映画感想 [1401-1500]
当事者性を、社会に対して申し開きをする責任を割り引く資源として当てにしすぎるあまり、不幸の著しいカジュアル化が引き起こされている。フィクションを以て責任を引き受けたいのであれば作劇の精緻化が筋ではないか。
『EUREKA』や『黄泉がえり』なみに気の狂った九州の地理感覚にも臆せず、文太は知的縮退と漂流の物語をあきらめようとしない。意気地という爆走する自我が、脱線形的な風景の断面に沿って折りたたまれたマドンナの自意識の痕跡を発見するのだ。
すでに未来が知られている倒叙において、未来が先行するからこそ、物語の現実がそこに追いつかないという苦しみが生じている。ブロンソンはすでに放たれた。しかしその力を開放すべきか、政策判断の均衡するタイミングは遅延し続ける。えらい。
即席ではないと発動しない政治的シニシズムは、セクハラの概念がないという架空戦記性の偶然に身を託した。その一方で、偶然を排したい作劇の欲望は、モラルの展望に欠ける世界に清らかな思い出がもたらされる時を待ち続けている。
不可侵の決定論(ブロンソンだから)が静穏の教訓として受容されたように見える。老後保障という彼岸から差し込める光の下で、彼は自分という神秘と和解したのだ。
やりがい搾取を穏当に肯んずるため、心の痛みを受容する力は豊かさを増す。それを女の万能感だと錯視させるほどに。自我を託すべきわれわれの面影が、運転手という神の見えざる身体にまで、圧搾されるほどに。
好意が罰せられるという平和への希求が、作劇のラテン的好意に何か針で刺すような苦痛を伴わせるような気が。
末梢的な生活にあたって、遁辞を弄するには野趣深いたか子の顔面は、しかし、その野太さゆえに、想像力の天蓋の下で少女マンガの必然と自由を謳歌する。
儀礼的に持ちこたえていたハックマンの庶民性が運命に逆行しようとするとき、あるいは、われわれの加担するゲームが庶民の名のない実践に帰着するとき、庶民主義が詩意を以て人の美しさを語っている。それをここではよろこびたい。
執着と節度が境をなくす界面において、人間は素面でありながら意識を失うという恵み深いアトラクションを体験する。アルコールに泰然として身を任せた興行は、公共広告機構の君臨する宇宙を安らかなるものにしてくれる。
作劇の必要上から、情実を資源にして感情を訴求する権利と技量を誤接続していて、しかもそこに自覚的であるがゆえに、作劇の政治学に身を売ってしまったという背徳感が見受けられる。若者たちにはその揺り戻しに翻弄されている感がある。
気勢を添わない決断が、取り返しのつかないことをしたという自惚れを許さないのだが、決断をしたという実感に欠けつづけるため、残酷なる時間の轟きというよりも、確実なことは唐突にしかできないという教訓的な諸観念の方に話が傾斜している印象がある。
事件を日常のルーティンへ状況編成して行く心労が、酩酊のなかで、敗北の思い出を改編しようと想像力を鼓舞している。病める地上において実利的な生活が誕生する思い出を。
社会性の幻聴が男の自尊心に愛するという義務を教育する。ただ、感情の規範性を追及するその性急さは、われわれのなかに女性嫌悪を呼びさますほど排他的なのだ。
福祉社会のビジョンが映像業界最末端に託されるという離心性は、含羞ではなく偶然であると措定されねば成り立たないだろう。自分のブライダルビデオが世界を救うと知った男は、その虚構性ゆえに、もっとも真実に近づくのだから。
生体に実装されたたったひとりの街角世界戦争は、役割から生じる義侠心を当てにしない。男に託された生暖かな包括代理権は、むしろ孤立の知覚の方へ身を寄せるように思う。
無業のオッサンという不妊の労働カーストは、種内托卵という同じ夢を見る。これは非対称の消耗戦ではなかった。人生に意味があったのだから。
オッサンハーレムの神秘化は、男の内面に踏み込みたい俗化の視点によって挫折している。釣りバカ日誌の、呪いのような強制力と対峙した一方の男は、架空の自意識を露呈させ自分自身を眩惑せざるを得なくなる。
牧瀬理穂の屹立とした顔面は、光源によって趣を変えて行く表情筋の地誌である。90年代前半型の真田がそこに投じる不穏な影の往来が、われわれの欲望を、条例違反のボーダーライン上で縦揺させる。
