映画感想 [1501-1600]

 監督:スティーブン・フリアーズ 製作国:イギリス


殺し屋たちの挽歌
 肉体に刻印された行動生態学の宿命と戦うのは、好ましい意気地だ。ジョン・ハートにとっては、それは女性を前にした求愛の無意識の挙動に抗うという形で表現されている。自然へ反逆する課題が、キャラクターへの受け手の好悪の誘導に利用されている。



 戦闘機対戦車 [1973]
 監督:デヴィッド・ローウェル・リッチ 製作国:アメリカ


戦闘機対戦車
 いかなる選択をしても、負傷者の予後には見込みがない。かかる予断が、成り行きに対するわれわれの興味を腐食させる一方で、舞台の広漠性が、あらゆる感傷を気化させ吸収してゆくような、場違いなポエジーもある。



 監督:ウォルター・ヒル 製作国:アメリカ


ザ・ドライバー
 寡黙なアジャーニという、好ましくも嘘くさい造形性が、後になって、その好ましさを温存しつつ、少し乱される所がよかった。追走する車内で、躯幹を侵食する慣性のざわめきが、女を少女の顔にするのだ。



 クンドゥン [1997]
 監督:マーティン・スコセッシ 製作国:アメリカ


クンドゥン
 作り込むほど、エスニックツーリズムな胡散臭さが現れるのは、作り物ゆえに当たり前だが、不可解なのは、その作り物の最たる毛沢東の額には、存在一般の持つ確からしさに圧倒されてしまう。アレは、語り手の憎悪を体現するものであって、その憎悪だけがこの話では作り物ではないのだろう。


 監督:黒澤明 製作国:ソ連・フランス


デルス・ウザーラ
 尻尾を振る子犬のような「かぴた〜ん」の媚声をうれし恥ずかしく享しめるのは、政治的な正しさから無縁だからだろう。危機の創造と展開にあたっては、有無も言わせず事象を受容させるような、純化した技術論の迫力がある。



 監督:クロード・ルルーシュ 製作国:フランス


愛と哀しみのボレロ
 フランス語圏の受け手以外を想定しないような、ドメスティックな感傷に依存した話に見える。作りの計算高さは、美術に好ましい効果を及ぼしているが、同時に、箱庭感によって感傷が閉塞して、普遍性に至り得ないのではないか。


 白熱 [1973]
 監督:ジョセフ・サージェント 製作国:アメリカ


白熱
 一生、南部の田舎で密造バーボンを配達するという諦念。つまり、生活があるということの恐ろしさが把握されると、復讐は生活感の中に埋没し、話は絶望的な参与観察へと変貌を遂げる。




 監督:ジョン・フリン 製作国:アメリカ


ローリング・サンダー
 殴り込みにトミー・リーを巻き込むことへ呵責が存在しないことの好ましさ。あるいは、Let's clean upの呼び声に反応するその挙措の昂奮。これは何か? かつての訓練によって習慣化した徳性が倫理を圧し殺した時、彼らは逆説的に自由という現象を体験しているのだ。


 忍びの者 [1962]
 監督:山本薩夫 製作国:日本


忍びの者
 事件を動かしているのはあくまで雄之助で、雷蔵は状況に翻弄される。それをいいことに、雄之助はおふざけが過ぎ、加藤嘉ら脇役組と藤村志保の汎モンゴロイド顔が物語を型にはめる。



 監督:ウディ・アレン 製作国:アメリカ・スペイン


恋のロンドン狂騒曲
 キャラクターの抱える課題が、当人のネガティブな性質に去来するならば、課題は効果的に発現する。この話は、『重罪と軽罪』や『夢と犯罪』で果たされなかった、劇中で犯された罪の実感の表現を、キャラクターの抱える生来の課題と連携させることで成功させていて、たいへん感心した。


 監督:ウディ・アレン 製作国:アメリカ・イタリア・スペイン


ローマでアモーレ
 語り手の攻撃性が露呈していて、それがこの訓話を訓話じみて見せてしまうと思う。この中で好感が持てるのがカンツォーネの話だが、これも『ブロードウェイと銃弾』の焼き直しと言えばそうであり、しかも後者の方が切迫感はずっとあった。



 真夏の方程式 [2013]
 監督:西谷弘 製作国:日本


真夏の方程式
 これは前作と違って、事件の解明と人生の課題の暴露が十分に連携できていない。全容解明後、前田吟の人生の物語が始まるが、本編から独立した話に見えてしまい、吟の小物性が暴露されただけで終わっているように感ぜられた。概して、人の罪悪感におもねり過ぎというか、罪悪感の効用を信用し過ぎだと思う。


 監督:李相日 製作国:日本


許されざる者 (2013)
 柳楽優弥の、いかにも邦画然とした狂躁感が、後半、罪悪感の表現に至って、原作を超える感傷をもたらしている。おそらく、彼に対するわれわれの不快が贖われた、という浄化もあるのだろう。渡辺謙の育児放棄はよくわからない。



 日本の黒幕 [1979]
 監督:降旗康男 製作国:日本


日本の黒幕
 降旗にとっては苦手な題材で、もはやネタと割り切って見てしまった。そんな中にあって、田村正和と田中邦衛だけは相性が良かったらしく、ノリノリに撮られている。二人の役者としての資質が近いことがそれでわかってしまう。邦衛は『冬の華』と『夜叉』でも印象深い。そして、どの演出家でも変わらない高橋悦史。

