生き様の物語にする。職人の技の競い合いにおいてサイモン・ヤム一派の無能力は明らかで、事件の解決のきっかけは偶然に依存するほかはない。これではケイトやサイモンよりも偶然と戦うレオンに情が傾いてしまう。
松田龍平がサイコパスか否か。これが争点となることにより、何かが恣意的であることの恐怖が地味な政策過程の叙述を政治スリラーと文明批評に変える。外貌がどこから見ても記号的サイコパス龍平は、時に代官堀部圭亮の強引な陳情に辟易して人間性の萌芽を展示し、われわれの油断を誘いつつ鬼畜をやり、サイコパスと人間性の配分のさじ加減で物語の緊張を持続させる。というより、これがうまく行き過ぎて、莫迦殿がおいしいところを頂くオチに徒労と後味の悪さが残る。全部手前の官位狂いが悪いんじゃないか的な。
最初からアレができないのかという慨嘆が、それを合理化しようとするあのオチを以てしても拭えないと思う。たとえばスティングとは違って仕掛けたオチが爆発するまでの潜伏期間が短すぎる。国友やすゆきのマンガのような、なんでも出来てしまう舞台設定をあたかも制約があるがごとく叙述する類の話であり、かかる潜在的な制約のなさによって回りくどい仕掛けの意味が解らなくなるのである。
学力の遺伝的条件が悲劇として扱われるのではなく、むしろ天与のもたらす幸福への戸惑いの方に言及がある。このフワフワしたつかみにくい感じは、ハウスマンとの距離感を自在に伸縮させ緊張の源泉となっている。
前半と後半でタイムスケールが異なっている。前半で立身出世を叙述しえた時間がやがて滞留して雷蔵の凡庸な外貌が凡庸のまま殺戮を開始すると、雷蔵の操行で物語を構成することが不可能となり、操縦者である佐藤慶の教化力に主導権が移る。
高橋英樹は緒方拳の生き様の観察者でしかない。高橋が観察対象になったとしても内実は藤岡重慶ショーであったりする。殺戮マラソンなどその最たるもので、それをやっておきながら博愛を訴えるのは三隈らしいヒューモアである。
追われて山を下る人の表情を捉えるべくショットは煽られ、マーク・ウォルバーグの、高橋悦史を彷彿とさせる鼻の穴が謎の迫力で画面を圧倒する。人体破壊に耐える人間の生命力の超現実的な執拗さが、あの鼻の穴の劇化力によってたちまち現実性を帯びるのである。
人間の高潔さが他人との関係によって定義されない。その孤立が契機となって、あらゆる人間が場違いに見える。もっとも立派なのは岩下志麻と夏木マリであるが、喜劇の挙動で話を沸かし続ける仲代達矢と志麻の高潔さが釣り合わない。彼女は鬼政のどこに傾倒したのか。山本圭と夏目雅子の結合もよくわからない。圭は例によってマンガだから、その感化力で雅子をどこまでも軽くしてしまう。雅子があくまで鬼政の生き様を観察するキャラにとどまるのならそれでもかまわないのだが、「なめたらいかんぜよ」とやってしまうと性格の一貫性が破たんしてしまう。それが変化や成長や顕在ではなく違和感となってしまう。
戦後の終焉した日本という舞台設定が語り手の思想を反映しているのではない。単なる劇化の効果のために舞台は用意されている。物語で扱われる政治らしきものはガジェットであり、劇を構成する遠近法に成りえず、したがって制約の振幅が恣意的に可変せざるを得なくなる。どうにでもなるから、展開される状況に深刻さがともなわないのである。
竜巻を周回する巨大物の滞空感に愛嬌がある。莫迦という概念が目に見えるものとして表象されているのである。物体の運動によって担われた“莫迦”は、タイタス号が竜巻の中心に到達するや、今度は光彩によって表象され詩的な催涙喜劇となる。プワホワイトへの語り手の擁護から窺えるように、莫迦を蔑にしないのは人類愛の賜物なのだ。誰一人としてモブはおらず、モブをモブで無くして行く手際の良さが鼻についたとしても、語り手への好意を損なうものではない。
キャラクターがガジェットと絡み合うことを博物学的嗜好が拒絶している。『風立ちぬ』でいえば、人の体重が車体の懸架を沈み込ませるような無機物の可変性を博物学が許容できず、美術をあたかも昭和館の陳列物のようにしている。この冷淡さは、ガジェットと人間が熾烈に絡み合うはずのメカアクションですらどこか他人事で浮世離れさせていて、そのことは劇中の人々を明らかに救済している。同時にかかる精神は、差し迫る原爆投下をスリラーの出汁にする犯罪的構成をも可能にしている。