天変地異に及ぶ男の無意識の迷惑な広がりは、境遇に対する戦慄が公共の福祉と結びつくことを頑なに拒絶している。そして内宇宙で夢見る旅人の湿りげな自意識が、腹回りの肉塊を突き抜け破水する。
興行上、ファシズムの農村近代化を検討する立場を避けねばならないのは理解できるが、他に家計の手段があったと思わせることが話をスポイルするとすれば、近代化の肯定以外の何物でもなくなるのではないか。
疎外が偏執狂を産出する機制と疎外の余地を与えるとは思えない偏執狂の充足感との対立からもたらされる感情の永久機関の闇は、しかし、病理学を信頼するあまり、それを聖化するほど明るいオプティミズムにも見える。
これは自己実現の願望を嘲笑する話に見えたが、ポラックのリリシズムは完全に本気である。彼のリリシズムには、女の執念に激昂してしまう生理以外に信じられるものはないのだ。
清純さを清純であると判断を可能にする基準のなかに、すでに何らかのスケベ心が含まれている。このオチは、自他をあざむくのに汲々とするようでいて、しっかりと男の自惚れと未練を担保している。そして、かかる不見識は正しいように見える。
行動する人への教訓を笑いで眩惑するのもまた教育的措置の変異と解せる。しかし、あくまで笑いを圧政的にしないのはやさしさでもあろう。
あの山向こうの盆地には長澤まさみ、田中邦衛、哀川翔etcが日常を演じ続ける夢の塩田映画村があるという。しかし、霞が関の平原に帰還した草なぎの、憑き物が取れたような顔面を参照すれば、それは煉獄であるという。これは良識についての映画である。
事態には解決法があるという工学的な自信がある。再分配の誇示も制度設計への信頼の一環だろうと思う。では、今更に男を悩ますものは何か。そこでは、ごく個人的な外傷を社会化することで何らかの療法が行われているように見える。
感情表出への接近を特権ととらえるべきではなく、それは、当事者性を託し合わせる空間分布の冒険談であるべきだ。その中で、オッサンは、オッサン自身の不行跡な心のはたらきの広がりを受け手とともに知ることだろう。
ほんらい全宇宙のメタボにとっての朗報だったはずだ。しかし、シャーロットの田原総一郎化した頽朽の顔面は、ラストの浜辺のごとく、不幸に対する敬意をあくまで拒絶する愛の遠近感覚でわれわれを苦しめるのである。
人物の自律性を担保する公準に自信がない。恣意的に造形を帰属させるにつれ、人物を意味ある現象として語り得なくなってしまう。そこで作り手が政治的冒険に情緒を訴える資源を見出すのは、それはそれで作劇の実践なのだろうが、人情がないとも思う。
典礼を、悲劇を語る権限を奪い合うゲームとして利用したのは、形式主義を以てしか女に接近できない男の記憶イメージである。真実への近しさを自罰からの遊離ととらえるような後ろめたさは、セクシャリティのこうした保護検束に由来するのではないか。
啓蒙的性格の観察は、未来傾斜への福々しい信頼の実効まで、普遍性ゆえの無時間で抑圧をかける。運動表象が物語に現れた好ましさとは何か。われわれはそこで時を想起している。
勧善懲悪も経営シミュレーションも良俗の指令なのだが、これが愛すべき誤謬に襲われ阻却されると、風儀の口やかましさという一人称的表出だけが残存してしまうと思う。
興行主のトム・ウィルキンソンは、成長できるキャラ造形という点で、時間経過の指標となる。対照的に、ヴァイオラ側は、もはや変わりようがないという特性を引きずっている。彼らの願望はすでに充たされていて、時間の経過はむしろ望ましくない。ウィルキンソンとこれが対比されると、観察対象として、後者が実に取るに足らないことが曝露しかねない。では、もはや変えられないものを、変えるのはどうすればよいか。それだったら解釈を変えるしかない。ここで、ストーリーメイカーを主役にしたことの必然性が、その職業的特性から、明らかになり、また、解釈を以て変えるしかない、という悲痛さも出てくる。