 監督:ギレルモ・デル・トロ 製作国:アメリカ


パフィシック・リム
 この隊長の源氏物語には、トロの欲望亢進に構造的障害をもたらしている。トロの邪念は、芦田愛菜に鬼気迫る演技をもたらす一方、凛子にはまるで火がつかない。隊長は、自分好みの女にすべく愛菜を育てるのだが、それが凛子になってしまうわけで、これではトロの欲望に反する。トロの邪念の反映であるドイツ人ギーク組も、あまりにも自己同一化しすぎたためか、最初は力が入りすぎて、そのマンガ然としたたたずまいが不快である。ところが、このギークらは凛子よりもよほど事件のトリガーになってくるし、しかも、次第に彼らの意気地が好ましくなってくる。邪念が普遍的なエンタメに昇華する様は、えらいというほかはない。

 監督:ウェス・アンダーソン 製作国:ドイツ・イギリス


ホテル・グランド・ブダペスト
 ユダヤ人が存在しない架空性によって、30年代を舞台にしながら、戦乱がWWIIではなく、むしろそこにWWIが混入するような眩惑が生じている。かかる人工甘味料な風合いは、稠密な美術とのこの上ない相性となる一方で、下敷きにしたツヴァイクの文明的喪失感は希薄化されている。失われたという感覚は、半ば強引に、時代の入れ子構造でたたみかけるように感傷を投入しないと、表されない。

 清須会議 [2013]
 監督:三谷幸喜 製作国:日本


清須会議
 語り手としては、自分の辛辣な本性と向かい合いたくはない。ところが、その辛辣さこそ、この話の興業性を担うものに他ならない。無能というものを不快な事象として描くとき、この話は異様な光彩を放つのである。


 監督:クリストファー・ノーラン 製作国:アメリカ・イギリス


インターステラー
 本作のロマネスクには、『インセプション』のレオ夫妻の悲嘆がそうであるように、中身を伴わない記号である印象を受けてしまう。危機を知りながら、親父を執拗に攻めるジェシカ・チャステインのわからなさが最初のつまずきで、特異点で過去と交通する唐突さには、たまたまロマネスクが成り立ってしまったという軽さが際立ってしまう。結果、ロマネスクに必要な、至誠が通じた実感に欠け、本作のロマネスクそのものが本編から乖離するように見える。あるいは、そもそもロマネスクなど存在したのだろうか。

 監督:マーティン・スコセッシ 製作国:アメリカ


ウルフ・オブ・ウォールストリート
 話の伝えたいことは、売人のジョン・バーンサルの言動がすべてで、レオはその価値観を担うために、あえて空疎に構成されている。死せるバーンサルの意思が、レオの経由して、セミナー参加者の表情に刻印される様は素敵だが、これは一発芸でもある。



 悪いやつら [2012]
 監督:ユン・ジョンビン 製作国:韓国


悪いやつら
 のび太やスネ夫は、ジャアニズムという蛮性の世界から逃れるべく、才覚と機転で階層を上昇するが、そのたびに、ジャイアニズムはより巧妙に変成されて、われわれの前に立ちはだかり、のび太やスネ夫であることの意味を突きつけるのである。


 フューリー [2014]
 監督:デヴィッド・エアー 製作国:アメリカ・イギリス


フューリー
 語り手自身が混乱していると思う。米兵の捕虜殺しを描画してリベラルを装うと思えば、SSは人間じゃないから殺しても可と人権の留保が来る。歩戦協働を教典の引き写しのような厳密さで描いたかと思えば、最後はマンガになる。西部戦線でアレは悲壮というよりもドジな感じがする。


 新しき世界 [2013]
 監督:パク・フンジョン 製作国:韓国


新しき世界
 地位が人を作る機制を信用し過ぎていて、力の裏付けが実感しがたい。が、このマンガらしい現実腐食は、時間が進むと、受け手の感性を摩耗させ、実効性のある記号の呼び水ともなる。形式が人を重厚にする現象が最後には成立している。



 悪の法則 [2013]
 監督:リドリー・スコット 製作国:アメリカ・イギリス


悪の法則
 理解を超えるものは、行動を以て表現するしかない。したがって、キャメロンの内面開示がほかのキャラと同様に行われると、かかる俗化で、追われることのスリラーは望むべくもない。むしろ、驚きは転倒した形でやって来る。キャメロンが理解を超えていた、という発見はラストで行われ、それが過去へと遡及する中で感傷が見出せないか、という話術が採用されている。

 監督:是枝裕和 製作国:日本


そして父になる
 これは、よほどフランキー側に問題がなければ現状維持が妥当で、そもそも観察に値する現象とは思えない。それを無理に物語の形に落とし込むため、福山の造形が紋切型になる。ただ後半、福山によるネグレクト案件になってくると、彼のマンガ性が、子どもが早く救われろというスリラーを醸成する。真木よう子も媚の売り過ぎで、よろこばせてくれる。

 凶悪 [2013]
 監督:白石和彌 製作国:日本


凶悪
 老人の虐待は、褒められたことではないとはいえ、世代間の怨念がある以上、そこに嗜虐心を見出してしまうのは自然な感情である。ゆえに、虐待の場面で、淡々とやればよいところを、殊更に煽情的な撮り方をして、背徳感を呈示されても、こちらそれを人情として仕方のないものと考えるから、ここに作品との距離感が出る。

 監督:ポール・グリーングラス 製作国:アメリカ


キャプテン・フィリップス
 これはわからなかった。スリラーになるような戦力比ではないし、事件によって醸成される人生の課題がハンクスにあるわけでもない。もっとも観察に値するのは海賊たちだが、彼らの窮乏は、二時間にわたるハンクスの豚のような喘ぎ声に圧殺されている。


 監督:高畑勲 製作国:日本


かぐや姫の物語
 美術設定の詳細さという形で、見える文化資本へ執着する結果、見えないそれへの等閑視が浮き上がり、社会階層の往来が簡単にできてしまう原作の違和感が強調されてしまっている。物質への執着は、それ自体、決して印象の悪いものではないが、この極限にあるのが、穢れる穢れないの二分法であったりもする。