身のこなしがマンガベースであり、人の動作に時間がかかってしまう。演出家の制御が効く単体ならばまだしも、人と人が絡むとなると演技の文法が不明になる。後背のモブが所在なさげで、いかなる挙動をすればいいのか困惑しているように見える。様式的な動作がいちいち時間を費やすこととトリロジー劈頭の顔見世興行が進行を停滞させて、作品単独で見ると中盤を待たねば先が見えてこない。
薫殿(武井咲)の野太い顔にアニメ声がシリーズを通じて不穏をもたらしている。吉川晃司の死に場所探しが主題なのだが、ラストで薫殿のかかる不穏さに彼が近接すると、不殺生戒の割には性欲は枯れない剣心の闇が露わとなり映画らしい重さが出てくる。
薫殿が剣心へ殺生の禁止を命じるとき、彼女は自分がメスであることを利用している。それに応じる剣心のオス性の強度如何こそ物語の最大の主題であり難所でもある。だからこそ、剣心も薫殿も性欲に気がつかないふりをする。それを卑怯だと糾弾する志々雄は正しい。薫殿が海没して恐慌を来す剣心に「しょせん女か」と的確なコメント。「何がござるだ」の突込みもすばらしい。
そもそも小人数で事件に対処する必要がない。鎮台兵を動員すればそれで終わってしまう。それを合理化するために小細工を重ねるから、たとえば畿内と志々雄甲鉄船と福山雅治隠居所のトポロジーが破綻してしまう。反面、剣心の性欲を焦点化する働きは本作でも実に有効で、剣心の求婚にすっとぼける薫殿は殺してやりたいと思ったが、同時に恥じ入る乙女のようにわたしの顔面は紅潮したのである。
当時流行だったグリーングラス節といえばそれまでではあるものの、志は高いと思うのである。どん底に落ちるステイサムという不可解をやる気の発現の問題と処理していて、覚醒をもたらす善性と遭遇する場面の抑制的な態度がやる気の励起を自然に見せている。しかしステイサム化とともに例によって環境の制約がなくなり、策をめぐらす意味がなくなる。汚職刑事軍団が悉く武闘派なのも「妙に腕の立つ連中」というメタ台詞とともに笑いを誘われる。ステイサム化が当人だけではなく環境自体にも及び、超人が遍在してしまうことで、話に社会性が芽生えるのである。
オッサンがMacBookで毎晩ブログの更新に勤しんでいる。この戦慄すべき俗物根性の発露に語り手の自覚はあるのか。彼が姉に糾弾されるように、確かに語り手の自意識はあって、主人公と語り手を同じ倫理水準に置けない類の話になっている。信頼できない語り手に対するかのようなつかみどころのなさはカット割りに如実に表れていて、ダイアローグを対話者の心理の焦点に合わせて割ろうにも焦点化ができないから、間を保てるかどうかといった即物的な基準で編集点が次々と去来する。口喧嘩の停戦を呼びかけた端から更に火に油を注ぎ、内省の直後に悔悟の対象となった鬼畜をやらずにはいられないエスカレーションの調べ。俗物根性に自覚しながら、あるいは自覚するからこそ、俗性と横溢を互換させるのである。
被った屈辱がセクシャリティの一環として解釈し直されると屈辱が消えてしまう。相手の昂奮を誘引した自分に優位性が出てくる。嫌悪感を中性化しようとするこのような作用は全編に渡って見受けられる。母親がより高い狂気を発動させることで兄貴の狂気が相対化される。こうなっては以降の場面で彼の凶状が発動しても恐怖の効果がない。かかる中立化が事態に順応するトムの主観の反映と思わせておきながら、後半ではトムの心理に視点は回帰して順応という解釈を拒絶する。事を社会心理に還元したくない興行精神の振る舞いがあるように見える。
ブルジョワのイケメン詩人と金のない汚らしいオッサンを対比させておいて後者をヒール扱いするのでは共感の行き場がない。現代編ではこの立場が逆転してるから共感の誘導が余計に錯綜してくる。妻の追跡と追慕という課題が早々に放棄され、オッサンの内宇宙に停留する展開が戸惑わせる。本当の課題は別のところにあって、穴兄弟に似た友誼に類するものがオッサンらを結びつけることで過去と現在のオッサンらの立場の捻じれが整理されるのである。これを女性憎悪と解せば、女の魔性に取り込まれたオッサンらの惨劇となる。女の心理に接近すれば、勝手に盛り上がるオッサン連から取り残された女の孤立が見えてくる。