スタローンとステイサムの絡みはともかくとして、スタローンへ敬称を怠らないビリーの犬っぷりまで来ると、単なるオッサン版CCさくらに堕してしまう。逆に、この話が偉いのは、そこにオタクサークルの姫を投入し、かつ、それにサークルクラッシュをやらせない分別があったことだろう。彼女をエスコートするスタローンの不器用さは、おそらく、本作最高の緊張を醸すが、『ランボー最後の戦場』のような文芸的不穏には至らない。あくまで、オッサンCCさくらワールドを引き立てにとどめるバランス感覚がある。
ヴィダル大尉(セルジ・ロペス)のひげそりが見事で、この豊饒な情報量を超えるものが作中に現れない。彼は、トロのマンガ的想像力を引き立てるどころか、マンガであることの根本的な貧困を知らしめてしまう。しかし、あのひげそりも、そもそもマンガ的想像力に包摂されるとすれば、当人も含め、われわれは、トロという人の演出家としての特性を見誤っているのかもしれない。
オドレイ・トトゥの容貌の年齢不詳性が、映画内の時間の概念を曖昧なものにしている。過程や成長を描き得ないため、いかに人生が勝ち組だったか、誇示するほかに語り口がない。あえてそこに興行性を見出すとしたら、こんなオバハンに童女をやらせる恥辱感や、いや、童女に見えるが、映画内の設定ではそうではないかも、という混乱に緊張がある。美麗だが狭窄した、いかにも今風のクリストフ・ボーカルヌの撮影も、時間のわからなさを強調していると思う。
孤島での生活には因果や自助の実感がある。漂流生活に入ると、こうした因果性がことごとくメタメタになる。では、因果が実感できない状況で、どう生きればよいか? この課題は、帰還後のハンクスの境遇に重なりながらも、話は、アラン・シルヴェストリの久石メロに流されながら、終わりなき前戯という結論に至る。
会社側弁護士のメアリー・スティーンバーゲンを善人化する時点で、正義を掻き立てるべき憎悪の源泉が消失してしまう。臨床的な現象としての病の受容が、ハンクス個人にではなく、社会的に表現される。そこに至っては、生化学の作用ですべてが許され、正義の理念を追及できなくなる。ゆえに、死を目前としたより文芸的課題に寄り添うべきなのだが、かかるジャンル転換に躊躇して、話は宙に浮いてしまう。
序盤で興行性の中心を担っていた移動の困難が、次第にスポイルされてしまう。もはやタイトルが話の実体を表現しきれないほど、地理感覚が寸断され、場面の有機的な連携が見えなくなる。 被写体の個人的な名声に、語り手が依存しているのではないか。
男女の間に介在する求愛の非対称性に言及がない。男が女に惚れるのに説明は要らないとしても、では、なぜ彼女はこの男に? われわれが感傷を見出すのはかかる非対称において他はない。この話では、性の未成熟ゆえに、求愛の非対称が成立せず、愛は偶然でしかなくなる。
いかにもデ・パルマらしい、大仰な絵面を最後に見せられて、驚いてしまった。こんな感傷的な話だったのかと。つまり、話はすでにジャンルを横断しているのだが、受け手には慣性のくびきがある。感傷は説明され図解されることになるのだ。
疑似家族も全能感も、少年ではなく、老人の願望充足を想定している。しかし、その全能感のあり方は若々しく、少年の想像力に依拠して、老人の願望を当て推量した結果、欲望の誤配線が生じているように見える。それは、老人のボディービルダーを眺めるかのような心地だ。
問題の内面化を避けたがるのは理解できる。この手のキャラクターは、その内面を踏み込まれた段階で、成り立たなくなる。他方で、内面化ができないのなら、人生の根本的な課題の描画が困難になる。仕事のできるオッサン(ネッロ)が美女を囲う、ライトノベルの主人公のような有様になっているのは、その余波であり、また、かかるライトノベル性が、人々の努力の計測を困難にもしている。
女には語りうるに足る生活の実体が設定されていない。女の幸福を願おうにも、その手掛かりがなく、話の興行性は、災難に対する対処療法的な挙動に担われがちだ。そのなかで、浮き出てくるのが、ジュディス・アンダーソンの人間性だから、受け手の感情の焦点は揺らいでしまう。
段取りの瓦解には、すべてが無駄に終わったという、消尽の感傷がある。あるいは、段取りによって生じた感傷の数々は何だったのかという、感情の信憑性の喪失がある。それが失われると、話は観測に価しなくなる。しかし、最後まで担保される論理性もある。クラウス・キンスキーの成長がそれだ。
