六 エヴリバディ・ラヴズ・サムワン・サムタイム

二十五

松本が、愛娘の佐織(+みさ子三十三歳)を連れ立って動物園を訪れたのは、日が消化するにつれて益々とんでもない美少女っぷりを発揮させつつあったその娘が、小学校生活の折り返しに到達しようかとする時分であった。

いつもの如く、「父さま、行ってきますわ」と登校の途へつこうとする佐織を、たいへんに弛緩した顔でゆるりと見送る松本は、そういえば実に怠慢な日々をつつがなく送ってるおのれは、彼女に一度たりとも世に言う家族サービスとやらをしたことがないではないか、と感づき猛烈に青ざめた。下僕たるミッションに対する重大な背任である。

松本は、小一時間ばかり家族サービスとは何か、その実相に関して煩悶することとなり、とりあえず次の日曜日に動物園へ連れて行けばよいのではないか、という解答に達した。さいわい二駅向こうに動物園なるものは存在し、しかも、一度は訪れたこともある。まったくストレンジな場所ではないという安心感が素敵だ。

「父さまとデートですわ!」

佐織は無邪気に喜んだ。

「まさよし君とデートだよ!」

みさ子も無邪気に喜んだが、その様を眺めた松本はこっそり舌打ちなどをした。

そして、日曜日の朝。かつて、その入園ゲートを美少女然とした女性とくぐる際には、童女誘拐魔と間違われないかと怯えた松本も、家族連れというもうまたとない完璧な、美少女を同伴するに正統性を帯びた装いによって、安堵の極地にある。動物園は初めてな佐織は、普段の慎ましやかな美少女ぶりをかなぐり捨て、「見て見て、父さま。お猿さんですわ云々」とエキサイティングの模様で、いくら慎ましやかな美少女とはいえ、やはり小学三年生、もう超かわゆい!――と松本の情愛を煽り立てること甚だし。

しかしながら、松本は父親である。だらしのない面を娘に見られては父の威厳に関わる。ということで、きわめて厳粛なる慈愛を以て娘に接しようとする。が、園内を佐織(+みさ子三十三歳)とぐるぐるする内に、生来の愛玩動物愛好癖がもたげてきた。

「見て下さい、佐織さん。ベンガルトラですよ。巨大な猫科です。父はもう恐ろしくて仕様がありません」

「嗚呼、アムールヒョウです。怖い。実に怖い」

「グラントシマウマです。シマシマです。完全にシマシマです。恐ろしい」

松本はことある毎に佐織の小さな背中に隠れ震える。

「もう、父さまは佐織がいないとダメなんだから」

などと、佐織に言わしめたりする。

もっとも、いくら慎ましやかな美少女とは言ってもやはり彼女は小学生で、帰路は松本の背中で爆睡の体である。ついでに、佐織の意識のないことを見計らったみさ子が寄りかかって来て、松本に一泡吹かせる。

「ななな、何ですか、急に色気づいて!」

「うふふ〜、おねえさんはいつも二番煎じで寂しいんだよ」

「それは、まあ、貴女様は立派な三十路ですから」

みさ子は松本へ暴行を加えつつ、夢見る乙女モードへ移行する。

「まさよし君は変わらないね。さをりさんとここに来たときだって、さをりさんの背中で震えっぱなしだったよ。おねえさんはね、あの時、ハンカチを三枚もぼろぼろにしちゃったんだよ」

「――ということは、貴女、まさかストーキングを!」

「いけない。おねえさん自爆しちゃったよ。でもね、まさよし君。らぶらぶな生命体を遠くから眺めてドキドキするのは乙女の特権なんだよ。おねえさんはいつまでもたっても乙女だから、君を届かない場所から眺めることしかできないんだよ」


二十六

その自称乙女こと、みさ子三十四歳の人生がターミナルに達するのも、そう遠い未来の話という訳ではない。或る初夏の朝である。彼女は台所から悩ましげな声を発した。

「まさよしく〜ん、おねえさん何だか胸が重くなってるよう」

「未だに巨乳化が進行中なのですか、貴女は? 無駄ですよ。童女愛好癖者のわたくしには猫に小判ですよ」

「――残念」

佐織が夫婦の会話へ口を挟む。

「どうじょあいこうへき、って何ですの、父さま?」

「むむっ、それは随分と深遠な問いかけですね。父にはわかり申さぬ」

松本は巧妙なるはぐらかしでその場を切り抜けた。

週明け、みさ子は、CTスキャンを眺める腫瘍専門医のしかめっ面と対面した後、職場を放置して早々と帰還してきた。

「まさよし君、来週おねえさんは手術だって!」

松本は泡を吹いて失神した。

そして、翌週。二十年ほど前に傷物にされた生体内高分子が、修復エラーのまま自棄を起こし増殖制御を逸脱した結果が、みさ子の体内で臨床的に認識されるに至った。彼女のリンパ腫の組織片からT細胞リンパ腫が顔を出した。

