八月 二〇〇二年

 


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2002/8/31


宇宙への憧憬と地球への望郷
ハインラインとクラークの問題

「宇宙へ行きたい」というのは、おなじみの願望である。しかし、「宇宙に行った→わ〜い♪」だけでは飽き足らなかったのか、『鎮魂歌』でハインラインは、宇宙への願望を難病物という文脈で語った[注]。月へ行きたいが、身体がそれに耐えられない…でもでも」という感じ。死に際と人生の動機が重なる王道的な構成が、鑑賞者の転がりを誘発する。

対して、地球への望郷というのもある。文字通り、天文学的な空間に隔絶され、技術的な退化を起こした植民惑星民のそれとか想定しやすいが、クラークは『2061年宇宙の旅』で、身体の条件が地球への帰還を不可能にしているケースを描いている。無重力に適応した身体が、地球の重力に耐えられないという考え方であるが、クラークが書くとなんとなしに寂しげな感じがする。

ハインラインも月に定住した人間のあへあへな一時地球帰還を考えた(『月は無慈悲な夜の女王』)。このアイデアは、『∀ガンダム』に受け継がれるのだが、興醒めなことに、ここでの月の住民たちは、地球の重力を物ともしない。ナノマシンである。

これさえあれば万事おっけい、ということでナノマシンはよく使われるのだが、存在への制約がドラマを産むと考えれば、「ナノマシンですぅ」といわれた途端、気が抜けた気分にもなりかねない。

しかし、ナノマシンによって存在への制約が全くなくなってしまうことが、逆に新たな切なさを産み出してしまうこともある。(つづく)


[注] 『スペース・カウボーイ』も参照。

 

2002/8/25


西海岸ヒッピー文明の復讐
映画『パール・ハーバー』最大の謎

『パール・ハーバー』の感想で少し触れたことを。


つまり、これは

うつけものめ
映画『パール・ハーバー』より


これではないかということ。

スプルーアンス級
スプルーアンス級フリゲイト艦
『世界の艦船'92.3月号増刊 世界の大型水上艦艇』海人社 P.42


スプルーアンス級は、70年代の半ばから80年代の頭にかけて30隻くらい建造された現用艦であるので、『パール・ハーバー』で襲われる艦にしてしまうことには、狂っているという形容が似合う。

3Dでモデリングなどができなかった時代に現用艦を大戦時の艦船に見立てて撮影した事例は散見されるが、なるべく今昔の格差が目立たないような艦を使うことが原則である。

ゆえに、どうみても現用艦のスプルーアンス級を半世紀前の艦船にしてしまうこだわりのなさはどう解釈すべきなのだろうか。

ひとつの妄想として、視覚効果班(或いはストーリー・ボード描き[注1])のヒッピー気質[注2]と、マイケル・ベイ+ジェリー・ブラッカイマーの体育会系気質(このおやぢたちは見るからにそんな感じで微笑ましい)との軋轢を考えるのは楽しいことではないか。「あいつらむかつくぜい、やっちゃえい」みたいな感じ。

これはラッシュ・チェック(そんなのあるのか?)の段階で引っかかると思うが、マイケル組の野性味溢れる頭脳は『アルマゲドン』で証明済みなので、リテイクなんぞでないのだ。素晴らしい。


[注1]
和製アニメのケースであるが、往々にしてシナリオ段階では破壊される艦艇の種類までは特定されない。文章表現なので、特定せずにもカットを描写できるからであり、具体的な艦種が必要になるのは、絵コンテの段階になってからである。そして、複数のシーンにわたって登場するメカなら設定が発注されるが、1、2カットくらいしか出ないものに関しては、絵コンテマンの自由裁量に任される。

[注2]
興味深いことだが、撮影は体育会系で3D班は反体育会系気味である、撮影班と3D班が同フロアに席を占めている場合、両者の対比は際だっている。撮影班の人びとはやや痩せ形3だが、3D班の人びとは間違いなく全員床に転がりやすい体型をしているはずである。ストレスの問題だろうか?


