九月 二〇〇二年

 


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2002/9/28


『ガンパレードマーチ』に見る多足型歩行兵器の意義について
言い訳の成功と失敗

その存在意義を汎用性に求める坂上先生の言説は、一見して合理的である。第二次大戦において、歩兵戦車(重くて遅い)と巡航戦車(軽くて速い)が統合され、今日の主力戦車に至った事例や、一機種で制空と地上攻撃を兼ねる機体の度重なる登場
[注]は、実際の戦場においては運用に躊躇を感じるような多足歩行型兵器を使わざるを得ないときのひとつの言い訳を与えつつあるのではないか。

しかし、一機種が戦闘機に攻撃機にもなれるという「汎用性」には、見落とされがちな点がある。機体自体は、汎用的な運用に耐えられるのだが、それを操縦する人間の方は、多種にわたる使用目的に対応できないのである。

ゆえに、機体は汎用的であっても、人間の方はいずれかに特化して訓練をしなければならないので、同一部隊が、例え機体が制空と攻撃をなし得る能力があっても、実際に両面にわたって大々的に運用されることはない。性格の異なる部隊が、同じ機体を使用するという感じになると思われる。

坂上先生の言う「汎用性」は、あきらかに、同一の運用者が、同一の戦場において、多彩な選択肢を持ちうることが出来ると言う意味で使われている。だが、われわれが見てきた兵器史の上での汎用性への収斂は、むしろ、運用・管理・生産上の利便が強調されるのであって、決して、ごく限られた戦術面においての汎用性を意味しているのではないのではないか。操縦者は、結局、ある方面に特化しなければならないことを、「機体の汎用性」が覆い隠しがちのように思えてしまう。


議論はどんどん怪しくなってしまうのだが、もうひとつ、多足歩行兵器の有用性を強調するに当たって「戦車より遅い、でかい、でも汎用」という言い方はどうかと思う。

機体への汎用性の付加は、発動機やソフトウェアの余剰をひとつの技術的な保証にして、実現できたと考えるのなら、その余剰はカタログ値としてわれわれの目の見える形となって表出しなければならない。F-15を見て「これだったら、爆弾10トン、積めそうだぜい」というあの実感である。だから、戦車より汎用的なことを誇る兵器が、「戦車より遅い」では納得性が欠ける。対戦車ヘリの方が良さ気だと思ってしまうのである。



[注] F-18,F-15E。そしてJSFでF-16,A-6,AV-8B,F-15Eなどを統合。

 

2002/9/23


今日の『あずまんが大王』
正念場と白痴

大阪さんは明らかに白痴であるが、幸福なことに、優しく緩慢な日常では、そのパーソナリティは滑稽にはなっても人生の深源に関わることはない。しかし、社会化の進捗が急激に表出化するイベント、進路・受験に至り、白痴は滑稽から惨劇をもたらすファクターとして機能を開始する。

大阪は問う。「わたしに向いているのは何なのか?」

その答えを誰も知らない。

 

2002/9/04


開放と求心点
マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』について

前回の続き

重力制御が可能であると想定すれば、技術の厳密な考証から物語はより開放されると考えられる。「重力制御=何でも出来るんだよ♪」だからである。しかしながら、技術考証の制約を逆手にとって物語を展開させてこそ、サイエンス・フィクションの妙味があるとも考えられるわけで、特に、映像表現の場で、「宇宙船のブリッジを重力のあるが如く人々が歩き回っている←なぜなら人工重力だよ♪」とされると味気ない。『無限のリヴァイアス』では、重力計算地獄な宇宙艇同士のせせこましい逢い引きを描写し、鑑賞者に変な感銘を与えたりしていたのだが、リヴァイアスの慣性制御な描写がはじまると、それではけっきょく何でもありではないか、という感じになった。

一昔前の重力制御が、今日ではナノテクノロジーである。つまり、これさえあれば何でも出来るという事。

『やさしき誘惑』は、ナノテクノロジーによって死ぬことのなくなった人類のお話である。進化の末に、身体が解消され宇宙に拡散してゆくところなどは、よく見られる様式と言えそうであるが、それを仲介している技術的なバックボーンがナノマシンであるところが、今風である。

物語では、ナノテクノロジーのもたらす無制約感への不安が、冒頭で語られる。しかし、最後は行くところまで行ってしまう。落とし所の欠如への不安感がわいてくるのだが、この開放にはちゃんと収束が待ちかまえている。過去のごく個人的なおもいでが、無限に広がりつつある未来の向こう側にあるのだ。

おもいでの中心にいるのがナード男(病弱)というのも、ポイント高し。