「ごめんね、まさよし君。おねえさんもついに焼きが回っちゃったよ」

術後の病床にあったみさ子の声が、松本の聴覚に届くことはない。彼は、ただ、みさ子を眺め、次に隣に座る気丈な佐織を眺め、ついで、みさ子を眺めた。その神経回路網は、大質量の不安におののきながら、みさ子の労働が欠損することにともなう、家計の地殻変動に関する考察に総動員されていた。すなわち、家賃、光熱費、食費、佐織の養育費、各種社会保険料、放射線療法、化学療法。みさ子生命保険はそれを如何ほどにカヴァーできるのか? 解答は明らかになりつつあった。

松本の人生後期を特徴づける、それまでの生活形態からの著しい断絶は、ここに端を発してるといって良い。生まれて初めて、たいへんに具現的な形で、彼の人生に明確な定義が下された。

みさ子の骨髄からやがてリンパ腫細胞は放逐されることになる。みさ子は職場復帰をしたが、それに連動して松本が人生の新たな躍動期を終えることはなかった。松本にもみさ子にも、二人の関係が物理的にもはや維持し得ないことがわかっていたのだった。

みさ子の寛融期は一年ほど続く。病の再発が確認されたとき、もはや何もやることはなくなっていた。


二十七

死滅に至る心理過程の最終ステージにあって、みさ子は心理的な防衛機制のメカニズムと緩和ケアの恩恵で、原初的な自己愛へ回帰しつつあった。といっても、もともと自他に対して莫大な情愛を放射しがちな人なので、自己愛に回帰したからといって、あまり、人格に変貌は見受けられない。

以下は、ホスピス送りのみさ子と松本の間で交わされた、或る情緒的な対話の点描。佐織が用を足しに席を外した直後、松本はついに暴発してみさ子にすがりつき、ぐしゃっと涕泣を始めた。

「みさ子さん〜ん、みさ子さ〜〜ん」

「うふふ〜、甘えん坊さん。佐織さんに見られたら、たいへんだよ。嫉妬で何されるかわからないよ」

「みさ子さ〜ん、どうして、わたくしのような人倫を踏み外した醜き童女愛好癖者へらぶらぶになってしまわれたのですか?」

「人はみ〜んな、いつか何処かで誰かにどうしようもなくらぶらぶになってしまうんだよ。おねえさんにとっては、その誰かが、まさよし君だったんだよ」

「貴女は――、貴女は性悪です。こんなにもか弱いわたくしをいつも置き去りにして、行ってしまわれるのです」

「まさよし君はもう、おねえさんが居なくてもこの世界を生きてゆけるよ。おねえさんはさをりさんとの約束を全うできて過剰に安心だよ。さあ、佐織さんが来る前にちゃんとするんだよ。そして、佐織さんを甘やかすんだよ」

「イヤです! この状態からの離脱は困難です」

「君はいつもおねえさんを困らせるんだから。そういう悪い子にはキスしちゃうよ。佐織さんの前でキスされたくなかったら、離脱を試みるんだよ」

「みさ子さ〜〜ん」

「忘れないで。おねえさんは君と一緒だよ。いつでも何処にいても、君と一緒だったんだよ。君のことばかり考えてたんだよ」

「嗚呼、みさ子さんの、ストーカー! これからも、ボクをストーキングして呉れなきゃイヤです。気にならないのですか、貴女の居ない所でわたくしが佐織さんとあ〜んなことや、こ〜んなことをしでかしちゃうことを」

「ふふふ〜、この期に及んでもおねえさんは嫉妬で煮えくりかえっちゃうよ。さあ、悪い子にはキスしちゃうよ〜」

「………」

「ありがとう、まさよし君。おねえさんは君に会えるまでずっとさみしかったんだよ。でも、もう独りぼっちぢゃないんだよ。お姉さんを独りにしてくれなくてありがとう、まさよし君」