 

2002/8/23


意志疎通の断絶と絶望の物語
あずまんが大王』感想

榊さんの魅惑的な内面造形は、「人格の意外性」というきわめて古典的な手法によって描出されている。古典的であるがゆえに、鑑賞者の心は造作もなく動かされる。ただし、不安げな感じがする。

ここでの「意外性」は、硬派な表層と軟派な内奥のすれ違いである。榊さんが被愛状況に置かれる交友関係、つまりかよりんや神楽との仲、は榊さんの硬派な表層が求心力になって支えられている。が、その内奥が露見された場合、従来の交友関係は継続されるのだろうか? 首の皮一枚で繋がっている不安な緊張感があるし、内奥が理解され得ない事への絶望がある。

もっとも、智やゆかり先生に目を向けると、榊さんを巡る違和感も霞んでしまう。薬品でもたらされた様な不自然な高揚感で隠匿されてはいるが、周囲とのコミュニケーションの空転は圧倒的ですらあり、その意味で彼女たちは不安の形象である。


もちろん、黒沢先生は大好きですよ。

 

2002/8/16


文明という力場パラメータ
『初恋のきた道』のらぶらぶらぶらぶ

バートン版『猿の惑星』感想で触れたが、未開地における文明人への畏敬が、「ヘタレもてもて」を可能にするという一種の幻想みたいな物がある。

この様式の優れたところは、「もてもて」の起因をなすのが他者の性質ではなく、自己にあることである。入院中のおねいさんや、行き場を失った記憶喪失のおねいさんや、白痴のおねいさんや、視覚障害のおねいさんなどに愛されるのは、それぞれ特有の環境によって規定された彼女たちの性向によることが大であるが、文明人が未開地でおねいさんの好意を被るのは、彼が文明人であるからである。

また、その文明人たる資格は、文明を担う共同体に生まれ落ちさえすれば、ほとんど生得的に確保できるため[注]、「ヘタレでももてる」ということの一層高い納得性を、鑑賞者に享受せしめることができる。

しかし、この手法もあまりにもあからさまだと、「こんな事あり得ない」という鑑賞者の絶望を誘引しかねないだろう。この絶望を逆手に取ったのが『猿の惑星』の偉い(非道い)ところであるが、実際にヘタレな鑑賞者を幸福にするには偽装が必要である。何をもって彼を文明人として表現できるか、という事に尽きるだろう。

「学校のなかった辺境の村に初めて先生がやって来た」

『初恋のきた道』で村いちばんのおねいさんをめろめろにさせたのは、教師という文明伝播体である。文明に弱い辺境住民は、教師の背負う文明に対して、反射的に敬意を抱く様に出来ているのだ。

これは幻想である。しかし、素晴らしき幻想ではないか。

そういうわけで、われわれは是が非でも教員免許を取って、辺境の村へ出立しなければならないだろう。この地球上から「辺境」が消滅してしまう前に。



[注] これもまた幻想であるが…

 

2002/8/12


暗喩的な批判と人生における深刻性
ちょびっツ』感想A

CLUMP作品について

想定される鑑賞者(おおきなおともだち)への嫌悪・誹謗(そして愛)を、その作品内に暗喩的に配置することは、普遍性(お子様向け)と偏執性(でかいともだち)の両立につながるのではないか。

『CCさくら』では、その偏執性、つまり、「愛した男がホモセクシャルだったので、失恋してしまう小学生と、同じくホモセクシャルであり、その男にラブラブになってしまうが、でも、ふられた彼女にもドキドキしてしまい困惑する両刀な小学生との困難な恋愛」は、ストレートに配置されているのだが、この偏執性がそんなに人々の印象に残らないとすれば、それは「同性愛→異性愛」の構造そのものに理由を求められる。後半部のヘテロセクシャル性が、前半部の偏狂的歪みを隠蔽していると思われる。

これが、『エンジェリックレイヤー』になると、もっと巧みになる。親子邂逅の物語(普遍性)が、「萌えフィギュアを通じてしか実現できない」という偏執性に支えられている。一部の鑑賞者にとっては「痛い」と言わねばならないだろう。

しかし、『ちょびっツ』はもっと痛い。『CCさくら』→『エンジェリックレイヤー』→『ちょびっツ』と、高年齢対象の雑誌媒体への移行と、放映時間の遅延化によって、もはや隠す必要がなくなってきたのだ。

『ちょびっツ』は、パソコン(に代表される“何か”)と生身のおねいさんとの狭間に立たされる予備校生の物語である。想定される鑑賞者にとって、こんなに深刻な物語はない。なぜなら、その予備校生は暗喩的(というには直喩的な←もう語法無茶苦茶)な鑑賞者自身の姿だからである。