民子物が倍賞千恵子のアイドル映画ゆえに、男はつらいよが潜在的に持っている近親相姦的な不穏さが、渥美清の間男的な配役によって本作では美事に露見していて、その緊張が全編を引き締めている。砂利運搬船のメカニックへの興味が煽り立てる危険もかかる緊張感に協賛し、松竹島ともいうべき倉橋島のキャスティング的閉塞感も格別である。
前編の定型詩のような構造がおよそ5分に一度、同じ状況を繰り返し、レオノール・シルヴェイラの衣装だけがその中で変化を引き受ける。状況が変わらないからこそ、この人妻のお着替えショーが屹立して扇情的となり、眠気がなかなか訪れない。後半になるとジョン・マルコヴィッチが間男の柔和さを喜劇寸前の誇張で演じ、本田博太郎に近似する気味悪さで意味のない会話を不穏極まりないものにする。物語は、このタングステン合金のような揺るぎない柔和さを試そうと画策するのである。
状況の切り取り方に恣意性があるのは当然だとしても、家族構成の不審に受け手の関心を誘導する手管が語り手の恣意を隠しきれない。後背のロケーションが広漠であるから、状況が切り取られていることが余計意識される。社会小説への志向に拙速のきらいがあって、見た目ほどに内省があるわけではない被写体にそれを付与しようとする。自覚のない孤独だからこそ観察者には応えるはずなのに。子どもの本質的な不憫さと近代化論のごった煮は、本音を隠すような卑劣な印象すら与えかねない。
その属性は生理的なものであって不可逆なのか。あるは後天的で機械力によるものか。この特性の分離が明確ではない、あるいはあえて混交しようとする。力に属人性がないと明瞭になれば社会派志向が装飾にすぎないことがわかってしまうからである。この綱渡りのしわ寄せはダウニー・Jrの苦悶顔によく現れていると思う。
カウリスマキの踏襲の割には劇伴が感情にリンクする高揚がない。リザの視点から話を構成するとモテすぎて困ったとしかならず、物語が解決すべき課題は寄ってくる男の方にそれぞれ設定されている。リザの肢体を舐め回すカットが頻繁に入ってくるように、話の視点もリザから男たちの方へ流れがちとなり、最終的には刑事への同情へ誘導される。客観視されたリザは彼の好意に気づかないから、その冷たさが当人の造形を毀損してしまう。刑事にせよトニーにせよこの女のどこがいいのか、という根源的な問題に突き当たってしまう。
アナイス・ドゥムースティエには自意識に汚染されていない少年のような屈託のなさがある。屈託のなさゆえに初見では平然とダヴィッドを変態扱いするのだが、すぐに全性愛の本能が発揮されてクローゼットの前でキラキラする。性欲の赴くままにダヴィッドを唆すので、何かが進捗するよろこびが前半では溢れている。逆に悩まないから、何か深刻なものが行き当たりばったりに短絡的に追及されるばかりで、しかも互いの両性愛が主題を輻輳させて問題の在り処を曖昧にする。他方で、この混雑具合はアナイスの人格に資している面もある。彼女のヴィルジニアに対するキラキラにはセクシャリティとともに弟子を育てる教官のまなざしがありまた母性もある。MacBook、ロードスター、女の小走りジョギングフォーム等々、凡庸そのものなガジェットも彼女の屈託のない造形を好ましく表現している。
古戦場で右往左往しつつ草むらで昼寝して水辺で戯れる薄毛オッサン三人組の姿態を観察するアイドル映画である。遊戯具のように愛らしい軌道車から教授の爆弾、そして遠足で疲弊しただけなのに帰りの酒場で発散されてしまう貫録のダンディズムに至るまで、形象豊かな中学生の感情に満ちあふれている。トンネルの照明で明滅する作家の頭部もよいが、教授のポンポン付きニット帽は『悪魔の追跡』のウォーレン・オーツのそれに匹敵する。
銃の摘発がそこまで特権化してしまう理路がわかりづらい。摘発して得られる利得と銃調達のコストが見合っていない。語り手にも自覚があり、だからこそ摘発が強いられる背景は執拗に説明される。しかしシャブを売ってまで八百長をやってしまう経済学に至ると事件を個人の精神病理に還元するしかなくなり、その時点で共感不能な異次元になる。綾野剛の体型が崩れずいつまでも貫禄がつかないのも見当識障害の表象に見える。