「みさ子さん――」

「だいぢょうぶだよ。きっとまた会えるよ」


二十八

以下は、みさ子欠員後における松本家、平日のルーティン。

朝五時、松本起床。佐織の朝食とおのれの弁当を準備の後、六時半に家を出る。七時、佐織起床。夕方、佐織帰宅。夕食は彼女の当番である。十一時、佐織就寝。十二時半、松本帰宅。真っ先に佐織部屋に駆け込み、愛娘の寝顔をむしゃぶりつきたい勢いで眺む。

とうことで、空恐ろしいくらい彼好みな美少女っぷりを熟成させつつあるというのに、平日は覚醒状態の佐織と顔を合わせるのが困難な松本としては、口惜しくて堪らない。反動は休日にやって来るのであって、松本は佐織とひたすらデエト。甘やかしの限りを尽くすのであった。

ところが、さいきん雲行きが怪しい。「たまにはお家でゴロゴロしたいですわ」等とデエトを断るなど、未だかつてなかった事象。父にまとわりつくのが常態であったというのに、ここ最近は、ひとり物思いにふける場面も多く、その愁いを帯びた横顔が松本を刺戟することこの上ない。

思えば、佐織も五年生である。父を男として認識始め、世界あまたの、娘持ちの父親が被るべき別離、「もうお父さんお風呂入らない!」時期が迫っておるのではないか。しかも、松本はまがう事なき童女愛好癖者。嗚呼、別離の季節、と松本はひとり布団の中で涙する秋の夜長であった。

翌日、松本はうっかり家に書類を忘却してしまい、真っ昼間に出先から一時帰宅の体となった。「うおおおっ」と脳内をさすらうナノマシンのいたずらで爆裂する気合いをたぎらせながら玄関を開けると、佐織が破かれた教科書を前にして女の子座りしている。大変に不穏当な景観である。

「佐織さん、学校は! それに、その教科書の破損っぷりは!?」

「とっ、父さまっ!? とつぜんのご帰宅のですの? 佐織はただおなかが痛かったから…。そうしたら、途中で転んでしまって、カバンの中身をぶちまけたのですわ」

「そうですか。ドジな所はお母さんそっくりですね〜、はっはっは――、というふうに父は騙されたりはしないのです! 学校で何があったのですか? 父に本当のことをおっしゃって下さい。父は、佐織さんの父なんですよ!」

佐織は「父さま〜〜〜〜〜っ」と叫涙しながら飛びかかってきた。

「佐織は、これ以上、父さまに心労を重ねてほしくなかっただけですの。父さま、佐織のためにあんなに働いて――」

「いったい誰が? 誰の仕業なのですか? こんなにかわゆい佐織さんをををををを!」

「落ち着いて父さま」

「担任には? 担任の方に訴えたのですか?」

「信じてもらえないのですわ」

三秒後、松本は失我して路上を疾走し、咆吼しつつ小学校へと突入していったが、当然のことながら不審者と誤認され職員室手前で保安要員のさすまたの露と消えることとなり、所轄署へ連行。ところが、次第に事情が明るみに出るに連れて、こんどは松本が所轄の会議室で小三時間ばかり、当事者ならざる司法警察官を前にエキサイティングすることとなり、夕闇迫る頃、建物を出た松本は疲弊で何が何だかわからない。お迎えに来た佐織には思わず泣きつく体たらくである。

「御免よ〜、佐織さん。情けなき父を許しておくれ」

「か弱い美少女を守ろうとする父さまは格好良かったですわ」

「父はみさ子さんと約束したのに。佐織さんを完全防御するって約束したのに。ごめんよ〜、みさ子さん。わたくしは、わたくしは、貴女にもういちどかわいがられたい所存です! 貴女の胸に再突入したいのです!」

「父さま! 人が見てますわ。もう、そんなに母さまのことを言われては、佐織は嫉妬いたしますわよ」

「ああ、いけません。父としたことが、とんだ醜態を」

「佐織は早く大きくなりたいですわ。そして、父さまのお嫁さんになって、きっと父さまを母さまから奪って見せますわ」


二十九

以下は、中学入学を控えた日曜日、佐織が初めて着用した指定学生服の概要。

紺のブレザーとチェックスカートの標準的コンビネーション。白のカッターシャツに紺地に白のストライプ入りリボン。佐織は届いたばかりのそれで完全武装し、「父さま、見て見て〜」と発しつつ、ひらひら回転したりして、絶頂に達しつつあるおのれの美少女っぷりを誇示する。せえらあ服というよりはむしろブレザー派の松本は、あまりの壮絶な美少女っぷりに意識が遠のくのを覚ゆ。