 監督:ラージクマール・ヒラーニ 製作国:インド


きっと、うまくいく
 言葉に不自由する異邦人への差別と筆記試験批判が両立するのは奇観でもなんでもない。どちらも階級間の流動性を否定しようとしている。この価値観を美談としては受け入れがたい。




 監督:パオロ・ソレンティーノ 製作国:イタリア・フランス


グレート・ビューティー
 俗物性の共鳴が祝祭となって、虚業が現金化される過程には、業界の内幕もの特有の、観察に値する詩的密度がある。何よりも、オッサンの生態記録だから他人事にできない。




 暴走特急 [1995]
 監督:ジェフ・マーフィー 製作国:アメリカ


暴走特急
 不器用であることの緊張感があって、寡黙であれば身体と顔面の調和がある。そこから声が発せられると、軽々しい音韻で調和が離散する。他方、セガールの名前が共有されていることで、業界があるという感覚が提示されている。この感覚は、ますます準密室化した舞台に広がりを与え、不器用なる顔面を運ぶ柔軟な四肢が情動の幾何学に勤しめる場所を提供する。

 ことの終わり [1999]
 監督:ニール・ジョーダン 製作国:イギリス・アメリカ


ことの終わり
 レンズの違いがカットのつなぎをしばしば妨害するのは、どんなルックを以て話を表現するか確信がないからだ。かかる確信のなさは、逆に、確信のない話にはまることもある。たとえば、望遠で顔面一杯に広がる顔面をフォローするカメラは、状況が見えないまま、何かが進行しつつあるという感覚を、浮遊感という形で表現している。

 監督:デヴィッド・フィンチャー 製作国:アメリカ


ゴーン・ガール
 不思議な感覚があって、怪物性というわからないものから話を眺めようとすると、それは理解できるものであって怪物にはならない。怪物性がこのように欠如しながらも、行動はいきなりサイコになるから、コントという様式以外にこの矛盾を表現する術がない。かかる矛盾の総決算として生じるのが、あの女傑がなぜベン・アフレックとこれまで4年間も暮らしてきたのか、という違和感である。

 暗殺の詩 [1973]
 監督:ロベール・アンリコ 製作国:フランス


暗殺の詩
 これは無理筋ではないか。トランティニャンに対する解釈はマルレーヌ・ジョベールの方が常識的だ。ノワレののめり込みは病的で、受け手の共感から逸脱している。真実に対する近しさはどうであれ、常識を逸脱したという印象は覆されず、アンリコらしい女性嫌悪が露呈している。


 ザ・イースト [2013]
 監督:ザル・バトマングリ 製作国:アメリカ・イギリス


ザ・イースト
 仕事ができるという属性とヒッピーの親玉に共感してしまう情緒的な部分が、両立できないように見える。ヒッピー側に、これらの属性を止揚できる魅力は設定されておらず、恋が脚本の都合で左右されている印象が出てくる。そもそも、提示されている課題は現行法で対処可能と思われる。


 監督:園子温 製作国:日本


地獄でなぜ悪い
 現代邦画らしい、受け手のリテラシーをまるで信用しない回想説明の冗長さは、いつかしか、本来の目的とは逆行して、現実とマンガの境界を曖昧にする。つまり、これは、人が死ぬことができる世界なのか? 死の信憑性の薄さは、フィクションの非実用性を含意する。しかし、あえて曖昧にしたい欲望もある。結論を下さないことで、夢を追い続けたいからだ。それはやさしさであり、搾取でもある。

 監督:ウェイン・ブレア 製作国:オーストラリア


ソウルガールズ
 身の程を知ってしまった話で、内在化された差別が、解決すべきハードルを設定しえないほど、娘らの行動を軌条に載せている。したがって、観察すべきは丹下段平の救済であるが、これは課題が言語化された途端、すぐに回収される。



 ロボット [2010]
 監督:シャンカール 製作国:インド


ロボット
 仕事ができるという美徳の実効がある。かかる美徳が必要とされる危急の課題が設定されるからだ。ひとつの課題がクリアされると、恋愛問題という新たな障害が投じられる。アクションに感情がともなうように、人生の課題は形を変えて持続する。ただ、それに応じて、主人公の人格が一貫しなくなる。

 監督:長谷部安春 製作国:日本


野良猫ロック セックス・ハンター
 立川と民族浄化という、ほんらい結びつくはずもない言葉が結合していて、事件が事件として成り立つのか、疑問に思った。そこで藤達也の意図が解らなくなり、半ば幻想化するあたりになってきて、ああ大和屋脚本だ、となる。



 逃げ去る恋 [1979]
 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


逃げ去る恋
 終盤の階段のところでレオが告白する際、語り手は告白を受ける相手の挙動の一々を見せてしまう。感情の解釈を強制的に定着させられるというのはなぜか気まずい。聴き手の反応を見せず、解釈は受け手に任せた方が楽でオサレだろう。 しかし、リスクはあっても語り手はあえて呈示したわけで、それはそれでひとつの勇敢さなのだろう。

 監督:リチャード・コンプトン 製作国:アメリカ


ソルジャー・ボーイ
 道中で男たちが被る瘧使の内容に手抜かりがない。程ほどに神経に触り、かつ記号表現に堕さないような現象が考えられている。この繊細さからすると、最後の荒々しい展開は、病理の表現を果たしながらもジャンル的飛躍である。



 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


日曜日が待ち遠しい
 ファニー・アルダンの堤真一顔が、なめらかなシトロエンの平滑面に映えながら街路を運ばれてゆく。その野性的な顔貌を隣でトランティニャンが不安そうに見守っている。



 監督:ニール・ラビュート 製作国:アメリカ


ベティ・サイズモア
 自助努力の人であり、人生の課題も明確なモーガンが、偶然依存のレニーに引きずられる様は気に食わないのだが、この口惜は、この女性の異教的情景にある悲痛な魅力をモーガンと共有できた証拠でもあるのだろう。