寛解を日常への埋没と解釈することで、アルコール依存症を文芸化するのは、ひとつのアイデアだろう。ただのオッサンの痴態をエスカレーションさせることで、興行性を担わせる手管にも感心した。
好きな場面は、閣議で予算削減するところで、最初、不満そうだった財務長官のポール・コリンズが、閣議の終わりでは崇敬の顔になっている。ご都合主義の最たるものだが、それを経てもなお、浮き上がってくるキャラクターの人間性がある。ご都合主義と人間への好意が互換するのだ。
階段を電気椅子で昇降していた老人の足腰と、野犬と乱闘する老人のそれに、もはや一貫性を見出だせない。かかる断絶は、アクションの切実さをブロックするにとどまらない。老化現象が操作可能とされることで、何よりも、歳月を重ねて醸成されたエリーとの思い出までもが、無効となるのだ。
非血縁部族社会で、法の実効が望めない場合、何を以て信頼が成り立つのだろうか。この問題意識に対して、たとえば、柄本明は公に対抗する狭義心をもって応える。それは、属人的であるがゆえに根拠に不安を覚える代物ではあるが、同時に、その広汎さは彼のドラえもん性を担保もする。このドラえもん性は、何事も可能であるがゆえに、緊張を弛緩させるものの、話は人情劇を目指すから、スリラーの堕落は問題とはならない。より厄介なのは、この話が、血縁部族社会に対するアンチテーゼを指向することだ。柄本の狭義心を煽った巨悪は、作品が憎む血縁部族社会をはるか昔に破壊した張本人そのものなのだ。ここで話は循環してしまう。ゆえに堺は、ゆるやかな連帯の中に埋没し、孤立することで、この循環を超える価値観に導かれる。
フィクションが現実に及ぼす効力をめぐって呻吟する以前に、どうにも逃れられない不穏さがある。そもそもその特定のフィクションは、社会階層を超えて、感傷を共有でき得るものなのか。この課題に対しては、作中では、ピーター・オトゥールのテンションに頼る以外に、何の方途もないように見える。しかし、このありえなさが、幕間で豹変するソフィア・ローレンの恥辱感を増幅している面もあって、あなどれない。
キャラクターを記号ではなく、生きた人間として受容させるには、行動や感情を御する体系を匂わせるような挙動を、彼らにさせるべきだ。では、どんな物腰が、それに相当するのか。あるいは、どのような背景を彼らに想定すればよいのか。この話で戦慄を覚えるのは、キャラの実体のなさであり、その裏には、ただ不幸を自慢させればキャラは自立するという信仰があるように見える。ところが、不幸を自慢したところで、記号性が強調されるばかりで、彼らの実体が見えてこない。逆に、不幸が自慢されるほどに、ただひとり、愚痴を言わない北のオッサン(リュ・スンリョン)のキャラが立ってくる。なぜか。彼は愚痴を言う必要がないのだ。背景に貧困という苛烈な体系があるから。ここで、問題は個人の手に負えなくなる。体系の設定は社会経済に還元される。目指すべきは、潤沢な物量に支えられてもなお、残存する不幸であるべきだ。
冒頭の奪回戦では、受け手の感傷と劇中のアクションがリンクしない。劇中の人間には目的がある。わたしたちは、その目的やキャラの人間性に共感して初めて、活劇を自分のものとして把握できるのだが、この場面では、共感の手掛かりとなるような情報が開示されない。開示されないことで、興味を牽引する手法の方に重きが置かれている。だが、これはうまくいっていないように思う。他方、アスカの造形が整理されている点は気に入った。メガネに「姫」呼ばわりされたり、最後には「助けてくれないんだ。私を」と照れもせず本音を出したりと、これは媚ではあるが、しかし、この造形解釈には語り手の好ましい人間性が現れているようだ。
戦争神経症やセクシャリティの問題など、個人に発現した課題が、民族的憐憫と取り違えられている。あるいは、より意図的に、問題を個人に限定するか、社会経済に拡散させるか、場面に応じて使い分けがなされている。あの表現に富んだ顔芸が、状況に多様な意味づけを行うことで、現実を自在に構成するのである。