オッサン向け昼メロというべきハーレム状態を二階堂ふみが観測することで中庸を得ているように見えるのだが、それはタカシくんのアレもアレだらうと思わせる罪深い誤誘導であった。やがてわれわれはタカシくんとともにオスの根源的な哀しみに至るのである。とはいうものの、二階堂がリザーヴされているのだからやはり中庸体に収束する。集会がショッキングであり過ぎたために中庸な結末はそれはそれで救いであるのだが。
性犯罪者や工員に身をやつすとあまりの似合いようにステイサムの脱毛症と髭が正当化される偉さがある。アクションは一連の動作が終わるまで相手が待ってくるような時代劇調であり、八百長の印象は否めない。中盤の殴り込みの顛末もクレインが甘すぎるように見える。ただその一方で、このひとはそもそもが寛大な属性の人じゃないかと、そんな風格と奥行きが出てきてしまって嫌いになれないのである。今回もオッサンのお着替えが盛りだくさんで、特にサメよけクリームを塗布する挙動が人間離れしていてよかった。
軽薄極まりない佐津川愛美が死に際してジュリエッタ・マシーナのような顔貌になったり、甲本雅裕の技術至上主義が勇敢さと互換したりと、状況に応じて造形が彫琢される。基本的に自助努力の話ではないのだが、悪化する事態に対応して霊能者のヒエラルキーが見えてくるのもおもしろい。しかし虐待された異形者が偶然の趣ながら解り合い結託する結末であって、人間ではなく異形者への同情で終わっている。そうなると前半で構築された人間たちの造形が使い捨てになってしまい、感情の持って行き場がなくなってしまう。
前作のベトナム帰りのランディ・クエイドのパートが拡張されていて戦災の記憶が親子や友情の物語を暗く規定している。全くのコメディリリーフに堕ちてしまったデイヴ親子が本筋から遊離するからこそ老人劇としての本作の魅惑を担っていて、あのスクールバスだけで一本の話が出来上がりそうな豊饒がある。ギークとその後背に浮かぶ巨大な球体の図には詩性すらある。
天然夫婦であり、お目出度夫婦である。アレでニーナに気づかないのは鈍感にもほどがある。気づきたくない機制が男にあるのであれば、愛の終わりを察しないニーナがわからなくなる。酒場の発見のされ方がそうであるように、ジャンル物のように偶然へ依存してしまう。互いに天然で疎通不能なわけだから、交渉は偶然に依拠するしかないのである。こういう通俗さは、への字でいじけたり少年のようにキラキラしたりするニーナの朴訥な造作によい現れ方をしている。
事を社会小説化するとメディアの影響力に自惚れるような業界人の自慰に見えてしまう。劇中で受容されたところで八百長にすぎないから、男が受容されることの危機が醸し難い。ドキュメンタリーパートを挿入して自家中毒を薄めようにも、基本的に右派の人々と絡ませるだけなので、かえって八百長が増感してしてしまっている。語り手や受け手の自慰にしても、インターネットに感激する男を通じて行われる近代の肯定は好感が持てた。あれは文明を受容できたという男の造形も高らしめるからである。
職業病というべきトラウマと失業の恐怖をブースターにした老人の譫妄が見せ物にはなっているものの、劇全体におけるこれらの役割が見えてこないために不可解でもある。この混乱は後に自分を客観視するためのプロセスだったと判明することで職人賛歌に連接するのだが、これまたエスカレーションして後日談では機長が絆云々と言い出してしまい、周囲をリアルにドン引かせてしまう。イーストウッド印の、現場丸投げディレクションの功罪がまたしても出ている。具体的なカット割りでも、あるキャラをフレームに入れてその人物を焦点化するも、かかる異化に何の意味がなかったというカットがふたつ見受けられた。
キャラクターに付加する才能の分布が一様で、皆等しく仕事が出来てしまい、無能という概念がない。後継者が無能という組織の継承問題が成立し難いのである。息子が才気走り過ぎた設定にしても、遠藤憲一組との力関係が曖昧なままにされては、事の深刻さが伝わってこない。組織戦の動向を観察する視点を確保するために導入された主人公も受動的な立場を出ない。ただ、息子の暴発で立ち上がる大久保彦左衛門的な副官の美学と彼の受動性が絡むと、動機の不在が清貧の物悲しさを訴える。視点であるがゆえに自意識が不在になってしまう哀れである。かかる薄さは、横スクロールアクションゲームのエンディングに類する感慨を最後にもたらしてくれる。