 アメリカの夜 [1973]
 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


アメリカの夜
 監督が選択をした、というただでさえ危うい実感を構成するための儀礼が、相変わらずヌーボーとしたレオの諦念顔に阻害されている。ナタリー・バイの尻という肉体言語がかろうじて現場という現象を支えている。



 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


恋のエチュード
 硬化した表情の特性を悪用して、男は真顔で蛮行に走る。われわれはコメントで男の真意を知るしかないが、女たちは男に肉体の圧迫を試み、面の皮の底に眠る、男の逆説的理性たる助平顔を搾り出そうとする。


 グラン・プリ [1966]
 監督:ジョン・フランケンハイマー 製作国:アメリカ


グラン・プリ
 日本語でさえダイコンなのに大丈夫なのか三船、というウルルン滞在記的緊張は、表彰台で極限に達する。





 監督:ショーン・ペン 製作国:アメリカ


イントゥ・ザ・ワイルド
 親の不和に由来する家庭事情はそのままでは人生の課題として弱いように見える。自分に起因するものではないからだ。ゆえに、放浪と課題がリンクできず、単なる遭難事故の話になってしまう。だとしたら、ディスカバリーチャンネルをやるしかないが、文芸的矜持がそれを許さず、妥協案として出てくるのが、髭面の悶絶動画。そんなものは見とうなかった。

 激動の1750日 [1990]
 監督:中島貞夫 製作国:日本


激動の1750日
 エンタメという事態を成立させるための、適切な情報量があるのだろう。序盤において、それを確保すべく時間を押しとどめていたバランス感覚は、山一抗争の勃発に至り、多発するイベントの追尾に忙殺されることで、時間を止められなくなり、費えてしまう。

 たまこラブストーリー [2014]
 監督:山田尚子 製作国:日本


たまこラブストーリー
 物語の根本を担う、痴性への聖性の仮託が、性愛によって無効となりつつある。破たんの気配から逃れるかのように、視点は散乱し、カットは逃げ水のように飛んで行く。にもかかわらず、何事かが時間を滞留させる。


 柔らかい肌 [1964]
 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


柔らかい肌
 オッサンの性欲をどう表現するか。いつものトリュフォーの課題が生じていて、表情の乏しい顔面が性欲の表現を担わないから、ほとんど奇抜と言ってよい正直な実践として、性欲が表される。



 終電車 [1980]
 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


終電車
 抽象的な舞台装置と乱雑な舞台裏を往来しても、視覚的な亀裂が生じない。語り手の集中力のなさが、人を動かしてカットをつなぎとめるという技術的な勝利に貢献している。だが、これらは互いに侵食を企てる。侵食するから、愛の形が不明瞭だ。しかし、互いに侵食するから、ドパルデューのだらしのないアゴが伸びる。形がないのなら、そのアゴで作ればいい。カトリーヌ・ドヌーヴの愛を探り当てるために。

 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


アデルの恋の物語
 人を不快に慣れさせないための、漸進的に亢進する病理が、映画の時空間を巻き込み、それを信用におけないものにしている。騎乗演習中のピンソンをストークするアジャーニの移動距離から、瞬間移動的な違和感は始まり、最後のバルバドス島に至るや、この島がハリファックスにねじり込まれているような見当識の障害に達する。アジャーニの身体は、もはや時空を担うことをあきらめ、不快の感覚は、バルバドス島の白っぽい土壁に沈み込む、黒ずくめのアジャーニという色彩の対比で表現される。修羅場での、怪獣映画然としたモーリス・ジョベールの劇伴は沸かしてくれるし、本屋(ジョゼフ・ブラッチリー)のエロ顔もいつものトリュフォー印。

 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


私のように美しい娘
 男の生理を以てしか、存続を許されない愛により、女は一種の現象として描画される。他方で、意味を語りたいという当然の邪念が、ただの現象であるはずの女に憎悪を抱く。受け手であるわれわれも、その憎悪に引きずられるが、現象は対象になりえず、感情の掃け口がない。現象でありながら意味が定着する場所。あるいは、意味が定着しながら、現象であり続ける場所。最後に、密かに現象を意味化しようとするタイプライターの打鍵の行為がもたらす解放感がそれである。

 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


トリュフォーの思春期
 犯罪の計画にせよ、虐待の解明にせよ、来るべきものは判然としている。わからないのは、林間学校のキスで、その計画は悪意を思わせるようでいて、未来はまるで異なっている。計画の可否をめぐって未来へ向かい、課題の回収のために過去を指向して錯綜する情報を統制した建物の立体構造は、また、受け手を驚かせるために、悪意と善意を連結する回廊をも隠ぺいするのである。

 恋愛日記 [1977]
 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


恋愛日記
 ただモテるという現象が先行していて、モテを誘発した男の人徳らしきものは、モテるという挙動を重ねるうちに、自ずと表現されるだろうという期待がある。男は、現象に追いつくべく、そして、自分を知るべく、疾走を続ける。しかしながら、トリュフォーらしく、この追撃には、スピードに似合う悲壮感がなく、ただ笑いがある。男の人徳は、かくして、表現されるのだ。

 家庭 [1970]
 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス・イタリア


家庭
 ルームメイトとやり取りするキョーコの芝居が強烈なのは、演出の統制が及ぶべくもないからだ。あの不穏さは、感情のマグマ溜まりとして働き、語彙の制約でそれを直截に表現できないほど、官能のほてりは匂うように、大気に拡散する。レオが、この気まずさにまるで感応しないのは、苛立ちを誘うのだが、今回やたらと脱ぎたがる彼の裸体には、キャラクターの造形とはおよそ似つかわしくない、隆々とした筋肉が備わり、違和感を爆発させる。気まずさは、実のところ、裸体に表現されている。これらの緊張は、女の本音にたどり着くことで、一気に寛解する。