ニコラスの平常心が膨張する話だが、この平常心を構成し拡張することは、語義矛盾に近い。構成できるものを平常心と呼べるのか。
恋愛の排他性が設定されていない話で、ローラ・ダーンはニコラスの過去の情事に好意的な応答をする。愛の信ぴょう性が、そこで、ゆるふわとなる。したがって、平常心を構成するという課題は、恋愛の排他性を設定しないまま、愛の信憑性を確保しようとする旅として具体化する。その最後に、われわれを待ち受けるのが、あの不可思議なカラオケなのだ。
ブロスナンからレネ・ルッソヘ視点が変わることで、男の意図が途中から不明になる。あくまで男の視点を引きずるのなら、計画達成の可否を問うスリラーが強化される。しかし、この路線で行くと、女性嫌悪を免れ得なくなる。オッサンのキャバクラ的充溢を赤裸々に再現するこの話は、スリラーの外部効果としての女性嫌悪と対立しかねないのだ。嫌悪の裏返しとしてのマチスモが、なぜこんな小娘(?)を受容するのかと、キャバクラ的充溢を阻むのである。
映画の水準に達していない質感が、様々な効果を生んでいる。この質感は、りりこの自室の美術に叛乱を起こしながら、寺島しのぶの世界をまがまがしく屹立させる。美の質感を表現できない絵面は、美の階層も描き得ず、モデルたちのパワーバランスは、台詞で説明される。これらの下世話な感覚の通底にあるのは、堅実な庶民性であろう。
虚構だと踏まえることで、かえって表現できるキャラクターの人格がある。こんな莫迦げたことを演じる熱意に、キャラクターの徳性が見え透いてくるのである。虚構を超えてなお、残るものはあるのだ。
この世界に、アンディ・ラウを放り込んでしまうことがすでにネタで、彼は、われわれの期待にたがわず、『暗戦』や『インファナル・アフェア』そのままに、意図の読めない硬質な表情で、老女と戯れる。あまりにも不気味で、最初はこのミスキャストを笑っているのだが、次第に、アンディ起用の意図がわかり始めて、今度はドン引きする。厚顔無恥な恩寵が老女を狂わせてゆくのだ。
理屈倒れになりかねない過密な美術は、はっきりと方向を限定されるゆえに運動の徴候を持ち得た画面やキャラクターと劇伴の歩調によって彫琢され、移動をしている実感をともないながら、空間と感傷の旋律線を形成する。その幾何学が表現するのは、個々人が現場に忠実であり続けることの孤立が、連帯と互換する様である。
作戦を実行するのはDEVGRUのオッサンらである。その作戦の決行を判断するのもオッサンたちだ。これはマヤがいなくとも成立する話である。少なくともそう見せてしまう。そこに語り手が抱える人生の課題が痛切に表現されている。この距離感は、作戦前に戯れるDEVGRUのオッサンらに、ほとんど羨望に近い眼差しを向ける一方で、補殺の場面に至ると、煽情的な劇伴を一切用いない、冷めた視点として現れてくる。
参照する情報に乏しいのなら、想像の営為に頼るほかはない。そこでは、想像の限界を補うべく、何事かが過密に作り込まれてしまう。根拠となる情報にかけるその過密さのアンバランスを、われわれはしばしばマンガとして把握してしまう。しかし、かかる滑稽さは、ダニエルが今にも目から光線を出しはせぬかという、また別の不穏でわれわれを絶えず動揺させることで、勝ち戦にあぐらをかくこの話に、好ましい緊張をもたらしてるようだ。
甲斐姫が動機になっているように見せたいのは理解できる。が、この観点からオチを観測すると、そもそも最初から戦いは不要という結論に至りかねない。領民の犠牲を強調する描写も、これらに対する長親の近しさへの反動をともなって、事後的に、無駄死という陰険な印象を残している。つまり、プロットにも造形にも、一貫性が見出されない。逆に、三成側の方が整理されていて、彼らの成長の実感が伝わってくる。
吉行和子が卒倒する場面が好きだ。彼女が階段を上って行って異変を起こすまでの尺は、ほぼ恐怖映画の間の感覚である。異変に気付いた橋爪功が階段に向かうまでがワンカットなのもそれっぽい。その後に橋爪を制止する夏川結衣の凛々しい挙措もよいが、何よりも、普段はヌーボーとした西村雅彦が、あそこで職業人の顔になる。それが好ましい。