官邸に情報が伝わらないことを強調したいがために、伝わった情報すら受け手から隠してしまう。伝わらないと歎じる割にアウトプットは行われるから訳が分からなくなる。因果のこの破たんが官邸への受け手の移入を阻む。官邸がものまね大会になってしまう。北村有起哉パートも報道が当事者性を伴わないという宿命から震災をオカズにして自涜にふける有様にしか見えず、菅田俊のデモーニッシュなセクシィヴォイスの調べで、記者クラブで死屍累々になる聞屋の群れなど前衛にも程がある。有起哉があの顔で中村ゆりとつがいになっているのも腹立たしい。息子が母親似でよかった、としか言いようがない。
神山典士の受賞パーティーもサイン会の現場も突撃してくる森達也を受容できてしまう。わたしはこの平和な感じが好きなのだが、業界人が馴れ合うさまは被写体の男を疎外して異邦人にする。何か特異なものを観察するという状況の構成に成功していると思う。
老人がロマンスによって同一性を回復する過程で作用する偶然が、自転車がぶつかるわ妹の喉が詰まるわで、あまりにも攻撃的であるから、こんなにモテたんだぜついでに俺もモテたぜというロマンスの感染力の話になっている。この通俗的なサーヴィス精神の究極にあるのが地下の碁会所で爆発してタイプキャストの笑いを誘うブルーノ・ガンツの癇癪である。
孤立の解消を謳っておきながら次々と叙述されるのはむしろ孤立が不可能な事態であり、誰も人間を放っておこうとしない。部下のホアキン・フェニックスの道化的な近しさなどはちょっとしたサイコパスに見える。にもかかわらず結婚式では呼ぶ人がいないとなっては造形に一貫性を見出すべくもなく、キャラクターが理念優先のハリボテとなってしまう。ヒロインもオフ会で盛った雌のように男の姿を求める挙動をしてしまっては、オッサンがドン引くのも仕方がないのではないか。
架空の舞台を裏打ちするべく凝縮された美術が物語の背景として定着せず分離している。人々の動機となる生活の艱難が豊饒な画面からは実感できず、もっぱらそれは言葉で説明されている。時折フェルメールの風俗画のようになってしまう祖母の佇まいなどにも場違いが否めない。
ブン屋の自爆劇という題材自体からそうであるように自虐志向の話である。社会小説が失業の恐怖へと良い意味で矮小化され、実父とレッドフォードの父性に屈服するブランシェットが劣情を誘う。レッドフォードの引退興行の盛り上がりも謎すぎて、高飛車なケイトの崩落にオッサンどもが祝杯を挙げているように見えてしまう。特にあの場面では、顔皺と豊饒な頭髪量の不均衡がレッドフォードの容姿に異次元生命体のようなヒューモアをもたらしている。
行政が浸透しない方が経済成長すると町長トーマス・ミッチェルが演説をする一方で、フランクの手下が強奪を働く。この世界観の混乱は、意図的であろうとなかろうと、クーパーの意気地から社会性を失わせ、それを単なる迷惑に見せてしまう。クーパーとグレイス・ケリーが父娘にしか見えないから、クーパーが甲斐性の発露を強いられるのはわかる。ところがこの話のマチスモはクーパーのパフィシズムを嫌悪するゆえに男が甲斐性を発揮したくなる何かをグレイスに付与できない。宙に浮いた男の甲斐性の課題は、町民がそれを発揮できるかという形で社会化するのだが、これをスポイルしてしまうのが教会での町長の演説なのである。発露の場を失った甲斐性は、あろうことか最終的にグレイスの身体に憑依してしまう。
女が男の選択に当たって甲乙つけ難い状況に至ったとき、それは成り行きで決まりかねない。女性心理を観察するこの物語はかかる事態を偶然の戦慄として捉える。しかし男性心理の立場からすれば、それは背信でありアバズレであって、事態はアバズレの苦悩という激昂と喜劇の混合した現象として現れてくる。作劇の公式としては社長シリーズの森繁の近縁なのである。トニーと縁りを戻してしまうオチに安堵してしまうのも腹立たしい。けっきょくは揺れる女性心理に手玉に取られたことが口惜しいのである。