 監督:ベン・スティラー 製作国:アメリカ


トロピック・サンダー / 史上最低の作戦
 リアリズムの水準を下げなければ、コメディは成立しない。しかし、水準を下げるあまり、全てが八百長となった舞台上では、物を語るという論理的な営みは無効となる。ベン・スティラーの天然性が問題で、天然ゆえの、何でもあり的な可塑性が、現実の幾何を拡張し駆使するのはよいとしても、しょせんは天然だから、受け手にとっては、彼に信頼の根拠を見出し難く、物理法則の地盤が液状化するような眩惑に絶えず見舞われる。このとばっちりを作中で最も喰らう麻薬組織こそいい面の皮で、その扱いは人種差別に近い。念入りな政治的配慮は、その後ろめたさの裏返しだと思う。

 テッド [2012]
 監督:セス・マクファーレン 製作国:アメリカ


テッド
 笑いをもたらしうるような、社会経済のひずみを、これでもかと排除する無菌室のような話である。目指すところは、コメディではなく、ある種の理想郷の描画にあるのだろう。反面、ぬいぐるみの挙動は実に精巧にやっていて、ぬいぐるみの外貌の抽象度とアニメーションの技術水準がマッチングしている。保育器のような無害な話は、ぬいぐるみの脆弱な身体への興味と配慮の反映である。

 監督:山下敦弘 製作国:日本


もらとりあむタマ子
 ここで扱われている事象を社会問題化してしまうと、相当嫌味な話になったはずである。前田敦子に生まれ落ちた時点で、これほど勝ち組な人生も珍しいからだ。したがって、自分が美人であることを知っている人間の困惑を観察するアイドル映画に落とし込むのは正しいと思う。

 監督:フランソワ・トリュフォー 製作国:フランス


夜霧の恋人たち
 多動性障害が社会に受容される様が表現されていて、気送管や靴屋の構造といった、その過程で用いられるガジェットの濃密さが、飽きさせない。派生するゆるふわな恋愛観も、タバール夫人の造形として要約されることで、何か深いものを見た感を与えてくれるようだ。


 監督:ジョニー・トー 製作国:香港・中国


ドラッグ・ウォー 毒戦
 凡人こそ殺人マシンとする世界観が、香港人のナショナリズムを仮託されるかたちになっている一方で、凡人の報復を喰らった公安のオッサン(スン・ホンレイ)は、なぜゾンビ化してまで戦うのかという、不思議な情熱で物語を普遍化する。ラム・シューを組織の参謀役と定義した前後辺りから、次元が歪む。

 フライト [2012]
 監督:ロバート・ゼメキス 製作国:アメリカ


フライト
 フィクションとはいえ、依存症の救済のために人死にを出すとなると、そんな大事をせずに断酒会に集う人々はどうなるのか。体験を書籍として売り物にするデンゼルの神経もわからない。入試のエッセイ目的で親父と和解する息子もどうかと思う。これを災害ムービーとしたり、断酒の可否をスリラー扱いにしてはしゃぎ、コカインで目覚ましする方がよほど正直で好感が持てる。観察していても愉しい。それこそ人間の営みだからだ。

 監督:ジョニー・トー 製作国:香港・中国


名探偵ゴッド・アイ
 アンディ・ラウの亢進する甲状腺が、受け手を飛躍に馴らしながらも、本当に飛躍すべきではないものについては、われわれは確実に認知できてしまう。終盤手前の車中でアンディがサミーに行ったいちゃつきは、彼の造形からすれば明らかな飛躍である。わたしたちは、この飛躍を認識して、違和感を覚えることができてしまう。飛躍すべきものと、すべきでない事象を、この話は分別している。

 柘榴坂の仇討 [2014]
 監督:若松節朗 製作国:日本


柘榴坂の仇討
 取り立てのところで、滅びゆく人種の連帯感がよく表現されていて、彼らの美意識や人種性の中身以外に、それが知らないところで共有されていること自体にも感動があるように思う。しかし、この連帯感が、中井と阿部の関係を規定すると、状況は八百長に堕する。未練の粉飾に互いが互いを利用し始める。

 舞妓はレディ [2014]
 監督:周防正行 製作国:日本


舞妓はレディ
 娘はサラブレットだから、ある日、唐突に芸が出来上がってしまい、課題が解消される感覚は、周囲の人物たちに担われている。それは、過去に無駄と思えた投資が、今、娘のサラブレット性を通して、結実した感覚。つまり、虚業に意味があったこと。ここから時間の概念が生じ得ている。

 罪の手ざわり [2013]
 監督:ジャ・ジャンクー 製作国:中国・日本


罪の手ざわり
 語り手の資質にとって異質なものが表現されるとき、現象は記号じみてくる。この偽物感は、本編の方にも、俗物が背伸びしてインテリを装うかのような気まずい感覚をもたらしかねない。しかし、同じうさん臭さでも、マンガ的見世物の方は、とにかく驚かせてやろうという意気込みがあって、好感がもてる。

 テロ、ライブ [2013]
 監督:キム・ビョンウ 製作国:韓国


テロ、ライブ
 巨大な構造物が崩れる実感を、その巨大なる感覚を維持したまま、微視的な視野で把握する作業は一種の矛盾である。モニターに映る倒壊しつつある物体が、直に破壊を及ぼすに至るまでの重々しいタイムラグが、その矛盾を乗り越え、かかる感覚を表現している。破壊される構造物の様相を、転覆しつつある巨艦のブリッジのように表現するのも、適切であると思われる。犯人が全知全能に近いため、話はご都合主義にとどまるのだが。