デ・ハヴィランドがここで抱える外貌や性格の課題は、観察対象としては頼りない。貧乏で汚らしい世間一般のオッサンが被る重篤な障害と比すれば。好感が持てるのは、デ・ハヴィランドへ受け手の共感を誘導する手管の方だ。同情を誘えるほどの強度な不幸は語れない。ならば、もっと前向きに、共感を誘える方途を見出したい。彼女は、終盤で、自分の獣性に目覚めるのだが、陰惨な筈なこの場面に開放感があるのは、報復の達成もさることながら、人が成長することに対する、われわれの本能的な好意が刺戟されるからだろう。
トラボルタの視点が入ってしまうことが問題で、ミスリーディングとして機能させてはいるのだが、オチを考えれば、これはノックスの十戒に違反してはいないか。もっとも、ミステリーの禁忌を犯したとしても、受け手が被る感情の毀損を超える何かがあれば、これは正当化できる。そこで、コニー・ニールセンが至るのがあのオッサンらの楽園であって、確かに、わたしはこういうものが好きだが、しかし、本作の八百長性は、オッサン性の享受を明らかに損なっている。オッサンが幸福を享受する様は好ましい。が、それはあくまで、オッサンらが悲劇を克服して至るべきもので、最初から八百長であれば、興ざめである。
ウィルフォード・ブリムリーとリチャード・ファーンズワースがそのメタボ体をベンチに押し込むと、侠矮なる空間に押し込まれた脂質が溢れんばかりになる。光線は、形状に富んだ球場の表皮の端々でうねり、垂れ下がった彼らの肉の皺と戯れる。
規則が恣意的に運用されていて、勝負の緊張が損なわれている。その余波か、プレイヤー間の力関係が曖昧になっていて、達成感が得られない。しかし、このようなまともな映画の質感を表現できるスペイン映画の環境がうらやましい。それで思い至ったのだが、これは、ゴードン・ウィリスが撮ったアラン・J・パクラのB級映画に似ている。
邪念自体は、ひとつの人間性である。問われるのは、その顕現の方法、つまり品性である。
ケヴィン・スペイシーを死に場所探しに駆り立てた災厄を設定して、死に場所探しの有効利用を正当化するのは評価できる。不満なのは、彼が最後に送りつけるあのビデオだ。あれをすると行為が自己顕示欲の発露になり、自己犠牲の切実さが薄められてしまう。望むことだから、犠牲の痛切さが出てこなくなる。黙って死ぬべきとは言わない。言わずにはいられないのも人間の業である。しかし、あのビデオは、自己顕示欲が発露しない形で、つまり、彼とわれわれ観測者の間で、密かに共有されるべきものではなかったか。
人の外貌しか信用しないリアリズムが人生の課題を設定しえない。それは目に見えないものだからだ。となると、『人生、ここにあり』の問題と似てくるのだが、この話の悲壮ともいえるリアリズムは、灰に還るジョシュ・ハートネットを、中沢啓治ばりの細密さを以て、描かずにはいられない。あの場面は、その過程を見せなければ見せないほど、感傷をもたらせるはずだ。それこそ、『回路』の加藤晴彦のように。しかし、本作のリアリズムは、それが許せない。見せなければわかるはずがないと確信しているのだ。
エミリア・フォックスのうらぶれた姿は、娼婦に聖性を託す邪念に類するものを発動させる。また、これが物語であると知るわれわれは、これから何事かが女との間に起こることを承知している。つまり、好意の徴候があらかじめ先取りされていて、かかる詩性の濃密さが、エミリアのパンダ目を神聖なものにするのだ。
男のナルシシズムは、彼に高慢な誤解をもたらしている。情勢の推移に対する自分の感化を過大評価している。しかし、かかるナルシシズムがなければ、あの感慨は出てこない。地獄の蓋を開けてしまったという感慨が。
決断の瞬間は明らかに近づいている。しかし、女が放出するノイズは、決断を求めつつも、決定をどこまでも引き伸ばしたい感覚を並走させる。現実の構成の落とし所を探る中で、イーサン・ホークのエロ顔は極大化する。それはなぜか、前戯のもたらす哀切にも類似する。