前番組の『天地無用』に、そんな人生の深刻性はない。これは、ただ、鑑賞者とは関係のない人生をつつがなく送っている男の物語であり、われわれは「わはは」と音声を発したり、「霧恋さん萌え〜」と転がったりするだけである。

『天地』が他者の物語とすれば、『ちょびっツ』はわれわれの物語なのであり、「物語における深刻」のひとつの形なのであろう。

 

2002/8/10


ハーレムには理由は必要だ 
天地無用!GXP』感想

つまり、彼がモテモテであることの然るべき理由がなければ、鑑賞者は「過剰に愛されること」に由来する悶えを実感できないと言うことである。

この視座から眺めれば、『天地無用』はハーレムの鑑賞者への共有化に失敗している。主人公がらぶらぶたる所以について、説明が極めて希薄なのである。根拠なきハーレムほど、空しいものはない。

ゆえに、『天地無用』に魅力を見出すとすれば、それはあくまで「おねいさんに囲まれた楽しげ生活&宇宙!」の擬似的な体感ではない。むしろ、主人公を巡るおねいさん同士の嫉妬と抗争であり、鑑賞者の感情移入の対象は勝手に愛される主人公ではなく、悩み悶えるおねいさんなのである。

『GXP』についても、まったく同じ事が言えるだろう。ただ、本家の『天地無用』との相違点を挙げれば、悩み悶えるおねいさんに、「保護者役からの逸脱に困惑するおねいさん」をあてていることになる。「わたしは保護者なんだから、愛してはいけないの、でもでも」というやつである。われわれはこういうものが大好きであるが、恐らく『デュアル』との系統的な繋がりで考えるべきなのだろう。

 

2002/8/07


おねいさんは豹変する
難病物の一情景

内向的で他者と会話する事さえ気後れを感じるおねいさんが、ある日、いきなりわれわれにらぶらぶ・アタックをかけてきたらとしたら、この事態をどのように解釈すべきであろうか。

豹変するおねいさん
仲村佳樹『一秒のロマンス』 P.17


われわれは、覚悟を決めなければならないだろう。なぜなら、実はそのおねいさんは、難病患者で余命幾ばくもなかったりするからである。

だがしかし
仲村佳樹『一秒のロマンス』 P.17


ヘタレが好意を享受できても不思議はない人格として、われわれは前に「入院おねいさん」というカテゴリーを挙げた。長期入院中のおねいさんは閑を持て余しているので、河原でぼ〜っとしているヘタレ男に気紛れに声をかけても断じて自然な成り行きである。

難病で積極的になったおねいさんは、この「入院おねいさん」の別な側面である。余命を知ったおねいさんに、怖い物などないのだ。

自己の残存生存期間の認知とそれを巡る人格の感情変化・動機づけが、難病物の娯楽の最たるものと考えるのなら、この「難病で積極的になったおねいさん」はその美しい(あるいはベタな)事例と評することが出来る。

一方で、鑑賞者(ヘタレ)の感情移入の視点から考えると、また違った点が見えてくる。アクティブに変貌するおねいさんには、その初期要件として、変貌前には内向的(つまりヘタレ)であらねばならない。

そして、難病認知の段階で、彼女は脱内向的な軌跡を描き始めるのだが、これは前に議論したヘタレ鑑賞者を想定する物語における感情移入理論の典型的な事例である。


ベタなものにはベタなものたる所以があることを、このケースからわれわれは学ぶことが出来る。

 

2002/8/05


過剰なシミュレートの投棄としての物語
精神科のお世話にならないために(手遅れか?)

こちらの続き。フィクション。

環境への適応は、環境の未来完了形的な変動を精密に予測(シミュレート)することによって、促進される。それで、神経ネットワークの生化学的な反応上で産まれたこの世ならぬ模擬的な世界で、まだ見ぬ選択肢とそれらがもたらしうる結果に関して、人は悶々とするのだが、時代を経る毎に悶々が極大化して行き、何がなんだか解らなくなってしまう。過剰なシミュレートである。

シミュレート空間の論理的秩序を確保するために、過剰なものは処理・破壊しなければならない。言い換えれば、“悶々”の制御された墜落が必要である。それは「物を語る」ことであり「実人生とは関係ない選択肢へ悶々」とすることである。