 クロニクル [2012]
 監督:ジョシュ・トランク 製作国:アメリカ


クロニクル
 どんなに破壊を行っても、感傷とアクションを幸福に出会わせる文化祭の大道芸には、映像のテクニカルな面でも、まるで及ばない。そもそも、なぜあのような破壊が行われつつあるのか、修羅場の最中で我に返るほど、大友克洋をやる必然性がよくわからない。家庭の貧困問題の解消も童貞性の克服も、すでに大道芸の延長線上に見えているのだ。破壊をやる必要性がない。

 監督:ライアン・ジョンソン 製作国:アメリカ・中国


LOOPER / ルーパー
 ウィリスの話が捨て石にされるとは思ってもいないから、中盤でエミリー農園の話が長々と始まると、進行しつつある事件を意味のあるまとまりとして把握できなくなる。クラビティのサンドラの愚痴のように、演出家脚本のバランスの悪さが露呈している。ウィリスの感傷の破棄は、ジョゼフの決断を裏打ちする感傷を破損しかねず、彼の行動は衝動的な自殺の域を出なくなる。改善案を考えるに、ウィリスのバーサーカー性をもっと強調して、 ジョゼフの自決がウィリスの願望をも充足させるような、一種の死に場所探しをやるべきではなかったか。

 荒野の決闘 [1946]
 監督:ジョン・フォード 製作国:アメリカ


荒野の決闘
 バーテンダーのジョセフ・ファーレル・マクドナルドをはじめとする群衆は、その表情を以て、状況が緩和されたのか緊張されたのか、受け手に教えてくれるだけにとどまらない。彼らは状況を定義することで、凡人のモラルをも表現する。それは、超人になりがちなフォンダらには担えない営為だ。


 監督:デレク・シアンフランス 製作国:アメリカ


ブルーバレンタイン
 過去と現在の相互参照によって、たとえ昔日に危機があったとしても、今ではミシェルは俺ものだという安心感はある。だが、可能性の担保が恋愛を燃え上がらせるが如く、やがてわれわれは、疲れた主婦のタヌキ顔が男を手当たり次第に狂わせる魔性へと変成する過程を目撃する。


 監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作国:アメリカ


バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
 結末の現実腐食そのものは、話を堕落させていると思う。これまで仕込まれてきた超現実の描画が遡及的に意味を失ってしまう。ポイントは、現実腐食の有り様ではなく、娘エマ・ストーンによって、それがどう解釈されたかにある。あの現象に接したエマの反応が、語り手の邪念の体現たる彼女のファザコン性を人間に対する善性一般へと引き上げるのだ。

 監督:ガイ・ハミルトン 製作国:イギリス・アメリカ


007 ゴールドフィンガー
 ダーティボムの解体にあたって、土壇場で職人に救われる構成が、多彩な感傷に貢献している。あそこには、ボンドが独りで戦うことの哀切さがあって、かつ、かかる尽力が認知されていることも表現されている。Qたちを初めとする裏方の職人性も、そこで報われる。そしていうまでもなく、プッシー・ガロアが違う人生を見出す話でもある。

 監督:テレンス・ヤング 製作国:イギリス・アメリカ


007 ロシアより愛をこめて
 旅客車のコンパートメントの構造が、カバンのガス噴射に至るようなピタゴラスイッチ的顛末の予測という吉兆ないし凶兆の制御を通じて、あの莫迦らしいガジェットの数々を生かしている。何よりも、手狭な空間で行われる立ち回りという現象自体が、痛みの触感を伝えてくれる。


 監督:北野武 製作国:日本


龍三と七人の子分たち
 老人に対する周囲の善意によって、かろうじて成立している綱渡りのような話であって、あくまで現実に定着しようとする半グレたちは、同時に、かかる空想の産物らを壊しはしないかと気の使い過ぎで、気の毒に見えた。ただ、この俗謡調は、次第に老人の生への諦念を表現し始める。

 チャッピー [2015]
 監督:ニール・ブロムカンプ 製作国:アメリカ


チャッピー
 成功したナードという語り手の知的解体的な自己投影によって、主人公の行状が観察に値しなくなる。成功したから、課題がない。AI云々は卑近の課題であって、どうしても解消したい人生の課題とは性質が異なる。チャッピーにしても、人生の極限性という課題が設定されながら、それを積極的利用とする意図がみられない。この課題は工学的に解消されてしまう。技術的に解消可能ならば、フィクションが扱う話題ではない。『第9地区』と同じで、終盤で本源的な孤立状態が作られ、それでようやく、彼らに人生の課題が訪れるのだが、それでは遅すぎる。チャッピーの育成を経由した疑似家族の有様も、鑑賞に値しないとは言えないのだが、これもまたナードの空想に基づく理想主義に還元されてしまう。

 天と地と [1990]
 監督:角川春樹 製作国:日本


天と地と
 人間が下品な挙動を起こさないのは、語り手の文化的背景の賜物であると思う。悪趣味は確かに散見されるが、あくまでキャラの心情に対する隔たりがあるため、不快には達しえない。ロマンチックな冷静さというこの自己矛盾は、戦場の表現には苦労している。しかし、人物の顔面に現れ出る、マンガのようなストレスの蓄積が戦場の混乱と共鳴すると、何事かが語られ、映画が立ち現れた感じがしてくる。

 監督:リチャード・リンクレイター 製作国:アメリカ


6才のボクが、大人になるまで。
 依存症教授の不穏さがおもしろすぎて、話に対して誤った期待を抱いてしまった。構成上、場当たり的に投入される不穏当さの数々にも、リンクレイター節の大河ドラマを時間の滞留として誤認させる働きがあるように思う。大山鳴動した挙句、何かビジュアル的に小汚いものが産出しただけに終わった感じがするのだった。