軽飛行機とダイナマイト。字面だけで楽しいこの見世物小屋精神が人の決断の瞬間を隠ぺいすることで選択を説得的にしてしまい、アレゴリーという知性に至る。ところが現代編となり、負け組の妻の方がヒロインよりもよほど美形だとなると、物語の課題は半ば消失して見世物精神は隠すべきものを失い自律する。待合室の頓死など黒い笑いなのであるが、ダレそうになれば河原を爆破する現場主義の気合い入れの濫用が、せっかく醸成した知性までも爆破するために、笑いが意図なのか天然なのかわからなくなる。ヴィム・ヴェンダースのような、ファッションと割り切った東洋的未来観もぶきみだ。
この文系キャバクラは、嬢への説教を全うできない点で乗れない。AIゆえの機微の読めなさが祟って、好意を確証したことを隠す意思がキャバ嬢にない。この段階で萎える。情報の出し入れが人間を誘導する基本であるはずなのに。HMX-12マルチを思い起こすと、試用期間が終わると記憶が消される設定で彼女は本作と共通しているのだが、反応が対照的である。エヴァは癇癪を起こす。マルチは気丈に振る舞って見せる。どちらが辛抱たまらんか自明ではないか。
ジェニファーの始末に躊躇すればするほど、作劇の作為は露呈してしまう。ミステリーよりも過去の野蛮をオカズにして現代文明の肯定をやる社会小説にますます傾注しているために、作為を隠そうとする意思がない。しかし作為は社会小説の享受を阻害しかねず、教条性から独立しながら社会小説であり続ける何らかの高みに物語は達せねばならなくなる。われわれが目撃するのは、サミュエルとウォルトン・ゴギンズの負傷を契機とする事実上の難病映画へのジャンル転換であり、緩和ケアの進歩で快活になった末期患者がかえって内省を迫られるような不条理と現代文明の賛歌の曲芸的な接続である。それらはリンカーンの手紙が嫌味なく爆発する要件であろう。
精神科のドクターの下顎部をわざわざオールド・ニックと同様の濃密なヒゲで覆ってしまう不穏さ。しかしその不穏に意味があるわけでもない。ジャックが自らの頭髪を神聖視するように体毛への執着としか言いようがない。茂木〇一郎状のモジャ頭部のレオもやはり不安で、あるいは不審者然としたからこそ、これとジャックの邂逅がよろこばしくもなる。逆に年相応の毛髪量のウィリアム・H・メイシーは疎外される。体毛が独立生命体として人間を支配するようなパラノイアは何なのか。レニー・エイブラハムソンで画像検索したわたしはついに殺伐とした真実に直面する。
管野美穂の年齢不詳なアイドル映画への堕落がうれしいやら気味が悪いやらで混乱するのである。江口に対する嬌態が気持ち悪いというのはある。かつ、アイドル映画になってしまうと性愛の問題提起も無効になりなねない。歳不相応なアイドル映画の不気味が幽霊譚としての帰結により然るべくなったとしても、今度は少女マンガのようなリリシズムを漁村の場末感が包摂できなくなる。遡及的に漁村のパッチワークのような地勢が露呈されてしまうのである。
キャラがボケ役ばかりで、かつ彼らの天然が下心不能ゆえに善意と解釈されている。人格者の集団が人徳で組織を円滑に運営する人知主義のユートピアは波乱を起こさないのだが、代わりにいかなる物腰によって人徳が体現できるかという問題意識が各キャラクターにおいて追及されている。たとえばヒロインにメイクの世話を焼かせることで、彼女の魅力的な人格の開示が始まるように。
義父ものという様式によって充足される老人の性欲が、状況を空転させ戯画化しようとする静物の働きによって相対化される。画面中央に厚かましく鎮座する排泄物のような姿をしたクッキー。チェストの上で灰色の画面に彩りを添える、憎らしいほど丸々とした果物。インクの壷の蠱惑な矮小さ。これらの形状に視点をくぎ付けにされて、深刻な対話は全く頭に入って来ない。全てが上滑りになる。しかし実のところ、それらは性欲の隠ぺいでなく、むしろ老人の欲望を起爆させるための性欲の表象なのである。
女の矯激は、男の背後から窓向こうの女の姿を補足するといった、多重の構築物のフィルタリングによって、常に客体化の危機にさらされている。抽出されるのは「莫迦じゃなかろうか」と嘆じさせずにはおかない矯激の奇特な振る舞いである。かかる莫迦らしさは、叔父の徳高さという促進剤によって加速する事件の独特の疾走感に押され、最後には音響に波及しそれに担われる。乱打される鐘の音と線路の上で木霊する鳥のさえずりである。