「父さまデエトいたしましょう! 女子中学生モードの佐織とデエトですわ!」

そんなことを放って気勢を上げるものだから、松本としては千辛万苦。おのれの童女愛好癖が恨めしい。

「いけません! 女子中学生モードの佐織さんと出歩いたりしたら、官警当局者の目を引いてしまいます。美少女誘拐魔と誤認されます。さあ、私服に着替えるのです」

「うふふ〜、むしろ父さまに誘拐して欲しいですわ〜」

佐織は恐ろしげな発言とともに、母親譲りの莫迦力で松本を引っ張り出し、白昼堂々、指定学生服で武装した身体を松本へグイグイと密着させてくる。松本は、もう、街頭配置された外勤警察官の前を通過するたびに、循環機能を喪失せる心地になる。

「もうすぐ桜が満開ですわ。今度お花見したいですわ」

「佐織さん。貴女の途方もない美少女っぷりとけばけばしい桜を比較対照しながら酒を飲んだら、父はきっと悪酔いしてしまいます」

「そうなったら、父さまの貞操を奪う絶好のチャンスですわ」

「佐織さん! 父は貴女をそんなふしだらな娘に育成した覚えはありませんよ! 父はみさ子さんに申し訳が立ちません」

女性心理一般に不感な松本には感知できなかったが、彼が母親の名を持ち出すたびに、佐織はヤキモチを焼かねばならなくなる。彼女は無意識の内に更なる羞恥攻撃を敢行してきた。

「父さま、春の陽気で佐織は何だかキスの衝動に駆られますわ〜。どこかにいい男は居ないかしらん」

嗚呼、げに恐ろしきは春の陽気。松本には危急存亡の秋であった。

一時間後、石神井公園にて。

露天のアイスクリーム屋を発見した佐織は、「父さま、抹茶ですか? バニラですか?」と父に問いかけをしつつ、猛烈な勢いで走り出していった。佐織はよく食べてよく眠る健康的な美少女であった。

ベンチに座りながら佐織を見送った松本は、視角を上空の或る一点へ煽らせつつ、悪態を垂れ始めた。

「ざまあみろ、みさ子さん。貴女がわたくしを放置するのだから、もう佐織さんをかわいがり放題ですよ! せいぜい嫉妬するのです。みさ子さんの莫迦たれ! だよだよ星人! もう一生三十路!」

松本の涙腺を刺戟する物品リストは、年々増大の一途であった。


三十

佐織の成長ステージは、ついに女子高生と称する年頃までに達した。女子高生――。 松本にとっては随分と微妙な響きがある。なぜなら、童女愛好癖との長年に渡る闘病生活から判断するに、彼の嗜好のピークを成すのは13〜14歳。女子高生なる身体は、ついに彼の範疇から排除されてしまう。これは救いなのか、はたまた罰なのか?

しかしながら、女子高生モードに至った佐織は、相変わらず絶望的に彼好みな美少女である。成長が小学生高学年から停止した如くだから仕方がない。しかも、昨日など、起床してみれば知らぬ間に父の布団へ潜り込んで熟睡してる彼女を発見し、生きた心地を忘却する始末。

かような日々であったから、どうも俺様は眠れなくなってるらしい、と松本がおのれの身体の新たなるステージを知覚するに至るには、少なからぬ時間が要求された。彼は不眠を、佐織の挑発に起因する興奮性のものと解していたのだった。

主治医の関屋さんはまず吃驚した。マックホルツたん――松本の脳内をさすらう神経再結線ナノマシン――の効用が喪失したと言うことは、つまり、お迎えも近いということで、その意味する所を関屋さんの前でしばらく咀嚼した松本は、次に端末を取り出し、“佐織育成ファンド”の運用残高を調べ、それが彼女の就労年齢に達すると目される期間まで彼女の生活をカヴァーするに耐えられるものと確認するや、嘆息した。

「間に合った――」

関屋さんは基本的に感激屋の中年おやぢだったので、松本の前に手を差し出し、「よくやつた」と泣きはらさんばかりである。

松本も長年及ぶ心身の過労からすっかり涙腺を弱らせていたので、二人はなぜか固い握手をしたりして、ついには感極まっておやぢどうし抱擁して泣きわめいたりして、あまり美しいとはいえない情景を展開。