 フィクサー [2007]
 監督:トニー・ギルロイ 製作国:アメリカ


フィクサー
 ストレス耐性を備える女性という生き物に、あえてストレスを与えてみようという、奇特な観点がある。便利屋部隊が便利すぎて、話に緊張を見出す術はないが、ティルダがストレスに耐えてしまうため、便利屋部隊の放縦が事態をどこまでも進めてしまう依存関係ができてしまう。ティルダの脇汁トイレ悶絶の迫力をクールダウンすべく、クルーニーはタクシーで流す。

 監督:マーティン・キャンベル 製作国:イギリス・アメリカ


007 ゴールデンアイ
 瞬間的な印象に反応しがちなナターリアは、ボンドへの発情するに際し、細かな段取りを踏まない。Qのバゲットサンドや出歯亀海兵隊が伏線を踏んで、私たちをよろこばせるだけに、彼女の造形のまとまりのなさが気になる。ただ、ボールペン爆弾のノック芸が、理性の営みと女の原情動を統合しているように見える。

 監督:中平康 製作国:日本


危いことなら銭になる
 たとえば、武智豊子の老醜が、シガーというガジェットによって好意的に包摂される。遁走する宍戸の、脱兎のようでいて同時に緩慢な逃げ足の醸すこそばゆい滞空感が、話のこうした親和力を象徴するかのようだ。浅丘ルリ子の魅惑的な肉体言語についてはいうまでもない。

 監督:藤田敏八 製作国:日本


八月の濡れた砂
 準拠点としての藤田みどりの役割が事前には軽く見られていて、事後にならないと、その案外と広漠とした影響が実感できない点に、喪失感の表現が託されている。原田芳雄と渡辺文雄が相変わらず安定していて、観察が楽しい。


 監督:紀里谷和明 製作国:アメリカ


ラスト・ナイツ
 表現したい徳に簡明さがなく、それを行動で表現するには曖昧すぎるとすれば、かかる行動が徳であると定義を与えてくれるような、指標となるキャラに依存するしかない。それが伊原剛志なのだが、すでに主人を亡くしコンフリクトは終わっていて、あとは本懐を遂げるだけのオーウェンに比すれば、莫迦大臣に仕える伊原の方が、よほどフューダトリーな徳を表現しやすい環境にあり、実際そうなっている。

 監督:リチャード・リンクレイター 製作国:アメリカ


ビフォア・ミッドナイト
 9年前、男を誘ったあの尻は肥大し、浜辺に打ち上げられた鯨のような肉塊となり、彼の眼前で豊饒な脂を湛えている。自ら進んで脂の海へ乗り出す男の勇気は、役者根性の発露としか見えないほど、事態は男にとって懲罰と化している。すべてはこの莫迦男の咎だから、そう見えるのは自然である。だが、男への共感は拒まれながら、あくまで話の視点は男へ固執してしまうから、話は離人感に付きまとわれる。

 監督:ポール・トーマス・アンダーソン 製作国:アメリカ


インヒアレント・ヴァイス
 当為性の微光が人情話と交織したい底意は否定しようもないため、偶然からの崇高な解放というよりも、懐古趣味の条件反射というか、舞台を成立させるためのテクニカルな要件に規制された思考や行動が、一種の混濁として現れているように見える。


 監督:押井守 製作国:日本


THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦
 職業倫理や義憤で真野恵里菜が動くのであれば嘘くさいだろう。しかし、森カンナへの嫉妬であるならば受容できる。三角関係の表現も下品になっていない。カンナの神秘化のさじ加減にも節度があって、最後には前作の柘植並があるいはそれ以上に、虚無の明るさや前向きさの表現に至っている。

 監督:クリストファー・マッカリー 製作国:アメリカ


ミッション:インポッシブル / ローグ・ネイション
 キャラの強度を競う点では、事態を動かしているショーン・ハリスに分があって、トム・クルーズはその敵ではない。ショーンが戦っているのはトムではなく自分自身である。つまり、レベッカに対する甘さとして現れてくるような、自分の性衝動と彼は戦っている。トムが迷うことなくレベッカの尻を追いかければそれでよいだから、ショーンのムッツリスケベ性の悲劇性は明らかだろう。

 大殺陣 [1964]
 監督:工藤栄一 製作国:日本


大殺陣
 人体を破壊するというよりも、この作り事からどうしたら人体を破壊したという実感を得られるのか、という焦燥があり、さらにこの感覚は逆転して、これだけ焦燥するのだから、何かが起こったという実感は生まれるだろう、という願望がある。事の大きさに似合う憎悪をあえて設定しない文芸に体がついてこられず、悲鳴を上げている。

 監督:アラン・テイラー 製作国:アメリカ


ターミネーター:新起動 / ジェニシス
 何度でもやり直せるなら感傷は醸成されない。それは、人生が一つしかない人物に担われるものだろう。碌な知識もないまま彼らを待ち続けた、J・K・シモンズの信仰に近い確信に勝るものを本作には見出せなかった。


 カジノ [1995]
 監督:マーティン・スコセッシ 製作国:アメリカ


カジノ
 有能さという観察に値する好ましさをデ・ニーロらが担うとすれば、シャロンは生物としての雄の宿命的な悲痛を焦点化することで、宇宙の構成を概観する力に物語を委ねようとする。この視点は、後背に控える組織の広がりの描画を可能にするとともに、性の宿命を規定したはずのシャロンを逆照射し報復を加える。

 狂った野獣 [1976]
 監督:中島貞夫 製作国:日本


狂った野獣
 この話の下世話さは、鶏小屋に突っ込むバスによく表れていて、実に他愛もない場面を高速度撮影で一大事のように扱う大仰さがある。混乱するばかりだった乗客たちをマスメディアの前では豹変させて和解を演じさせる批評精神にも良い印象がない。ただ、この後の展開が気に入った。乗客たちには渡瀬恒彦への好意があり、彼らが渡瀬の成功をほう助しようとするとき、乗客たちは初めて機能的存在として、好感ある造形へと昇華される。環境を素朴に解釈する下世話さがやさしさへと活かさている。『資金源強奪』の前兆をそこに見ることができるだろう。