仕事ができることの徳性を、理念的な舞台を設定することで、抽出しようとする志向は、生徒らを技術的特性で分類して組織化する試みからも、明らかだろう。かかる徳が、徳とは全く反する現象から浮かぶ様には、独特の眩惑がある。しかし、最後にハスミンを客体化して、彼を貶めるのは、善性の下世話な介入であって、これだと徳性への志向と矛盾が来す。頼もしいという徳性は、それが極限まで達したとこで至る、悲痛な美によって、おのずと、語り手が意図した善性を逆説的に表現できたはずだ。
根津甚八の病的でしかない貞操観念と経済観念を謎のロマネスクとして解釈しようとする力も、名取裕子の才覚の描画をしようとする試みも、同じ場所から出自するゆえに、互いに反発し、効果を減殺する。かかる相反する力の惰性的な適用の場は、時間が澱む滞留感を表現している。
益体もない宗教観が、アン・リーの現世的な世界観によって首根っこをつかまれ、現実へ定着を強いられる荒々しさであり、大山鳴動して出てくるのが、森に消える動物が匂わせる、希薄な自意識である。それは、感傷といえばそうだが、しかし、ずいぶんと徒労であった感もある。
人間が変わってしまったのに、変化に対応する時間をその過程に見出せない。牧口は、その間隙を狂気として、われわれに受容させてしまう。
深刻な課題とした地理の遠隔性が、エキサイトする話に引きずられ、やがて人々は縦横無尽に移動できることになる。かかる曖昧さは、本作の緊張の依拠となる子どもの罪悪感をわれわれが想像し共有する能力をも奪いかねない。そこで、異常な迫力をともない露呈してくるのは、貧困や庶民性への憎悪であると思う。
そもそもこの金満家のオッサンには人生の課題を見込めないのだから、物語は奇妙な背馳を始める。あくまで、何事かが解決されるという感覚が先行するのであって、解決されたのだから、課題は確かにあったのである。不可知のうちに課題を設定するほかはないのだ。
阿部寛のドラえもん化によって、語り手の持ち札が可視化してしまう印象を受ける。かかる可視化は、受け手に物語の構造を意識させ、団結のために事件が起こり、人死にが出るような感覚をもたらす。
偶然的様相のアホらしい好ましさは、それが偶然だからこそ、聖なるものになるはずだ。ところが、事件の極限性をあくまで他人に生じさせるこの話の客観性は、かかる偶然に恩寵のしるしを見いだせない。これはむしろ、偶然に急襲されたという感覚に近い。
ストーキングされる不快感を、加害者も自虐することで中和して、ある種のサバイバルの観察を享しめるように作られている。ただ、この中立化は、オリエンタリズムの問題を顕現化させるようでもある。
男の行動が不可解なのは、男を狂わせた初音映莉子の魔性がまったくみえてこないためだ。ある意味、行動主義的な話で、映莉子の尻を追いかけているうちに、おのずと魔性は表現されるだろうという楽観がある。あの結末は、かかる行動主義にある程度は応えるように思うが、一方で、尻を追いかけるだけで終わってしまった感も残る。
オッサンらの祝祭のような砂漠の火遊びが、既知の反復へと還元されてゆくこのつらさは何であろうか。語られているのはキャラクターではない。単なる属性の運動なのだ。
司法も雑であれば、刑務所の管理体制も雑で、このままだと場当たり的な話にしかならない。何か論理的なことが行われていたという実感をもたらす尽力は認められるものの、構成への意欲は、冤罪感を醸すような、受け手に感傷を駆り立てる試みに堕している。
風刺という語り口の解像度が、個人の感情を観察するには荒すぎて、話は常に他人事になりかねない。感情の解像を総括するのは、まるで画素を構成するような、墓標の密度である。
説明のつかないガジェットは無数にあって、そもそも根本から、ディーバなしに成立する話である。それらが存在せる理由を求めて、カメラは虚空をさまよい、かと思えば、カットを割り出してしまう落ち着きのなさで、映像文法がシナリオの提示に戸惑っている。
ペース配分が気になってしまった。序盤の、クルーニーの白馬王子化を超える感傷がなく、結果、ソユーズ内の愚痴が、コンフリクトとしては長く機能しすぎな印象を受ける。この重さは、サンドラの性格造形に疑念を及ぼす。すなわち、この手のパーソナリティは宇宙を目指すものだろうか? リアリズムは、ISS大破で失われ、神舟に至っては、無意識にせよ、中華圏の揶揄になっている。