そして以下は、松本、断末魔への道のり。

容易に想定できるように、松本が病床に突入した頃においては、佐織の騒動はたいへんなるものであった。

「父さまに母さまのところへは行かせません! 誰が生かせるものですか! 父さまは佐織の独り占めです!」

松本は、その一日の生活の四分の三をすでに自覚のない体で過ごさねばならなくなっていたが、佐織の騒乱には返答をすることができた。

「佐織さん、すいません。父は、みさ子さんに褒めてもらうんです。だから、父を止めないで下さい」

佐織は「むき〜〜っ」と癇癪しつつ、松本へ泣きついた。

更に日は経って、松本がロストする一週間前のこと。佐織は松本の知らぬ青年をともなって病室を訪れた。

「父さま御免なさい、いままで黙ってて」

松本は佐織に紹介されたその、端正で内気で挙動不審気味の青年をかろうじて認知すると、紅蓮の炎をこっそりとたぎらせた。

(貴様は、俺の嫁になるんぢゃなかったのかああああああ!)


三十一

これは何やらおかしい。

松本が疑念に感じたのは、おのれの思考と視角において鮮明なる部位が未だにおいて認められたことである。そもそも、こうやって、おのれの病状を想起できること自体が臨床的に間違ってる。

彼は、その現象に関する合理的な解釈がないかと呻吟してみて、ようやく解答を得た。つまり、これはNDEによる過剰覚醒というやつで、わたくしのかわゆい脳みそが今頃無酸素症であえいで、こんなことに――。ということは、わたくし、今まさに死なんとしてるの!?

松本はこの期に及んでも失禁しそうにビビリが入ったが、もちろん、それでは防衛機制としてのNDEの意味がないので、やがて辺縁葉神経が怪しい活動に入り始め、情緒がニュートラルに移行しつつあるが感ぜられてくる。実に教科書的な展開だわい、と満悦である。

余裕をぶっこきはじめた彼は、何かの主観景観らしきものに視神経が先程から晒されていることへようやく感づき、どれどれとその光景の走査に入る。住宅街のど真ん中を歩行しており、しかもその街並みには覚えがある。これは生家の近所である。しかも、アイレベルが低い。推定されるに、小学生低学年。道順から考えるに近所の公園へ進行中の模様。

松本は思い出した。俺はあそこに行かなければならない。でも何のために? 彼がおのれの不可解な情緒を解析している内に、NDEの真っ最中で記憶回想中だとか、もろに自我感の分離だとか、そんな思惟の解体が始まりだした。視点は景観と融解を始めた。



小学二年生の松本はつくづく人間という生き物に嫌気がさしていた。彼の担任教諭は、よく生徒を殴る人で、彼は廊下で騒いで殴られ、質問に答えられなくて殴られ、ノートに落書きをして殴られ、跳び箱を跳べなくて殴られた。彼は下校すると独り公園に赴き、砂場で沢山のお城を造形しては悦に浸った。

或る昼下がり、いつもの如く砂城の造成に勤しむ松本は、いきなり背後から手で目隠しされる憂き目に遭い、肝を自壊した。

「だ〜れだ」

松本の知らぬきれいなおねえさんの仕業であった。しかし、彼女の方は松本に面識があるらしく、彼の名を宣う。

「うふふ〜、こんにちわ、まさよし君。ずっと待ってたよ」

松本は人見知りである。余所余所しく接する他ないのだが、日が暮れる頃になると生来の甘え癖が我慢のしどころを失い、そのおねえさんの胸に突入する体たらくである。

それから、松本は毎日公園に足を運び、砂場でお城を造りつつ、傍らにいるそのおねえさんに甘やかされたり、甘えたりした。半月ほど交際は続き、そして――。

「そろそろお別れだよ、まさよし君」

もちろん、優しい年上のおねえさん属性をすっかり植え付けられてしまった彼としては、その発言は受け入れがたい。すぐさまおねえさんの胸に突進して、涙を禁じ得ない。おねえさんは、「よしよし〜」と松本の顔面をグイグイと胸に押し込む。

「だいぢょうぶだよ、まさよし君。きっとまた会えるよ」

「どうして、そんなことがわかるの?」

彼女は夢見る乙女の顔をした。

「君はおねえさんの未来なんだよ」

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