 監督:マーティン・スコセッシ 製作国:アメリカ・ドイツ・イギリス・イタリア・オランダ


ギャング・オブ・ニューヨーク
 レオに対するダニエルの恩顧がレオに葛藤をもたらすことはなくて、レオの可愛さのあまり、自分の外分を損なうことなく、いかにこれを赦すかというダニエルの手加減の話になっている。ゲイムービー性が緊張をもたらさず八百長と化しており、ダニエルのデレを隠匿する手段にしか見えないほど、最後の徴兵暴動が本筋に絡んでこない。

 監督:ジェリー・ジェームソン 製作国:アメリカ


エアポート '77
 自助努力がハッチを開けるというひとつの段取りに集約されていて、ハードルを次々と超える感じが出ていない。また、それが目的になっていることの認知自体が徹底していない。ぼんやり見ていると機長のジャック・レモンと設計のダーレン・マクギャヴィンが何をモソモソやっているのかわからなくなる。ジャック・レモンが浮き上がってから始まる組織の稼働描画は、救助への切望感も相まって好ましく思われた。ただ、肝心の救助作業が始まってしまうと、ダイバーの大量の臀部を眺めるばかりになる。

 監督:ロジャー・ドナルドソン 製作国:イギリス


バンク・ジョブ
 無能力や腐敗あるいは左派への嫌悪と、受け手の感情を起伏させるきっかけには事欠かない。しかし、これらの嫌悪感が各陣営に無原則に散布しているため、受け手は共感すべき相手を見出せなくなり、かえってその感情は中立化する。オッサンらの職人性への好感がかろうじて話を持たせると思うが、それがジェイソン・ステイサムのお着替えショーへ、つまりオッサンのアイドル映画へと収斂するのは、わたしはうれしいとはいえ、どうだろうか。

 監督:デビッド・ローウェル・リッチ 製作国:アメリカ


エアポート '80
 '75のカレン・ブラックが地獄の蓋が開いたような顔貌で表現していた緊張を実感させるためのタメが、こちらには見受けられない。事が円滑に進みすぎるというか、アラン・ドロンを従えたジョージ・ケネディがミサイルを回避するという絵面があまりにも映画的で、緊張を飛躍してしまっている。結果、ジョージのアイドル映画に堕している。わたしはそれでもかまわないのだが。

 オデッセイ [2015]
 監督:リドリー・スコット 製作国:アメリカ


オデッセイ
 グッド・ウィル・ハンティングからジェイソン・ボーンに至るジミー大西の非来歴性が、この話の緊張に資していない。たとえば、地球での生活が想像されるような個性に欠けるため、多用される監視カメラ視点も相まって、彼を客観視するように強いられてしまう。この距離感と話の底意にある技術屋史観は、イベントの八百長性を暴露しかねない。イモがたまたまあったのではなく、彼を助けるべくイモは配置された。大西の心理への移入がこのアトラクション性を粉飾しえたと思われるが、彼の生来の非属人性がこれを許さない。このようなねじれは、膨れ上がった肉塊をまとう植物学者という造形の奇体さとして現れている。

 バードゲージ [1996]
 監督:マイク・ニコルズ 製作国:アメリカ


バードゲージ
 ゲイという在り方を一種の無能力と表現する以外に術をもたない話である。これは、障害物競争という技術論への終始して、人の価値観を殊更に変えたがるような政治観から逃れようとする態度と関連があるのだろう。しかし、無能力として表されたそれは、かかる技術論と根本的に相容れないように見える。

 監督:ジョージ・ミラー 製作国:オーストラリア・アメリカ


マッドマックス 怒りのデス・ロード
 スプレンディッドを投げ込まれ、キャデラックを転倒させるイモータン・ジョーが痛切である。ウォーボーイの扱いを見ても理解されるように、生物としての雄の哀しさを表現したい向きがあって、またそこに敏感に反応する層への配慮も見られる。ところが、それがあくまで小手先のものに留まっていて、ウォーボーイを軟派化しても移入はジョーの方に向きを変えるだけであり、俺が救われたという実感がそれで呈されるわけではない。雄の宿命的な哀しさ問題は放置されたままになってしまう。

 監督:菱田正和 製作国:日本


KING OF PRISM by PrettyRhythm
男が全裸となり、無数に分裂して襲いかかってくる。そこに笑いはない。理解できないものは恐怖でしかない。やがて、どこか垢抜けない昭和の香りを刹那に見出したとき、わたしたちが思い起こすのは、懐かしき今川泰宏演出の世界だ。『ミスター味っ子』であり『Gガンダム』である。理解できるものはもはや怖くはない。

グラデーションで実体をつぶされた幽霊のような声なきモブキャラたち。プリズムショーの外に社会がない。かかる世界観が少年の自我のない有様となって結晶化すると、事態が進むという現象が純化されてしまう。

悩まないのがいい。しかし、タメがなければ、計画が進むという現象を認知できない。わたしたちがそれを最後に認知できたとき、コンフリクトの内在なくしてタメを作れた脚本の仕事を思いやるのである。

 監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作国:イギリス・ドイツ・カナダ・スイス


危険なメソッド
 フロイトとのファーストコンタクトの1日が好きだ。狭いフロイト家の食堂で料理を貪欲に取り分ける様がよい。モーニングのオッサンらで埋め尽くされたカフェの喧騒もよい。クローネンバーグらしい図解的なカット割りは、心理劇の代わりに風俗観察を丹念に積み上げる。オッサン二人が散歩してヨットで遊んで映画の大半が終わってしまう。浮かび上がるのは、金の苦労のない男の不可思議な徳である。