オッサンの神秘化を進めるべきか、世俗化に落とし込むべきか。方針が最後にならないと固まらない。カメラワークも逡巡するのだが、説明したがる割に、被写体の心理はまるでわからないつらさは、被写体自身の主観にカメラが紛れ込んだとき、然るべき描画に至る。彼が眺める光景は、メガネのレンズで歪んでいるのだ。
チンワンとのスキンシップを合理化するために、ケリー・ホンに左右失認をとつぜん設定する、牛刀をふるうような尽力の作品である。意味がないことの反動である構成への意欲が、ラム・シューを初めとして、実体のない感傷を継起させる様は、異様な体験だ。
行動し現場を支配することは一種の徳である。これを誰よりも強烈に体現するのは、チンワンの兄貴のチョン・シウファイであり、チンワンの異様な現場主義もこれに準じる。だが、現場を支配するという徳は、偶然を排するがために、冒険という概念と対立しかねない。そこで偶然という様相を導入し、チンワンの冒険をお膳立てするのが、ハナ肇(パトリック・キョン)であって、彼の存在により、応酬性という恩寵が認識可能になる。
サイモン・ヤムの思考がわからない。これが素晴らしいところだが、駆け引きの描画が不可能になるので、ルイス・クーの自家中毒的な心理戦に終始した印象が残る。サイモンのわからなさは、これはこれで、話を牽引する謎ではあるものの、最後に明らかになるのは、何も考えていないというオチである。かかる無思考という非人間性を、ハンマーでボコボコにされてもなかなか致死に至らない様で表現するのは、いかにもジョニー・トー印だ。
階級の再生産から脱しようとする普遍的な主題を定着させている。庭師の件で、息子に発現した教育の効能を父親がよろこぶところが、その最たるもので、同時に、そうすることで父親は自らの造形的な奥行きを広げている。ただ、肝心の靴に対する深刻さが伝わらない。
この試練の緩さや甘さを、ロバート・デュバルの薄毛に対して行われた、格差是正的な措置の表れだとは思わせない人徳が当人にある。特に、救急車で脱出する件とか。語り手の同情というよりも、薄毛性がロバートを救っているという感覚である。
冒頭のディック・ミネがよかった。あそこで彼は、人格という見ない現象を、ただ楽曲に応じて挙動することで短時間のうちに表現してしまう。
少年の悪魔性の目覚めが発動すると、オッサンであるこちらとしては、ロイ・シャイダーの行く末に気をとられるのが人情である。この話は、かかる世代間闘争に矮小化することなく、老人虐待をこなしつつも、ある男の生き様への言及に帰着する。
自意識の乏しさを幸薄く観察して感傷を誘導する手管は、動物もののフォーマットに似ている。特異なのは、そうして構成されたミアの魔性が、夫チャールズに波及して逆流する終盤のスピード感であり、その過程で、今度は夫を眺めることになる、視点移動の効果である。
現世的な切り口が徹底されていて、受け手の興味を持続させるためだけに、事件が煽情的に語られ、その一時しのぎの連続が見世物小屋な風合いをもたらしている。現世的な作風は、説明をしたいという性急さと連結するが、かかる欲望を見世物として昇華させたのは、それはそれでありなのかもしれない。
メタボを戦闘機械にするのは、自身がメタボであるロベール・アンリコの邪念であるが、フィリップ・ノワレはこの邪念に対応しながらも、やはり体は正直で、交戦後に草むらに転がり喘ぐ場面の尺は長い。つまり、ある種のもっともらしさが、現実とメルヘンの界面にあって、しかもそれがキャラの人徳としても機能している。
老体化して凋落する森繁よりも、山田五十鈴の変貌の方が効果的である。凋落するとはいっても、個体を乗り換えるというアイデアで、森繁の方もその森繁性を温存しながら、変化や時間の流れを表現している。
零落を表現できないというか、ブルーカラーがかかる生活水準を維持できるのが、考証なのか脚色なのか、これが判断できない。サザエさんのように世界観が閉じている話だから、キャラクターの課題を経済的な観念から把握するのが困難である。何十年経ってもサッチモの外貌だけが変わらないのはコメディだが、これだけが作中の唯一の信憑性の根拠になるようだ。