「物を語ること」
過剰は、観察者と対象物の絶望的な不釣り合いである。複雑な自然に対応するために観察者はシミュレートの空間を拡大させるが、いくら拡大させても対象物の複雑性に完全に対応することは出来そうもない。それでも、どんどん悶々としてしまうため、やがて神経ネットワークの物理的な許容量を越えてしまいかねない。

観察者の神経ネットワークにとって、自然は複雑すぎるがゆえに、完結し得ない世界である。対象物が完結しなければ、悶々も完結しない。しかし、対象物が自己完結すれば悶々も無限に拡大することはない。だったら、ネットワークの負荷になる余剰な悶々の流れを、人為的な作った有限なる対象物に放り込んで、完結させなければならないだろう。その作られた対象物のことを、われわれは物語と呼ぶ。


「実人生とは関係ない選択肢へ悶々とすること」
増大する悶々が、全てその対象物たる自然の環境世界における選択肢の解析に投入されるのなら、過剰はそもそも存在し得ないのだが、自然への悶々の投入自体に、ある程度の負荷がかけられてしまうために、投入量には限界がある。

投入できなかった悶々、つまり「選択肢を巡る思考を行いたいという欲求」は、より低コストでそれを投入出来るような対象世界を作ってやれば、処理する事が出来るのではないか。かように「実人生とは関係ない選択肢へ悶々とすること」をわれわれはゲームと呼ぶ。



次なる課題としては、この文脈における「物語」と「ゲーム」の関係を明確に定義する必要があるだろう。

 

2002/8/01


循環による深刻喪失
あの、素晴らしい をもう一度』感想

「何かを忘れる」ことは素敵だ。ことに、忘却とその発生ポイントが当人にとって自覚しうるもの(予定された白痴化)であったら、更に素敵だ。

だから、朝、目を覚ますたびに無邪気なおねいさんが記憶を失ってしまえば、これから起こりうる切なさの予感には、転がって然るべきものがあったはずである。おやぢが10分ごとに記憶を失っても、衝動的な切なさは感じない(『メメント』)。本作が偉大なのは、ギャルゲーという切なさに重きを置いてしまう文化的土壌に育まれた物語のフォーマットと、前向性健忘を組み合わせた点にある。しかし、物語は、鑑賞者のそのような思惑(願望)から徐々に外れ始める。

本作の構造は、一見して魅惑的と言わねばならない。新たな物事を覚えられないおねいさんと、過去の記憶を覚えていない主人公との補完的な対比が美しい。が、やがて、その相称性は失われてしまう。結果的に、主人公はおねいさんよりもより長期的なスパンの前向性健忘にかかってしまうからである。

ギャルゲーで、主人公が新たな物事を覚えられなくなってしまうことの意味は、他の物語媒体に比べて深刻なことである。なぜなら、ギャルゲーの主人公は鑑賞者の視点と一致するからである。主人公は記憶を蓄積できないのに、鑑賞者の記憶は持続され、そこに亀裂が生じてしまう。この亀裂は、「同じように繰り返されるカット・シーン」として表現される。

選択肢の試行錯誤による類似カットの飽和は、ギャルゲーの手に入れた「選択する」という実存性の代償である。前にわれわれは、その「繰り返される日常」を、物語が臨終間際に見る走馬燈のようなものだと考えた。

だが、『あの、素晴らしい をもう一度』は、主人公を特殊な前向性健忘にすることによって、「繰り返される日常」を合理化してしまった。もっとも、合理化したところで繰り返されることにはかわりがない。うまく説明されても、似たようなカットを何度も繰り返されるのは、ストレスがたまる。

救いがないことに、「繰り返し」の合理化に成功してしまったがゆえに、本作では「繰り返し」が積極的に物語の構造に取り込まれている。つまり、物語の完結は、極めて類似した物語が必ず数度に渡って繰り返されることを前提としているのである。

「何かを忘れる」事の切なさは、それが一過性の事象でなければ、保障され得ない。映画館での体験が特別なのは、その繰り返しにある程度のコストがかかるからではないか?

繰り返される毎に物語は深刻感と切なさを失って行く。どうせ繰り返されるのだから、なくなるものは何もない。切ないものも何もない。

結末は、ほどほどハッピーでほんわかダーク。